ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

愛とは何か?

2017年07月31日 | 
三年前母を送ったが、私と母とはなかなか通じあえない間柄だった。母は大正十年生まれで、男三、女四の七人兄弟姉妹の長女だった。だから子育ては、下の六人の弟妹の面倒を見るような鷹揚さがあった。
ところが私と言えば甘えん坊で、下校時の雨降りに、一度たりとも傘を持って来たことが無い母を、懲りずに一人待ち続ける子だった。(※この当時、教室に置き傘を置く配慮がなく、雨降りには保護者が持って来ることになっていた)

結局物心ついてからは、母から自分のストレスをぶつけられたり世間体優先の仕打ちはあっても、その愛を感じられることがなく育った。だから中学生になって広島の私学の寄宿舎の寮に入ることになっても、私は全然ホームシックにならなかった。大学生になってから、母が十二歳の別れで不憫がり、それで泣くことがあったと聞いて、非常に奇異に感じたものだ。

もうその頃には、(拙かったが)母は母なりの愛し方があったようだと理解した。けれどもたとえ親子と言えども、全く異なる人間で、とても通じあえる相手ではなかったこともひしひしと感じた。愛は通じあわなければ、それは悲しみである。愛なくば人としての土台を欠くに等しかった。

私が中一の時、寄宿舎の一室で読んだジッドの「狭き門」の三位一体の神に惹かれたのは、神が人格を持って人と交わる神であるという点だった。創世記において神はエデンの園を毎日訪れ、罪を犯す前のアダムやエバと交わられた。このアダムたちのために神は天地万物を創造されたのである。人への神の愛は尋常ではなく、先に造られた美の極みの大天使ルシファーは、おそらくは嫉妬のあまり神に背きサタンと化したと思える。

クリスチャンになって三十年以上も経って、大きな試練の中から私ははじめて、神の愛を知った。このお方は実に遠慮深いお方で、サタンのように、人をその意思に反して支配されようとはされない。実に粘り強くご自分を真に求めるまで待っておられた。それは神が愛の極みであるからだ。そしてなんと人の内に住んでくださる。これほどの交わりの極致はないのではなかろうか。
私は思う、神は人を愛せずにはおられない存在なのだ。愛は愛する対象を得て愛となる。対象がもしなかったなら、愛はない。しばしば神は人を「子」と呼ばれ、ご自分を「父」と呼ぶように言われる。血肉の世にあってはしもべとしての従いがあるが、それだって子が父に聞き従うのと同じで、当然だ。間違ってはいけない。神は私たちを、キリストをくださるほどに愛してくださっているのだ。神の子には一つの共通点がある。それは、神を愛していることだ。偽クリスチャンは「愛」でわかる。

愛とは何だろうか? 母は自分なりの愛し方で息子を愛した。しかしそれは全く通じあえないものだった。求めていた私には、それはつらく、悲しかった。愛は相手と交わりを求める。通じあえることを求めるものなのだ。
だから人間同士、例えば夫婦であれば寝室を別にしたり、一緒にいる時間を大切にできない夫婦に、本当の愛があるとは思えない(私はそれを経験している)。人は相手の内に住めないまでも、愛は互いの交わりを求めるものだから。

神は愛する子を世に送り、人の罪の身代わりとして十字架で購わさせられた。ここに神の愛がある。この神の愛と十字架で人は罪を赦され、アダムたちによって遮断された聖なる神と交わりが回復された。愛は愛する相手のために自分を捧げる。愛は忍耐して待ち、でしゃばらない。決して相手を支配しない。それどころか仕えようとする。互いが交わることを切望し、その心の中に住まおうとする。愛は相手と一つになりたいのだ。
この世、物質のこの見える世界は絶えず変化し、私たちの肉体は衰えやがて滅ぶ。しかし神への愛は永遠であり、決して失われたり奪われたりはしない。私は神の愛が分かって、交わって、知れば知るほど心からこのお方を愛するようになった。愛し愛されることがどれほど喜びであることか。この、永遠の神の愛を、私はあなたに伝えたい。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)



ケパ



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7月30日主日

2017年07月30日 | 教会のこと
お早うございます。

涼しい朝です。礼拝がはじまるまで、もうしばらくありますが
今日もご一緒に礼拝いたしましょう。


主の祈り



聖餐式

メッセージに入りました。
聖書は ✝️ヨハネ 6章39-40節から


「永遠のいのち」をテーマに
白馬キャンプのメッセージを、さらにわかりやすく語られます。


私達は(牧師の手にある人形は、私達のつもり)
神の国人として、現実の世界に惑わされず永遠の世界を、見据えて生きる。
すでに神の勝利があるから‥‥

ドルカス




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最終日の事

2017年07月29日 | 聖会・キャンプ・集会
あっという間に恵みの時
昨日書けませんでしたので、今思い返して書きます。

キャンプ最後の集会は閉会聖会の恵み。
横浜教会ハンナ牧師の奉仕、お祈りから始まります。

この最後の最後の賛美の時が、私は一番の好きな時間帯。奉仕はヨセフ三本松牧師チームの会衆賛美


そして特別賛美は、サクソフォン奏者のサラちゃんがファミリーバンドをバックに聞かせてくれます。曲は"Jesus Is My Savior " バックでギター弾いてますが、父ちゃんの曲。


後半牧師賛美は、もちろんオーケストラで


夏は本当に賛美で大きな恵みがあり、さらに、パトモス派遣チームから引き続いてのメッセージの語りかけ。
主に感謝します。

ホテルバックに、ハレルヤ〜

更に祝福があってね、

長野市内に住む妹の家を訪ね、27日に誕生日だった姉🎉を妹の手作りのケーキで三姉妹揃って祝うという、恵みもありました。この夏キャンプの恵みでした。


ドルカス







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キャンプ二日目

2017年07月27日 | 聖会・キャンプ・集会
今日は、J.GOSPELコンテストファイナル
が、大町文化会館で12:20~

会場内の写真はとれませんが、
ファイナルin白馬決勝
↑のブログで様子がわかります。

どのチームも上手です。
総合優勝は
TrueVine

同点2位は三チームで
Sprig of Life
Gospel Seed
エルサレム

グランドチャンピオンとの決戦は
Gifts の賛美曲は ♬世界の終わり
TrueVineの賛美の曲は ♬NISIZAKA

そして
今年のグランドチャンピョンは

Giftsに 決定しました。

大会の様子を中心にお伝えしました。


ドルカス






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白馬キャンプ

2017年07月26日 | 聖会・キャンプ・集会
田舎で桜の頃以来の実家です。今回は横浜の姉達と一緒です。
雨も上がって、早めの出発

白馬でランチして、これからホテルに向かいます〜
その前に、白馬駅ロータリー内
ここへ寄りました。看板娘の🐶桜と愛ちゃんと会って

お茶頂いて

ホテルに入りました。

いま「J.GODPELコンテストファイナルin白馬」キッズが終わり、U21が歌ってますね。


ドルカス



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富岡製糸工場

2017年07月25日 | 
信州へ行く途中、富岡インターで途中下車をし、3年前世界遺産に登録された、富岡製糸工場にを訪問した。ここは私の教師時代、6年生を受け持つ度に明治新政府の二大政策「富国強兵」「殖産興業」で必ず教えてきた所である。

行って、見て、聞かなけれは分からないこととは、この世界遺産のことである。私と変わらない年頃のガイドさんは私と元同業者、それがピンと分かるのだから面白い。こういう歴史遺産はガイド付きの恩恵が大きい。(工場は明治五年の完成。当時は製材技術が無く、すべて手のこでの作業で完成ささた)

ところでここが日本の近代産業の発祥の地である、と言う。確かにそれまでだって家庭内で絹糸を紡ぎ、機を織って来た。しかしそれでは太さが均一でなく、製品の質もまばらな粗悪品でしかない。故に当時の日本の主力輸出品ではあっても、価格は買いたたかれたのであった。

工業化とは均一の品質を安定して供給することである。具体的にはフランス人の技師を雇い、外国製機械を導入し、立派な建物を建て、何よりも熟練した女工を育てることであった。
話を聞いて、改めて困難さを感じたのは、繭(まゆ)玉から繭糸の先端を取り出すたけではなく、1から1、5kmあるそれを五本位束ね、切らず絶やさず撚り続けて行かなければならない。それだけでない、一つの繭玉、つまり1本の糸でも始めと終わりとでは太さが半分位異なるそうである。これらを瞬時に見分けながら同じ太さの均一な糸になるよう素早く作業するには、相当な熟練が要る。
富岡製糸工場は、まだ電気がない時代で、作業は日中だけ。寮も食堂での賄いも、教育棟や病院も全部込みの超最先端エリート工場であった。政府のもくろみ通り、ここから全国へ製糸工場が技術が飛び火して世界一の生産国へと拡大していくことになる。拡大してから、女工哀史とか野麦峠とかの時代になって行く。

来て、見て、聞いてみなければ分からない世界遺産であった。




ケパ






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いよいよです

2017年07月25日 | ゴスペル
いよいよ白馬キャンプが始まります。
夏のキャンプでメーンイベントは、これです。
27日 大町文化会館 12:30~

J.GOSPEL コンテストファイナル in 白馬


今日は、プレキャンプですから、東京東京アンテオケ教会のメンバーは、だいぶ集まってるかと思いますが。私たちは明日から参加です。


ドルカス




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時代がここまで変わって来た

2017年07月24日 | PC モノ 便利
ちょっと十年前くらいまで、パソコンはオタク系とか、ネクラ系の扱いで、やる人は特殊技能者扱いだった。
それが決定的に変わってきたのは、iPhoneなどのスマホが一般化して来た頃からだと思う。今では電車内の風景は、みな無言で小さな画面を見続けて指先をピコピコし続けている。今朝もドルカスの旧友で、「今さら新しいことをしたくない-」と言い続けていた方が、スマホデビューしたとの報だった。時代に抵抗しても、それは無駄な抵抗というものだと思う。
本日24日はテレワークディと称して、在宅勤務する企業も多い。もうそんな時代である。

ところでその、十年前でも予想されていたことに、ホームページ(以下HP)があり、その時でも想像されてなかったことがアマゾン・楽天などのネットショッピングとSNSと言われるフェイスブックとかLINEだろう。私の教会でもHPを持っているが、今やHPが無いような教会は、もはやこの世に存在していないのと同じとまで言われている。教会ですらこうなのだから、まして商店・会社・諸施設などは熾烈な戦いである。
本物の戦いすらある。イラクやシリアのISがSNSを使って兵を集め、テロを進める時代である。お隣の中国では国家の存亡をかけてインターネットを封じ込め、自由な情報が国民に知れ渡るのを防いでいる。

ところでネットショッピングの代表、アマゾンの話である。私が主にアマゾンを使うようになってから感じることに、早晩これまでのお店というものが否応なく大きく変質せざるを得ないであろうというものだ。
まず、変える商品の世界が全然違う。以前は、近くのお店に並べてあるわずかな商品しか知ることも買うこともできなかった。しかし今や商品を選ぶ範囲は存在するすべて、である。ハッキリ言ってこれからのお店は、これまでの売るというより、単に実物を確かめる試着室、ショーケースのような場となるであろう。

昔は例えば冷蔵庫を買おうと思えば、A電気店・B電気店・C電気店とはしごして巡り歩き、一番安いお店探しに時間と足と口を使ったものだ。しかし今やiPhoneとかiPadで、一瞬のうちに日本全国や世界から最安価格を見つけ、その場で直ちに発注できる。しかも重い荷物でも自宅玄関先まで、速やかに配達される。必要なのは新しい商品への知識と評価、実際それが自分にフィットするかどうかの確認だけなのだ。(右が返品後、びったしの届いた靴)

最近の例である、テニスシューズをら買い換えなければならなかったのだが、靴はフィットするかどうかが重要な商品の一つ。そのためわさわざ希望の商品が置いてあるお店に行くのは、大変である上、ビッタシならば値段には目をつぶって買わざるを得ない。けれとも靴といえどもやはりネットで注文して、家に届いた商品がフィットしなければ、ただちに返品すれば良い時代になった。ただし返品送料の負担だけはケースバイケースである。(中敷きが一つだけ入って届いた箱)
ところでこれは何とかして欲しいと思うものに、過剰包装がある。靴の中敷きを一つ追加注文しただけで、これだけ大きな箱に入ってくる。たくさんの空気を運ぶ宅配は、どこかおかしいんじゃないだろうか。


ケパ






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7月23日主日

2017年07月23日 | 教会のこと
お早うございます。主日礼拝の朝。

風が強いですがくもり空。過ごしやすい主日の朝です。
10:30からのオンライン礼拝でご一緒に礼拝致しましょう。

今日も聖霊様が満ち溢れる礼拝が始まりました。


今日のメッセージは
✝️1ヨハネ 4:16 から「三位一体の神」

今日もケパ牧師が「神の愛」を神様の示しにより語ってくださいます。



ドルカス






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映画「ハクソーリッジ」に見る彼我の戦いの違い

2017年07月22日 | 映画•映像
「ハクソーリッジ」は最初のロードショーを観に行き、そしてまた昨夜はこれで終演という、最後の上映の機会に《たまたま》観に行けた。

今回は、映画の内容そのものについてより、若い世代に向けて、かつて父の属した日本軍の戦い方について、少しばかりの弁明をしたいと思う。なぜなら、あまりにもこのままでは旧日本軍が、「卑怯」「残酷」の恥さらしレッテルが貼られそうだからだ。アメリカ人とかつての日本人の、戦いと死生観について違いが、映画に忠実に現れているからである。

◎どうして戦場に横たわる負傷兵たちを、ひとりひとり殺して回っているのか?
→映画の主人公が、敵味方の別なく一人でも多くの命を救おうとする衛生兵なので、これは人道に反するとてつもない残虐行為に見える。果たしてそうだろうか? 私が想像するに、これは「トドメを刺す」と言うのが正しく、死にきれない苦しみから早く楽にさせてあげようという、「武士の情け」ではなかったか。切腹の場における介錯(かいしゃく)もこれと同様である。日本側からすれば、これも人道なのだ。(下の絵は主人公への手榴弾攻撃シーン)

◎降伏しているポーズから、手榴弾攻撃したことについて
→これについては「卑怯」としか思えないかも知れない。主人公のドスもこれで負傷した。しかしよくよく考えてもらいたいことに、旧日本兵とは出征にあたっては「お国のために(父母や家族のために)死んで帰ります」と言うのが前提だった。生還を期せず、死にに行くことだった。それは特攻とかバンザイ攻撃になり、俘虜となるより最後は自決という軍人精神であった。だから南方の島々で圧倒的な敵軍に対しては、勝敗より自分たちが日本の犠牲となって、降伏するより少しでも敵軍に損害を与え、食い止めたい。最後の一兵卒まで、つまり玉砕するまで戦ったのだ。
これはアメリカ人や、西洋人の精神文化とは全く異なるもので、到底理解できないものだった。正直なところアメリカ軍の最大の敵は、自分たちより優れた武器を持ったドイツ軍ではなく、自分たちより装備も兵站(物量)もはるかに劣った日本軍だったと言われている。
この日本軍の視点でいくと、自決するより敵を油断させて、 隠し持っていた手榴弾で敵の一兵でも道連れにしようというのは、あっぱれな軍人精神であったのではないだろうか。
映画で投降シーンが再度あったが、そのシーンには全員褌(ふんどし)だけにされていて、アメリカ軍が即座に手榴弾攻撃を防ぐ対応をしていたのがわかる。
恐らくアメリカ軍を中心とする西欧連合軍にとって、近代的な組織と規律を持って立ち向かってきた、初めて経験する異文化戦争だったのではないだろうか?



ケパ






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