『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。(ルカ 5章23節 2017)
下の絵はイエス様の評判が国中に広まり、イスラエル中のこの道の専門家が、自分の目で見ようとイエス様の前に集まっていた時の絵である。彼らはこの時、イエス様を吟味していたのである。
余りにも大勢の人がイエス様の前に詰めていたので、中風の男を助けようとした人たちは近づけなかった。

そこで非常手段、板に載せ、天井に穴を開け吊り降ろしているところだ。

それにしてもこの箇所は、イマイチはっきり分からないところだった。「罪を赦す」ことと「癒やす」ことと「どちらかイージーか?」と問われても、人間にとっては、どちらも簡単ではない。
強いて考えれば、力系の癒しの方が結果を即求められるので、大勢の手前、しくじれないので大変だ、とあさましくも考える。
マァしかし、、、よく考えれば、たとえ癒やされても人はいつかは死ぬ。しかし罪が赦されたなら、それはイエスを信じたから、と受け取るならば永遠のいのちが与えられるので、そちらの方が大切なのかなぁ・・・・・・。
しかし、「どちらが易しいのか」っとeasyさが問われてる。これって全然違ってるんじゃないのか?
確かに以上のような受け取りでは、本質を得ていないと感じるのは当然だ。ポイントは、この時律法学者や、パリサイ人が思い巡らした以下の言葉にあるようだ。
「神への冒瀆を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」(ルカ 5章21節)
その通りだ。
イエス様が十二弟子を伝道のために遣わされる時、弟子たちにいろいろな力と権威を授けられた。悪霊の追い出し、死人を生き返らせ、あらゆる病を癒やすなどである。しかし一つだけ、彼らに託されなかったものがある。それは「罪を赦す」権威である。これは後の初代教会時代でも、そして現在でも不変である。
混同し易いことに「神に罪を告白すれば(神は真実で正しい方なので)赦される」ということがある。これは罪の赦しは神のみという基本に抵触しない。
人の罪を赦すということは、パリサイ人たちが言うように、「神お一人のほかに」できないことなのだ。だから瞬間的にeasyさの結論が出る。「罪を赦す」方は人には不可、考えるだけでも恐ろしい。それに比べ「癒し」の方は、これも神の御心なのだが、神から付託されれば人間でも可能なものだ。だから、こちらの方が易しいと言える。
しかし以下はあくまで私の思いなので割り引いて聞いていただきたいのだが、付託といっても癒やしはあくまで神がされるもので、たとえ人が神に願って祈っても、神の御心無しに癒やしは起こらない。
たとえ高名な癒しの器がいたとしても、その方は臨在の中で、聖霊を通し示される神の御心、ご意思を、ただ聞き従って口に出し、手をかざして行っているだけだと思っている。決してその方の力ではないはずだ。だから人にではなく、主に感謝し、主を崇めよう。

そうしたとしても高名な主の器さんは、「恩知らずだ」と、決して怒らないはずだ。自分を通してあらわされた神の業に、ますます畏れ神をほめたたえているはずだから。
※それゆえ、過去カトリックが行った免罪符がプロテスタントの起こりとなったし、現在でも告解(ゆるしの秘蹟)を行っていることを見逃してはいけない。

とすれば、このひどい中風を患っている人に対して、罪の赦しを言い渡したイエス様って、希代のペテン師で神を冒涜する者か、それとも本当に神なのか、どっちかだ、ということになる。
そのとっちかを封じるために、イエス様は引き続き瞬時の癒しを行われ、ご自分がどちらかであることを、これ以上ないほどの完璧な証明をされたのだ。
※イエス様が神であることは、実はイエス様によって宿主から追い出された悪霊の方が、1番よくよくよく分かっていた。
これを見たイスラエル中のパリサイ人や律法学者たちは、みな専門家でプロなのに、まったく逆の結論である大ペテン師 = 神への冒涜 という結論を出してしまう。
彼らは予断を持っていた。ガリラヤからは預言者は(ヨナを除いて)出ない、やがて来るメシアは大工のせがれのような貧しい者ではなく、威風堂々、王らしく登場するはずだ、と。しかしこのこのイエスは、ことごとくそのイメージを破っていた。
次に彼らはイエス様のメッセージや、なさっている驚くべき事柄を「妬みと羨望」の目で曇らせてしまっていた。ガリラヤという田舎育ちで、大した学問もしていないはずのイエス様によって、どんなに聖書が明瞭に解き明かしされても、どんなに膨大な癒しや奇跡を目の前で見させられても、彼らにはサタンの仕業としか見えなかったのである。
イエス・キリストははじめから「罪を赦す」究極的な癒しをされた。同時にそれは、ご自分が神であることを隠そうとはされなかったことになる。そしてそれを【冒涜】としてしか受け取れなかった彼らは、次のみ言葉にふさわしい者となったのである。
「しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」(マルコ 3章29節 新改訳2017)
ケパ