ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

自分で作る〜

2017年01月31日 | 食べる
ケパさんの料理したい〜作るぞ〜

第三弾は、
今日突然に始まり(先日豚肉を購入もしてあったので)これでした。


「トンカツ」です。「うまい〜自分で作るのは最高〜〜」

確かに❣️美味しかったです。

今日の助手は、キャベツの千切り‥‥

ドルカス



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夕暮れ景色

2017年01月30日 | 自然
船橋でも私の住んでいる所は、汽笛が聞こえるくらいの湾岸部だ。東京湾の最北部にあたる。ここにはいつも南風が吹き抜け、その潮風でアルミサッシの腐食が激しい以外、実に温暖で晴れの日が多く、最高に暮らしやすい所のように思う。いつも霧や雲に遮られて日が射さず、底冷えがした故郷、安芸(広島県の西半分)の山間部に比べれば特にそう思う。(これは1週間まえのもの)

それで、冬でも陽光まばゆいこの地の夕暮れ景色を披露したい。(これは昨日)

今度近くの三番瀬まで行って、富士山を見たいと思うが、とりあえず自宅から撮ったものをどうぞ。



ケパ



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1月第5週の主日

2017年01月29日 | 教会のこと
礼拝が始まります。

司会はM姉

わっ大変です。
礼拝の始まりが映像に入りませんでした。
大変失礼しました。ごめんなさい。

聖餐式です

預言を取り継ぐケパ牧師です

さらにメッセージは

ホワイトボードを使って、聖書を開きます ガラテヤ 5:16 から
テーマは「御霊によって歩みなさい」

ホワイトボードには、9つの御霊の実が描かれてます。🍎🍎🍎‥‥‥
ドルカス



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穏やかな夕暮れ時

2017年01月28日 | 自然
既に夕暮れ時は過ぎましたが、

今日も穏やかな陽射しで気持ちが良かったですね〜

という私は朝から頭が重く、ズキンズキンと偏頭痛で一歩も外出せず、ベランダの花を愛で、外の陽気を感じてました。


小さな鉢植やプランターなので、乾燥要注意。すぐに水分不足になって鉢が乾いてしまう。

室内でも注意深く少な目の水やりだった信州では考えられない。

もっとも、室内以外に咲く花は見れなかったね。早くても、雪を避けた陽だまりに芽をだした福寿草の黄色の花を見つけ喜んでた。

今思うと、ケパさんに船橋での牧会が示されたのは寒がりの私にはHappyな事。

大寒の今時期に、北は北海道から西は九州長崎まで、雪が降る今の時期に、暖かさを競うのは、千葉!高知!宮崎!(沖縄は別格ね)ですね。

信州では激寒の時期も過ごせたのに、こちらに住むようになって、寒さが身に染みるのは贅沢ね〜〜

ナスタチュームのこぼれ種。芽を出すのは早すぎない?とつい声かけてしまった。


ですからこの恵みは、主のあわれみと、愛の他にはないと。 ハレルヤ〜
主を崇めます。主に感謝します。

ドルカス



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五十肩と老いと希望と

2017年01月27日 | 健康・スポーツ
一ヶ月以上も前から、右肩に痛みを覚えるようになった。テニスで高めに弾んで来たボールを、さらにドライブで打ち返そうとした瞬間、突然だった。いつもなら難なく打ち返せるそのショットが、痛みのために、ただ当てるだけのヘナヘナショットに。不思議なもので、高めのフォア(右)へのショットだけが痛くて打てない。別に寝違えた記憶もないし、原因がわからず、これは単なる「筋肉痛だ」と思い、しばらく様子を見ることにした。(この手の高いショットが痛くて打てない!)

しばらくして良くなるどころか、最近異変が起こるようになった。冷え込んだ朝方、右肩に痛みを感じて目がさめ、それからおちおち寝れなくなったのだ。一週間我慢して、今日ようやく病院に行った。私が思ったような筋肉痛ではなくてその一種、「肩関節周囲炎」という病名、早い話が五十肩なんだそうだ。突然やってくる症状で、それがずいぶん遅れ、早期高齢者になってやって来たようだ。それで人並みに「老い」を意識させられた。(処方された湿布薬と塗り薬)

テニスをしていて、50歳までは何の衰えも感じなかった私だが、歓迎していないのに、衰えのスピードは少しずつ加速度を増して行くようだ。最近若い人と勝負すると、配球や戦略面で活路を見出しはしても、フィジカル面(強打)で押し切られてしまうケースが出てきた。私の打球に威力がなくなり、打ちごろのボールになっているようである。以前にはなかったパターンで、正直、少し悔しい思いがする。

人は必ず老いる。また今までたくさんの方の葬儀を見て来た。血肉の命ある存在は、必ずそれを失うのである。もし神を信じず、肉体の命と共におしまいだと思っていたとしたら、死はどんなに怖い所だろう。
ところがクリスチャンは十字架を信じており、罪が赦され、永遠のいのちの「神の国=天国」への希望に満ち溢れている。肉体の死は、かえって罪の縄目からの解放であり、むしろ喜びの日でさえある。
神の国で主とお会いし、罪も苦しみも解放され、慰めを受けるのである。そして新しく、朽ちない体を与えられるのだ。だからクリスチャンは老人になるとますます希望に燃え、体の衰えに失望しない。

ケパ




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映画「沈黙-Silent」の最終感想

2017年01月26日 | 映画•映像

あなたはスコセッシ監督の映画「沈黙ーSilent」を観ただろうか?
この映画は日本の17世紀、過酷なキリシタン弾圧を描いた遠藤周作「沈黙」の映画化である。原作を忠実に描いた本作品には、人間がなしえる究極の……苦渋の中での《愛》が描かれている。

理解するために、典型的な型を三つ置いてみたい。判断するのは日本に使命を帯びてきたポルトガルの司祭である。
①司祭は捕らえられ、棄教するよう拷問を受ける。
②司祭が棄教するまで、信徒が拷問される。
③司祭が棄教するまで、先に棄教した元信徒が拷問にされる。(謀りごととは知らず、牢の中で司祭として信徒たちを熱心に司牧する)

①の場合、殉教するのは本人の信仰次第である。
②では信徒なので、苦しみも天国への門と激励することができる。
③の場合、拷問の責め苦にすでに棄教してしまった信徒なので、本来なら所払いにならなければならないはずが、司祭を棄教させるための圧力として拷問されている。

③のこれが難問である。苦しみの余り、血肉の命を選んでしまった信徒を、誰が責められよう。それなのに死に至るまで苦しめられているのは、司祭が棄教しないためなのだ。彼らの命は、司祭が棄教するかしないかにかかっている。

遠藤周作はこの作品で本当に言いたかったことが、私はこの映画を観ることで分かったように思う。頭で想像して考えるのと、リアルな映像化されたシーンを通して考えるのとでは、理解の度合いが違ってくることを思い知らされた。
「たとえ命を失おうとも、キリストを否んではならない」とは聖書の教え(マタイ10:33)である。血肉の体をもってのこの世の命はせいぜい数十年から百年。しかし魂や霊のいのちは永遠である。だから①や②の殉教はキリスト教徒にとっては、最大の恵み、祝福である。実際多くのキリシタンは喜び賛美しながら殉教したのである。それが迫害者側の奉行イノウエサマを頂点とする役人たちに、理解はできないとしても読み取れないはずがない。それで迫害は「殺して除く」という処罰から、重だった信仰者を棄教させ、その恵み・祝福を奪うことが最も効果的な弾圧政策となっていった。(イッセー尾形扮する転ばせの天才奉行イノウエサマ)

③はその中でも最高の棄教方法である。なぜならキリスト教とは「愛」の宗教であって、キリスト自身が常に折りに触れ「神を愛し、自分よりも隣人を愛する」ことを説いていたのである。もし司祭が自分の殉教という恵みに固執すれば、そのために多くの人の命が犠牲になる。つまり、司祭の愛は失われる。棄教すれば、元信徒たちの命は助けられる愛は示されるが、司祭としての使命と信仰とが、また送り出した教会も大きな打撃を受けることになる。どちらを失う方に己をかけるべきか、まさに究極の選択が、「沈黙」のテーマである。(捕まった司祭、棄教を通詞に迫られる)

わたしはこの「沈黙」に言及する度に、当初の「『踏むがいい』は神の声ではない」とか、「これは神に聞き従っての日本渡航ではなかったのだから、神が沈黙されるのは当然だ」の見識が、実はステレオタイプの見方であったと思うようになった。
こうして何日も考えてみると、≪信徒を救うためにたとえ外見的に棄教したとしても、心の中の信仰は決して奪えない≫という原作や、スコセッシ監督の見方に、全面的にではないが、かなり同意する。 ケパ

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この桜は❣️

2017年01月25日 | 自然
名前を間違えてました。
正しく、この桜は、

🌸河津桜
伊豆半島の河津町が生まれ故郷。河津駅近辺の河口から河津川にそって「河津桜並木」が約3km続いて、おおよそ800本、町内には約8000本が咲くそうです。
早咲きオオシマザクラ系と、ヒガンザクラ系の自然交配種、この川沿いで原木が発見されたとか。濃いピンクの花びらが特徴で、開花期間が約一か月と長いという事。

その桜が、海老川沿いにもぽちぽちと咲き始めて楽しめる。
今朝は冷え込み厳しかったけど、また少し膨らんでる。
昼過ぎ時に自転車🚲で教会まで。最近は、この桜の下で立ち止まる事がしばしばです。

ドルカス



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 映画「沈黙」感想Part2

2017年01月24日 | 映画•映像
この映画について、付け加えたいことがあった。

一つには映画のラストシーンで、つまり主人公ロドリゴ(岡田三右衛門)の火葬シーンにおいてであるが、その遺体の両手のひらの中には、秘かに生涯握りしめていた十字架があった。このシーンは原作にはないもので、最後の最後にスコセッシ監督のはっきりした意図が込められている。
ドルカスが「あれはどう言うことか?」と後で聞いてきたので、「本人が握りながら死んで行ったのか、さもなくば女房が握らせたのだろう」と私は答えた。映画では意図的に無感動に女房が描かれていたが、おそらくそれは、合わせられた手の中の十字架がバレないための偽装ではないかと察せられた。

原作では次のようになっている。
ーーーもうこの国には聞いてくれるパードレが他にいないと、告解を求めるキチジローに対し、「・・・・安心していきなさい」とそれを与えたところからである。
自分は不遜にも今、聖職者にしか与えることができぬ秘跡をあの男に与えた。聖職者たちはこの冒涜の行為を激しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国今でも最後の切支丹司祭なのだ。ーーー

これをスコセッシ監督が映像化させると、この十字架を握りしめての火葬シーンということになる。このことは、何を意味しているのだろうか。
「どんなに迫害やその拷問で信仰を強制し、成功したかに見えても、心の中の信仰を奪うことまではできない」
というメッセージになるのではないか。

十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十

二つに目は「自分のためには死を恐れない」が、「自分が転ばないために、すでに転んだ元信徒が長い時間、穴吊りの刑で死ぬまで苦しめられる」ので、彼らの命を救うために不本意でも転ぶべきかどうか」である。これは究極の選択とでもいうべきものである。
もしこれが「転んでいない信徒」であったなら、苦しめられようと共に天国を目指そうと、耐えることができるかもしれない。励ましあえるかもしれない。そういう意味では心の痛みをあまり感じないかもしれない。しかし転んだ信徒の場合はどうなのだろうか。これは難題である。

結論から言えば、血肉の人間は最後には必ず死ぬのである。血肉の体を失った霊のいのちとその行き先は、それよりさらに、はるかに重要である。とは言っても、血肉の命以上の価値を持っていなかった、信仰を失った元信徒たちにそれが届くかどうかは、大いに疑問である。

わざわざ宣教師に一定の期間、捕らえられた信徒を牢内で司牧させ、心の結びつきを与えた上での奉行イノウエサマの差配は、宣教師の使命である【愛】を逆手にとって棄教を迫る、実に狡猾な高等戦術である。血肉の命と霊のいのち、【愛】とは、どのようにして現され、伝えられていくのか?

「ただ形だけのことよ、軽く踏むだけでよい。そうすれば皆の者の命が助けられるのじゃ」役人のこの問いかけが、映画を観る者の心に迫って来る。神を知らず、神の裁きを恐れない血肉の命がすべての国だからこそ、目的のためには他の人の命をも利用して構わない発想が‥‥出て来る‥‥ことに、同じ日本人の末裔として心からの嫌悪を覚える。

このようなサタンの手に陥らないよう、全クリスチャンは前もって祈って行かなければならない。先ずもって、フェレイラが棄教のいい訳に利用した、「この国の民は、自分の命以上の価値を神に見出さない」‥‥確かにこの国のクリスチャンは未だにこの状態だと思われるので、そうならないように、信仰の油注ぎ、引き上げを祈りたい。主の十字架の信仰が大きく用いられること、これがポイントである。


ケパ







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今朝はホットケーキ

2017年01月24日 | 食べる
北海道の友人がfacebookにこの写真

今朝仕事に行く直前でしょうか、夜勤明けでしょうか。フロントガラスが凍りついて解けないと。ツキンと寒さが伝わる。
ごめんねぇ〜と、
船橋の恵みね。
冷え込んでもまず、零下になるのは珍しい湾岸沿い船橋。(身体は鈍るものでそれでも寒いと)部屋の陽射しの中に居たら気温の低さもわからず。
今朝は

久々にホットケーキを焼いて朝食した。
二日ほど前に、刻んだ煮リンゴをトッピングしたら、メープルシロップは必要ない。

その後のコーヒーのほろ苦さがまホッ❣️

ドルカス



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映画「沈黙ーsilent」感想

2017年01月23日 | 映画•映像
「拷問シーンばかり長くて、苦痛だった」という声を耳にしたが、実際に鑑賞してみると、それほどではないと私は感じた。長崎は西坂公園の「日本二十六聖人記念館」に行って、実際の資料を見る方がよほどきついと思う。

それはともかく、映画の第一感想はこれまで2回も触れてきた如く、知らない人たちが制作すると「やっぱりこんなもんだろうな」である。
(写真は同じ村人の海中十字架刑を見せられているシーン)

この映画は原作には忠実であると思う。映画と原作で、深刻な難題としているテーマである「神の沈黙」だが、ハッキリ言えば、神さまと霊的に交わったことのない、つまり真の神を知らない人たちの苦悩話である。そういうクリスチャンは、それまでもなかったし、この期に及んでも「神の声は聞こえずー沈黙」、にワザも起こらない、は当然ではないか。
ただ困ったことに、この国では、私自身も過去そうであったように、神は知っていても、神と直に交わったことのないクリスチャンがほとんどなのだ。聖霊なる神の力もわざも、聞き従っての召命も理解できないクリスチャンにとって、「血肉の命よりも霊のいのちを優先させる=キリストを否まない」殉教とはかくも深刻なテーマとなる。そうなることは分かるが、どうかすべての人が【聖霊のバプテスマ】を祈り求め、その恵みに与って欲しいと切に願う。

ケパ


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