第三弾は、
今日突然に始まり(先日豚肉を購入もしてあったので)これでした。
「トンカツ」です。「うまい〜自分で作るのは最高〜〜」
確かに❣️美味しかったです。
今日の助手は、キャベツの千切り‥‥
ドルカス
あなたはスコセッシ監督の映画「沈黙ーSilent」を観ただろうか?
この映画は日本の17世紀、過酷なキリシタン弾圧を描いた遠藤周作「沈黙」の映画化である。原作を忠実に描いた本作品には、人間がなしえる究極の……苦渋の中での《愛》が描かれている。
理解するために、典型的な型を三つ置いてみたい。判断するのは日本に使命を帯びてきたポルトガルの司祭である。
①司祭は捕らえられ、棄教するよう拷問を受ける。
②司祭が棄教するまで、信徒が拷問される。
③司祭が棄教するまで、先に棄教した元信徒が拷問にされる。(謀りごととは知らず、牢の中で司祭として信徒たちを熱心に司牧する)
①の場合、殉教するのは本人の信仰次第である。
②では信徒なので、苦しみも天国への門と激励することができる。
③の場合、拷問の責め苦にすでに棄教してしまった信徒なので、本来なら所払いにならなければならないはずが、司祭を棄教させるための圧力として拷問されている。
③のこれが難問である。苦しみの余り、血肉の命を選んでしまった信徒を、誰が責められよう。それなのに死に至るまで苦しめられているのは、司祭が棄教しないためなのだ。彼らの命は、司祭が棄教するかしないかにかかっている。
遠藤周作はこの作品で本当に言いたかったことが、私はこの映画を観ることで分かったように思う。頭で想像して考えるのと、リアルな映像化されたシーンを通して考えるのとでは、理解の度合いが違ってくることを思い知らされた。
「たとえ命を失おうとも、キリストを否んではならない」とは聖書の教え(マタイ10:33)である。血肉の体をもってのこの世の命はせいぜい数十年から百年。しかし魂や霊のいのちは永遠である。だから①や②の殉教はキリスト教徒にとっては、最大の恵み、祝福である。実際多くのキリシタンは喜び賛美しながら殉教したのである。それが迫害者側の奉行イノウエサマを頂点とする役人たちに、理解はできないとしても読み取れないはずがない。それで迫害は「殺して除く」という処罰から、重だった信仰者を棄教させ、その恵み・祝福を奪うことが最も効果的な弾圧政策となっていった。(イッセー尾形扮する転ばせの天才奉行イノウエサマ)
③はその中でも最高の棄教方法である。なぜならキリスト教とは「愛」の宗教であって、キリスト自身が常に折りに触れ「神を愛し、自分よりも隣人を愛する」ことを説いていたのである。もし司祭が自分の殉教という恵みに固執すれば、そのために多くの人の命が犠牲になる。つまり、司祭の愛は失われる。棄教すれば、元信徒たちの命は助けられる愛は示されるが、司祭としての使命と信仰とが、また送り出した教会も大きな打撃を受けることになる。どちらを失う方に己をかけるべきか、まさに究極の選択が、「沈黙」のテーマである。(捕まった司祭、棄教を通詞に迫られる)
わたしはこの「沈黙」に言及する度に、当初の「『踏むがいい』は神の声ではない」とか、「これは神に聞き従っての日本渡航ではなかったのだから、神が沈黙されるのは当然だ」の見識が、実はステレオタイプの見方であったと思うようになった。
こうして何日も考えてみると、≪信徒を救うためにたとえ外見的に棄教したとしても、心の中の信仰は決して奪えない≫という原作や、スコセッシ監督の見方に、全面的にではないが、かなり同意する。
ケパ