(聖書の世界が見えるー植物編ーリュ•モーセ著)参照
(聖書の世界が見えるー植物編ーリュ•モーセ著)参照
(ケパさんが系図の名前を書き出した)
「あれっ!」とドルカスがすっとんきょうな声を上げた。「ここ、全然違ってる」と。
私たちの教会は月に二度程度、聖書学習会をしている。先週はサムエル記の「奪われた契約の箱」だった。神の箱は悲劇的なサウル王と王子ヨナタン(英語名はレストランで有名なジョナサン)の戦死という大敗北で、七ヶ月間ペリシテ人に奪われた。神の箱がある間、ペリシテ人たちは腫物や恐慌で打たれ、結局イスラエルに返すのだが、問題はそれを受け取った国境沿いのベテ・シェメシュの人々である。この町には五万人ぐらいが住んでいたようだ。
この町の人々は神の箱について、どれほどの神聖さがあるかを知らなかった。それは無理もなく、民は噂には聞いていても、二百年間シロの幕屋の最奥、至聖所に安置されたままであったので、年に一度大祭司しか見たことがなかったのだ。それが先のサウル王が打たれたペリシテ人との戦いで担ぎ出され、それを初めて見た民の多くも死んでしまった。まして、その箱の中を覗いた者など、誰もいるハズのない超神秘のものなのだ。
興味津々であるのは当然だった上、今、祭司も居ない、不敬を教えるレビ人もいない。しかし突然、神の箱が目の前に現れたのである。
そこで好奇心を抑えきれず、大きな石に運び上げただろう七十人の者が、禁断の蓋を取って、中を覗こうとしたのだ。その瞬間、その場に居た全員が瞬時に打たれ、殺されたのだ。イスラエルの神、その神の箱が五つの金のねずみ像とともに帰って来た喜びは、この途端に悲しみと悼みに暗転した。
さて問題はこれからである。新改訳聖書第3版を読んでいたドルカスは【そのとき主は、その民五万七十人を打たれた】と読んだ。ところが新改訳2017を読んでいた残りの者の聖書には【主は、民のうち七十人を、すなわち、千人に五人を打たれた】とあるのだ。
個人的に、聖書のバージョンアップしで、これほどの大きな違いが生じた経験をした事が過去、ない。ヤコブの家族がエジプトへ総勢何人で行ったかどうかの違いではないのだ。
これほどの違いならば、2017発売時に、はっきりと相違点を指摘するのが筋ではないだろうか。実際、先行する口語訳でも共同訳でも、打たれたのは七十人としているからだ。あえてこの訳を採用した強固な理由があったはずなのだから。しかし、それをこっそりと、ただ直すだけで口を閉ざしている。うーむむ。
さらに調べてみると第3版と同様、KJV(欽定訳)にHe struck fifty thousand and seventy men of the peopleとあり、要はandの解釈であることがわかる。しかしその他の主だった聖書では明確に七十人が殺され・・・とあり、五万人の表記はない。
一般論だが、どう考えても神の箱を覗いた者が五万人も居たとは思えない。それならベテ・シェメシュの全員が行列を作って、かなり長い時間にわたって見たと言う事になる。しかし後のウザの例でも分かるように、神の箱の場合は瞬殺である。神が街の人々全員が不敬の罪を重ねて行くのを待っておられたとは思えない。
それで、この2017では、そっと、こっそり変えるしかなかったのか?
ドルカス、お手柄です。
これだけでなく、【礎の石】も【要の石】と2017では変えられている。第3版はそのうち在庫がなくなり次第手に入らなくなる。つまり私たちは2017に好むと好まざるとに問わず、2017にせざるを得ない。
またこの事は、改めて聖書は原典において誤りなき神の言葉(無謬)であって、翻訳された日本語そのものを、あたかも誤りなき神の言葉のように、一言一句、そのまま受け取ることの危うさもを示している。
ケパ
ーーーーー参ーー考ーーーーーー
【新改訳改訂第3版】1サム6:19
主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。【主】の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。【主】が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。
【新改訳2017】1サム6:19
主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。【主】の箱の中を見たからである。主は、民のうち七十人を、すなわち、千人に五人を打たれた。【主】が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。
立体感ある地図で学んでますね。
この場所は、教会Office(事務室)
この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ