ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

いちじくの実

2022年09月03日 | 聖書
教会へ行く道沿いの住宅で、その都度👀目にする『いちじくの木』
この時期はそろそろ採り時のいちじくの実。そろそろ赤く色づいた実もある。

ああ、イエスさまがおられたあの頃にも、いちじくが空腹を満たす甘い果物の一つだった。
と思いながら通り過ぎて見ていたのだけれど、とうとうチャリ🚲を止め撮らせて頂きました〜


勿論❣️撮るだけ。
手は伸ばしませんよ〜
あぁ。食べたいなぁ。

ついつい祈ってしまった。
あぁ。主よ
この庭の持ち主が、道から見上げる私に気がついて「お好きですか。少し取ってあげましょう」 
なんて言われたら、なんと幸せなんでしょ
今、いちじくを黙って取っては行けませんから〜
どうぞ機会を与えて下さい〜と

聖書には沢山の植物を書いた箇所があって、その中にぶどうや
このいちじくの実の事を書いた章が多くある。
それを詳しく書く脳力を、私は持ち合わせてないなぁ〜
ので、関心のある事だけ書きます。

"翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。
マルコ 11章12~13節 新改訳2017

えっ?イエスさまいちじくの実を無断で取ろうとされたの?

イスラエルの気候の中で、いちじくは4月~10月の間に5回の実を付ける。
イエスさまが手を伸ばされたその時期は、冬を越して過越の祭りの直前。
初なりの実(バーク)のなる頃で、誰でも取って食べても良い(初なりの実)であった。それは
「まだ美味しくない実でもあり、その時期に葉だけが茂る木であれば、夏を待ってもその木には何の実も結ばないであろう」
その後に採れるいちじくは(テエナ)で、次々と10月まで4回実を結ぶ。

(聖書の世界が見えるー植物編ーリュ•モーセ著)参照

以前ケパ牧師のメッセージでこれを学んでから、気になる箇所となった。

イエス様の手を伸ばされたのは、最後の過ぎ越しの前。ちょうど冬枯れから、最初の実をつける頃。その実バーク)は誰でも取って良かったのだ。と知りほっとしたのてす。
そしてその時期に実をつけない木は、よい実が実らないのか〜と何故か愕然とした。

田舎にいた頃、ご近所の裏庭にあったいちじくは、夏の初め頃、小さな実をたくさん付けて、その青い実を収穫して甘いシロップ煮にして、瓶ごと頂いたことを思い出す。



この赤く熟れた実は、カブっとかじりついたらさぞかし美味しかろう。

このように、いちじくの頃にはこの聖書箇所を思い、またこの箇所を開くと、いちじくが食べたくなる。まだまだ食べ物に執着がある私ですね〜 

今私の理解は、諸説ある一説ではありますが、しっかり覚えておきたい箇所です。


ドルカス   









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ヨセフの父は?

2022年05月14日 | 聖書
昨日の朝、早天のデボーションは、火曜日から始まったマタイの福音書の4章でした。
マタイ福音書は、イエスの系図がアブラハムからダビデ迄14代、ダビデからバビロン捕囚迄14代、バビロン捕囚からイエス•キリスト誕生まで14代の系図が書かれていて、読むにはカタカナの名前が続いていてるので、ついついサラッと読み飛ばしたくなるのよね〜。でも今日はちょいとしっかりと心を向けた。



毎週水曜礼拝のメッセージは、聖書から学ぶ事が多いのだけれど、今週水曜日は「メシア預言」がテーマ。
イエス様の来られる事を預言している箇所を旧約聖書から開いてメッセージしたケパさん。
そこで最初にルカの福音書3章を開いて学んだ事から、


今朝急に言うのよね〜
「この二つの系図(マタイ1:15-16 ルカ3:23)に違うことが書かれてるんだ」と言う。それから勉強会が始まってね。
イエス様の父ヨセフは、誰の子か?
今開いてる新約聖書はギリシャ語、英語から日本語に翻訳されてる。その翻訳の問題?
日本語で○父と書かれていたら、迷いもなく理解できるのよね。

✝️マタイ 1:15-16   
マタンがヤコブを生み
ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは〜

✝️ルカ 3:23
イエスは働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で〜

えっ❗️ヨセフはエリ(ヘリ) の子?
エリは義父、日本語で書くなら「舅」
マリアの父」ね。
とすると、マリアは一人っ子?ヨセフはエリ(ヘリ) の娘婿?と、日本的な解釈〜

更にこの二つの系図から、ヨセフもマリアもダビデにたどり着いた。

(ケパさんが系図の名前を書き出した)

昨日は結局1日雨降りでしたが、その朝から、楽しく聖書を学べた。

二つの家系はダビデからやがて夫と妻となり、メシアの誕生の預言が成就したのです。

天におられるお父様は、
我が罪を悔い改め、イエスキリストを救い主と信じ、それを告白した私たちの、霊の父であることに間違いありません。

そのように語られて‥‥
明日の礼拝が祝福されます様に。と祈らされた。アーメン

ドルカス   







 


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師が弟子の足を洗うのは当たり前

2022年02月22日 | 聖書
 最後の晩餐で、主イエスはたらいに水を入れ、腰に手ぬぐいを巻いて弟子たち一人ひとりの足を洗われた。「洗足」で有名なこの聖書の記事(ヨハネ伝13章)を今日の子どもに教えようとして、私は途方に暮れた。

 先ず、今の子どもたち、人間関係の上下が分からない。今現在七十歳の私には、戦前に生きた親の時代の残滓があって、身分とか、奉公、身の丈(たけ)とかがかろうじて分かるし、理屈抜きに年長者を敬い尊重するのは当然であった。
 それは学びにおいても同様であって、師(先生)は絶対であった。だから師であるイエスが弟子たちの足を洗うということは、あり得ない事が起こっている認識はできるし「(師が狂ってもいない限り)どういう意図を持ってこんなあべこべなことをされるのだろうか?」と息を呑んで、じっと師にされるがままになっているのも分かるし、その中で思わずペテロが「決して私の足を洗わないでください」と言ったのも「黙ったままされるんでなく、よくぞ言った」と分かる。



 師であるイエス・キリストが実際に行ったこの模範は「あなた方も互いに足を洗い合う(しもべとなってお互いに仕え合う)ようになるようにと教え諭すためだったし、ひいては神の国の本質を弟子たちに知らせるためでもであった。



 昔は教育のことを「師範」と言った。今の教育学部は,戦前の高等師範学校であった。もちろん師範とは、範を垂れると言う意味で,教師が先ず模範を行なって見せると言う意味だ。
 有名な山本五十六の言葉に「やって見せ、言って聞かせてさせてみせ、ほめてやらねば人は動かじ」と言う言葉があるが、それってイエス・キリストの洗足そのものじゃないのかと私は思う。

 ところで現実に戻るが、今の若い人たちには、どうもこの洗足が分からないようだ。先生なんだから、(ぼくたちを大切にしてくれて)足を洗ってくれていると理解する。つまり【何らおかしいとは思わない】ようだ。上下の逆転である。この聖書の記事が通常でないことがわからないようだ。確かに人は皆平等であり、等しく人権が有するのは当然だ。しかしある若者が社員になって職場に入ったても仕事を覚えないので、その訳を聞くと「僕がちゃんと仕事ができるようになるまで、上司はつきっきりで僕を教える責任がある」と賜った話を聞く。

 この世代の考えをするならば、「師である方に、弟子である私の足を洗わせてはいけない」と言ったペテロの行動がわからない。「何ペテロは言ってるんだ。やってくれるんだから、やってもらえばいいじゃないか」で終わりだろう。それゆえ師が弟子たちの足を洗う、このイエス・キリストの教えは空振りで、若い人たちには理解が困難なものになっているのかも,と思う。

 私はイエスのこの教えの実践として、毎月第五の主日に「牧師カレー」と称して牧師(夫婦)が作ったカレーを教会員に食べていただいているが、それも時代に合わなくなって来ているんだろうかと思う。
 この洗足の教えが分かる世代が急速に減って来ていることを悲しむべきか,喜ぶべきか、いずれであろうか? 

        ケパ
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メッセージ

2021年02月21日 | 聖書
昨夜は、イェ〜
今朝まで半徹夜状態のケパさん。
メッセージの為に費やした時間です。
今日のメッセージの為にこれも作った。


メッセージは、ヨハネ6章35節から
テーマ「神様はこのようなかた」
イエス様はご自分をこう言われました。
I am  
いのちのパンです。世の光です。門です。良い牧者。よみがえりのいのち。道であり真理。まことのぶどうの木あなたがたは枝です。

このメッセージの準備があったのは、主がご計画されていました。

今日。この教会に初めてのお二人の方がインターネットを通して、YouTubeをご覧になって、礼拝に来られました。 

ハレルヤ

メッセージはYouTubeでご覧出来ます。
こちら⤵️からご覧下さい 


ドルカス   

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ウリヤの真意

2021年02月04日 | 聖書
 昔、今から三千年も前、イスラエルの最大版図を極めた王がいた。その名はダビデ。今のイスラエルもダビデの旗を国旗としている。この王の最大の失敗と言えば、バテ・シェバ事件だ。

 隣国アンマン人との戦いに目鼻をつけたダビデ王は、後の仕上げを軍団長ヨアブに託し、自分は王宮でのんびりと午睡していた。目覚めた王が屋上を何言う事もなくぶらついていると、部下たちが住む家並みの中、ふとひとりの美しい女が汚れから身を清めるために水浴びしているのを見る。

 男性の心理から見るなら、これほど危険な状況はない。部下たちは命を張って戦っている。いくらすでに勝敗の行方は決していると言っても、戦いに王の心はムズムズし、穏やかではなかったはずである。心を静めようとしたそんな時、偶然の光景に目を奪われ、男の悲しさ、情欲を誘発される。
 相手は部下である将の妻であった。今の世ではわかりにくいが、王とか殿とかの権力者には家の存続、つまり世継ぎは絶対的なものだ。だから妻は何人娶ろうが、それは王の役得である。しかし他人の妻となると、王と言えども簡単ではない。離婚させた上、然るべき時に婚宴を上げなければ、法の執行者、統治者として示しがつかない。

 しかしこの時のダビデは見境がつかなかった。愚かにも法を無視して召し、それで子どもまで出来てしまう。何でもそうだが大切なのは、この魔が挿したような(クリスチャン的には悪霊に入られてしまった罪)不始末の後始末の方である。(※ある姉妹が、「この時、ダビデは祈っていなかった」と鋭く指摘したが、まさにその通りてある。彼は信仰から心がずれていたのだろうし、その当然の結果なのだ) 人間ダビデはさすがにまずいと思ったのか、子を夫ウリヤのものにして(あるいは押し付けて)、姦淫という事実は無かったことにしたかった。まことに人間的で我儘で姑息なやり方である。ここでは神に悔い改め、聞くという姿勢が、全くなかった。

 このために王はウリヤを前線から呼び戻し、妻の待つ家に帰らせ、既成事実化しようとした。ところがウリヤは王に「今、戦い中で自分だけがぬくぬくと食べたり飲んだりし妻と寝ることはできない」と、王の命令を拒んだ。仕方なく王は、ウリヤを最前線に送り、戦死させるように軍団長に命じた。これは殺人である。
(絵は預言者ナタンによって、罪を指摘されるダビデ王)



 ところでこの経緯を読んで、この度ウリヤの気持ちになってみた。私の憶測では、ウリヤは事の次第を知っていたか、あるいは戦いの最中に呼び戻され、妻の所に戻れ、なんてとんでもない命令から推測し、大体あらまし気づいていたのではないだろうか、と言う事である。
 そうなると、王の命令を拒否すれば、邪魔者になった自分がどうなるか、と言うこともウリヤは読めていたはずになる。ならば彼の拒否の回答は、自分の誇りと身命を賭しての、精一杯の王への抗議として受け取れる。

 こうしてウリヤは戦場に戻され、指図を受けたヨアブの下、名誉の戦死をさせられた。神はこの不義の子を赦さず、死に渡し、バテ・シェバが王の妻とされて次に生まれた子ソロモンを、王の後継者にされた。
 しかし神の裁きは明白である。この輝かしいダビデ王にまつわる系図において、「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み」(マタイ1:6)という罪の汚名をこの後、幾千年も、全世界の隅々にまで明るみにされた。偉大な王であるだけに、崇められ神格化されることなく、ひとりの罪人として数えられるように、と。



ケパ



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新改訳聖書

2020年11月18日 | 聖書
聖書は私のクリスチャン生活史に置いて大切な位置するもの。
今朝もデボーションで、その様に思わされました。


上から新改訳第2版小型聖書
2003年9月購入。
それまで姉がプレゼントしてくれた聖書を当り前のように使っていたが、
東京聖会に行く為小型版が欲しくなり、たまたま第3版の出版直前で処分品の「格安の皮革装聖書」を見つけた。
今となっては裸眼ではとても読めない小型版。

真ん中ワイン色。新改訳第3版中型。
2009年3月購入。前年に再婚する時、夫となる牧師に、聖書をプレゼントしてもらった。その聖書を
不覚にも食卓でカフェオレを飲みながら開いていて溢した。まだひと月も立たないうちで、ショック〜使い続けていたが、カフェオレだったので、ミルクが糊付けになった。
ページが思うように開かなく分厚くなった聖書を見て、哀れに思ったかもう一度プレゼント。喜んで使い続けた。表紙が剥がれは接着剤で貼り、表紙裏の白いページには隙間が無いほど書き込まれて、私にとって大変大事で便利。手元から離せない聖書となったが、
5年程前、大型スタンダード版を見つけた。
裸眼で読めるのよ〜それを求めた。聖書は徐々に高価な書物となったね。使いやすく丈夫なので皮革装が欲しくなるから、祈って祈って本当にこれかと、決まるまで買えないからね。購入する時この高価な聖書買って良いのかと思わされた。

その後2017年いよいよ改訂版
「新改訳2017」が発売された。
私は新しい3版大型版買ったばかりだったから、買い換える事はなく事発売されても3年も買わずにいた。馴染みがあり、何不自由ない、必要だったら、聖書アプリから読もうと。
また、必要な時は、経済も守られるからね、無理はしないでおこう。

今年2020年。新型コロナウイルスの最中、10万円の慰労金など、思わぬ経済が与えられて、ようやく私も購入の時期が来たと思ったのです。6月移転した新宿オアシスにて購入。
更に高価な買い物でした。


そして今、未だに第3版中判聖書が離せず、2冊開いてしまう。そしてその違いは、第2版から第3版に変わった時より、更に違いがあり戸惑っている私がいるのです。アーメン   


ドルカス



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翻訳された聖書の問題

2020年11月17日 | 聖書

「あれっ!」とドルカスがすっとんきょうな声を上げた。「ここ、全然違ってる」と。



 私たちの教会は月に二度程度、聖書学習会をしている。先週はサムエル記の「奪われた契約の箱」だった。神の箱は悲劇的なサウル王と王子ヨナタン(英語名はレストランで有名なジョナサン)の戦死という大敗北で、七ヶ月間ペリシテ人に奪われた。神の箱がある間、ペリシテ人たちは腫物や恐慌で打たれ、結局イスラエルに返すのだが、問題はそれを受け取った国境沿いのベテ・シェメシュの人々である。この町には五万人ぐらいが住んでいたようだ。


 この町の人々は神の箱について、どれほどの神聖さがあるかを知らなかった。それは無理もなく、民は噂には聞いていても、二百年間シロの幕屋の最奥、至聖所に安置されたままであったので、年に一度大祭司しか見たことがなかったのだ。それが先のサウル王が打たれたペリシテ人との戦いで担ぎ出され、それを初めて見た民の多くも死んでしまった。まして、その箱の中を覗いた者など、誰もいるハズのない超神秘のものなのだ。

 興味津々であるのは当然だった上、今、祭司も居ない、不敬を教えるレビ人もいない。しかし突然、神の箱が目の前に現れたのである。

 そこで好奇心を抑えきれず、大きな石に運び上げただろう七十人の者が、禁断の蓋を取って、中を覗こうとしたのだ。その瞬間、その場に居た全員が瞬時に打たれ、殺されたのだ。イスラエルの神、その神の箱が五つの金のねずみ像とともに帰って来た喜びは、この途端に悲しみと悼みに暗転した。


 さて問題はこれからである。新改訳聖書第3版を読んでいたドルカスはそのとき主は、その民五万七十人を打たれた】と読んだ。ところが新改訳2017を読んでいた残りの者の聖書には主は、民のうち七十人を、すなわち、千人に五人を打たれたとあるのだ。

 個人的に、聖書のバージョンアップしで、これほどの大きな違いが生じた経験をした事が過去、ない。ヤコブの家族がエジプトへ総勢何人で行ったかどうかの違いではないのだ。


 これほどの違いならば、2017発売時に、はっきりと相違点を指摘するのが筋ではないだろうか。実際、先行する口語訳でも共同訳でも、打たれたのは七十人としているからだ。あえてこの訳を採用した強固な理由があったはずなのだから。しかし、それをこっそりと、ただ直すだけで口を閉ざしている。うーむむ。


 さらに調べてみると第3版と同様、KJV(欽定訳)にHe struck fifty thousand and seventy men of the peopleとあり、要はandの解釈であることがわかる。しかしその他の主だった聖書では明確に七十人が殺され・・・とあり、五万人の表記はない。

 一般論だが、どう考えても神の箱を覗いた者が五万人も居たとは思えない。それならベテ・シェメシュの全員が行列を作って、かなり長い時間にわたって見たと言う事になる。しかし後のウザの例でも分かるように、神の箱の場合は瞬殺である。神が街の人々全員が不敬の罪を重ねて行くのを待っておられたとは思えない。

 それで、この2017では、そっと、こっそり変えるしかなかったのか?

ドルカス、お手柄です。

 これだけでなく、【礎の石】も【要の石】と2017では変えられている。第3版はそのうち在庫がなくなり次第手に入らなくなる。つまり私たちは2017に好むと好まざるとに問わず、2017にせざるを得ない。

 またこの事は、改めて聖書は原典において誤りなき神の言葉(無謬)であって、翻訳された日本語そのものを、あたかも誤りなき神の言葉のように、一言一句、そのまま受け取ることの危うさもを示している。


ケパ


ーーーーー参ーー考ーーーーーー

【新改訳改訂第3版】1サム6:19

主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。【主】の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。【主】が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。


【新改訳2017】1サム6:19

主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。【主】の箱の中を見たからである。主は、民のうち七十人を、すなわち、千人に五人を打たれた。【主】が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。




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聖書を愛する人にぜひ

2020年06月19日 | 聖書



 単に収集したのではない、偶然に見える結果だが、写真のように私はハーレイの「聖書ハンドブック」を四世代にわたって持っている。
(左の青いのが初版改訂版、赤いのがニ版、緑が第三版、右の表紙カバー(茶色)を外したグレイが2017最新版になる)

 この類まれな書は1924年に、米国でたった16ページのパンフレットから始まり、毎年のように改訂増補しながら大ヒットを重ねて来た本だ。日本語版初版は1953年。私が持っている初版の改訂版は1965年もので、覚えていないがクリスチャンになって間もなく買ったようだ。

 私の主観では、聖書を除いての三大信仰良書として、5世紀のアウグスティス「神の国」、15世紀のトマス・ア・ケンピス「キリストにならいて」、17世紀のジョン・バンヤン「天路歴程」がある。
 しかし聖書を理解する助け手として、学術論争に走らない、健全な聖書全体の解き明かしのアドバイザーとしては「新聖書ハンドブック」はオンリーワン的な存在だと思う。常に聖書と共に携行し、疑問に思った時に即、紐解きたい必須の書である。
 未だ持ってない方はこの度、新改訳2017対応版として一新された下記の新刊が現在は店頭にあり、絶対お勧めなのでぜひ入手されたい。※下記はこの紹介リンク

「聖書は神のことばである」この聖書信仰が本書の序文にあるハーレイの曾孫(ひまご)にも、世紀を超えて脈々と受け継がれていることがわかる。


       ケパ
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He’s Story

2020年03月11日 | 聖書
水曜の午後はまず、最初の勉強から始まります。
(ピースフルボランティアの日は特別時間割)



He'sStory 今日は、ヤコブから入りたいが時間ないので12部族の事を学ぶと言ってたのですけど〜 

ん❗️地理的な事から始まりました。

立体感ある地図で学んでますね。
時々脱線する、ケパ先生ですが、皆さん楽しそうに学んでいます。
が、この地理地形は聖書の学びをするのに大変重要なのだ。とも学びました。

この場所は、教会Office(事務室)
学びと、祈祷会はここで行います。
後半はいよいよ聖書のに戻り、ユダの話に入りました。でも時間切れなのでまた来週です。

ドルカス   



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年間聖句

2019年11月06日 | 聖書
TLEA 2020年度の年度聖句が。この日曜日3日の新年礼拝で発表されました。ハレルヤ

Ⅱ歴代誌20章15節、17節です。
この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ

このフォトは昨年
朝のガリラヤ湖。早天時湖畔。静かでした
ホテル内でも、、そらそろ


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