ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

おはようございます

2019年09月29日 | 派遣
9月第5週の主日礼拝です。


今日は特別会議室です。オンライン配信できます。皆さま是非ワインとパンを用意してくださって、お待ちくださいね〜


間も無く始まります。
の予定がトラブル発生。途中から動画撮影iPhoneを、私のiPhoneと変えて配信でした。

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9月が過ぎ去ります

2019年09月29日 | 食べる
月一回のお弁当作りを、Facebookアップしたら、結構豪華に見えるけど



実はいても同じね〜
卵焼きとプチ🍅が彩り良いかと、自己満足。

そろそろと暖かランチに切り替えだけど
勿論本人が。Amazonで見つけてくれたサーモスランチポット。半値に魅了して決めてもらったけれど〜見映え良くないね〜


帰って来て、聞いてみた。
「食べにくかったでしょ?」「う〜ん。、でもあったかなご飯は最高だな」そう^_^良かった〜

今月最高の夕食メニューは、特大ホッケの干物と、味噌汁と新米。これも加えてみた。

神さま感謝します。

ドルカス

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楽しく練習

2019年09月27日 | ゴスペル
既に2日前ですが
月に一度のPeaceful市川練習でした。



Iさんのお宅での練習は、礼拝が済んでから移動です。
今日はいつもに増してウキウキ〜なのは❗️



ケパさんは、いつもこのKaWAI電子ピアノお借りして伴奏します。

実は今日はeさんのお誕生日でしてね。
peaceful練習でお祝いしようと。



なんと、Iさんは、サンドイッチ用意してくださって、練習前のひと時は、HappyBirthday
を祝いました。それぞれ美味しくて、十分にお腹も満たされました。

練習は、来週の外部Jゴスペルでボランティアで歌う曲が中心ね



二時間程の時間ですが、お腹も、心も十分に満たされました。

ドルカス 








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本当に世の中、不平等?

2019年09月25日 | 信仰
私は現在、民間の某「放課後児童等デイサービス」施設(注 際下段に説明あり)にパートで勤めている。

私は二年間、障害児(現 特別支援)学級担任の経験がありながら、たくさんの障害児とふれあう機会がなかったので、今さらながらだが、一人として同じ障害がいないという障害の多様性に学ぶことが多い。

障害の多様性に目を見張り、その対応に取り組みながら、ふと「どうして神様、本人のせいではない(ある意味、不平等なとも思える)差を、この愛する子どもたちにお与えになったのでしょうか」と問うている自分が居た。

考えてみれば、何もこの子どもたちだけが不平等なのではない。障害だけではない、全てが不平等なのだ。豊かな家と貧しい家。I.Qの高い人と、低い人。背の高い人、低い人。顔の美醜。なぜか努力できる人とできない人。事故や犯罪に遭う人、病で早逝したり、天災で多くのものを失うこと・・・・と、キリがない。世の中、ほとんど不平等なのだ。

神は不平等を許されている。共産主義者たちは、この不平等に対してヒューマニスティックな平等の理想を掲げ、革命を起こした。しかし神ならぬ人間が作ったものは、国民を大虐殺し、閉じ込め洗脳する恐怖としか言いようのないサタン的な国だった。罪を自覚せず、神を否定し良かれと人間の考えで作るものには、恐ろしい罠が待ち構えている。

してみると、人の目にみえるのは確かに不平等かも知れないが、実はそれをはるかに超えた価値、真理がそこにあるからなのだ。例えば物が豊かであれば、イコール、幸福であるとは言えない。むしろ反対である。カンボジアの孤児院に一か月滞在して私が感じたのは、日本の子どもたちよりもはるかに幸せそうで、笑顔が素敵なことだ。

そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(ヨハネ9:39)

この世で富んで豊かな者、一見祝福されている人には、世に執着し、永遠の天への希望、真理がかえって見えにくくなっている。財産があるために、骨肉の兄弟が相争うようのと同じだ。

神が許されている不平等は、こう言っている。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)
  それならば障害のある子どもたちは、神の裁きから免れ、最初から祝福されている。素晴らしい。すべての不平等感が打ち破られていくではないか。


イエスは幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。(ルカ 18:16節)

ーーーーーーーーーーー
注)放課後児童等デイサービスとは?
法に基づいて、学校の放課後から夕6時過ぎまで、障害を持つ児童を預かる施設のこと。7年前から始まった。障害のある学齢期児童が学校の授業終了後や学校休業日に通う、療育機能・居場所機能を備えた福祉サービス。およそ十人までの小規模施設となる。


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礼拝の恵み

2019年09月23日 | 教会のこと
 地階音楽室では、録画して後で配信しか方法はないのですが、昨日はびっくり🙀
私のiPhoneが、3Gで棒が🤟3本立ってるよね〜



あれ〜❣️
Facebookビデオで、オンライン出来たのかな〜と惑わされる。いやいや😽それに挑戦して途中切れたらどうしようもない。慎重に祈って選ばなきゃと、思わされた。



聖餐のめぐみです。感謝

今日は、特別賛美で、一粒の麦でしたが、
別に示し合わせたのではありません、

聖書はヨハネ12:23-25
一粒の麦がもし地ち落ちて死ななければ、それは一つのままです〜〜豊かな実を結びます。



感謝しました。



ドルカス   





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22日礼拝

2019年09月22日 | 教会のこと



お早うございます。
今日の礼拝は、第2音楽室です

オンラインは出来ませんが、午後1時半過ぎごろには、配信をいたします


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なかなか〜良いよ

2019年09月21日 | 自然
最近ケパさんは、なかなかブログアップ出来ないですね。
かと言って私もカバー出来てません〜
ごめんなさい。

昨日は、普通救命講習を受講した帰り道、二駅間バスに乗り、途中下車して2キロ程を、海老川沿いに歩いて帰った。

支流の飯山満川。海老川沿いに歩くのは桜を愛でる頃以外ないけれど


サルスベリを見ながら、鷹匠橋迄到着。


最近仕事に行く近道を見つけて、この橋を利用する。
江戸時代は、この近辺では鷹狩りに、江戸から舟で来たらしいよ。


さらに空を見上げたら笑える^_^
ハトが、鷹の上にたむろしてる〜


この辺りのハトは、人が近づいてもギリギリ迄逃げない。



なんて思いながら、少し日差しが強かったけれど2キロ程散策しながら歩いた。
実は5キロ程の今日の会場まで、チャリ🚲で行こうと思ってね、結構な交通量の道を避けて涼しげな道も教えてもらったけれど、
丁度出る用事のケパさんが会場まで送ってくれたのね
帰りは時間が合わなかったこともあって
たまにはこんな散歩も良いかな〜

ドルカス   




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新米とホッケ

2019年09月19日 | 食べる
昨夜の夕飯。新米と、ホッケの干物。もちろん大根おろし付きね。(🍋あったらもっと👍) 



味噌汁は信州味噌で、大根と油揚げとネギ。キムチの漬物と、小松菜もポン酢をかけて〜

大型のホッケは、脂がのっていてたまらないね〜ケパさんと半身づつだから、大っきいよ。

子供の頃ホッケと言ったら塩ホッケ。
塩漬けされた干物〜
それを水の中で塩分を取り除き、煮物に入れたら、キュウリなどと酢の物にして食べて多ことを思い出しますが、
今のこの干物は、なんておいしく食べられるのでしょう。

更に新米。田舎にいた時は実家のお米を特にそれが何も考えず食べていた。ケパさんが信州は空気も水もいいから米も野菜も果物も美味いとと言ってくれる。ある程度の寒さもね。
今千葉に来て、お米は何を買おうかと悩んだ挙句、えい!


地元のお米だって美味しいお米あるはずと、あえて県米にしてる。田舎のお米はしっかりずっしりモチモチの米に対して
アッサリした米だけれど、
気に入って購入するのが「長生米の長生美人」
収穫は8月下旬なのだろう。9月初めに購入したら既に新米。信州での収穫時期はも少し後ね〜

ドルカス   



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水曜礼拝

2019年09月19日 | 教会のこと
船橋教会の水曜日は、午後1時半から礼拝です。昨日もね、いつものように集まり、いつものように賛美し聖餐を受け、メッセージ。


オフィスでの礼拝となるので、賛美は少し控えめにね。
メッセージは聖書講解が多いですね。

聖書ヨハネの福音書9章3節から、
テーマを「神のわざ」を、メッセージでした。


昨日はいつもよりちょっと短め^_^でしたね。

その後にお掃除をして、しばらく休憩して、夕方からはスタッフ祈祷会、感謝と賛美連鎖祈祷と続きました。
週の真ん中の水曜日は、恵みの日です。

ドルカス   




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聖霊のバプテスマ

2019年09月16日 | 信仰
  聖霊のバプテスマについて、今回、メッセージに向けてさらに示されるよう祈ったりした。すると霧が少し晴れるような、そんな気づきや思いがいくつかあった。(風に揺れる木)


  バプテスマには明瞭に二つある。水のバプテスマと聖霊のバプテスマである。初代教会では、ペンテコステ以降、聖霊のバプテスマを受けていることが当然視されていた。見落としてはいけないことに、彼らはユダヤ人で全員、すでに神を信じていた者であったこと。特に弟子たちはイエスが神であることを告白し信じていたことである。つまりクリスチャンになっていた。聖霊のバプテスマと水のバプテスマを同一視される方は、この点を見逃している。(ヨルダン川のヤルデ・ニットの洗礼所で)
  そして今は使徒時代に危惧されていたように、水のバプテスマだけがほとんどで、聖霊のバプテスマは使徒時代の特別なこととされ、ほとんど顧みられなくなっている。そんなことは聖書にも載っておらず、これは信仰上の大問題である。


  さらに異邦人が信じた時、エルサレム教会や使徒は、単に水のバプテスマだけであることを明らかに危惧し、使徒を送っていた。または、会えば相手が聖霊のバプテスマを受けているかいないかは、ほぼ瞬時にわかったのだった。(※使徒8:5-17,18:24-19:6)

  聖霊のバプテスマは、どんな人にとっても人生最大の出来事である。完全に価値観が180度変わるのであるから。また変わっていなければ、それは聖霊のバプテスマとは言えない。世に属するものから神に属するものへ。疑い深い者から、確信を抱く者へ。それらは愛と光に包まれ、魂が揺さぶられる感動と、まさに神は生きておられたという喜びの歓喜の中で注がれ満たされた個人的な体験なのである。

  聖霊のバプテスマを受けた人には、異言や預言、癒やしなどの聖霊の賜物がしるしとして現れるが、それらは本人を通しての神の霊の現れであって、事の本質ではない。

  注意すべき事だが、もし、聖霊のバプテスマを求めている人の中に、心の内底に聖霊の賜物が欲しくて願っている気持ちが少しでも混じっているとすれば、あくまで個人的な見方であるが、それはどんなに願ったとしても、そのままでは与えられないと思う。なぜなら信じてピリポに従っていたサマリヤの魔術師シモンと、それは大して変わらないからだ。

  聖霊のバプテスマはあくまで神の主権で注がれるもので、権威ある指導者や高名な牧師に祈ってもらったからといって、それは必ず受けられるものではない。神からのものを「あなたは受けています」と人に過ぎない存在が断言できるはずもない。受けたかどうかは、これほど大きなことが本人にハッキリわからないということは決してない。
  ではどうしたら受けられ、注がれるのか? そんなことが人間の私に答えられるはずがない。ただ、その証によって知るのみだ。ある方は信仰書を読んでいて、ある方は自分の罪に打ちひしがれ、生きる希望を失ったその時に、とさまざまだ。
  共通しているのは、自分というものを知り、自分に死にかけていたことだろうか。神がその人の中で、真に主に譲り渡された、その時と言うべきだろうか。しかしそれは己の力でできることではないから、まさに神の時になのだろう。


  聖霊のバプテスマは私はエデンの回復だと思わされている。神様との日々の交わりがその本質で中身である。それ以降、聖書を開けばわかるが、御言葉が聖霊様としか思えない解き明かしに驚く。また神の愛が骨身にしみ、この方の愛に何としてでも応えようとする自分がいて、その自分に対し世のブレーキはもはや効きめ目がなくなっている。私が子であって天の父、子とされるための十字架のあがない、いつも私の中におられる助け主、めくるめく愛の日々である。

  親しく交わるので、当然ながら御心が少しは感じられるようになる。預言や癒やしは、基本、自分の意思で行うものではなく、神の御心である。それが成就するのは当然であって、単に自分の口や手は神から来たものを言葉にしたりするホースという管に過ぎない。バプテスマのヨハネが言った通り、神から来るのでなければ、何も私たちは出来ないのである。
"ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。"   (ヨハネの福音書 3章27節 新改訳©2017)
  聖霊のバプテスマを受けて、人は真の献身者となる。はっきりしないという意味で、得体の知れない相手に自分を献げることは、かなり困難なことだからだ。献身の動機は神への愛である。愛は交わりの中でさらに強くされ、揺るぎないものとなっていく。聖霊のバプテスマとは、何という祝福であろうか!これは永遠の祝福である。




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