最後の晩餐で、主イエスはたらいに水を入れ、腰に手ぬぐいを巻いて弟子たち一人ひとりの足を洗われた。「洗足」で有名なこの聖書の記事(ヨハネ伝13章)を今日の子どもに教えようとして、私は途方に暮れた。
先ず、今の子どもたち、人間関係の上下が分からない。今現在七十歳の私には、戦前に生きた親の時代の残滓があって、身分とか、奉公、身の丈(たけ)とかがかろうじて分かるし、理屈抜きに年長者を敬い尊重するのは当然であった。
それは学びにおいても同様であって、師(先生)は絶対であった。だから師であるイエスが弟子たちの足を洗うということは、あり得ない事が起こっている認識はできるし「(師が狂ってもいない限り)どういう意図を持ってこんなあべこべなことをされるのだろうか?」と息を呑んで、じっと師にされるがままになっているのも分かるし、その中で思わずペテロが「決して私の足を洗わないでください」と言ったのも「黙ったままされるんでなく、よくぞ言った」と分かる。
師であるイエス・キリストが実際に行ったこの模範は「あなた方も互いに足を洗い合う(しもべとなってお互いに仕え合う)ようになるようにと教え諭すためだったし、ひいては神の国の本質を弟子たちに知らせるためでもであった。
昔は教育のことを「師範」と言った。今の教育学部は,戦前の高等師範学校であった。もちろん師範とは、範を垂れると言う意味で,教師が先ず模範を行なって見せると言う意味だ。
有名な山本五十六の言葉に「やって見せ、言って聞かせてさせてみせ、ほめてやらねば人は動かじ」と言う言葉があるが、それってイエス・キリストの洗足そのものじゃないのかと私は思う。
ところで現実に戻るが、今の若い人たちには、どうもこの洗足が分からないようだ。先生なんだから、(ぼくたちを大切にしてくれて)足を洗ってくれていると理解する。つまり【何らおかしいとは思わない】ようだ。上下の逆転である。この聖書の記事が通常でないことがわからないようだ。確かに人は皆平等であり、等しく人権が有するのは当然だ。しかしある若者が社員になって職場に入ったても仕事を覚えないので、その訳を聞くと「僕がちゃんと仕事ができるようになるまで、上司はつきっきりで僕を教える責任がある」と賜った話を聞く。
この世代の考えをするならば、「師である方に、弟子である私の足を洗わせてはいけない」と言ったペテロの行動がわからない。「何ペテロは言ってるんだ。やってくれるんだから、やってもらえばいいじゃないか」で終わりだろう。それゆえ師が弟子たちの足を洗う、このイエス・キリストの教えは空振りで、若い人たちには理解が困難なものになっているのかも,と思う。
私はイエスのこの教えの実践として、毎月第五の主日に「牧師カレー」と称して牧師(夫婦)が作ったカレーを教会員に食べていただいているが、それも時代に合わなくなって来ているんだろうかと思う。
この洗足の教えが分かる世代が急速に減って来ていることを悲しむべきか,喜ぶべきか、いずれであろうか?
ケパ