ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

国籍は天に

2018年06月09日 | 祈り

6月に入り、3人の男性が次々と天に召された。
敬虔なクリスチャンで医師を通し主の癒しを体験されてた方。
長い間病いとの戦いがあった、地方教会の牧師、そして
今朝、私はこれから召天式に向かう時、
女性牧師の夫が、昨日天に帰られた事を知った。病との戦いの中ギリギリ救われた、夫の救いを一番に祈られていたので、何より感謝されてた。

その方々は全員、一家の柱であるお父さん達でした。地上の愛する妻、我が子、そしてお孫さんを天でとり成される。
アーメン。
今、天ではそれぞれの方々が、それぞれ執り成しの最強メンバーとされましたね。
皆さんは、天の父の傍にいらっしゃるのです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。ピリピ人 3章20節

聖書には、このようにあります。


ドルカス




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イスラエル

2018年06月02日 | 祈り
明日6月3日の週報の表紙は
エルサレム古図

昨年訪れた、エルサレム旧市内のユダヤ人地区で📸ケパさんがパチリ。


パソコンデスクトップは、ホテル庭からガリラヤ湖をドルカスが撮った画像。

今年も募集が始まりました。


申し込みはこちら

ケパさんと二人揃って経済の許す限り行きます。と告白して、昨年まで続け恵まれました。 いろいろなこと学び語らる、素晴らしい🛫派遣です。

私達今年は執り成し隊として、参加の予定。
いやぁいくことを諦めているのではありません。主にここへ来なさいと言われたなら行くのですが、必ず行きます。
さあ出て行きなさい。
と示される時が必ず来るから。

ガリラヤ湖は、まるで故郷へ帰るような場所ですから〜〜

皆さんも是非、祈って見てくださいね。必ず行きます。と告白しません?


ドルカス









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神の最善は人の思いを超えて

2018年05月25日 | 祈り


前回、「叶えられない祈り」を書いたきっかけをすっかり書き忘れていた。

実は私には前妻との間に娘が二人いる。いるのだが、二人は私との関係を断って十年になる。父としては断腸の思いだ。しかしどんなに私が娘たちを案じ、連絡しても、娘たちは固く関係を絶つように言い遺されているらしく、今もそれを忠実に守っている。しかし私は決してあきらめず、娘たちとの回復を神に祈り続けている。

そもそもこうなったのは、前妻が四十歳で拒食症を再発し、その命を守るために、私が檻の中に入院させたことから始まった。入退院を繰り返す中で、次第に入院期間が長くなり、退院を願う前妻に対し病院は「あなたの夫の許可が出るまで」と押し止めるようになった。

私は退院させない、憎いひどい夫になった。真夜中に「あなた、今すぐこんなひどい所から出して!」とか、「今から飛び降ります。責任はすべてあなたにあります」と言うような電話が再々かかるようになった。
そんな電話を受けて、どうして心が平静でいられようか? 慌てて真夜中に病院に駆けつけると、「真に受けたの?」と冷たく一言で切り捨てられる。何も言えず、私はその場に座ってしまう。
妻の命を守るため、子どもたちのため、私はどんな憎しみの対象になろうと、妻が生きてくれるなら、引き受けた。

それも数年して、医師からの長期強制入院要請があり、悩んだ末、私がサインを拒んだ途端、私たちは病院から見放されてしまった。家に居る妻。家庭が檻の中のようになった。入ったのは私である。言葉を交わせず、(互いに、なのだが)心を閉ざした妻。娘たちだけには、まだ母をやってくれている。私にとってはそれだけでも救いだった。

こんな風にして十年経てば、前妻の憎しみは飢え苦しむ己の体に、または退院を許さない夫に向けられているようでいて、実はそうではないことに気づき始める。時々覗かせるこれまで見たことのない人格、召天した母への激しく常軌を逸した執着。母の後を追って、どこか判らぬそこへ所へ行きたがった。
キャラクターのある霊的な存在が幾つも彼女の中に潜んでおり、凶暴にも支配していることがだんだんわかるようになった。前妻は囚われた被害者であって、戦う敵もその中に居た。その相手にとって、こうして正体がばれることは非常にまずいことであった。

そういう訳で、長女の大学進学を機に、ついに前妻は「癒やされに行く」とマイホームを人に貸し、私一人を田舎の私の実家に置いて出て行った。ここまでどんなに祈り、耐えたつもりでも、家庭が壊れて行くのを止めることが出来なかった。無力感とただ残る哀しみに、唯一の希望、癒しを求めるようになった。

そもそも私は前妻をどうしょうもなく愛していた。なれそめだが、クリスチャンなり立ての二十歳の夏、初めて教会で会った瞬間から、「この女性と」と固く心に決めていた。しかし彼女からは色よい返事はなく、傷心のあまり広島に帰ってからも諦められず、27歳になって、とうとう諦めきれないので、いっそ改宗して、カトリックの修道士になる決心をした。この四月にはいよいよ、イエズス会に入ろうとした二月、それまで六年も音信不通だった前妻から、突然の電話が鳴った。神様はどうしても私を、カトリックには行かせたくなかったようだ。

そんなこんなで、私にとってはまさしく夢のような女性で、有頂天になって結婚した相手だった。だからたとえ病を発しようと、それが原因で私をどんなに憎み、遠ざけ、拒んで遠くへ移住しようと、別れたくはなかった。たとえ金だけを送るマシーンとなっても、耐えなければならなかった。けれども見た目は何一つ報われることなく、娘たちをも私から引き離したまま四年後、前妻は胃癌で召天した。

このように述べれば、いかにも私はけなげな、美談風の良い夫のように見える。確かに私は前妻の癒しと家族の回復を祈り続けた。時に神に叫び、時に絶望しながらのたうち回った。
しかし私の真実は、そんな綺麗ごとではなかった。自分が良い夫で被害者ように思われたい、同情されたい、そんな偽善面と計算があった。自己憐憫の感情にも溺れていた。時間と共に自分を哀れみ、愛も冷えて行った。

家族と教会を失った私は、信仰的にもおかしくなり、普通の精神状態ではなくなっていた。若くもない五十過ぎのこの人生、この先には何も希望の持てることはない。「何もかも失って俺一人だ」、報われていない、そう思い出した。
ついに私は、新聞記事に載るほど罪を徹底的に犯して、身を滅ぼしたくなっていた。滅ぼして、自分を捨てた家族に腹いせをしようとしたのかもしれない。今でもそんな記事を見ると他人事ではなく、その時を思い出してゾッとするのだ。

もう少しで私が悪霊に身を渡そうとしたその時、神が私に幻で触れてくださった。どれほど私が罪深いかを気づかさせられた。自己中心の罪。偽善の罪、獣のような肉欲の罪に。

すると深い悔い改めが私を包み、日時がわからなくなるほどの悔い改めに・・・・聖なる神に、ただあわれまれることでしか助からない自分の罪に・・・・そうして三日後、突然、神ご自身のメッセージ「どんなにわたしがあなたを愛しているか、この時を待ち続けていたことか」という言葉を受けた。驚愕し体がガタガタ震えた。悲しみの涙はこの年月の間にさんざん流したが、歓びと感動の涙は初めての経験だった。

この時から私は180度何もかも生まれ変わって、カリスマ派になった。生きて働かれる神に聞き、神に人生を喜んで捧げた。罪がわかって、神が愛してくださったことが、心からわかったからだった。叶わなかったものの、妻に対しても、自分を義とし被害者にし、傲慢だった。心を閉ざさせた責任は私にある。謝罪をしなければと、心から思うようになった。

ーーーーーーーーーーーーーーー
パウロの誓願は叶えられなかった。私の妻への祈りも届かなかった。しかし神はパウロ同様、私の人間的な祈りをはるかに超えて、神に捧げた素晴らしい人生を、献身と結婚を与えてくださった。自分がどれほど罪人であるか、この長い戦いがなければ決して自覚することが無かったと思う。すると、悔い改めない私を、神があわれんでくださることもなかったであろう。
これは叶えられない祈りがあったからこそ、開かれた素晴らしい人生だった。

そして私は信じる。同じように、愛する娘たちへの祈りも、必ず最善に変えられることを。
※最後まで読んでくださった皆さん、神の計画は、人の思いを超えて最善です。あなたの切なる願いと祈りが叶えられなかったのであれば、それにはるかに勝る神の計画があるからです。神は愛です。信じて喜んでください。神は真実な方です。

"涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。
種入れを抱え泣きながら出て行く者は束を抱え喜び叫びながら帰って来る。
"
(詩篇 126篇5~6節)



ケパ






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叶えられない祈り

2018年05月23日 | 祈り
私たちの教会で1日1章という聖書日課がある。今週で使徒の働きが終わるのだが、今回ほどこの「使徒の働き」を読んでいて、心が動かされたことはなかった。それは「叶えられない祈り」だった。

パウロは、クリスチャンになったその土地の人々に対し、きちんと救われるためにはユダヤ教に改宗しなければならない(それが割礼を受けるという意味)という圧力阻止には成功した。だがこれは同時に、ユダヤ人と異邦人が一緒になって、一つの教会形成をすることに、かなり深刻な分裂問題を抱えることになった。(たくさんの手紙を書いたパウロの1シーン)

同じクリスチャンでありながら、律法に縛られない現地の人々と、律法に従うユダヤ人が同じ屋根の下に居て礼拝する・・・・ことすらかなり問題であり、まして一緒に食事をしたり、安息日の規定を守ったり・・・・するのは不可能である。だから本家エルサレムからアンテオケにやって来たユダヤ人のクリスチャンにしてみれば、共にやっていくために、まず割礼を受けるよう勧めるのは当然でもあった。
(※ユダヤ人クリスチャン=メシアニックジューとは、聖書の救い主がイエス・キリストであることを受け入れた律法を守るユダヤ教徒であり、新約聖書中心で、律法から解放されたとするクリスチャンとは実際の対応が全く違う)

こうした教会内の一致問題(結局はほとんど非ユダヤ人の教会となり、今日のキリスト教が始まった)に心を痛めていたパウロが、そのことを願い祈っただろうがまず一つ。
次にパウロは、同じユダヤ人が、異邦人以上に真に救われること=信仰義認をどれほど願っていたことか。これが二つめ。ケンクレアで終わらせたパウロの請願とは、だいたいこのようなものであったと推察される。(福音は全世界に)


結論から言えば、パウロの誓願は叶えられなかったし、二千年経った今現在でもそうである。むしろ逆行する情勢に、どれほどパウロは落胆しただろうか、容易に想像できる。
神には全人類を救うという、とてつもなく大きな計画があり、十字架の真の救いは、一民族宗教としてのユダヤ教から脱皮せざるを得なかったのである。パウロの切なる願いと祈りは、叶わなかった。叶わなかったが、捨て置かれたのではなく、福音が世界全体を一周し、その仕上げという終末時代には、ユダヤ人はユダヤ教徒からアニックジューとなり、さらに真のクリスチャンとなるはずだ。
一つの見方だが、パウロはおそらくこのような神の計画を、コリントかケンクレヤで直接神から聞き、それで誓願を終わらせた可能性もある。

**************

私の周囲には家族が癌の末期で、癒しの奇蹟を日々祈り求めている人が複数おられる。医学的には緩和ケアの段階であり、奇跡を求めているのである。神は全知全能であり、私は奇蹟を信じる。しかしたとえ奇跡が起こらなくても、パウロのように、神の計画は人間の思いをはるかに越えて高いことをも信じている。当然の願いと祈りが聞かれなくても、最善が成されたのは間違いない。信じる者には、永遠のいのちが約束されており、ほんの一時の後に、また会うことは変わらないのだから。

クリスチャンには、希望が溢れている。


ケパ






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空は薄青く、鳥の声がこだまする

2018年05月21日 | 祈り
戸外がすてきな季節になった。
昨日の礼拝後、近くのドトールのコーヒー(私は黒糖ラテ)で休んだが、店内より外のテーブルの方がずっと快適だった。空気が良いだけでない、光とその影、風の織りなす広い視界が良かった。近年は気候が変わって、戸外が良いこんな気候は短くなった。今のうちにしっかり楽しんでおきたい。

と言うわけで今朝の早天の祈り、外でした。
とは言っても完全な戸外でなく、ベランダの一角に椅子を置いてだ。けれども、気分は完全に外である。朝が明けた戸外は光で輝いている。今朝の薄曇りの空も目に優しい。風がさないので肌にも穏やかである。何より鳥のさえずりが、こんなにも響いて、あちこちから聞こえるのかと改めて思う。光が射すと見える世界が戻る。薄暗い中で空腹に目覚めていた鳥たちは、この光をさぞ待ち焦がれていたことだろう。夜明けとともに餌を探して飛び回る鳥たちのさえずり、これは命の賛歌なのだ。

鳥たちだけではない。
朝を待ち焦がれた羊たちの様子が聖書に出て来る。
(ミカ書2:13 この事について5月14日のこのブログ・・・聖書からの「示し(レーマ)考・・・の後半で触れている)
日暮れとともに石囲いの中に閉じ込められていた羊たち、夜明けと共に朝一番の草を、それこそ我先に先を争って食べようとする。きっと羊飼いが開ける出入り口の前に、押し合いへし合い、先を争って詰めかけているはずだ。何しろ朝一番の草は特別だ。朝露という極上のおいしい水スープ付きで食べられるのだから。
イスラエルという半乾燥地帯において水は貴重だ。朝一だけは、やわらかく露たっぷりの若草を食べられるのだ。(そのイメージ)

私も子どもの時、一頭の雌山羊を任されていたので、毎朝草場に連れて行くのだが、それが遅くなると山羊のご機嫌が悪かった。動物は食べ物にとりわけご執心だ。きっと早朝を楽しんで祈ったりするのは、人間だけの特権なのだろう。今朝は祈りの後、ウィリアムズ作曲の「揚げひばり」というヴァイオリンとオーケストラの曲まで聴いて、とても恵まれた。




ケパ








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明日は聖会

2018年01月18日 | 祈り
明日は船橋に於いては、11月の新年度から初めての聖会です。(主の十字架では、新年度は11月から始まります。)

今日はその準備でした。チラシは昨日準備出来た。まだ忘れている事はないか?

そして聖会が終わると2月第1週には
白馬 J.Gospe コンテストの関東予選会です。そして翌日は長崎で殉教記念聖会に参加します。


色々と行事が続きますから、
ソファーに座っている時も、音を確かめながら賛美し祈ります。

明日の為ケパさんと二人で
感謝し祈りました。
祝福満ちた聖会となりますように。
来られるお一人お一人の為に。

み心の奉仕となりますよう、願い求め祈りました。

ドルカス





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船橋聖会が間近

2018年01月16日 | 祈り
私たちの主の十字架クリスチャンセンターでは、新年度の初めを11月としてますので
新年度に入って初めての船橋聖会が、今週にあります。



前半 18:00~
Gifts J.GOSPELminiコンサート
後半 19:00~
船橋カリスマ聖会
講師
東京アンテオケ教会牧師 パウロ秋元師
をお迎えして、聖会が開かれます。

お近くにお住いの方、是非出かけください。皆様をお待ちしてます。

また、聖会はオンラインライブです。
一緒にご出席下さい


ドルカス

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祈りに、すごい勘違いをしていた

2017年12月29日 | 祈り
クリスチャンが日々、神様に祈るのは当然だが、時々矛盾を感じる時がある。

《委ね、安んじていなさい》
心の中の心配事、悩みや不安等から、祈りに導かれて祈ると「すべてを知っている私(神)を信頼し、心配しないでいなさい」と示されることがある。あまりしつこく祈ったら、かえって自分の不信仰を露呈してしまうような気がし、できるだけ心配しないようにしようと思うことがある。神に感謝し、すべてを委ねて平安で泰然としていたい、と。
✝️ あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなた方のことを心配してくださるからです。(1ペテ5:7)


《祈り、祈りを積み上げる》
しかし、逆のことを示される時がある。それは「祈りを積み上げなさい」と示される時である。先だってのコンサートでTrueVineの素子さんは「小児麻痺で不自由な息子の左足が癒やされるよう、奇跡を求めて、親子で祈りを積み上げて行った」話を聞いた。ご承知のように結果、息子のシオン君はバドミントンの選手になったり、普通に歩ける青年になったと言う奇跡が起こったのだ。

この話を聞いて、改めて「祈りが神の手を動かす力だ」と私は強く示された。
✝️いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。(ルカ18:1)

《では、どっちが本当?》
では平安で安んじているべきなのか、それとも祈りに祈るべきなのか?どちらなのだろうか、その夜私が答えを求めて祈ると、翌朝、目が覚めるかどうかの呆然としているうちに、次のような示しが来た。


「祈るべきです。祈りに祈って、祈りの中から与えられる確信に立ちなさい。平安とは、祈りの中から与えられる確信そのものです」と。吟味してみたが、個人的にはすごく納得した。そうだ、その通りだと。

神は全知であるが、次のようなみ言葉がある。
✝️何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリビ4:6)

神は確かに全てを知っておられるが、それでも私たちの祈りに、それがどんなにしつこくても、嫌がられたり、不信仰だと思われることはない。神との関係で、私たちが思い煩うことはない。おそれることはないのだ。遠慮なく、父の許に行ってどんなことでも祈ろう。まして心を痛め、呻いて祈ることに、父もまた共に重荷を負ってくださるのだ。私たちが祈りで来ること、それを待っておられるのが父なのだ。

父なる神は、私を愛してくださっている。私はものすごい勘違いをしていた。




ケパ




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10月15日

2017年10月15日 | 祈り
お早うございます。
肌寒い朝の主日の朝です。

昨夜は5時間かけて帰宅。疲れてバタン。入浴あたりからの記憶なし。ブログアップも出来ず、感謝しました


二人のとてもなごやかな暖かい挙式と披露宴を共に過ごせました。
昔を思い出す事がたくさんありまして、何を書いて良いのかですが、祝福でした。

聖書の言葉に
ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです
マルコ 10:8


そのように歩んで欲しいと祈ります。


さあ、今日も教会では主日礼拝。
ぜひオンラインでご一緒に。また、保存もされますので、後程にもお聴き頂けます。

ドルカス



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イスラエル、エルサレムの平和を祈る

2017年10月02日 | 祈り
昨日、新宿で「エルサレムの平和のために祈る集会」に参加してきた。そこでは世界各地から祈っている人たちのライブ中継があった。そのひとり、チェコのマレックさんのスピーチが心に残った。彼とはほんの数週間前にスロバキアなどで会っていた。彼は言う。「エルサレムの平和のために祈っており、具体的に祈ろうとしているが、情勢が目まぐるしく変わるのでどのように祈ったら良いのか、分からなくなっています」と言いながら、実際には力強く祈ったのだった。確かに数週間前には神殿の丘で、イスラエルの警察官が二人殺されたりしている。(オリーブ山から現場の神殿の丘を望む)

そこで今日は私なりに、エルサレムの平和はどういう事で、今、何を祈ったら良いのかを整理してみたい。

先ずエルサレムの平和とは二つの意味がある。それは首都としてのイスラエルの国、ユダヤ人の事を意味している場合と、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という世界宗教の聖地ー神殿の丘を巡って場合である。通常はこの二つの事柄が混合して祈られている。つまり現実の国と神の国とが入り混じっているわけだ。だから何を祈っていいのかと戸惑う。(左がジャック・ヘイフォード牧師)

昨夜の集いでのこのお二人のビデオメッセージを観る限りでは、もともと発起人のロバート・スターンズ牧師(右の人物)は現実の国派であり、ジャック・ヘイフォード牧師はいずれの側にくみしない、神の国派と見えた。当初からこの「エルサレムの平和のために祈れ」は二人三脚だったのだろう。一方、同じ流れだがヨーロッパECI代表トマス・サンデルさんのビデオメッセージにおいては、この両方を体現していた。つまりエルサレムの平和は、メシアがエルサレムに入場される時に実現すると言ったので神の国派かと思ったが、それ以外は徹頭徹尾現実の国派であって、イスラエルを支援すべき義務がクリスチャンにはある、と言った。確かにこれが今の私たちの現況なのだと言えよう。(サンデルさん)

ここからは現時点での全く私的な解釈である。
ユダヤ人が描いているエルサレムの平和が実現するのは、それは神殿の丘に今在る黄金ドームを何とかして、第三神殿を建てた時であろう。なぜならユダヤ人はそれまでは決してあきらめないからであり、その時まで「嘆きの壁」で嘆き続けることになるからだ。
六日戦争で神殿の丘を含め旧エルサレムを手に入れたイスラエルは、隠忍自重かつ、虎視眈々とすべてを整えてひたすら第三神殿建設の時を待っている。今や丘は警察権を含めてイスラエルのものである。それでも今回警察官が殺されたように、イスラム側からは占領であって決して容認されているわけではない。
イサクを捧げた岩の上に(つまり昔のイスラエルの神殿の在ったところに)真上にイスラムのモスク(黄金のドーム)が光り輝いている。ムハンマド(マホメット)がメッカから一夜のうちに飛んでここに立ったという聖地である。これに手を付けるならば、イスラエルは全イスラム諸国と、そしておそらくは全世界が戦う第三次世界大戦に突き進む可能性が高い。これはイスラエルもよく分かっている。

そこでこの不可能を可能にするのが、反キリストであると聖書の黙示録は示唆している。中東和平条約の実現、つまりユダヤ人にとってのエルサレムの平和とは、反キリストの時代にあり、それはクリスチャンにとっては艱難時代の始まりと同時に、本格的なリバイバルの始まりをも告げる終末の時を告げることになるものだ。
そして、おそらくは反キリストの偽りは、束の間の和平を吹き飛ばし、エルサレムは北を中心とする周辺の国々から攻められていく。第三神殿を願うユダヤ人の平和は、決して成就しないようだ。

では真のエルサレムの平和は、やはりイエス・キリストの再臨の時しかないのであろうか? その通りだと思う。ただ、この艱難時代の始めの三年半、おそらくユダヤ人のほとんどがメシアが実はイエス・キリストであったことがわかり、ことごとく悔い改めてクリスチャンになるはずだ。私たち日本人とかがクリスチャンになるのは、唯一の神とはどういう事か、聖書は・・・などかなり大変だが、ことユダヤ人に限って全然楽である。
なぜなら、もともと同じ神を信じている。ただイエス・キリストが本当にキリスト(メシア=救い主)であったこと、そして律法ではなく信仰義認を受け入れれば良いだけなのだから。

神の知恵と計画は、到底人知の及ぶところではない。だから私の思いなど浅はかなもので、後にそれを思い知ることになる。けれども愚か者の一つの道程として述べてみたい。エルサレムの真の平和は、ユダヤ人がメシアニック・ジュー(イエスがメシアであることを受け入れたユダヤ人=つまりユダヤ人クリスチャン)になることである。これは聖書で預言されている。
そうなればもはや神殿は絶対的なものでは無い。第三神殿を取り壊すか、あるいは神殿の存在にこだわらなくなるはずだ(クリスチャンがそうであるように)。そうなればこの聖地をイスラムとの共存のシンボルにすることが可能になる。私はまた、イスラムの人々が、唯一の真の神を求める願いを持って祈ってほしいと願う。
多くの人が再臨は混乱と争いの決着をつけるべく起きると思っているようだが、果たしてそうだろうか? そうではなく、地上に争いではなく、神の到来を待ち望む平和がもたらされており、つまりすっかりお膳立てができた上で、そしてラッパの音と共に、輝かしいキリストが再びオリーブ山に再臨され、エルサレムに入城されるのではないかと。

だから私たちの祈りは、再臨後の完全な平和である「主よ、来たりませ」と神の国の到来を祈り、またかつそれまで激しい争いが確実な舞台ゆえに、どうにか少しでもエルサレムが、血を血で洗うことにならないように、現実が平和的に推移して行くことを切に祈ることになるのではないか。祈りのポイントはユダヤ人のメシアニック化である。これは決してイスラエルという国だけを支援するのではない。なぜなら一方にくみすることは一方に敵対することになるからである。

ジャック・ヘイフォード牧師がビデオメッセージで「ユダヤ人とクリスチャンの親睦が深まっていること」がどんなに望ましいことかを述べ、繰り返し「ユダヤ人、アラブ人のどちらかが好きとか」では決してないと語られていた。それは神の定めたエルサレムの平和=ユダヤ教徒がキリストを信じて後のキリスト再臨まで、いたずらに血が流れることが無いように、一人でも多くの人がキリストを信じるように祈ることであると思いたい。また平和を願うクリスチャンは、神殿を再建させようとする反キリストに目を光らせ、反対することになるだろう。すると結局、艱難時代に迫害を受けることになるのかも知れないのだが。

エルサレムの平和のために祈れ。
「おまえを愛する人々が栄えるように。おまえの城壁のうちには、平和があるように。
おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」

[詩篇122:6-7]

ケパ



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