ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

本当の信仰とは

2018年05月30日 | 示されたこと
最近になって、すごく思い知らされていることがある。それは本当の信仰とは何か?と言うことである。

ここ数年の間に、前々から関心を持ち続けていた浄土真宗やイスラム教、三位一体を否定した自称キリスト教を学ぶ機会が与えられた。イスラムについては報道でシリアやイラクでのIS(イスラム国)を知らない人はいないと思うが、なぜ世界中のイスラムの若者がこれに惹かれて加わろうとしているのか、訳が知りたかった。

ISのことを知れば知るほど、カリフを自称しイスラム法を実行しようとしたアル・バクダーディは、イスラム教的には実は正しく、彼らのことをイスラムではない、とは他のイスラム教徒は言えないのだ。つまり異教徒は皆改宗させるか、さもなくば殺す(高校の教科書で習った、「剣かコーランか」)が、伝統的なイスラムの正しい教えらしい。究極的には武力による世界征服がイスラム教徒の使命である。イスラム教徒のひとりひとりは確かに人は良いのだが、その実彼らの信仰しているのは、恐ろしい身の毛のよだつ教えだとも言える。
コーランと言うムハンマドの教えが、手軽にスマホで読める時代になった今だからこそ、権力と結託し、イスラムをねじ曲げている既存の穏健派イスラム法学者の嘘を若者は見抜いている。純粋な若者であるが故に、ムハンマドに忠実なISが若者たちの心を掴んでいるのだ。
ついでに自爆攻撃だが、それには敵地で自爆してたくさんの人を殺せば、殉教者となる教えがある。殉教となれば確実に天国の「先立つ者」と言う特待席にありつける。テロリストはイスラムにおける天国行きの不安を利用し、格安でも多大な被害を敵に与える攻撃として、殉教テロを多発させているわけである。

同じように天国行きの不安を利用し、生活を犠牲にしての伝道や、教団一辺倒の生活に駆り立てられているキリスト教異端グループがいる。ここ船橋でも、船橋中のクリスチャンの数より、今では多くなっているようだ。
彼らと膝を交えて話してみると、天国行きの14万4千人はもう締め切られているので、現在のグレイゾーンから確実に天国に入れるために、自分の時間をすべて捧げて頑張らされている。いわゆる組織の考えのみに支配されているわけで、聖書の自由な読み取りは許されていない。神ではなく、人に過ぎない教団組織が一切の代行をしているわけだ。この最大の原因はイエス・キリストを神として否定(三位一体の否定)するため、罪の赦しと天国行きが曖昧で不安である。教団のマインドコントロールはそこにつけこんでいる。イエス・キリストを神の子と信じずして救いは無い。本当に気の毒な人たちなのだ。

両者とも天国行きを確実にするために、頑張らされ追い立てられる、この点が共通している。その点キリスト教は全く異なる。悔い改めてイエス・キリストを信じた時点で、すっかり罪は赦され、天国行きは間違いないのだ。十字架と言う何の不安もない保証がある。日々信者を囲い込み、追い立てるマインドコントロールは、無い!

浄土真宗の話は、また今度したい。今日はとりあえず、ここまでで。




ケパ





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イエローな

2018年05月29日 | 自然
春を待ち焦がれている時、
私は花たちを見て、あぁ春ね〜春色〜〜はピンクね
と、一面に咲く桜を愛でる。薔薇を見ても一番に目を奪われるピンク系


若葉が増えるとグリーンに目をとられ爽やかな気分となって、
最近目にする、このイエローな⤵︎

キンシバイ(金糸梅)名の通り梅花と同じ
信州にいた頃もっと低木であったと思っていたけれど、船橋で今見るのは1m程あるね。

この花によく似てもう少し背の高いこれ⤵︎

ビヨウヤナギ(美容柳)
雄しべが長くダンスするようかに広がっている。キンシバイより少し背が高い低木

一つ咲いては一つ散り夏の盛りになるまで咲いてくれる。
(こちらはググって探した画像)

どちらもオトギリ草なのだけれど
この仲間にこれ⤵︎

St.John's wort (セントジョンズワート)和名では西洋オトギリソウ がある。

名前が気になって株分けしてもらってハーブガーデンに植え喜んで育てた。

最近気にる色の花の紹介してみました。
全て、創造主の神が造られたのだけれどどの花もそれぞれに美しいです。

ドルカス




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マンションの漏水騒ぎ

2018年05月29日 | 示されたこと
昨日のまだ明かるい夕方5時半ごろ、私の住んでいるマンションで、けたたましいアラームが鳴り出した。ちょうど帰ってきたドルカスがまず気付き、私を呼んだ。私はこのマンションの理事長で、警報の鳴っている業務員室に部屋に入ることが出来る。(今は復旧しているが、ここの、どのアラームが点灯しているかがポイント)
急行してみると、暗い業務員室には警報サインは出ていたが、火災報知ではなかった。少し安心していたら、頭の上に水がかかった。「えっ」と見上げると天井に水がある。照明をつけてみてびっくり。蛍光灯、火災感知器から水がポタポタ。床や机の上が水浸しだった。(今は乾いている天井)

すぐに関係各所に連絡を取ったが、業務員室の電話機やファクス、各書類は水浸しである。指示もあって直ちに直上の宅の水道の元栓を締めたので、数時間後にはポタポタは止まった。下が業務員室なのでまだしも、これが個人の家なら相当の被害が出ているところだ。(玄関横にある水道宅内給水の元栓。下部にメーターを挟んで左右にあるが、右のレバーを菅に対して垂直に回すことで断水することが出来る)

本日朝、水道屋さんが到着し、直上の宅内で漏水チェックと修理をした。原因はバスや洗面所下のジョイント部からの漏水であった。床は剥がさざるを得ないし、階下の弁償も漏水元の全責任である。漏水、特に階下の弁償だけがマンション特有の問題である。けれども逆に警報が出て、極めて早期に発見できるのもマンションの良い点かも知れない。

水道設備は常に圧がかかっている上、何十年か経つと必ず老朽化し漏水の恐れがつきまとう。唯一当地は氷点下4℃以下にならないので、凍結の心配がない点が安心できる。
水道は1に水、2に電気の超重要ライフラインだ。今回のことで理事長として、共用部と個人宅内の水道管取り替え工事を早期に提案する必要を感じた。

付け加えて、我が家にはメダカの水槽があるので、メダカたちの高齢化(^-^)後は、今回のことで飼わないようにという示しにも感じた。



ケパ





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慌てない焦らない

2018年05月29日 | 感謝
昨夜のblogアップをしようと文書を書いてたケパさん。
なかなかアップ出来ず、
日にち変わってしまいましたが、

暫くお待ちくださいね。
ケパさん書きます

応援団のドルカス







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主日礼拝

2018年05月27日 | 教会のこと
おはようございます。
まごまごしてますが、
主日礼拝が始まってます。
オンラインでご覧ください

聖餐式。感謝献金の時です。

今日のメッセージは、

使徒の働き 28:20 から
「イスラエルの望みの為に」
聖書は使徒の働きの、最終章から使徒パウロから語られました。



ドルカス



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主日の準備

2018年05月26日 | 教会のこと
土曜日は二人で、明日の準備

持ち物をチェックして、明日すぐ出られる様に準備する。

家では、最後のチェックをして、週報の仕上げ

あっ❣️ 見つけた〜〜ミスを見つけた〜〜
やっぱり印刷してみないと見えないことが、いくつもね 、


ドルカス





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神の最善は人の思いを超えて

2018年05月25日 | 祈り


前回、「叶えられない祈り」を書いたきっかけをすっかり書き忘れていた。

実は私には前妻との間に娘が二人いる。いるのだが、二人は私との関係を断って十年になる。父としては断腸の思いだ。しかしどんなに私が娘たちを案じ、連絡しても、娘たちは固く関係を絶つように言い遺されているらしく、今もそれを忠実に守っている。しかし私は決してあきらめず、娘たちとの回復を神に祈り続けている。

そもそもこうなったのは、前妻が四十歳で拒食症を再発し、その命を守るために、私が檻の中に入院させたことから始まった。入退院を繰り返す中で、次第に入院期間が長くなり、退院を願う前妻に対し病院は「あなたの夫の許可が出るまで」と押し止めるようになった。

私は退院させない、憎いひどい夫になった。真夜中に「あなた、今すぐこんなひどい所から出して!」とか、「今から飛び降ります。責任はすべてあなたにあります」と言うような電話が再々かかるようになった。
そんな電話を受けて、どうして心が平静でいられようか? 慌てて真夜中に病院に駆けつけると、「真に受けたの?」と冷たく一言で切り捨てられる。何も言えず、私はその場に座ってしまう。
妻の命を守るため、子どもたちのため、私はどんな憎しみの対象になろうと、妻が生きてくれるなら、引き受けた。

それも数年して、医師からの長期強制入院要請があり、悩んだ末、私がサインを拒んだ途端、私たちは病院から見放されてしまった。家に居る妻。家庭が檻の中のようになった。入ったのは私である。言葉を交わせず、(互いに、なのだが)心を閉ざした妻。娘たちだけには、まだ母をやってくれている。私にとってはそれだけでも救いだった。

こんな風にして十年経てば、前妻の憎しみは飢え苦しむ己の体に、または退院を許さない夫に向けられているようでいて、実はそうではないことに気づき始める。時々覗かせるこれまで見たことのない人格、召天した母への激しく常軌を逸した執着。母の後を追って、どこか判らぬそこへ所へ行きたがった。
キャラクターのある霊的な存在が幾つも彼女の中に潜んでおり、凶暴にも支配していることがだんだんわかるようになった。前妻は囚われた被害者であって、戦う敵もその中に居た。その相手にとって、こうして正体がばれることは非常にまずいことであった。

そういう訳で、長女の大学進学を機に、ついに前妻は「癒やされに行く」とマイホームを人に貸し、私一人を田舎の私の実家に置いて出て行った。ここまでどんなに祈り、耐えたつもりでも、家庭が壊れて行くのを止めることが出来なかった。無力感とただ残る哀しみに、唯一の希望、癒しを求めるようになった。

そもそも私は前妻をどうしょうもなく愛していた。なれそめだが、クリスチャンなり立ての二十歳の夏、初めて教会で会った瞬間から、「この女性と」と固く心に決めていた。しかし彼女からは色よい返事はなく、傷心のあまり広島に帰ってからも諦められず、27歳になって、とうとう諦めきれないので、いっそ改宗して、カトリックの修道士になる決心をした。この四月にはいよいよ、イエズス会に入ろうとした二月、それまで六年も音信不通だった前妻から、突然の電話が鳴った。神様はどうしても私を、カトリックには行かせたくなかったようだ。

そんなこんなで、私にとってはまさしく夢のような女性で、有頂天になって結婚した相手だった。だからたとえ病を発しようと、それが原因で私をどんなに憎み、遠ざけ、拒んで遠くへ移住しようと、別れたくはなかった。たとえ金だけを送るマシーンとなっても、耐えなければならなかった。けれども見た目は何一つ報われることなく、娘たちをも私から引き離したまま四年後、前妻は胃癌で召天した。

このように述べれば、いかにも私はけなげな、美談風の良い夫のように見える。確かに私は前妻の癒しと家族の回復を祈り続けた。時に神に叫び、時に絶望しながらのたうち回った。
しかし私の真実は、そんな綺麗ごとではなかった。自分が良い夫で被害者ように思われたい、同情されたい、そんな偽善面と計算があった。自己憐憫の感情にも溺れていた。時間と共に自分を哀れみ、愛も冷えて行った。

家族と教会を失った私は、信仰的にもおかしくなり、普通の精神状態ではなくなっていた。若くもない五十過ぎのこの人生、この先には何も希望の持てることはない。「何もかも失って俺一人だ」、報われていない、そう思い出した。
ついに私は、新聞記事に載るほど罪を徹底的に犯して、身を滅ぼしたくなっていた。滅ぼして、自分を捨てた家族に腹いせをしようとしたのかもしれない。今でもそんな記事を見ると他人事ではなく、その時を思い出してゾッとするのだ。

もう少しで私が悪霊に身を渡そうとしたその時、神が私に幻で触れてくださった。どれほど私が罪深いかを気づかさせられた。自己中心の罪。偽善の罪、獣のような肉欲の罪に。

すると深い悔い改めが私を包み、日時がわからなくなるほどの悔い改めに・・・・聖なる神に、ただあわれまれることでしか助からない自分の罪に・・・・そうして三日後、突然、神ご自身のメッセージ「どんなにわたしがあなたを愛しているか、この時を待ち続けていたことか」という言葉を受けた。驚愕し体がガタガタ震えた。悲しみの涙はこの年月の間にさんざん流したが、歓びと感動の涙は初めての経験だった。

この時から私は180度何もかも生まれ変わって、カリスマ派になった。生きて働かれる神に聞き、神に人生を喜んで捧げた。罪がわかって、神が愛してくださったことが、心からわかったからだった。叶わなかったものの、妻に対しても、自分を義とし被害者にし、傲慢だった。心を閉ざさせた責任は私にある。謝罪をしなければと、心から思うようになった。

ーーーーーーーーーーーーーーー
パウロの誓願は叶えられなかった。私の妻への祈りも届かなかった。しかし神はパウロ同様、私の人間的な祈りをはるかに超えて、神に捧げた素晴らしい人生を、献身と結婚を与えてくださった。自分がどれほど罪人であるか、この長い戦いがなければ決して自覚することが無かったと思う。すると、悔い改めない私を、神があわれんでくださることもなかったであろう。
これは叶えられない祈りがあったからこそ、開かれた素晴らしい人生だった。

そして私は信じる。同じように、愛する娘たちへの祈りも、必ず最善に変えられることを。
※最後まで読んでくださった皆さん、神の計画は、人の思いを超えて最善です。あなたの切なる願いと祈りが叶えられなかったのであれば、それにはるかに勝る神の計画があるからです。神は愛です。信じて喜んでください。神は真実な方です。

"涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。
種入れを抱え泣きながら出て行く者は束を抱え喜び叫びながら帰って来る。
"
(詩篇 126篇5~6節)



ケパ






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あらら〜〜

2018年05月25日 | 生活
あら〜〜
昨日はblog上げてない。
私の日だったのです。

書きかけの状態が残ってるだけでした。
開いてくださった方ごめんなさい🙏


ベランダで咲いたミニ薔薇
グリーンアイス
4回目の冬で枯れたと思ったら、根元から若葉が伸び、復活しました。
薄いピンクの花びらは、日を追うごとにグリーンへと変わる。
そのはなびらの中心がグリーンに代わりにはじめると終わりの近い事を知る

この薔薇の報告のみで、感謝して下さいませ〜


ドルカス





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叶えられない祈り

2018年05月23日 | 祈り
私たちの教会で1日1章という聖書日課がある。今週で使徒の働きが終わるのだが、今回ほどこの「使徒の働き」を読んでいて、心が動かされたことはなかった。それは「叶えられない祈り」だった。

パウロは、クリスチャンになったその土地の人々に対し、きちんと救われるためにはユダヤ教に改宗しなければならない(それが割礼を受けるという意味)という圧力阻止には成功した。だがこれは同時に、ユダヤ人と異邦人が一緒になって、一つの教会形成をすることに、かなり深刻な分裂問題を抱えることになった。(たくさんの手紙を書いたパウロの1シーン)

同じクリスチャンでありながら、律法に縛られない現地の人々と、律法に従うユダヤ人が同じ屋根の下に居て礼拝する・・・・ことすらかなり問題であり、まして一緒に食事をしたり、安息日の規定を守ったり・・・・するのは不可能である。だから本家エルサレムからアンテオケにやって来たユダヤ人のクリスチャンにしてみれば、共にやっていくために、まず割礼を受けるよう勧めるのは当然でもあった。
(※ユダヤ人クリスチャン=メシアニックジューとは、聖書の救い主がイエス・キリストであることを受け入れた律法を守るユダヤ教徒であり、新約聖書中心で、律法から解放されたとするクリスチャンとは実際の対応が全く違う)

こうした教会内の一致問題(結局はほとんど非ユダヤ人の教会となり、今日のキリスト教が始まった)に心を痛めていたパウロが、そのことを願い祈っただろうがまず一つ。
次にパウロは、同じユダヤ人が、異邦人以上に真に救われること=信仰義認をどれほど願っていたことか。これが二つめ。ケンクレアで終わらせたパウロの請願とは、だいたいこのようなものであったと推察される。(福音は全世界に)


結論から言えば、パウロの誓願は叶えられなかったし、二千年経った今現在でもそうである。むしろ逆行する情勢に、どれほどパウロは落胆しただろうか、容易に想像できる。
神には全人類を救うという、とてつもなく大きな計画があり、十字架の真の救いは、一民族宗教としてのユダヤ教から脱皮せざるを得なかったのである。パウロの切なる願いと祈りは、叶わなかった。叶わなかったが、捨て置かれたのではなく、福音が世界全体を一周し、その仕上げという終末時代には、ユダヤ人はユダヤ教徒からアニックジューとなり、さらに真のクリスチャンとなるはずだ。
一つの見方だが、パウロはおそらくこのような神の計画を、コリントかケンクレヤで直接神から聞き、それで誓願を終わらせた可能性もある。

**************

私の周囲には家族が癌の末期で、癒しの奇蹟を日々祈り求めている人が複数おられる。医学的には緩和ケアの段階であり、奇跡を求めているのである。神は全知全能であり、私は奇蹟を信じる。しかしたとえ奇跡が起こらなくても、パウロのように、神の計画は人間の思いをはるかに越えて高いことをも信じている。当然の願いと祈りが聞かれなくても、最善が成されたのは間違いない。信じる者には、永遠のいのちが約束されており、ほんの一時の後に、また会うことは変わらないのだから。

クリスチャンには、希望が溢れている。


ケパ






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緑の谷津干潟公園

2018年05月22日 | 自然
朝食が遅かったので、今日は簡単ランチで🍙🍙持って🍵持って、谷津干潟公園です。
桜の🌸頃に味をしめて散策する。
さすが平日で、時折り走る人がいる程度。


日差しから遠ざけて座り、小鳥たちを目で追いながら、賛美して祈った。
ほんわか自然の中で、預言を語り神様との交わり。

うずくまる鳩が、側に近寄っても驚きもせずいる。

せせらぎの中で水浴びをする鳥、

次々と虫を啄む鳥だったり、
この干潟は、季節に渡り来る鳥たちの🦆楽園。緑地公園にも常に小鳥がさえずる。
時折、バードウォッチングされる人々が足を止めて木々を見上げていた。

外で過ごすのには、とても良い季節ね。
今日の散策は、とても得した気分でした。



ドルカス








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