ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

祈りのはじまり

2018年12月03日 | 祈り
朝の陽のこと〜
今朝は月曜日。遅くなった日の出の光が、以前と違ってほぼ南東の方向から上がってくる。つまり南向きの窓も同時に明るくなる。だから日の出と同時に、家全体がボワーッと明るくなってくる。毎年のことのはずなのに、今朝はどういうわけか、あらためて冬だという自覚がする。(今年のガリラヤ湖の朝日)

しばらくしてベランダに出てみる。するとこの季節でも晴れているせいか、公園ではコート無しの人が多い。しかし曇っていれば薄ら寒く、ボール蹴りする親子しか公園にはいなくなる。
もっとも私は、この薄曇りが大好きだ。眼鏡(サングラス)をかけなくて良いし、運動しても汗をあまりかかないのでいい。

やさしく言われて〜
ところで本題。実はこの私、カリスマに関心を持ち、ある時、高名な牧師に祈っていただいたその最初の言葉が「もっと祈りなさい」だった。結局、そのはじめからずっーと今に至るまでいつも「祈りなさい!」「祈りが足りません」という注意を受けている。そういう時はいつも「すみません。申し訳ありません。はい、祈ります」と答えながら、なかなか続かなかったというふつつかな者なのだ。父からぶどう園に行って働くよう言いつけられて、返事は良いが、実際には行かなかった兄のようだ(マタイ21:28-29)。

しかし今朝は「(こう言うのも本当は)あなたともっと交わりたいからなのですよ」とソフトな示しが響いてきた。(あれれ、いつもと違う)
厳しく言われるより、こちらの方がこたえる。まったく、本当に、私は親不孝者である。泣いて謝りたい心になった。「神さま、どうか、、、どうか私を祈れる者にしてくださいぃ、、。」

祈りについて〜
福音書を読んでいると、イエス様はしばしばお一人で祈っておられたようである。
"群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。"(マタイ14章23)
"さて、イエスが一人で祈っておられたとき、弟子たちも一緒にいた。-省く-」"(ルカ9章18)

そうなのである。祈りは二人又は三人(複数以上)で祈ることも大切だが、一人で祈ることもそれに劣らず大切なのだと思う。寂しい所に行かれるだけでなく、たとえそばに弟子がいても、時に主は(弟子たちを遠ざけ)お一人で祈られていた。私の感覚では、先ず個々人がしっかりと神さまとつながって、その土台の上に、夫婦や家族で、さらには教会でと、祈りの輪が波紋のように広がっていくのではないかと思う。

たっぷりと祈りの漬け物になって、神の愛とともに一日をはじめる、そんな朝はなぜだか陽の光がまぶしい。





ケパ





コメント
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