聖霊のバプテスマについて、今回、メッセージに向けてさらに示されるよう祈ったりした。すると霧が少し晴れるような、そんな気づきや思いがいくつかあった。(風に揺れる木)
バプテスマには明瞭に二つある。水のバプテスマと聖霊のバプテスマである。初代教会では、ペンテコステ以降、聖霊のバプテスマを受けていることが当然視されていた。見落としてはいけないことに、彼らはユダヤ人で全員、すでに神を信じていた者であったこと。特に弟子たちはイエスが神であることを告白し信じていたことである。つまりクリスチャンになっていた。聖霊のバプテスマと水のバプテスマを同一視される方は、この点を見逃している。(ヨルダン川のヤルデ・ニットの洗礼所で)
そして今は使徒時代に危惧されていたように、水のバプテスマだけがほとんどで、聖霊のバプテスマは使徒時代の特別なこととされ、ほとんど顧みられなくなっている。そんなことは聖書にも載っておらず、これは信仰上の大問題である。
さらに異邦人が信じた時、エルサレム教会や使徒は、単に水のバプテスマだけであることを明らかに危惧し、使徒を送っていた。または、会えば相手が聖霊のバプテスマを受けているかいないかは、ほぼ瞬時にわかったのだった。(※使徒8:5-17,18:24-19:6)
聖霊のバプテスマは、どんな人にとっても人生最大の出来事である。完全に価値観が180度変わるのであるから。また変わっていなければ、それは聖霊のバプテスマとは言えない。世に属するものから神に属するものへ。疑い深い者から、確信を抱く者へ。それらは愛と光に包まれ、魂が揺さぶられる感動と、まさに神は生きておられたという喜びの歓喜の中で注がれ満たされた個人的な体験なのである。
聖霊のバプテスマを受けた人には、異言や預言、癒やしなどの聖霊の賜物がしるしとして現れるが、それらは本人を通しての神の霊の現れであって、事の本質ではない。
注意すべき事だが、もし、聖霊のバプテスマを求めている人の中に、心の内底に聖霊の賜物が欲しくて願っている気持ちが少しでも混じっているとすれば、あくまで個人的な見方であるが、それはどんなに願ったとしても、そのままでは与えられないと思う。なぜなら信じてピリポに従っていたサマリヤの魔術師シモンと、それは大して変わらないからだ。
聖霊のバプテスマはあくまで神の主権で注がれるもので、権威ある指導者や高名な牧師に祈ってもらったからといって、それは必ず受けられるものではない。神からのものを「あなたは受けています」と人に過ぎない存在が断言できるはずもない。受けたかどうかは、これほど大きなことが本人にハッキリわからないということは決してない。
ではどうしたら受けられ、注がれるのか? そんなことが人間の私に答えられるはずがない。ただ、その証によって知るのみだ。ある方は信仰書を読んでいて、ある方は自分の罪に打ちひしがれ、生きる希望を失ったその時に、とさまざまだ。
共通しているのは、自分というものを知り、自分に死にかけていたことだろうか。神がその人の中で、真に主に譲り渡された、その時と言うべきだろうか。しかしそれは己の力でできることではないから、まさに神の時になのだろう。
聖霊のバプテスマは私はエデンの回復だと思わされている。神様との日々の交わりがその本質で中身である。それ以降、聖書を開けばわかるが、御言葉が聖霊様としか思えない解き明かしに驚く。また神の愛が骨身にしみ、この方の愛に何としてでも応えようとする自分がいて、その自分に対し世のブレーキはもはや効きめ目がなくなっている。私が子であって天の父、子とされるための十字架のあがない、いつも私の中におられる助け主、めくるめく愛の日々である。
親しく交わるので、当然ながら御心が少しは感じられるようになる。預言や癒やしは、基本、自分の意思で行うものではなく、神の御心である。それが成就するのは当然であって、単に自分の口や手は神から来たものを言葉にしたりするホースという管に過ぎない。バプテスマのヨハネが言った通り、神から来るのでなければ、何も私たちは出来ないのである。
"ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。" (ヨハネの福音書 3章27節 新改訳©2017)
聖霊のバプテスマを受けて、人は真の献身者となる。はっきりしないという意味で、得体の知れない相手に自分を献げることは、かなり困難なことだからだ。献身の動機は神への愛である。愛は交わりの中でさらに強くされ、揺るぎないものとなっていく。聖霊のバプテスマとは、何という祝福であろうか!これは永遠の祝福である。