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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

罪深い女 〜 ルカ書七章から

2018年12月07日 | 聖書



今日の聖書箇所を、バラ園のベンチで読んだ。12月でもここには、秋バラの良い香りが漂っている。

私はルカ書のここを読むと、いつも平静ではいられず、感情が一気にこみ上げてくる。(※読者にもそんな人が多いかも)

想像してほしい。そこは裕福かつ土地の名士、パリサイ人の館である。そんな所に誰もが顔を背ける罪深い女が、客人の間に紛れ込み、衆人が見守る中で以下のことをし始めたのである。

"うしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして(高価な壺の)香油を塗った。"(ルカ7章38節 ©2017)

息を呑む沈黙の中で為された、これほど心を打つシーンが他にあるだろうか? たとえ映画でこれを再現したくても、このシーンだけはどんな名女優でも無理だろうと思う。第一、主の両足を濡らすほどの涙は、演技では出せない。またその涙量ほどの、己か境遇のいたましさ、その傷。恥や恐れとその 悔悟の情。たとえ命と引き換えにでも、この方から私は赦されなければ・・・・、その必死さとせつなさは、その人そのものでなければムリである。聖書はたんたんと描写しているが、それだけにリアリティが強く迫ってくるシーンである。

「多く(の罪を)赦された者が、(赦してくれた方をより)多く愛する。」
これは神にしか語れない、素晴らしい真実である。

教会で「証(あかし)」を聞く機会が多いが、いつもこの「多く赦された者が・・・・多く愛する」を思い出す。だから感動する証というものは、「己の罪をさらけ出し、神がどんなに哀れみ深い方であったか」を告白する証である。どうか勘違いしないで欲しい。確かに目の前に聞いている人は居るが、私たちは神に対して証しているのである。神が喜ばれる証とは、どのような証であろうかということを。

今現在、小なりとは言え牧師としての自分の立場があって、それで真実な証をもし自分が控えていたとしたら、それは神様を失望させており、非常にまずいことである。注意しなければならない。



ケパ





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