ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

癒やしと救い

2019年07月15日 | 使命
「刈り取り」されたことはあるだろうか? 農家にとっては収穫のうれしい作業には違いないが、作業の実際はノコギリ鎌を中腰で扱う、危険で辛い作業だ。田植えより大変だと言っていい。良いのは、乾いた土の上で作業できることだけだろう。最も今ではコンバインで収穫するから、これはむかし話の類になってしまったことだ。そしてはぜを組み、天日干しにするため、稲束を掛けて天日干しにする。その作業のかゆいこと、痒いこと。ともかく、本当に喜ぶのはもみの袋詰の状態になって、あとは出荷するばかりになってからである。
 
これから私たちの教会では、もうすぐ魂の大収穫=リバイバルが起こることを待ち望んでいる。しかし、こと刈り取りの収穫と来たら、あの辛い作業を思い出す。きっとリバイバルには、とうぜん患難時代という、つらく危ない時代も覚悟しなければならない。サタンは最後の力を出し、死とその滅びの世界を見せつけて悪あがきをするだろう。しかし、私たちはすでに勝利を取っている、それらは巧妙な偽りに過ぎないのである。
 
 
さあ、大収穫の前に、大艱難自体を耐えて 、使命を全うしよう。祈りと感謝がポイントです。
 
ケパ
 
 
 
 
 
 
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心の貧しさは、献身の土台

2019年07月09日 | 使命
《心の貧しい者は幸いです》とマタイ5章3節で、イエスは公生涯の第一声を上げられた。心の貧しい者とはどういうことだろうか? 
 
私は田舎の高校生一年生の時、どうしてもキリスト教に触れたくてこっそり通った伝道所、そこでこの御言葉を聞いた。その瞬間、雷に打たれたような気がした。「よくは分からないけど、(仏教と少しの神道しか知らなかったが)ぜんぜん違う宗教で、これこそ真の神だ」とわかった。「神でなければ、こんな言葉は出てこない」とも。
 
その時から半世紀あまり経った。「心の貧しさ」とは、自分というものがどんなものか、それを(神によって)知らされ、わかっている人の言葉だということ。ある方は、「潰されて内臓がはみ出たゴキブリ」とか、またこの私が「肥だめである野壺の中のウジ虫」と自称するのは、決して見え透いた謙遜からではない。本当にそう思っている。
 
ありのままの自分を肯定することが流行っている。けれどもそれでは100%地獄行きである。ただただ、十字架の神の哀れみによって救われただけの私である。
そこから見えてくるのは、心の貧しさの自覚は、献身の動機と同義語であることだ。 つまり自分に希望がないならば、神に救いを求める。神に自分を捧げることが可能だ。絶望が、献身の土台なのだ。
 
イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(ルカの福音書923 ©2017
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障害を持つ子どもたちと

2019年06月29日 | 使命
私は今、放課後等デイサービス(略して放ディ)に勤めている。そこは「知的障害、ADHDやLDなどの発達障害を含めた子どもたちの学校後の預かり施設と言える。学校ではないのである意味、気が楽だ。子どもたちは小集団の中の最低限のルールを守った上で、のびのびとした時間を過ごしている。
ここは家庭でも学校でもない中間的な施設で、子どもたちにとってホッとするを目指している。そこで私は主に小学生の子どもたちと遊び、膝の上に飛び込んでくる子どもたちと、疲れを感じる間なく楽しんでいる。年齢的には孫に近いが、感覚的には子に近い。30分の学習の時間やソーシャルスキル学習の時間は、何となく昔の教師らしくなるが、それ以外は子どもと遊んでいるか、または子どもたちを送迎する車をいつも走らせている。(写真は他の放課後デイで公開さるているもの。だいたいこんな感じ)
施設でいつも思うことだが、子どもたちの障害は子どもの性格と兼ねあって皆違う。A君に通じたことがB君にはできない。一人一人がスペシャルな存在で、教師時代の枠にはめなければ進められなかった画一的な集団指導とは全く異なる。その中で神はどのような御心があって、この子たちをおつくりになったのであろうかといつも思う。一人一人が皆異なることを強く思わされるからこそ、そう思う。
 
本当に愛する子どもたちなのだが、時にわがままを言ったり駄々をこねたり、奇声を上げているのに他の子どもの奇声は極端に嫌がる。集団的な一斉行動は難しい面があっても、実は互いの行動にかなり影響を与えあっているのが面白いし興味をそそられる。子どもなのに人間味が豊かに見えることも驚きだ。
ある意味それは逆に、健常児では当たり前のちゃんとできるべきことが、少しでもできていることを見つけるならば、そのことに感動を覚えることにもなる。かつて教師をしていた時は、出来ることに目を向けず、出来た結果だけを問題にしていたことを思い知る。
 
それに感動を覚え「おおっ、すごいじゃないか」と感動する。出来て当たり前の規格品作りの世界から、百八十度の転換である。 この子たちは確かに言葉をうまく使ったり、嘘をつくことはバレバレの下手だ。しかし、本当の姿と少しの、それこそ天にも昇る喜びで見ることができる。
 
たとえ言葉をほとんど発せられない子であっても実際上は問題はない。しばらくすれば、目と表情や動作でコミュニケーションの不自由さを感じなくなるのが不思議だ。私はそれで子どもたちの内面を知ったり、「手伝って!」と必要にされるのが楽しくてしょうがない。
でもふっと時に思う。何だか以前担任していた子どもたちに申し訳ない気持ちさえ湧いてくる。こんな風に見てあげたことが無かった、ほめたことがなかったと。
 
「御心は何だろうか?」と。
例えばAくん。言葉はできないけれども、実は運動神経抜群である。人なつっこくて、目と目で会話できる。しかし言葉ほど発することは、今のところ見られない。しかしながら、私は確かにAくんの知性をかなり感じる。
そしてこの子を抱きながら「この子の御心は何だろうか」と祈りながら思う。もしかしてこの子への見方は、家庭とか学校に行けば、かなり違うかも知れない。あるいはもう少し時が必要なのかもしれない。しかし欠け替えのない、大きな存在感を感じている。神様がAくんを造られた意図は大きく、それが分かることを心から楽しみにしている。
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クリスチャンの喜び

2019年02月02日 | 使命
この世は競争社会である。そこではその勝者となるために、他より高い能力を持とうと努力することが前提となる。教育の場ですら「自己実現」と、他との比較ではないにせよ、より高い目標への向上意欲が賞賛される。

しかし競争に打ち勝つ勝者は、高校野球のようにほんの一握り。多くの者は疲れ、敗れ、現実に妥協し、下位の目標に甘んじざるを得ない。人間関係もその一つである。しかしそれを受け入れられない人は、不適応に苦しみ、かなりの割合で病を発症することになる。
生きるためには、開き直りとか、ありのままでいい、そう腹をくくることも大切だ。しかし、困ったことに、それが自分に甘やかし、「人間ってそんなもんよ」と本当に自分の喜びを見出せず、糸の切れたあきらめの人生、怠惰になりやすいことだ。

クリスチャンにはこの自己発展とありのままという相反する両者をつなぐものがある。つまり何者にも奪われることのない真の目的、人生だ。

人はクリスチャンになった時、以下の三つを信じている。
①自分が滅ぶべき罪人であること。②キリスト・イエスの十字架の贖いによって、信じるならばその罪がすべて赦されてること。③キリストが復活されたように、天においては住まいがあり、神と共なる永遠のいのちの暮らしがある。
しかしこれがどう、今の現実の自分と異なるのかは、次の一節によく表れている。

"わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。"(マタイの福音書 7章21節 ©️2017)

「みこころを行う」、つまり自分の向上や自分自身の目的とはならず、神の意思を行いたいと心から願い、そのご性質にあずかることが唯一の目的となる。もちろん、自分のは、一切ない。それだけ神を愛し、自分は取るに足りなくなっている。そのことは、以下のみことばにもよく表れている。

"そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。"
(コリント人への手紙 第二 8章5節 ©️2017)

そう、喜んで自分を献げることである。

神がそのいのちを惜しまずに私を愛して十字架にか架かってくださった。そこまでして愛されていることがわかった時、人は自分の醜い真の姿を受け入れることができる。いわば本当の自分・・・愚かでダメな自分自身と和解することができる。開き直りと異なるのは、神のその愛に応えたくなって仕方がないことである。

人の最大の敵は孤独であり、神の愛によって、なぜこの世に自分が生きるのかを知る。みこころを行うことは、自分のためだけに必死に向上するのにはるかに優る大きな価値がある。それ故に人は自分を神に捧げようとし、神の使命に生きることになる。
向上心と開き直りという人間の相反するものが、信仰において一つのものとなり、永遠へと引き上げられて行く。

人は自分の命と体が自分のものではなく、それを創造された元の神に返し、献げて、初めて己から解放される。そして自分が神のものとなった時、神の御心がわかり、それを実現するためにまた、再び走り出すのだ。

ケパ



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備えなけれはならない

2018年09月03日 | 使命
今日、スポーツ後のシャワールームで、小耳に挟んだ会話。
「『老いて体が大変になってまで長生きしたくないな』と言った人に、『大丈夫、あんたは長生きしないよ』と言う返事が返って来た。それって慰めになってる?」
聞かれていた人。「なってないでしょ!」。

聞いていて私は、本音では人は皆、「どうあっても生きたい=死にたくない」と思っているわけで、すべては、それが前提なのだと改めて思った。私たち日本人は、死の先にあること、死を超える道を考えようともせず、ただ避け、逃げているのだ。そこで、私は会話に介入し、場違いだったが福音を語った。

実際には私たちは確実に死に向かっている。老化はそれを日々教えてくれるものだ。命があるということは、同時に死に向かっている、それがただ、人によって長いか短いかだけなのだ。

しかし非常に情けないことに、明晰な頭脳と秩序正しい国民性で知られる我が日本国民だけが、永遠のいのちを知らせる福音から遠いことだ。特に年齢を重ね、体の行き先が見え見えになろうが、霊・魂の行く先については、どうしてこうも無関心または、避けまくる国民なのだろうか。口出ししようものなら、「忌み事」のように咎められる。台風や地震への備えはするのに、これは非常に愚かなことだ。天国で日本人にら会うことは、ああ、(現状だけで見るなら)きっとわずかなことなのだろう。

福音を信じる私たち、血肉の体の死はむしろあこがれ、望むところだ。私たちの帰るところは故郷で天だから。神様と会える、うれしくないはずがない。
しかし同じ天国へ帰るなら、錦を飾って帰りたいものだ。それは世的な成功とか偉大さではない。自分が打ち立てる錦ではなく、ただ「よくやった」と褒めてほしい忠実さの旗なだけ。
だから世での証が乏しく天に帰るのは、これはまずい。終活も良いが、それは混乱しない配慮に過ぎない。天の父に喜ばれることは、可能な限り恥も外聞もなく、福音を述べ証することではないだろうか。語れるほどの信仰が自分にあるかどうかなんて、自己吟味はお終いにして、愛する家族や身内、そのほか大切な人に対して、福音を恐れて言えなかった、なんてことがないように。

福音を語って、相手が信じるかどうかは、宣べ伝える者の能力や、まして責任ではなく、ただ神が働かれることを信じ、委ねましょう。祈りを持って生きている間にする、最大の終活のように思えてきた。







ケパ




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身体の声に耳を傾ける

2018年06月20日 | 使命
最近私は、自分の体をいたわってやり、体の声に耳を澄まさなければいけないと、特に思いはじめた。

体の声に?・・・とは、大したことではない。ちょっとしたことをやっているだけだ。例えば朝起きて「少し寒い!」と感じる、それを見逃さない。「寒い? それでは上着をもう一枚着ようか」。「足の小指がかゆい」それなら、かゆみ止めか水虫薬をシューッとつけてあげる。と、体の小さな声を聞き逃さないで、こまめに即座に対応してやる。これは身体への愛なのだ。

他にもある。運動する時は、もう若くはない体につき、柔軟性がなく硬いので、「ご苦労さん、もうちょっと頑張って」と、できれば念入りにストレッチをする。そうしないと後がこわいことも経験済みだ。プレーもいきなり頑張るのでなく、少しずつ馴らしながら調子を上げて行くよう心がけてやる。神様からあずかったものを丁寧に、大切に。そんな感じ・・・で。

想い出すのは、天国へ行った先の妻のこと。拒食症で、自分の身体がどんなに悲鳴を上げようが、栄養を与えないのに、強固な意思でこき使い続けていた。そばで見ていて何度も「むごい」とすら思ったものである。もの言わぬ自分の体をどうしてそこまでいじめるのか! 無力で、ただ見ていることしかできなかった自分が情けなかった・・・。

ここでハッキリさせておきたいことがある。クリスチャンに関しては、自分の体だからと言って、煮て食おうが焼いて食おうが、自分の身体を好きにして良いわけでは決してない。なぜなら、私たちの体は神のものであって、所有権がないのである。

"あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。"(コリント人への手紙 第一 6章19節)

所有権が無いのであれば、持ち主の許可なく勝手に好きにできないのである。それは裁かれる。だからクリスチャンは自分の体の良き管理者でなければならない。であるならば、入れ墨、整形手術などは愛と御心を持って造ってくださった創造者を辱めることだし、まして自殺は殺人罪に相当するのだ。

神様からの預かりものの、この体、与えられた使命を果たすために大切に用いなければならない。最初に言った、身体への愛とは、決してナルシストのような自己愛ではなく、どちらかと言えば野球選手が愛用のグローブを大切にするような感じに近い。イチローは毎日、最高のプレーをするために身体や用具の手入れを欠かさないと聞いた。そうするとイチローのように、身体も長持ちするし、調子もよい。この世での使命を果たす責任と土台づくりも、上々というものだ。



ケパ


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吾(わ)れ、知だけで心が足らず

2018年02月16日 | 使命

暗澹たる思い
盤石の
落胆
雲散霧消

上記は今日の朝、ドルカスと話していた時、私の口から出た言葉である。読者の皆さん、この四つの言葉すべてがおわかりいただけるだろうか? 私自身はこれらが通じないとは思わず、絶対悪意やひけらかす意図もなく言ったつもりである。
ところがドルカスは怒り出す。三っつ目以外は難しい。だいたい書き言葉を会話の中に入れるのはルール違反でおかしい、と。そしてそこに傲慢を感じるらしい。(写真はよく行く上田の草笛店ののれん)

結婚して十余年、同じことを何度か繰り返して来たのだが、今日だけは御心を祈って、聞いてみた。すると次のような厳しい戒めが示された。
「難しい言葉ではなく(難しい言葉を使ってるというより、それが唯一適切な言い表し方だと思っていた)、誰にでもわかる平易な言葉こそ、多くの人々に伝わるのです。伝道者の使命は一部の人のためにあるのでしょうか?そのためにもあなたにドルカスを置いています。これからは彼女を基準としなさい。」

う〜ん、そ、そうなのかぁ・・・・ガーン(ショック)。気がつかなかった。

全く別の話だが、この冬の寒さでエアコンや温かい料理でIHフル稼働。それで我が家のブレーカーがやたら落ちるので、とうとうアンペア数を上げることにし、今朝工事があった。これからは容量が大きくなったのでシャットダウンに悩まされる回数が減るだろう。そしてメッセージや私の話にも、同じように平易な言葉で語ることで、少し幅広くなった福音が語れるように、主に祈り求めてい行きたい。

※ちなみに上の写真はちょっとひねってあって、真ん中の口の字がポイント。これは「吾れ、ただ(唯)足れりを知る」と読むのだろうか?
今回は「吾れ、知だけ(唯)で足らず(至らず)」と。神様、教えてくださってありがとうございます。



ケパ





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命がけが有るか無いか

2018年01月22日 | 使命
今年のNHK大河ドラマはご存じ「西郷どん」。彼は幕末の激動期、何度も死を覚悟する浮き沈みの激しい人生を生きた人で、主君斉彬の急死の報を聞いた際には、殉死をしようとした人物だ。彼は「敬天愛人」の大義のために生き、己の為には生きなかった。

昔の武士は名のために生き、名を残すために死んだ。私たちの親の世代はお国のために死ぬのが男子の本懐と言われ、一銭五厘で兵隊になって多くの若者が死んでいった。私は江田島の旧海軍兵学校の資料館で、特攻隊の遺書がずらーっと並べてあるのを読んだことがある。その上で赤がかった自分の短慮を反省した経験がある。

ひるがえって現代の若者は、本当に幸せだろうかと思う。私には彼らが「何のために自分は生き、この命を使わなければならないのだろうか?」と、さま迷っている放浪者のように見える。

かつての軍国主義とか武士道を美化する気はさらさら無い。かと言って今のミーイズムで己さえ良ければ、では人はかわいそうだ。人は己が他者のために役立ってこそ生き甲斐を感じる。しかしそれも、時々虚しくなり、自分を鼓舞しなければならない時もある。

がそれが、天地万物の創造者にして、十字架に架かってまで愛してくれた神であり、永遠のいのちで酬いてくれる方であったらどうだろうかと。人相手のような虚しさなど、どこにもない。すべてを見ていてくださり、悪ですら究極的には支配され、永遠の都で私たちは再び、生きるのだ。
この命よりも大切なものがある、そのことほど人をかえって生かし、輝かせるものはないのではないだろうか。
命をかけるほどの、正しく大切な使い道が見つかっていることほど、幸せはない。あなたはただ、自分のために自分を消費して、何処へ去っていくのだろうか? 終活の先、あるんです。



ケパ





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召命

2018年01月05日 | 使命
最近、音楽の道を歩んでいると思っていた若い青年が、突然、牧師への道を歩むと宣言した。
私は彼の少年時代から関わって知っていたので、驚いたし、喜んだけれども、すぐに一つメッセージを送った。
「喜ばしいことだ。ただし君に神からの召命(神から牧者として召されること)がはっきりあったならば」

牧師になって、つくづく思うことは、神からの召命があってなったことだ。しかし、かなり若い時分に牧師になろうと思った時があって、その時、牧師に召命が必要なんていう意識がなかった。
つまり神の召命なしに牧師になろうとしたのだ。これは実に残念な結果をもたらす。ある意味、恐ろしいことなのだ。そしてその時には、そのことを誰も教えてくれなかった。ただ私はその時に何か、心に引き留められるものを感じて、献身をためらった。今となっては、神に感謝していることなのだが。




ゲパ




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長崎殉教記念聖会へ行く方法

2017年12月07日 | 使命
表題の聖会に向けて、60日前となって「今年はどう行ったら良いものかな?」っと今週になって、あれこれ思案に明け暮れていた。
まず第一に、マイレージではポイントが足りずアウトという事態が誤算だった。それで例年よりかなり費用がかかることが分かり、先ずはホテルから見直しをはじめた。

🏨ホテル〜二人で一泊計七千円代のチェーンホテルで決着。少しだけ丘まで遠くなっても、歩けないほどの距離ではないので。

✈️飛行機〜LCC(格安航空)のジェットスター(福岡行き)やソラシドエア(長崎行き)を使うのは当然として、今回はどちらで行くかで悩んだ。トータルで安いのは福岡で降りて、そこから長崎行きのバスを使うか、または人数によってはレンタカーで長崎へ走ることだ。が、しかし安いバスでは飛行機との時間を空港経由で調べたりしなければならないし、レンタカーではレンタル代のほかに高速道路代とガス代、一晩の駐車場代などがかかる。さんざんそれらを計算し悩んだ末、少し割高になりはするが、楽さ、時間の余裕などを考慮して、結局、長崎空港離発着のソラシドエアーを選んだ。(Solaseed=空タネとは❗️)
🚌〜六日の西坂での早天の祈り、おそらくあるだろう「殉教ツアー」参加可能な便名を確認し、最安値での条件が揃ったところで搭乗券の予約を実行する。電話ですべてO Kだった。とにかく事前の情報収集に時間を取られるというのが実感だ。

📝〜こうして完了したらホテルの予約書、空港での「スキップ」用に二次元コードなど、すべての書類を印刷しファイルにしておく。

以上、バタバタと三日がかりで作業をした。終わると「ふーっ」と肩の荷が下りた感じである。神さま、ありがとうございます。今回も行けます。








ケパ







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