ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

2022年の始まりに寄せて

2022年01月01日 | 示されたこと
「神に愛される秘訣」
 神というのは、当たり前だけれども全地全能の造物主で、全てのことをご存知である(天の御座の周りに前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた:黙示録4章6・8節)。私たちは常にその天の神に報告され一切が知られている存在である。

 長年小学校の教師をしていた私が、教師をしていて一番嬉しかったことは、教え子に問題があって、指導していた時の子ども態度だった。私から咎めを受けそうな子が、それまで嘘を言ったり取り繕っていて、どうにも隠しきれなくなって、突然「ごめんなさい」と反省し認め、悔い改めた瞬間である。それはすごく嬉しくて、思わずその子を抱きしめたくなったものである。

 実は、天の神さまも同じではないかと思う。詩篇32でこんな箇所がある。

 私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。セラ

 全てを知っておられる神に向かって、自分を守って偽りを言うほど愚かで、神をガッカリさせ悲しませることはないと私は思う。神からの愛を失うことほど、私たち人間にとって危険な状態は存在しない。逆に「お父さん、ごめんなさい赦してください」と本当のことを白状し、その懐に飛び込むことほど、神さまを喜ばせることはないはずだ。心からであれば、たとえどんなに罪を犯していようが、両手を上げて喜んでくださり、赦してくださり、愛してくださるのは絶対の請け合いだ。




「神に愛される秘訣」とは、善行を行なったり、無理して聞き従う真似をして頑張ることではない。そんなこと、見ておられる神さまもお疲れになる。良い子ぶっても、そこはお見通しなのである。神に愛されれば、述べたような神を受けて、もう本当の自分を見ることは怖くなくなる。その罪だらけの自分に愛想を尽かし、解放され、全ての希望と喜びを、ただ神の愛だけに見出すようになるのは時間の問題だ。そして聖霊のバプテスマを体験し、神さまと交わり、神を知れば知るほど神を愛するようになる。この恵みのサイクルにはまっていく素晴らしさ、その喜び。

 その秘訣は極めて単純であり、幼児ですら分かることである。正直なこと。私は「自分の罪をあなたに知らせ、私の咎を隠しません」と神の愛をゲットする。このサイクルにはまると、もう罪を報告するのがサディスティクという訳ではなく、喜んでいつもするようになるのだから。
 あなたの身の回りに、そんな理解不可能なサディスティックとすら思えるクリスチャンはいませんか。彼らに喜びがあるのを見ていませんか? 彼らは真のクリスチャンです。

ケパ




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夕暮れとイルミネーション

2021年11月27日 | 示されたこと
昨夜の夕暮れも美しかった。


夕暮れのグラデーションが美しいね〜

翌日のお天気をも思わされる。
(翌日の今朝良いお天気でした〜
教会の中庭は、夜になると全くの光がなくなる場所



そこは、隣家との境目だから。

いづみ姉が、安物〜と言って、ソーラータイプの電飾飾ってくれた。



あら?日曜日と、
配線位置変えたかしらね〜

一つ一つ光は乏しくとも
なんて優しさが伝わるのだろうね〜

この教会も、一人一人のパーツは未だ未だ小さくとも、やがて集まる光の様に力強く地域を照らす光となるのだろう。
天の父がそう言われたのなら、私達は喜びそれを待ち望み、今すべき事を成していこう。
21日の伝道師按手式。
(ブックマークの、礼拝からご覧になれます)


船橋教会の柱が三本と成った。
この光か更にまし加えられ、
更に輝く時がくる様に。

天の父の成される事を待ち望みます。


ドルカス   

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たといそうでなくても

2021年09月03日 | 示されたこと
 私が大学を卒業し、広島に帰って、確か最初ぐらいに買った本が「たといそうでなくても」だった。もちろん一気に読んだ。そしてその後何年かして、著者の安利淑さんが当時の私の教会で講演してくださったので、記憶に深く刻まれた本になった。


 
 しかし当時はまだ若く、朝鮮での苛烈な迫害をにわかには信じられなかったし(そのことは当時でも知られてなかったと、この書の中でも触れられている)、講演で著者から私たちは相当厳しく叱責されたので、決して印象が良かったわけではない。その上せっかくの本を、拒絶感のためか誰かにお貸ししたらしく、その後行方不明になった本である。

 普通はこれでお終いなのだが、そうはならなかった。滅多に夢を見ない私だが、その後いったい何度赤い帯のこの本が夢に現れたことだろう。特に聖霊の恵みを受けてから幾度も。1972年刊だから半世紀近い書物である。失われて何十年も経ってるのにだ。またただ手をこまねいていたわけではない。古本屋で調べたら万以上のべらぼうな金額なので、手が出なかったのである。

 しかし(神の)時というものがある。七月の終わり、八月の東京カリスマ聖会前に、思い余って私は切り出した。ドルカスに「ねぇ、どんなに高くても買いたい古本があるんだ」と相談した。しかし答えは予想通り「ノー」。そりゃそうだろう、何十倍にもなっていたのだから。

 しかしすぐその後の八月東京カリスマ聖会で、驚いたことに益川さん制作のちょっと古い動画「たといそうでなくても」が映し出されたのである。こういう不思議な動画が出て来たことに、私はピーンと来ていた。それだけではなく聖会終了後、駅までの短い距離の中、同乗の牧師夫妻に「『たといそうでなくても』をもう一度、どうしても読みたくなりました」とつい言ったところ、何と「持ってますので貸してあげます」と。びっくりしたが、お言葉に甘えることにした。
 しかも1ヶ月後の再会の機会にお借りできると思っていたのに、すぐに郵送で届いたのだった。何という感謝!そして、主の手があるとはこういうことを言うのだ、早い。

 さて、読めば読むほど、神が幾度も「読みなさい、読みなさい」と示された訳がわかる。これはノンフィクションの事実であって、過去の私たちの(父母が行った)罪禍を赤裸々に描いてやまない。真摯に悔い改め、その上にこれからまた起こるであろう患難と迫害の時代に、絶対に生かさなければならない警世の書だ。歴史は繰り返す。日本のリバイバルの使命を果たすための神の備えであることがわかる。「ああ主よ、御心を行わせてください」と祈るばかりだ。

 そこでやはり自分の本がないといけない、と今一度古本屋を調べると、何とこれまでない安さのを見つけた。しかも私が買った待晨社のもので、実際届いてみると注文票まで付いている、手垢の付いてない未販売物であった。いったいどこで眠っていたのか、半世紀近い古本なのに、素晴らしく状態が良い。

 神様、ありがとうございます。そして今はどうしてこんなに、あなたが私にもう一度読ませようとされたのか、ようくわかりました。

左が少し大きい初巻本、右がお借りした再刊本)


ケパ 
 

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なんて勝手な人の思い

2021年09月02日 | 示されたこと
 火曜までの暑さの続く日には、「ああ、秋の涼しさが待ち遠しい」とハンカチで額を拭いながら思ってた。ところが一転して水曜日はしばらくは涼しさに身を任せていたものの、今度は寒さのあまり震えてしまって、慌てて長袖や上着を羽織ることに・・・・。そして、暑かった夏を懐かしむ。



 なんて今あることを善しとしない、傲慢な心なのだろう。暑さを感謝し、涼しさを喜び、ただ神のことだけに心を寄せ、御心だけを求めて時を過ごす。そうすればすべてのことに感謝と平安があり、神の愛に包まれる。日々の暮らしの中で、神第一のプライオリティを実践することが、私たち限られた命を持つ者の命の使い方であろう。

 暑ければ涼しさをを待ち望んでいた、その実現した中で、私は自分の肉の弱さを思い知ることになった。


ケパ
(久しぶりに、ケパさんの投稿です)
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またしても、書き損じた!

2021年05月08日 | 示されたこと
昨夜遅くにせっせと書いたblog、また全て消してしまいました。半分夢の中でのこと。全て消え去りますね。思い出し書きます。

2日の日曜日午後の船橋地域で突然のゲリラ豪雨はひどかったです。きっとそのあと晴れて🌈でたのかな〜もし見られたなら何かハッと気づきが有ったかと思わされます。



そのゲリラにケパサンのチャリ🚲は、雨に打たれました〜。もう10年以上使用しているこの愛🚲は、とても大事にいつも細かに整備している自転車です。
私にはよく言うのです。「雨に合わせない様に、アシスト自転車は要注意❣️」それ程雨に合わせない様にと気遣っていたのにね。


それが玄関先に止めたままだった。うっかりして相当降ってから移動したのだけれど。
電気系統がつかない事に気が付き、ショートしたかもと。
連休中でもあり、自分で調子を見て、バッテリーはok。ただしライトが付かないと言ってた。火曜日いつもの🚲店は、営業中だったけど、わたしが喜んで散歩していてね。それに付き合っていて後回しにしてしまった。

まあその時点で行っても、OUTと言う事だけれど〜

(Y君と、チャリレッスンに出かる様子)

完全にチャリは、アシスト自転車で無くなりました〜。
とわかったのは、木曜日仕事前に🚲店に寄った時。10年選手のこのチャリはもう取り寄せる部品が無いのですって。修理仕様がない。電気経路なので代用も出来ない。
頭が真っ白になったよ〜と言ってた。仕事に支障がなくて良かった。

まだまだ乗れるぞと、タイヤの交換をする直前でした。ひと月前程には、サドルの交換したり、昨年はスタンドの交換したりと、ぼちぼち痛み出した部品を交換して使ってた。
その乗れる!の意気込みが崩れたその瞬間、頭の中真っ白になったようです。

そこに落とし穴。私達その事で
さぁどうしようか。いつ買える?少し乗れる?などと、目先の事ばかり考えていた。

違うでしょう。祈り忘れてるよ〜
先の心配はしなくていいよ。と、イエスさまの言われる事忘れてた夜です。

本当にまずそのことを2人で感謝し、出来なかった事、忘れてた事の悔い改めに導かれてもっともっと祈れたよ。

と、この事実を書いたblogどこへ飛んだ??記憶に何も残ってない〜
そのような今日です

今朝早天で祈る時、ケパさんは感謝の祈りが少し弱気でした。思わずあれ〜ぼやきになりそうだと思った私ですが、


いや〜そうではない。天のお父ちゃんといつもの素直な交わりを祈るケパさんの姿だ。そのように
これを書いているうちに思わされました。

確かに牧師としての祈りには弱気に思えてのですが、本来お父ちゃんに祈る時は全て、甘えもぼやきも全てオッケーですよね。
それ程に天のお父様と親しく話をしたいケパさんを、私はようやくわかったのです。

御心を祈るなら主は必ず答えて下さる。

その答えを今日は、既に見させていただきました。イエスさま。ありがとうございます。 

天の父がここに居られ、この教会にケパさんを牧師として立ててくださり、教会がある限り、ここに集う人々は教会の御身体であり、お一人お一人がそれぞれの奉仕をされ、教会を盛り立て、さらに牧会する牧師を、祈りと奉仕を持って支えて下さる。 


この船橋キリスト教会⛪️が、ここに有る事を、主に感謝します。

今朝の早天も感謝します。 
教会に集うお一人お一人に主が成してくださる全てのことを感謝します。

さあ明日は主日礼拝、もう少しの準備が必要。喜んで時間を捧げます。

ドルカス   




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週報の写真

2021年03月07日 | 示されたこと
3月7日の週報の写真は、先週日曜日に教会の門扉に掲げた看板を撮った写真を使いました。


その日掲げた事を忘れないようにと、昼食直前にその瞬間は何も分からず撮影した。後室内で写真を確認した瞬間、声が出ずハレルヤと心で主を崇めた。
あまりにも祝福を思わされたから〜

その翌週、2月第3日曜に初めてこの教会に来られた方が、第4日曜にふたたび来られた。写真の🌈は門扉からその方が乗って来た自転車に掛かっていた。
(2月28日のブログ参照下さい)


3回目の今日、ギリギリ礼拝に来られた兄弟は、体が重そうで辛そうだった。
礼拝後半になると身体を保つ事がさらに辛そうだった。礼拝後事務室のソファで休むことをお勧めして案内すると、喜び横になる。疲れが溜まっていて身体中が痛むのだと。
ほんの瞬間祈りが導かれ、主の癒しを求めて、平安と共にお祈りした。

しばらく休まれ牧師と話す声が聞こえ元気になられ共に愛餐されている時、
週報の写真の話をすると、兄弟はしっかりと週報を見直し驚くように「私の自転車迄🌈が掛かっている」と言われた。

神様感謝します。あなたはこの教会にこの兄弟を送ってくださり、今日その確信を頂きました。さらに初日共に来られた若者の心にも大きく触れてくださっていたと信じます。

ハレルヤ❗️
主を崇めます。喜び礼拝いたします。あなたの御名を賛美します。
PS
お帰りになる時は、朝来られた時よりお元気になられてた。主を崇めます。

ドルカス   

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手づくなは完了間近

2021年02月26日 | 示されたこと
水曜日からちょいと間が空きましたが、


仕事に行く前の時間や、帰宅後に細かな作業が続き(今回は初肩こり体験したケパさんを、少しね 助っ人出来ました。)



ドルカス💡アイデアも採用されて、大満足也り〜

最終段階。で昨夜遅く迄の作業で、ペイントまで済みました。

今朝、午前の仕事は、ベランダで、

念入りに、油性ニスを塗りです。さらに

今夜もう一度チェックして、裏に証しの日付入れ、ニスを塗り仕上がります。


日曜日には門扉に取り付けできるかしら。取り敢えず、
日曜日は、皆さんの前でお披露目です。

この場所に来て2年目。ようやく周りを見渡し、中をチェックし、さらに予算の限り必要を備えていく予定ですが、

一月に思いが置かれ、牧師がした事がこの看板作りです。用いられますように。

教会の門を入り、地域の方々が来られますように、さらに環境も整えます。

主が言われた事は、はいと答えてしたいです。

ハレルヤ〜   ドルカス   





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偶然はない

2021年02月24日 | 示されたこと
よし、半分は仕上がった〜 いやぁ〜、まだまだ〜 などと楽しみしている教会の看板つくり


下半分には曜日と時間を書くけれど、
さあ〜み言葉は、入るだろうか

GOD is LOVE

看板が必要だと、そしてどうして今作り始めたかのだろうか。

教会に✝️十字架が必要だなとケパさんは心の内に思わされ、看板作ろうと一月末に準備始め、そして二月中に看板を掲げる。


教会がこの場所に来て丁度一年です。
そして日曜日初めての方々が訪れました。

この出来事は決して偶然ではなく、天の父がケパさんの心の内に思わせて下さったのですね。
ハレルヤ〜主を褒め称えます。

ドルカス   

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二つのタイプと仕事

2020年11月13日 | 示されたこと

二つのタイプ

 同じことを続けることに耐えられない人と、同じことでないと心が落ち着かない人といる。


 分かりやすい例で言えば、毎日同じ道を通ることで、安心を覚える人と、それでは飽き足らず、時間があれば知らない横道に入って、その先を確かめずにはいられない人とだ。(そんな人はたとえ行き止まりでも、行ってみたい)



 私は典型的な後者。生来の新し物好きで、飽きっぽい性格は自分でもよくわかる。こういうタイプは常に新しいことや、分からないことがあったらどうしても気になってしまう性分でもある。

 飽きっぽいことで痛切に感じさせられたことがあった。学生時代、今は無くなっている日産の座間工場でバイトしたことがあった。その広大な工場は、当時の人気車種サニーを作っていて、私は運転席のサイド、ドアとの境にある下トレー設置を担当させられた。(写真は似たような組み立ての一例)



 ラインは最初ゆっくりでも、徐々にスピードが上がる。間に合わなければ紐を引っ張ってラインを止めるしかないのだが、それは何キロも?(それほど長かった)あろうかというラインに連なる人々全員を休ませることになる。速さに追い込まれ、何も考えずにただただコマネズミみたいに目先のものを追いかけてまったく同じ作業を繰り返す。まさに自分が機械の一部と化した感じである。人を人としてみなしていない、何と非人間的な仕事だろうか。


職種について

 数日経つと、私はこの仕事が自分に向かないだけでなく、将来にも絶対避けなければいけない職種であることを悟った。同じ事に耐えられず、拒否感でアップアップになるのだ。とにもかくにも二ヶ月間、組み立てラインの仕事が続けられたのは、あとに述べる目的があったからだった(※ライン作業にも今は人の代わりにロボットが多用されていて、かなり変わっているようです。下の写真はホンダのセル採算方式で、私の毛嫌いするライン組み立てではありません)




 二ヶ月間、最後まで続けられたのは、車の免許証取得に必要な資金づくりと、お昼代付きのバイトという期間限定工であったことだろう。また、一週間昼働けば、翌週は夜中の一週間働くことにも、体のリズムが馴れることはなかった。私の親族の叔父たちはマツダ勤めが多かった。逆に言えば、マツダで勤め上げた私の叔父たちは、尊敬に値する人たちだということがわかった。


 最終的に私は教職に就いたが、相手は人間なので百人いても同じ子は一人もいない上、どんどん日々成長していく相手でもあり、毎日がど変化の仕事だった。だから私にはすごく向いていた。




 今は牧師をしているが、牧師の仕事にもっとも近いこの世の職業は教職だったことを痛切に感じる。すべての歩みに何一つ無駄がなく、ただ神に感謝している。



       ケパ





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子やぎたちの事情

2020年07月11日 | 示されたこと
コロナ自粛の5月の末に、兄がFacebookで紹介した田舎での、のんびり出来事。

知り合いが2匹の子やぎを飼育始めたと、楽しそうに書いていた。
(Photoは、兄のFacebookから拝借)


兄弟か姉妹かわかりませんが、2匹の可愛い子やぎちゃん達、
遊ぶ範囲が広くなり、とうとう

まさか、ここ❣️降りちゃった。下は川ですよ。更に川を渡って向こう岸。脱走した〜


高いところを登るのが得意なヤギだから、ちゃんと戻ったのか、戻らされたのか不明ですが、


戻されてからは、綱をつけられたと。
自由を求めていたら、その自由を取られてしまった。

田舎へ行ったら会いに行きたいなぁ〜
と思っていたら、

何とこの千葉県内で更に好奇心旺盛な雌の子やぎチャンの話題をみました。

(Photoはちばとび&千葉日報から)
迷い込んだ当時生後5ヶ月の雌子やぎ。未だに救出できないと。飼い主さんもほとほと困っているとか、私鉄電車線路の急斜面です。
なにを食べて何処で夜を過ごしてるの?
自由に抜け出したら、帰れなくなってしまった子やぎ。
早く救出されますように〜



また、⬆️は数年前のイスラエルチームの時、エリコで見たヤギ達ですが、

観光客が山羊達の行く道を塞いだので、誘導していた少年の言うことを聞かず、我先に繁みを抜けて下って行きました。人に囲まれ怖かった?

山羊🐐は結構身勝手な行動するのです。そしてその意思を曲げない。
山の羊達は頑なです。従順な羊とはだいぶ違います。

聖書にはイスラエルの民を頑な民と書いてますが、そうなんですね。

頑なさは出来れば砕かれたい。
そう私も思うのです。
天の父の子である者は、子ひつじ🐑のように素直で従順でいたいと、この山羊達を見て思わされます。

ドルカス   

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