感謝と賛美のこの群れに居て、マーリン・キャロザース、この人を知らない人はいないだろう。しかしマーリンさんの説く真の感謝を受け取れていなかったのは、私だけのことだろうか?(マーリン・キャロザース)
黄色いこの「讃美の力」は、以前も読んでいたはずなのに、今回調べごとのついでに再読して、驚いた。私は全く分かっていなかったのだ。正確に言うと知的に、上っ面だけ理解していた。(マーリン・キャロザース著「讃美の力」生ける水の川出版)
これは聖書の次ぐらいに重要な本である。よく「感謝とか讃美は霊的なもの」と言われる訳も分かった。例えば「感謝します」だが、この群れでは「悪いことにも感謝する」、一見信仰的な対応であるが、私はたとえ悪いことであっても、感謝すれば、その先に神の素晴らしい祝福が来るので、感謝していたのだった。
しかしこれは、本当には感謝していないと言える。なぜなら私は神様と取り引きをしていたからだ。「感謝するから、その見返りをよろしく(^-^)」と。これは決して報われないとマーリンさんは断定する。取り引きであって真の感謝ではないし、そんな取り引きに神は応じない。
ただ、あるがままを感謝する。何の願いも含みもなく、それ自体を神が許されていることを心から喜び、感謝する。賛美する。ほめたたえる。これが真の感謝であり、私は出来ていなかったのだ。
この感謝の土台は、どれほど自分が罪人であり、福音がどれほどの恵みであったか、思い知ることによる。だから極めて霊的なのだ。悪霊は真の自分の姿を偽らせるからだ。典型例はエバに向かってヘビが言った、自分にとって良いと思えるものは取れ、だ。自分を高め、良くしたいがために、私たちは罪に墜ちるのだ。感謝も、結果として自分を良くしたい、それが含まれてはならない。
だから過ちに目が覚めて思う。ただただ感謝しよう。病が、あるいは経済が、何がどんなになったとしても、救われ永遠のいのちを与えられた恵みには、取るに足りないものである。死さえも、ようやく天に行け、主とお会いできる喜びに満たされる瞬間である。感謝して、その後何か事態が好転したとしたら、それは単に結果に過ぎない。
たとえ私が千人の人を救い、万人の人を癒したとしても、それは私の手を通して働かれた神の働きである。管に過ぎない私はひとりの人も救っておらず、ひとりの人も癒してはいない。すべては神の栄光と力である。ただ主をほめたたえる。何という恵みだろうか。
"いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。"
エペソ人への手紙 5章20節
ケパ