ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

教会って誰のもの

2018年12月29日 | 示されたこと
私は若い時から、わりと定着した教会生活を送って来たと思うのだが、それでも色々な教会を経験して来た。

その中でもバプテストが長かったし、その執事役員を長く経験したのでつくづく思ったことがある。それは「教会って、誰のものだろう?」という問いだった。教会は、教会堂です、と建物を指す人もいるかもしれないが。

バプテストは非常に民主的で、教会員が一人一票の権限で、執事役員を投票で選ぶ。これが問題で、首をひねるような結果によく出くわした。問題の第一は、たとえ小学校一年生でも、バプテスマを受けた教会員であれば、平等な一票を投じることができた。また、当選する執事役員は、この世での成功者または社会的な地位のある人ばかりであったことだ。
だからみんな忙しく、やたら事務的であったが、この役執事会が牧師を招聘する権限があり、牧師も役員執事に対しては、大変な気の使いようであったことだ。また最高議決機関は、全員が集まる総会であった。まったく多数決の議会制民主主義と同じだ。

だからバプテストは基本、教会は教会員のものと疑わないはずだ。おそらくそれは、長老派や改革派も長老執事の権限の違いはあればこそ、そんなに変わらないはずだ。よく言えば民主的、悪く言えば牧師は雇われ牧者である。従って教会そのものが、いろんな意見でまとまっていないケースも見られる。

ところが、ここに全く違う政治形態を持つ教会がある。バプテストのような会衆制でも、執事制でもなく、監督制の教会である。旧「主の十字架クリスチャンセンター」に来て私は初めて体験した。

監督制とはどういうことかと言うと、「教会は神によって立てられ成ったもので、神のものである」「主任牧師はイエス・キリストである」「各教会は使徒的牧会者によるカバーリングを受ける=監督制」という点であろうか。また各教会においては立てられた牧師が霊的にはもちろん、実務的にも指導者である点も特徴であると思う。牧師は神によって立てられた存在であって、責任はただ神に対して問われるもの。教会員は牧会者から守られるとともに、聞き従いを求められる。とても縦のラインがはっきりしているのが、監督制の特徴である。

私個人の見解を述べよう。答えは聖書にある。教会はペンテコステによって誕生した。使徒の働きでも明らかなように、使徒、あるいはアポロのような伝道者が教会の種蒔きをし、バプテスマを授け、その後幾度も訪問して教会を成長させてきた。神が中心である。

"私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
"
(コリント人への手紙 第一 3章6~7節 新改訳2017)

この神によって教会が成長するのだから、どの政治形態が正しいとかは 断定できないまでも、神に示された道を忠実に従って行く在り方、それがポイントだろう。


ケパ





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