ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

名前が変わった

2018年12月11日 | 示されたこと

主日礼拝前日のアンテオケ教会ニュースに、
‥9日の主日第2第3礼拝には入院中のP牧師が外出され、メッセージされます。そして、衝撃の報告がある。‥
と伝えられた。衝撃の報告❣️なになに〜

みんなでオンライン第3礼拝を覗き込む様に集中して視聴。
お元気そうなP牧師。
そして報告は、確かに衝撃的でした。


教会の名前を変えますと、少し長めの横の生活(ベットで横たわる)でのとりなしと祈りの中で、ある日強く主に望まれ、衝撃的な示しをうけた。
それは「主の十字架の時は過ぎた」
名前を変えなさいと示された。
変える事により実質は変わって行く。

ですから、
主の十字架クリスチャンセンター
東京アンテオケ教会から

英語表記 で
The Light of Eternal Agape 東京アンテオケ教会

略称は、TLEA

地方の教会の皆さんも祈って決めてくださいと言われました。

私達の船橋教会もケパ牧師が、祈り決めました。
英語表記 で表します
The Light of Eternal Agape 船橋キリスト教会


通称 Agape 船橋キリスト教会です〜
Agape(アガペー)は
神の愛

ドルカス



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四代目が待たれる必携の新聖書ハンドブック

2018年12月10日 | 聖書

十日前の今月1日、「聖書の学び方」と題して聖書を読んでいて、わからない箇所などはスタディバイブルで・・・・・と紹介した。しかしそれに忘れてはならない、とっても大切な竹馬の友「新聖書ハンドブック」を忘れていた。(写真は著者で牧師でもあった博士)

皆さんご存知の下記聖書箇所、それをもとにこの書が如何に優れているかを紹介しよう。

"しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。"(ヨハネの福音書 19章34節 第三版)

この「血と水が出て来た」について、少々引用させていただく。
[イエスは十字架につけられて6時間後、やりで脇を突かれた時にはすでに死んでいた。ある医学の権威は、心臓破裂の場合のみ、血液は心臓の外壁つまり心膿に集まり、血餅と水のような血清とに分離する」と言っている。もしこれが事実なら、イエスの死の直接肉体的な真因は心臓破裂であった。強度の苦悩と激しい血圧のために、イエスの心臓は破れたのである。イエスは世の罪のゆえに、傷心のあまり死んだというのは、文字通りであろう。人間の罪ゆえの苦しみは、人体の限度以上なのであろう。]


聖書を学ぼうとする者にとって、この本の重要さは言葉に尽くせない。また私たちの神学生は全員、この本を参考書またはテキストとして所有しておられるはずである。新改訳聖書をもとにした簡易にして必須の手引きと解説、註解、キリスト教史、神学がある。最も重要なことは、著者の聖書を神の言葉として信じる信仰である。授業だけでなく、ぜひ聖書とペアで必携の書として、漬物になるほど読み込んでおきたいと思う。

下の写真は所蔵している三代のハーレイ(ヘンリー・H・ハーレイ)の「聖書ハンドブック」である。これには少々説明が要る。所蔵は青い装丁のが再販、赤いビニル装が三版、緑のハードカバーが新聖書ハンドブックである。

1953年 初版(聖書図書刊行会)
1963年 再販(聖書図書刊行会)¥1,500
1980年 三版(いのちのことば社)¥3,200
2009年 新聖書ハンドブック(いのちのことば社)¥3,800

現在、新聖書ハンドブックが在庫切れなのに、増刷されていない。だから新しい神学生が入手に困っているらしい。私の予想だが、昨年末に新改訳2017、今年末に聖書教会新共同訳が出たので、それらに併せて新聖書ハンドブックの再版(第二版)が出るのではないかと思っていた。しかし1年経っても未だ出ないと言うのは異常事態だ。

いのちのことば社さーん、早く世に出して欲しい。けれどもみんなが持てるよう、税込¥5.000以内に抑えて欲しい。




ケパ




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主日礼拝

2018年12月09日 | 教会のこと
12月9日主日です。

今日も共に礼拝致しましょう
もうじき始まります

主の祈りを共に祈ります


聖餐式です


今日は特別賛美に、真希姉と私ドルカスが立ちました。


曲は 風のひびき 6-44 主を呼び求めよう

今日のメッセージは、
詩篇32篇1-2節から
テーマ「罪の赦し」ケパ牧師のメッセージです。


ドルカス

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バラ園散策

2018年12月08日 | 自然
東船橋の郵便局近くに小さな花畑があり、私の通楽しみの場所。昨日車で通り過ぎたら
わっ!🌹🌹
いまどきこんなに薔薇が咲いてるよ

車で2人で出かけついでに午後の行ってみようか、谷津干潟と谷津バラ園。と話が決まってね。

道が空いてるので20分程で到着。私のお気に入りな場所です。
駐車場から、

いつも子供達や、ランニングの人やらご利用している広場と、

干潟を見ながら、チョット遠回りな道順で
バラ園散策へ向かう


なんとラッキー。
12月から格安な入園料。
チケット渡しながら薔薇が見えて、歓声あげたらスタッフの男性は、

「今年はいいですよ。あの塩害があったので、切り戻しをしたらいま、これだけ見事なんですよ」どう見回しても、数人の来場者だけ。

誰もいないと等しい空間で、なんて自由に散策でしょ。

一つ一つ覗いたり、香りは?と顔近づけたり、iPhoneカメラ連写です。


ケパさんはその間、聖書広げてる(彼の楽しにはそれですから、邪魔しないよ)

今は裸のアーチも

春を待てば、つるバラのアーチになる。

今は実のついた(初めてみたのだけど)
ハンカチの木も、春を待てば見れる


冬を越す迄のひと時の
バラたちは、なんて素敵なんだろうね〜



前日は風があり、今日は肌寒く空気も冷たい一日。本当に良い日に外に出て気持ちが良かったと、天の父に感謝してます。

明日は主日。
良い一日でありますように。

ドルカス



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

罪深い女 〜 ルカ書七章から

2018年12月07日 | 聖書



今日の聖書箇所を、バラ園のベンチで読んだ。12月でもここには、秋バラの良い香りが漂っている。

私はルカ書のここを読むと、いつも平静ではいられず、感情が一気にこみ上げてくる。(※読者にもそんな人が多いかも)

想像してほしい。そこは裕福かつ土地の名士、パリサイ人の館である。そんな所に誰もが顔を背ける罪深い女が、客人の間に紛れ込み、衆人が見守る中で以下のことをし始めたのである。

"うしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして(高価な壺の)香油を塗った。"(ルカ7章38節 ©2017)

息を呑む沈黙の中で為された、これほど心を打つシーンが他にあるだろうか? たとえ映画でこれを再現したくても、このシーンだけはどんな名女優でも無理だろうと思う。第一、主の両足を濡らすほどの涙は、演技では出せない。またその涙量ほどの、己か境遇のいたましさ、その傷。恥や恐れとその 悔悟の情。たとえ命と引き換えにでも、この方から私は赦されなければ・・・・、その必死さとせつなさは、その人そのものでなければムリである。聖書はたんたんと描写しているが、それだけにリアリティが強く迫ってくるシーンである。

「多く(の罪を)赦された者が、(赦してくれた方をより)多く愛する。」
これは神にしか語れない、素晴らしい真実である。

教会で「証(あかし)」を聞く機会が多いが、いつもこの「多く赦された者が・・・・多く愛する」を思い出す。だから感動する証というものは、「己の罪をさらけ出し、神がどんなに哀れみ深い方であったか」を告白する証である。どうか勘違いしないで欲しい。確かに目の前に聞いている人は居るが、私たちは神に対して証しているのである。神が喜ばれる証とは、どのような証であろうかということを。

今現在、小なりとは言え牧師としての自分の立場があって、それで真実な証をもし自分が控えていたとしたら、それは神様を失望させており、非常にまずいことである。注意しなければならない。



ケパ





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モンステラ

2018年12月06日 | 自然
今週は、なんだかblog書けなくて、前半ケパさんに頼りっぱなしでした。
っと、今日はどうしようと、小雨のベランダ眺めたり、部屋の植物見てたり〜

そうそう٩( ᐛ )وこれです。
100均植物のモンステラの紹介

学名-Monstera 英名-Monstera 和名-モンステラ 属名-モンステラ属 科名-サトイモ科 原産地-熱帯アメリカ つる性で30cm~2mまさか2mにはならないだろうけどね。
わずかな日の光と水があれば育つ、比較的簡単な観葉植物で、植え替えも簡単〜私向きね〜

去年の春頃かな、ケパさんと100均ぶらぶらして(船橋駅南口に、地階〜6階のダイソーあるの)観葉植物見つけてね、それぞれ一つづつ選んで購入した。

どうにか元気に育って、暑い夏を乗り越えたのはこのモンステラ。

大きくなり、奇妙な具合に伸びてきて、やけに大きくアンバランスな葉が気に入ってきた頃
そいえば、毎月開かれてる東京聖会のホテル会場のフロアーに、巨大なモンステラの株があったこと思い出し、ひょっとして、我が家のも大っきくなるの?と期待した。

一年半ほど時が過ぎた今、

ヒョロヒョロだけれど、伸びたね〜〜葉が5枚になった。葉もチョットだけ切れて特徴出てきたよ。
そろそろ肥料も、植え替えもしなきゃいけないのかな。
せめて

こんな風に形良く伸びると良いなと期待してるけど、
適切な扱いしないといけないね。
今後の成長も楽しみ〜〜

ドルカス


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どちらが易しいか? ( Which is easier?)

2018年12月05日 | 聖書


あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。(ルカ 5章23節 2017)
下の絵はイエス様の評判が国中に広まり、イスラエル中のこの道の専門家が、自分の目で見ようとイエス様の前に集まっていた時の絵である。彼らはこの時、イエス様を吟味していたのである。

余りにも大勢の人がイエス様の前に詰めていたので、中風の男を助けようとした人たちは近づけなかった。

そこで非常手段、板に載せ、天井に穴を開け吊り降ろしているところだ。

それにしてもこの箇所は、イマイチはっきり分からないところだった。「罪を赦す」ことと「癒やす」ことと「どちらかイージーか?」と問われても、人間にとっては、どちらも簡単ではない。
強いて考えれば、力系の癒しの方が結果を即求められるので、大勢の手前、しくじれないので大変だ、とあさましくも考える。
マァしかし、、、よく考えれば、たとえ癒やされても人はいつかは死ぬ。しかし罪が赦されたなら、それはイエスを信じたから、と受け取るならば永遠のいのちが与えられるので、そちらの方が大切なのかなぁ・・・・・・。
しかし、「どちらが易しいのか」っとeasyさが問われてる。これって全然違ってるんじゃないのか?

確かに以上のような受け取りでは、本質を得ていないと感じるのは当然だ。ポイントは、この時律法学者や、パリサイ人が思い巡らした以下の言葉にあるようだ。

「神への冒瀆を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」(ルカ 5章21節)

その通りだ。
イエス様が十二弟子を伝道のために遣わされる時、弟子たちにいろいろな力と権威を授けられた。悪霊の追い出し、死人を生き返らせ、あらゆる病を癒やすなどである。しかし一つだけ、彼らに託されなかったものがある。それは「罪を赦す」権威である。これは後の初代教会時代でも、そして現在でも不変である。
混同し易いことに「神に罪を告白すれば(神は真実で正しい方なので)赦される」ということがある。これは罪の赦しは神のみという基本に抵触しない。
人の罪を赦すということは、パリサイ人たちが言うように、「神お一人のほかに」できないことなのだ。だから瞬間的にeasyさの結論が出る。「罪を赦す」方は人には不可、考えるだけでも恐ろしい。それに比べ「癒し」の方は、これも神の御心なのだが、神から付託されれば人間でも可能なものだ。だから、こちらの方が易しいと言える。

しかし以下はあくまで私の思いなので割り引いて聞いていただきたいのだが、付託といっても癒やしはあくまで神がされるもので、たとえ人が神に願って祈っても、神の御心無しに癒やしは起こらない。
たとえ高名な癒しの器がいたとしても、その方は臨在の中で、聖霊を通し示される神の御心、ご意思を、ただ聞き従って口に出し、手をかざして行っているだけだと思っている。決してその方の力ではないはずだ。だから人にではなく、主に感謝し、主を崇めよう。

そうしたとしても高名な主の器さんは、「恩知らずだ」と、決して怒らないはずだ。自分を通してあらわされた神の業に、ますます畏れ神をほめたたえているはずだから。
※それゆえ、過去カトリックが行った免罪符がプロテスタントの起こりとなったし、現在でも告解(ゆるしの秘蹟)を行っていることを見逃してはいけない。

とすれば、このひどい中風を患っている人に対して、罪の赦しを言い渡したイエス様って、希代のペテン師で神を冒涜する者か、それとも本当に神なのか、どっちかだ、ということになる。
そのとっちかを封じるために、イエス様は引き続き瞬時の癒しを行われ、ご自分がどちらかであることを、これ以上ないほどの完璧な証明をされたのだ。
※イエス様が神であることは、実はイエス様によって宿主から追い出された悪霊の方が、1番よくよくよく分かっていた。

これを見たイスラエル中のパリサイ人や律法学者たちは、みな専門家でプロなのに、まったく逆の結論である大ペテン師 = 神への冒涜 という結論を出してしまう。

彼らは予断を持っていた。ガリラヤからは預言者は(ヨナを除いて)出ない、やがて来るメシアは大工のせがれのような貧しい者ではなく、威風堂々、王らしく登場するはずだ、と。しかしこのこのイエスは、ことごとくそのイメージを破っていた。
次に彼らはイエス様のメッセージや、なさっている驚くべき事柄を「妬みと羨望」の目で曇らせてしまっていた。ガリラヤという田舎育ちで、大した学問もしていないはずのイエス様によって、どんなに聖書が明瞭に解き明かしされても、どんなに膨大な癒しや奇跡を目の前で見させられても、彼らにはサタンの仕業としか見えなかったのである。

イエス・キリストははじめから「罪を赦す」究極的な癒しをされた。同時にそれは、ご自分が神であることを隠そうとはされなかったことになる。そしてそれを【冒涜】としてしか受け取れなかった彼らは、次のみ言葉にふさわしい者となったのである。

「しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」(マルコ 3章29節 新改訳2017)



ケパ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祈りのはじまり

2018年12月03日 | 祈り
朝の陽のこと〜
今朝は月曜日。遅くなった日の出の光が、以前と違ってほぼ南東の方向から上がってくる。つまり南向きの窓も同時に明るくなる。だから日の出と同時に、家全体がボワーッと明るくなってくる。毎年のことのはずなのに、今朝はどういうわけか、あらためて冬だという自覚がする。(今年のガリラヤ湖の朝日)

しばらくしてベランダに出てみる。するとこの季節でも晴れているせいか、公園ではコート無しの人が多い。しかし曇っていれば薄ら寒く、ボール蹴りする親子しか公園にはいなくなる。
もっとも私は、この薄曇りが大好きだ。眼鏡(サングラス)をかけなくて良いし、運動しても汗をあまりかかないのでいい。

やさしく言われて〜
ところで本題。実はこの私、カリスマに関心を持ち、ある時、高名な牧師に祈っていただいたその最初の言葉が「もっと祈りなさい」だった。結局、そのはじめからずっーと今に至るまでいつも「祈りなさい!」「祈りが足りません」という注意を受けている。そういう時はいつも「すみません。申し訳ありません。はい、祈ります」と答えながら、なかなか続かなかったというふつつかな者なのだ。父からぶどう園に行って働くよう言いつけられて、返事は良いが、実際には行かなかった兄のようだ(マタイ21:28-29)。

しかし今朝は「(こう言うのも本当は)あなたともっと交わりたいからなのですよ」とソフトな示しが響いてきた。(あれれ、いつもと違う)
厳しく言われるより、こちらの方がこたえる。まったく、本当に、私は親不孝者である。泣いて謝りたい心になった。「神さま、どうか、、、どうか私を祈れる者にしてくださいぃ、、。」

祈りについて〜
福音書を読んでいると、イエス様はしばしばお一人で祈っておられたようである。
"群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。"(マタイ14章23)
"さて、イエスが一人で祈っておられたとき、弟子たちも一緒にいた。-省く-」"(ルカ9章18)

そうなのである。祈りは二人又は三人(複数以上)で祈ることも大切だが、一人で祈ることもそれに劣らず大切なのだと思う。寂しい所に行かれるだけでなく、たとえそばに弟子がいても、時に主は(弟子たちを遠ざけ)お一人で祈られていた。私の感覚では、先ず個々人がしっかりと神さまとつながって、その土台の上に、夫婦や家族で、さらには教会でと、祈りの輪が波紋のように広がっていくのではないかと思う。

たっぷりと祈りの漬け物になって、神の愛とともに一日をはじめる、そんな朝はなぜだか陽の光がまぶしい。





ケパ





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本日のメッセージ

2018年12月02日 | 教会のこと
聖書は、
ルカの福音書 1章35.45節 から開き


「処女降誕」をテーマにメッセージです。


ドルカス






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

礼拝はいま

2018年12月02日 | 教会のこと
主の祈り


そして、中村牧師によって聖餐式が行われます。主を信じるあなたも是非パンとぶどう酒をご用意くださり。ご一緒に


献金の後には感謝のお祈りです。


ドルカス



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする