デンタルIQとはDental Intelligence Quotientの略で、訳すと歯に関しての認知度・知識理解度を意味します。歯のことを理解し、一生健康な歯でありたいとHow toがわかっているという意味にもなります。
昨日ずっとお世話になっているかかりつけの歯科医院に行った。この医院へは毎週のように、最低でも二週に一度以上は通っている。私の歯が特別悪いせいかもしれないが、ドルカスだってほとんど付き合ってくれているので、二週に一度は普通のペースなのだ。「どうして?」と思われたら、ぜひこの続きを読んで欲しい。
8020(ハチマルニイマル)運動をご存知だろうか?これは80才までは、自分の歯を20本以上持とうという意味である。厚生省「成人歯科保健対策検討会中間報告」1989年(平成元年)―抜粋―「残存歯数が約20本あれば食品の咀嚼が容易である」ことに根拠がある。実際に私の歯は今20本という崖っぷちなのだが、確かにこれ以上減れば自分の歯で噛むということが困難になるだろうと言うことが分かる。いわば「健康に噛んで食べる」崖っぷち数字なのだ。
8vs20、これは80才での歯の保有数の違いで、日本とスウェーデンの数字である。医療費の高いアメリカやヨーロッパでも15本前後は残っているようで、日本だけが格段に低い数字なのだ。ずばり「認識の差」だ。
とんでもない間違い・・・・・「痛くならないと歯医者には行かない」というあなたはまず間違いなく、総入れ歯予備軍だ。歯槽膿漏は50代、60代で格段に進む。歯の健康は絶対自分自身ではムリで、歯科医と連携しなければ困難だ。
痛くない時にこそ、おそれずに歯科医院に行ける。こまめな歯石除去、自分流ブラッシング訂正と正しい指導、かみ合わせやポケット検査など常にチェックが必要だ。現在はこのような「歯の維持」という予防医学に使命を感じてくれている医院が多い。昔は抜歯専門だったかも知れないが、今は追い風が吹いている時代でもある。利用しない手はないでしょ、国民皆保険の、この恵まれた国で。 ケパ
朝のうちは爽やかに晴れた日でしたが、とても一日暑い日でしたね。九州では、34℃の地方があったようですね。 夜、祈祷会のために教会へ自転車で走ったら、風が爽やかで心地よく走れました。水曜の夜にはひやっと感じたのにです。しかしまだ五月ですよね。
写真気温に関係なく、テレビの中の猫ちゃんに、興味津々の、コールです。ついテレビの中の猫に手をだすので、とうとうケパさんにイスを離されてしまった。
昨年の12月に95才亡くなったばかりで、追悼の映画でもある。知る人ぞ知る世界的な偉人であったが、映画はその生涯を忠実に再現していた。人種間の憎しみを、「戦い」から「平和」へと切り替える・・・・この偉大な変化を成し遂げた・・・・そんな例は数少なく、未だにアフリカでは部族間、宗教間で、恐怖と憎しみの連鎖によるジェノサイド(大虐殺)のただ中にある。南アフリカもそうなりかけたが、そうはならなかった。かえって全人種による選挙、平和を成し遂げた。キーパーソン、「マンデラ」という人物が居たからこそである(写真下は本人)。しかし、当初から私は思っていたのだが、それにはもう一人、アパルトヘイトを廃棄、マンデラを釈放し権限の委譲をした第7代大統領である白人の「デクラーク」なしにはあり得なかった話である。それゆえノーベル平和賞は、この二人のものだった。
この映画を観て一つ残念に思うのは、マンデラはプロテスタント(新教)のメソジスト教会に属するクリスチャンであった。デクラークもプロテスタントのクリスチャンであった。それがばっさり削られていて、逆に「宗教では頼りにならない」風な映画にしてあった。興行的に必要なのかも知れないが、これは人間の力を称えようとするものである。人はみな平等という信念、基本的には非暴力、特にあれだけ多くの犠牲者を出しながら、プロテスタント系のクリスチャンでなければ、その「一切を赦す」的な発想は出てこない。それがカットされていたのだ。
特に下記の有名な<マンデラの言葉>をご覧いただきたい。私はキリスト教臭さを排したこの中に、最大限クリスチャン的な臭いを感じるのだが。
キリストは史上もっとも残忍な処刑である十字架の上から、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです(ルカ伝23:34)。」と語られた。アメリカの黒人奴隷解放においても、南アフリカ共和国においても、過ちや紆余曲折をえながらでも、結局は聖書を信じる民と、その人々に現された神の力を見る思いである。
<マンデラの言葉>
生まれたときから、肌の色や育ち、宗教で他人を憎む人などいない。
人は憎むことを学ぶのだ。
もし憎しみを学べるのなら、愛を教えることもできる。
愛は、憎しみに比べ、より自然に人間の心にとどく。
ケパ
ケパさん、昨日広島の用事を済ませての夕方の事。
新幹線が浜松を通過したら、どうしてもウナギから、頭が離れなくなったと夕食のリクエストをメールしてくれたケパさん。
「今夜はうなぎ食べたい。食べたい。うなぎだぁ。広島ではほとんど精進料理だったからね、力が出ないよ」と切なる願い。 慌ててスーパーへ買い物に行ってみると、 ケパさんご希望の丸々一匹がどうやら売り切れたらしく、見つからない。
だってね。中国産でもいいから一匹がいいと。 チョット贅沢じゃぁない? 残っていたのは日本産養殖で、ずいぶん小さいけど、お値段はよろしいのです。
仕方がない。「どうしてもうなぎが食べたい?」とメールすると、もう今夜はウナギ以外に考えられない状態。 今回は一人で遠くまでご苦労したのだから、ご褒美ね。
ではどうしようかと思案したら、自分で駅地下で買って帰るよ。 今夜はそうまでして食べたいウナギの蒲焼き。
と思って待っているけど、なかなか帰ってきません。もう九時過ぎますよ。やっと帰って来てやれやれよかった。
「新幹線の中でね。ちょっと祈ったんだよ。今日は朝から野菜と精進料理だけだったので、御心でしたらうなぎ食べさせてください。ってね。そしたら駅地下ではうなぎ特売日で、バッチリだよ。御心だったら祈りは届くね」と、幸せそうな顔。
そしてこの2人のウナギの違い。きっと彼は今夜も明日もヘルスメーターから遠のく事でしょう。 今至福の時を神様に感謝します。
体重がUPしてないことも祈りつつ、ケパさんはお休みになられました。ドルカス
支度を用意して出かける時になって「こんなときは奥さんが車で駅まで送ってくれたりしてね・・・」「あっそぅね。駅ぐらいだったら送ってあげられる。デモ・・・帰りに会堂に寄ってお掃除したいなって・・・」
結局二人でチャリで荷物持ちの手伝いしながら駅まで送って行くことにした。
ケパさんを送り、駅から教会へ戻る途中で!駅前の花屋さんに、なぜかパセリとミニトマトを見つけた。
あっこれもベランダガーデンにほしいね。と、つい手を出して購入。
そして思いの内に、『南側のコーナーはイチゴとハーブでしょ』
『部屋から見える所は白い花台にバラやゼラニュームなど花を中心にでしょ。』
『キッチンの出入り口には、プチトマトとキッチンハーブのプランターよね』
などと脳内を働かせて、うふふ^^ 感謝感謝!と帰宅した。
ケパさん不在の今日はベランダで最後の仕上げ作業で、残りの鉢植えしよう
と、思いきや強風すぎて何もできなぁ~い。残~念んん
夜になって 風が静かになったと思ったら、今度は叩きつけるような雨音。
今夜はこの嵐。きっと明日は良い天気でしょう。洗濯と一緒に半日外仕事しましよう。
と、ブログ書きながらコールをほっといたら、いつの間にか食卓上にいる。
そんなコールをついつい許してしま う。顔をのぞき込みながらコールと過ごす夜です。 ドルカス
あとわずかで時間で、礼拝始まります。
映像係りの最終チェック中、さあはじめます。 インターネットで参加される方は、どうぞご一緒に。
左側礼拝ライブ開いて下さいね。ドルカス
ときどきタイトルのような、「嫌い、嫌」という場に出会う。他の人とか自分の心に。そんな時、私の子どもから青年期を思い出すのだ。
たとえば小学校で入院していた時、見舞いに来てくれた友だちを、自分がなんだか哀れまれているようで、嫌で嫌で、そうそうに追い返した。今思い返しても穴があったら入りたい、最低の子どもだったと思う。また青年期まで、とにかく他人の欠点を見つけ、批判しないではおられない実に傲慢不遜な人間であった(と過去形で言いたいところなのだが・・・・)。
でもドルカス流に言えば、三度目の成人式などかなり過ぎて思うに、原因は次の二つであったと思う。一つには「(求めても)愛されていなかった」こと。そして自分の存在の小ささ、逃れようもない自己否定の感情から、「嫌う」という自分以外の他を否定する条件反応をしていたことだ。だから私は子どもの時から「探し求め ての旅」をした。プライドふんぷんの自分と、どうやったら仲良くやっていけるのか、と。
このような「嫌い」感情にとらわれている人は、自分の経験から言って、悪い人ではないのだが当然感情の浮き沈みが激しい。みずみずしい感性があると美化して言いたいが、実は周囲の人にとっては、いつも気を遣って配慮していく必要のある存在なのだ。また自分を守る為の「嘘」も、忍び込みやすい。
今私はこのような「嫌い」感情から、ほとんど解放されたと思うが、どうしてか?まず自分自身を受け入れることができたからだ。親がダメなら異性に求めた。しかし所詮、人に求めてもそれはムリというものだった。なぜなら求める前に、まず与えるということができていなかった。いやその前に、相手を真に知らず、愛さず、自分勝手に作り上げた愛に酔っていただけのダメ人間だった。だから求めても、自分を与えたと思っていても、空回りしたのは当然であった。
人は自分が愛されるということに、全存在がかかっている。愛されていないから自分を愛せないし、愛してくれない世界を嫌い、憎む。世界中の誰がそんな人を愛せるだろうか?敵意が置かれて、いきおい、傲慢にもなるし、プライド高くなる。どうやったらこの縄目、苦しみから逃れられ、自分を愛せるようになるのだろうか?
昨夜、TrueVineが歌った曲のほぼすべてに、その答えがあった。「永遠の愛であなたは愛されている・・・・曲:永遠の愛」「あなたのことを、真に愛してくれる人(神)がいるから、泣かなくていいよ。あなたの存在は尊くて美しい。あなたは愛されている・・・・曲:Lay Your Burdens」などなど。私は聴きながらあらためて、この神の愛にしか答えはなく、解決もなかったことを思い出していた。だいたい世界を、人間を創造した本
人(神)が、人間の為に人の形になってまで自分を落とし、裏切られあり得ない苦しみの十字架に、<この自分のために>かかってくれた・・・・愛。
愛されて人は、その愛されている中に自分を受け入れ、自分自身を愛することができるようになる 。あわれでみじめな自分だが、それでこそ神の愛、あわれみが豊かに注がれる原因になった。なら、これでいいんだ。この情けない自分は、神のあわれみの愛をゲットした勲章なのだ。これで私は解放され、進んで自分の恥と愚かさを証言する者とされた。神の愛がすばらしいために、もはや自分を愛する必要まで感じなくなった。たとえ体の死がやって来ても、これを奪うことはできない。永遠の愛なのだ。 ケパ
連休中、長男君に起きた一大事の話題を、今は楽しく笑顔で話してくれてます。皆さんも真剣に聞いて笑って、神様がここにもおられます。今日は久しぶりに参加者が多く、お二人の歌を聴かれてます。そしてワークショップは「喜びの歌」長男さんが入院されその帰りクルマの中でエンジンを掛けた途端流れた曲がこれ。 ご本人の 作詞作曲、そしてご自分の歌声。それを聴きながらふっと思ったそうです。
あ。喜んでいなさいって。このためにだったの。そうだ感謝しよう、と。そんな素敵なお話をされました。
今日は本当に素敵なコンサートでした。ハレルヤ~ ドルカス