阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

手洗い

2020-01-31 09:39:43 | 日記
コロナウイルスに関してテレビで専門家の話を聞いていると、まず手洗いだという。ウイルスは自分の手から鼻や口というケースが一番多いそうで、マスクより手洗いだという。もちろん、せきが出る人がマスクを着用するのはエチケットとして当然であろう。手洗いをしましょう。今回書きたいのはこれだけで、以下蛇足。


帰国者のうち検査を受けなかった2人が随分責められてるようだ。もちろん、これ以上ウイルスを持ち込まないようにする努力は大切だろう。できれば検査を受けていただきたいし、帰国者の相部屋が好ましくないのもその通りだろう。しかしその一方で、武漢から自力で帰国した人への検査は行われていないという報道もある。そして、運転手やバスガイドが感染した武漢からのツアーは大阪城や奈良公園の他にも各地を回っていて、大阪ベイエリアや心斎橋というからそのあたりの商業施設で大勢の人と接触したと考えるのが自然だろう。公共の公園などは場所を言えても、民間の商業施設の名前は公表できないようだ。しかし今のところ、大阪で大量の感染者という話は聞かない。すれ違ったぐらいでは感染しないということだろう。人から人へうつるといっても感染力はそれほど強くなく、重症者も高齢者や持病のある方に多いという。これはインフルエンザも同じことだろう。専門家の話を聞く限り、それほど大騒ぎしなくてよさそうだ。それに、ウイルスは既に日本に来ている。武漢からのツアーもこれだけではないだろう。2人だけを責めても仕方がないし、すべてを追跡するのは物理的に不可能だ。

フジテレビが呼んだ専門家は、日本人は手洗いの習慣があるから隣国のようには流行しないと、ちょっと大丈夫だろうかと思う発言をしていた。もちろん真偽はわからない。でも、今のところは、騒ぎ立てるよりも手洗いうがいマスクなど、インフルエンザと同じ対策が有効なようだ。

柳縁斎貞卯

2020-01-29 13:40:32 | 栗本軒貞国
昨日、広島市立中央図書館で見た「スクラップブック 文学」にあった記事に出ていた柳縁斎貞卯について書いてみたい。以前、柳縁斎貞国という記事を書いたが、今回は一文字違う貞卯のお話だ。

まずはスクラップ帳にあった記事を追って行こう。申込書に書いて記事の写真は撮影したけれど、これはメモ代わりという条件であってここに載せることはできない。短冊の所有者と発見者の住所氏名以外のところを書き出してみよう。このスクラップブックは誰が集めた記事かわからないが、広島の文学関係の記事が多数入っている。問題の記事は、紙名不明だが記事の上の余白に、61.3.29と日付のスタンプが押してある。

まず、主見出しは、

江戸末期の狂歌知る史料発見 

そして脇見出し、

広島の子孫宅 柳縁斎貞卯の短冊など300点 

とある。号は通常音読みであるから、貞卯は「ていぼう」だろうか。結構長い記事でまずはリードの部分を引用してみよう。

【呉】江戸末期から明治中期にかけて広島市で活躍した柳縁斎貞卯(一八三一~一八九九)が詠んだ狂歌の短冊、軸など約三百点が、子孫宅で見つかった。広島地方における江戸末期の狂歌の状況がほとんどわかっていなかっただけに、今回の史料発見で、広島地方だけでなく、狂歌の本場大阪とのつながりが、解明できるものとして期待される。

狂歌の本場大阪、というのは江戸狂歌の人が聞いたら怒るだろうけど、柳門という立場から見れば発祥の地は貞柳の大坂で良いのだろう。短冊の所有者である貞卯の子孫の住所は広島市内だが、冒頭に呉とあるのは、阿賀郷土資料研究会の会長さんが見つけたということで、呉発の記事になっている。その次の部分から本文を引用してみよう。

 貞卯は本名を渡辺彦助といい、薬問屋「竹野屋」を営むかたわら、和歌、俳かいをたしなみ、とくに狂歌に秀でていた。今回見つかった短冊は貞卯のものばかりでなく、芸州における狂歌の草分け芥川貞佐(一六九九~一七七九)の流れをくむ栗本軒貞国(一七四七~一八三三)のものも多数含まれていた。
 広島市が編さんした新修広島市史によると、町人文芸の一つ、狂歌は比較的早くから広島でもてはやされた。芥川貞佐が広めたもので、狂歌を志す人は貞佐の影響を受け、その高弟に栗本軒貞国がいる、と記述されているだけで、全ぼうはほとんどわかっていない。
 栗本軒貞国は初め柳縁斎を名乗っており、のち京都の家元から栗本軒をもらい、貞卯に柳縁斎の号を譲ったものとみられ、貞卯は貞国の高弟であった、と推定される。貞卯はのち、歌友社を結成、狂歌を広めた、と書いた文書もあった。

貞国の生没年は八十七歳説を採用している。貞国の短冊が多数というのはうれしい情報であるけれど、三つ目の段落はかなりいい加減なことが書いてある。まずは何回も出てくる京都の家元。貞国は柳門正統三世を名乗っていて自分自身が家元という認識であり、上方で柳門正統を名乗る栗派などから号をもらうということはあり得ないと考えられる。狂歌家の風の序文によると、貞国に栗本軒の軒号額を与えたのは堂上歌人の芝山持豊卿となっている。この京都狂歌の家元云々は、尚古を引用した芸備先哲伝を広島市史などの通史が引用したため多数の文献に書かれていて、その都度訂正していくしかない。

そして、貞卯が1831年生まれということであれば、33年没の貞国の高弟ということもまた、あり得ない。貞国と貞卯をつなぐ人物がいたはずだが、広島で柳門四世を名乗った梅縁斎貞風がいつまで活動したのか、私にはよくわかっていない。ちょっと気になるのは「熊野筆濫暢の記」(リンクはpdfファイル)に出てきた榊山神社拝殿の狂歌奉献額の記述(39ページ)。栗本軒貞鴻が嘉永五年(1852)に奉納したと額の末尾にあり、「栗本軒貞鴻は、狂歌で有名な芥川貞佐の高弟であり」と記されているが貞国はこの19年前に亡くなっている。何かの間違いかと思っていたけれど、幕末にも柳縁斎がいたなら栗本軒を名乗る人もいたのかもしれない。熊野町方面も調べてみないといけないようだ。歌友社は明治に入ってからだろうか。検索では出てこないようだ。

記事はこのあと、原爆投下時にこの短冊類は安佐南区佐東町中調子(記事には安佐北区とあるが佐東町は安佐南区。これは掲載当時の住所で昭和55年政令市が施行されてもしばらくは佐東町、高陽町などの町名が住所に残っていた。昭和62年住居表示が行われて佐東町は住所から消えることになる(広島市・廃止町名と現在の町の区域)。この記述によって、余白の日付スタンプの61は昭和61年とわかる。)の親せき宅に預けられ無事だったことが書かれていて、そのあとに発見者の会長さんのコメント、

「江戸末期に貞卯がいたことさえこれまで知られておらず、芸州藩における狂歌研究はほとんど行われていなかった。貞卯の文書などから不明な部分の解明のきっかけになるだろう」と話している。

と記事を締めくくっている。私もこの記事を見るまで貞卯の存在を知らなかった。今は貞国の狂歌をできるだけ集めて貞国という人物の全体像を明らかにしたいという方向性でやっていて、その周辺のことはまだまだ無知に近いということだろうか。なお、この記事には写真もついていて、

広島地方の狂歌史解明の手がかりとなる短冊

と説明がある。写真は短冊が扇状に並べてあって、下部には書状のようなものも見える。しかし、短冊が重なっている上に不鮮明で、貞国の知っている歌ならばとジロジロ見たけれど、読み取れる歌は無かった。一番上の歌は花という題で吉野で始まり、最後は貞卯と書いてあるようだが、全体は無理だった。左には貞国得意の五段に分けた書式で上に小さい字で数行題が書いてある短冊が半分見えて、貞国の歌ではないかと思うが、署名の部分は隠れていてこれも読めなかった。結構大きな記事でありながら、貞卯の歌が一首も紹介されてないのは少し残念だった。

それから、この記事を読んで気になったのは尚古の「栗本軒貞国の狂歌」に出てくる狂歌のことだ。最近は一度にたくさん貞国の歌を見つけるというのは難しくなってきた。そこで一度、貞国の歌の索引を作ってみたいと思うのだけど、そこで引っかかるのが出典が書かれていない尚古の歌は間違いなく貞国の作歌だろうかという点だ。貞卯が亡くなったのは明治32年、尚古はその9年後で、貞国の項を書いた倉田毎允氏は貞卯やその周辺へ取材をされたのかもしれない。尚古といえば、辞世狂歌碑を京都の門人360人が建てたという記述も、上記の上方の柳門一派との関係を考えると信じがたい話なのだけど、貞国が苫の商売で裕福であったとの話同様に、明治の弟子たちの伝承だったのかもしれない。尚古の歌は他の書物から貞国の作と確認できたものも多く、今のところはっきり間違っているという歌はない。しかし、一首ぐらい貞卯の歌が紛れ込んだりしてないだろうか、とは思う。

また、記事中にある狂歌が町人文芸の一つ、というのは上方や広島の狂歌を語る時には100パーセントその通りだろう。しかし、大ブームを巻き起こした天明の江戸狂歌を牽引したのは大田南畝という幕臣であり、昨日図書館から借りてきた「西国大名の文事」という本の中に、寛政の改革により武士が狂歌から手を引いたために狂歌の質が落ちた、との記述があった。この記述の真偽を判断できるほど、私はまだ江戸狂歌を理解していない。確かに狂歌を理解するには和歌など日本の古典文学に加えて漢籍の知識も必要で、私も漢文、特に朱子学の知識がないために理解するのに時間がかかった歌が何首かあった。今も私が意味が取れない歌の何割かは本説取りではないかと思われる。この点は朱子学を学んだ武士が有利と言えるだろう。南畝は柳門の祖である貞柳を「しれもの」と罵倒している。よく引用する小鷹狩元凱の著作でも、武家のざれ歌の記述はあるが町人の狂歌は出てこない。南畝などは町人と分け隔てなく狂歌連で活動しているように見えて、武家のプライド、江戸っ子のプライドというのは相当な物があるように思える。一方で貞国は、狂歌家の風に学問所と思われる学館、ものよみの窓の歌を二首残している。そして武家であったという私の母方の家に伝わる貞国の掛け軸は、中庸の一節を取り込んだ歌になっている。貞国は広島藩学問所と何らかの関わりを持って、漢籍も学んでいたのではないかと思われる。狂歌における上方と江戸、町人と武家との関係は、もう少し江戸狂歌も勉強した上で偏見を排して慎重に考えてみたい。

直接貞国の歌にはたどりつけなかったが、今回の記事は色々と参考になった。蔵書検索で柳縁斎貞卯と最初に見た時こりゃ間違いじゃろと思ったけれど、その知識の狭さが大間違いだった。今のペースではあまり範囲を広げ過ぎると難しい。それでも、貞国の周辺にもう少し目を向けないといけないという教訓だろうか。




一、明治三十四年
  九月、御代丸著の「狂歌獨稽古」上中下三巻及「丸派系譜」を発
  刊す。廣島の柳縁齋貞卯立机、我社これを補助す。

と出てくる。文献中に貞卯の名前を見つけたのは初めてである。上方の丸派とのつながりは明治になってからのものか、あるいは貞国の時代からあったのか。貞国辞世碑が京都の門人360人によって建てられたというのは、ひょっとすると丸派のことだろうか。なお、上の記事の通りだと貞卯は明治32年没で、既に2年前に没していたことになる。立机とはネットで引くと「宗匠立机ともいう。俳諧の宗匠となること」とあるが、没後のことだと意味が通らない。書籍検索でも立机披露などの言葉が出てきて、どうみても本人が生きている時のことである。記事の没年か年表の年代のどちらかが間違っているのだろうか。いや、どちらか少し間違っていたとしても、貞卯の立机としては遅すぎるだろう。これは貞卯の没後すぐに、同名で後を継いだ人がいたと考えるべきだろうか。


1月28日 広島市立中央図書館 「スクラップブック 文学」など

2020-01-28 20:52:32 | 図書館
 今年もシャレオの古本まつりに一度は寄りたい。市立図書館とセットで出かけることにした。いつもの12時41分の芸備線で出発、広島駅からバスで紙屋町で降りて地下に降りたら古本まつりのシャレオ中央広場、図書館を先にと思っていたけど目の前でやってるから寄ってみた。去年よりもお目当ての郷土関係が少ない気がした。しかし盛況でレジは10人ぐらい並んでた。広島県史の資料編が一冊千円で売っていて、しかし今買うと重たいから帰りにもう一度寄ることにしてシャレオの北の端から地上に出て、美術館前の観音様に、おんあろりきゃそわか唱えてから図書館の階段を上った。

まずは広島資料室、市立図書館の蔵書を「狂歌」で検索すると160件ヒットして、そのうちの150件目がタイトルの「スクラップブック 文学」で、内容一覧を見ると、

「江戸末期の狂歌知る史料発見 柳縁斎貞卯の短冊など300点(紙名不明 昭和61年3月29日掲載) 」

という記事が入っていて、これが検索に引っかかったようだ。柳縁斎といえば、栗本軒の前に貞国が名乗っていた号で、柳門の由縁斎貞柳→桃縁斎貞佐→柳縁斎貞国→梅縁斎貞風と続く、貞国にとっては柳門正統の号のはずだ。この見出しは貞国の間違いか。しかし江戸末期とあるから、別人だろうか。この記事を見ることが今回の一番の目的だった。広島資料室の司書さんにお願いして、書庫から出していただいた。

すると結構長い記事で、【呉】から始まるスタイルはどうも中国新聞ではないような気もする。そして短冊がずらりと並んだ写真があり、さすがに中の短冊は読めない。内容を読むと、天保生まれで明治まで生きた柳縁斎貞卯という人が確かにいらっしゃった。ここに書くと長くなるので、次の記事で書いてみたい。貞国の歌がごっそり出てくるのではないかと期待していたのだけれど、そこは空振りだった。しかしこの300点の中には貞国の短冊もあるということなので、どこかで見るチャンスがあるかもしれない。そして、今回も記事中に京都の家元から栗本軒の号を得たと出てきたのには笑ってしまった。

次は、千代田町史の近世資料編下を書架で探したがあるべき場所になく、また入りこむ隙間もない。別の場所にあるのかとまたさっきの司書さんに聞いたら、研究用としてカウンターに置いてあり、閲覧にも申込書が必要で、コピーにも制限があるという。コピーの場所を書いてもらってからコピーできるかどうか判断するということだった。この本は県立図書館では事務所に準備中となっていて、それでこちらに来たのだけど、閲覧に制限があるために準備中となっていたのだろうか。先に県立で聞いてみれば話が早かったのかもしれない。

その申込書とともに本を渡していただいて、狂歌の項目を見ると、いくつかの狂歌集からの抜粋は壬生連中の歌のみとなっていて、貞国の歌はなかった。麦縁斎貞二六という人が出てきて、しかし師匠格ではないようだ。この壬生狂歌連中は寛政七年までは貞国が指導したが、その後は桃柳斎貞玉が、しかしこの人が文化十年ごろ没したあとは衰退したとある。貞国の歌の部分は載せてなかったけれど、この千代田町壬生の井上家文書にも貞国の歌が眠っている可能性が高いことがわかった。コピーする必要はなく、申込書は閲覧に○をつけて本とともに返却した。

このあと参考閲覧室の書庫から二冊、「迷信の知恵」と「西国大名の文事」を借りて帰った。前者は昆布焼を書いた時に書籍検索したら我が家では「昆布を焼くと貧乏になる」と伝わっているものがこの本では「昆布を焼いて食べると天神様が泣く」となっていて、読んでみたいと思ったのだけど、半ページのその項目に大したことは書いてなかった。他の迷信の本も当たってみないといけないようだ。しかし迷信がたくさん書いてあっても「○○すると病気になる、死ぬ」というものが多くてあまり気持ちの良いものではない。私は紫の矢絣の風呂敷を愛用しているが、「矢ガスリが流行ると戦争が起こる」というのもあった。真似しないでいただきたい。後者は上記の検索結果160件の中にあったもので、たまには違う傾向のものも読んでみたいということで借りてみた。ぱらぱらめくったところでは漢詩漢文が多いようだ。

帰りに展示室でやっていた企画展「広島ゆかりの詩人たち -黒田三郎生誕100年-」を見た。肉筆の色紙など、見どころが多かった。その中に、障子紙のようなものに墨で書かれた詩の中に、三篠川の三文字が目に留まった。大木惇夫「流離抄」という詩で、「雄弁」昭和11年6月号に発表、その後第6詩集「冬刻詩集」に納められ、三滝に碑があるとあった。石碑ということならば探すのは簡単で、広島ぶらり散歩で続きの部分も見ることができた。「われを追ひけど」の部分がこれで良いのかなと思ったけれど、確かにそうなっている。詩の内容のように不安に流されてゆくような筆跡で展示ではラストの「こころなく 楫をとるのみ」の繰り返しの部分が印象に残った。三篠川に関していえば、デルタの入り口から江波まですべて三篠川という認識だったと思われる。三篠川について書く時に引用してみたい。

このあと再びシャレオの古本まつりに寄って、食料品の買い物もあるから広島県史は一冊が限度、Ⅲのお触書が入った巻にした。Ⅱの書状もまだ読んでないけれど、家に置いてすぐ見たいのはⅢかなと思って決めた。バスで広島駅に戻り買い物をして、16時5分の芸備線に間に合った。

栗本軒貞国の生没年

2020-01-27 11:33:35 | 栗本軒貞国
貞国の生没年は、年表などにこれまで何度か書いて来たけれど、ここで一度根拠を整理しておこう。

文献中に貞国の死が出てくるのは、伴村出身の医師で大和国で開業していた岡本泰祐の日記の天保四年(1833)八月九日の条に、

天満屋伝兵衛来る、鰯を恵む、芸州大野村大島屋書状を持来る、卯月八日認め、(中略)栗本軒貞国翁二月廿三日病死之事報来る (「沼田町史」の記述による)

「大野町誌」に名前が出てくる大島貞蛙は、大野村で貞国を師匠として活動した狂歌連「別鴉郷連中」の主要人物で、大島家文書には貞国の歌が多数伝わっている。そこからの書状ということになる。

また、尾長村(現東区山根町)の瑞川寺(現聖光寺)に門人が建てた辞世狂歌碑の左側面には、

天保四癸巳年二月二十三日没」 

また右側面には、

行年八十翁」 

とあり、岡本泰祐日記と同じ天保四年二月二十三日に八十歳で没したということになる。




次に没年齢が八十七歳のものを見ておこう。「廣島縣内諸家名家墓所一覽」には、

栗本軒貞國墓 (狂歌)称苫屋弥三兵衛       同市天神町
        天保四年二月廿三日歿年八十七      教念寺

とある。この本は出版年がわからないが、明治初年までの命日の記載がある。

また「尚古」参年第四号(明治41年) 「名家墳墓」 には、

     (百五十六) 栗本軒貞國
苫屋彌三兵衛と稱し廣島水主町に住す狂歌に巧妙なるを以て栗本軒貞國の號は京都狂歌の家元より受けたるものなりとぞ天保四年二月二十三日歿す年八十七本譽快樂貞國良安信士と謚し天神町教念寺に葬る墓石表面に合塔の二字を刻し両側面には文化八年閏二月七日とあるのみ蓋し其祖先の歿年月を記したるものなり (以上倉田毎允報)

栗本軒の軒号を貞国に与えたのは堂上歌人の芝山持豊卿であって、京都狂歌の家元とあるのは誤解であるが、この一文は芸備先哲伝を経由して様々な郷土史の通史に引用されている。この一文は「とぞ」で終わっているから伝聞情報なのだろう。ここで注目されるのは、お墓は先祖の墓で貞国の没年は刻まれていないとしながらも、命日や戒名を記していて、教念寺で過去帳のようなものを見て書いた可能性がある。すると、上の門人による命日とは別の出どころからの記述という事になり、両者で一致している天保四年二月二十三日という命日は信頼して良いのではないかと思う。八十と八十七と分かれている没年齢はどちらとも決め難い。この二説から生年を逆算すると、八十歳没だと宝暦四年(1754)、八十七歳没の場合は延享四年(1747)となる。

すると、「狂歌秋の風」に出てくる芸州広島の竹尊舎貞国の貞柳十三回忌追善の歌(延享三年)は貞国が生まれる前ということになり、別人ということになる。同じ桃縁斎貞佐の広島の門人、そしてこの追善歌は狂歌秋の風の中でも一部の門人だけが詠んでいて、竹尊舎貞国は貞佐の重要な門人であったと思われる。それと同じ号を使うということは、二人の貞国の間に何か縁があったのだろうか。このあたりの前後関係は、年表にまとめてあるので、そちらも御覧いただきたい。

それに関連して、福井貞国の貞国というのは柳門の貞の字を許された号のはずで、また苫屋彌三兵衛というのは屋号である。貞国の本当の名前というのはまだ見たことがない。「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」には道化という号も出てくるのだけど、これも文献では見たことがない。しかし、文書に押された印にはそう読めそうなものもある。

貞国のお墓があった教念寺は天神町というから今の平和公園のあたり、上記の過去帳については悲観的に考えていたけれど、天神町の被爆状況の中に教念寺は原爆投下までに建物疎開していたとの記述があった。ひょっとしたらこの過去帳は無事だったかもしれない。中区羽衣町にある同名のお寺に、機会があればお伺いしてみたいと思っている。



夜鷹そばうり

2020-01-25 10:16:20 | 狂歌鑑賞
南畝を続けて読むのも早くも飽きてきた。ここでちょっと寄り道したい。

人倫狂歌集に夜鷹そばうりと題した歌が挿絵の歌も含めて十八首、この歌集はグーグル書籍検索で出てくるのだけれど、素性がよくわからない。挿絵の歌の作者、六桃園徳若は文化年間に活躍した人のようだ。この本は他のグーグル書籍とは順番が逆になっていて、下から上につながっている。したがってリンクのページから上に向かって、

 三十三丁裏 夜鷹そばうりの題と歌十一首
 三十四丁表 挿絵と歌一首
 三十四丁裏 夜鷹そばうりの続きの歌五首とあまさけ売の題と歌六首

となっている。下から上にスクロールして読んでください。読みに自信がないのが数か所あるのだけれど、とにかく夜鷹そばの歌十八首ならべてみよう。なお、作者名は読めないものもあり整理がついていないため省略とさせていただきたい。

  (三十三丁裏)

          夜鷹そはうり  

  風鈴の聲もしくれのよそはうり軒端に近き音たてゝゆく

  はなのさき落るやうなるさむさには夜たかそはさへ恋しかりけり

  かひ手よりおのれの腹をぬくめ鳥銭をつかみし夜たかそはうり 

  かさのあるよたかそはとてもりよりもはなからかけをたのむ折助

  風鈴の音に戸口へ出てみれは横町へそれし夜たかそはうり

  まへ髪をおろし大根の青やらうとかく夜たかのそはをはなれす

  よたかてふ名のそはうりてふる雪にゆきゝの人の腹ぬくめとり

  ひけ四つのかねより後は人通りきれてもあちのよきよたかそは

  おもき荷はとくうり切て夜やさむきふるうてかへる風鈴のそは

  雪風のさむさしのきは夜たかそはしらふのはらもあたゝめてけり

  よたかてふ名のつけはとてそは切の大根からみもはなへぬけたり

  (三十四丁表) 挿絵

  風鈴の音はかりかは人もみな舌をならしてくふ夜たかそは

  (三十四丁裏)

  冬なから夏のことくにあたゝかきそはにそしるき風鈴の音

  星ならて雪から出たる夜鷹そはしのゝめの頃荷もあけにけり

  名にしおふ夜たかそはとて是も又やはりこふしにすゑてこそ出せ

  一つかみもりて出しゝよたかそははしをうこかす處もみえけり

  さむき夜にねもせてまては二八にはねのなつてある風鈴のそは

  
ざっと見てまず目につくのは風鈴だろうか。ネットで調べてみると、夜鷹そばに対抗して風鈴そばが登場して、夜鷹そばより衛生的で少し高級、値段も高かったようだが、夜鷹そばも風鈴をつけるようになり、区別できなくなったとある。この十八首をみても、夜鷹そばと風鈴そばを別のものとした歌はなく、風鈴と夜鷹ともに入った歌が二首ある。この狂歌集の歌が詠まれたのはおもに文化年間以降と思われ、また守貞謾稿にも、

「江戸夜蕎麦ウリノ屋體ニハ必ス一ツ風鈴ヲ釣ル」

とあることから、江戸後期にはどの夜蕎麦屋台にも風鈴があったようだ。

次はメニューが気になるところだが、四首目の折助の歌に「もり」と「かけ」が出てくる。折助とは武家で使われる下男のことを言い、折助根性という言葉があるようだ。この歌では、最初から嵩(かさ)のある「かけ」と決めているのが折助根性ということなのだろう。また十七首目も「一つかみもりて出しゝ」とあって、夜鷹そばのメニューに「もり」は確かにあったようだ。ここで気になるのは、この十八首の大半が寒い冬の夜の歌なのに、冷たいもりそばを食べたのだろうか。江戸っ子が熱い風呂に我慢して入るのと同じように、いやその逆と言うべきか、雪が降る屋外でやせ我慢して冷たい蕎麦を食べたのかと思った。しかしこれは間違いで、当時は蕎麦を水でしめることはしないで、もりも温かい蕎麦だったようだ。また、二首に出てくる大根おろしも定番の薬味だったという。このあたりは、ネットで検索すると蕎麦研究家の詳しい記述が読める。先に登場したのが「もり」であるとか、知らない事が多かった。

「夜鷹そば」の縁語で面白いのは二首に出てくる「温め鳥」、これは鷹が冬の寒い夜に捕まえた小鳥で足を温めて、翌朝放してやり、飛び去った方向へその日は行かないといい、冬の季語となっている。また、十六首目の「こぶしにすゑて」も、鷹匠が鷹をこぶしに据えることをいっている。

また、夜鷹といえば、上方狂歌では辻君とあった、夜道に立って客を誘う娼婦のことだった。六首目の前髪をおろし大根の青野郎が夜鷹のそばを離れないというのは、この夜鷹をかけているのだろう。十一首目は夜鷹という名といいながら、大根のからみが鼻に抜けたとの関連がはっきりしない。これもこちらの夜鷹だろうか。はな散る、はなが落ちる(追記:二首目がこれに当たるのを書き漏らしていました)というのは、夜鷹にかかわる病気として出てくるのだけれど、はなへ抜けるも同じ表現なのかどうか、よくわからない。

前に書いた狂歌家の風の二八の君の回では二八蕎麦は有名だから楽勝かと思ったら調べるのに結構苦労した。このような類歌を先にまとめて読んでおけば良かったと思う。この狂歌集は面白そうな職業、また職業ではないが人を指す題がたくさん、ぢぢ、ばば、に始まって、口寄せ、ちんこきり、と出てきてびっくりしたが、これは賃粉切り、たばこの葉を刻む職業だそうだ。日なし貸し、という高利貸しも出てくる。時代や撰者がわからない狂歌集ではあるが、ぼちぼち読んでみたいと思う。


【追記】方竟千梅「篗纑輪」(宝暦三年刊) の鷹の項に、煖(ぬくめ)鳥についての記述がある。引用しておこう。

「煖鳥ト云ハ鶻(コツ)ト云鷹ニノミ有リトソ 此鷹小鳥一ツヲ捕エ夜中之ヲ以 足ヲ煖メ暁ニ至リ ユルシ放ツ 其小鳥東ニ行ケハ其日東ニ行テ鳥ヲ取ラズ西ニ放レ行ケバ西ニ行カズト云〻 凡鷹ハ性強悪ニシテ友禽ヲ食フ サレトモ天性義有テ寝鳥ヲ不取 胎(ハラメル)モノヲ不取 モシ胎鳥ヲ取ルトイヘトモ不殺シテ放チヤルト云〻」


(ブログ主蔵「わくかせわ 下」59丁ウ・60丁オ)

鶻は、はやぶさ、あるいはくまたかの訓があるようだ。鷹は性強悪だが義を持った鳥という認識だったようだ。


大さかつき

2020-01-20 10:22:24 | 栗本軒貞国
今日は内海文化研究紀要11号に写真が載っていた貞国の懐紙(永井氏蔵)について、この歌は狂歌家の風の「ゆく年」の回の追記に一度は書いたのだけど、今読んでいる南畝に武蔵野の類歌があり、こちらに独立して書いてみたい。それでは歌を見てみよう。



      酒百首よみける中に
      秋の部 月を

  其名にし大さかつきの影さしてはら一はいにみつる武蔵野  柳縁斎貞国


寛政年間の終わりに栗本軒の号を得る以前の柳縁斎の時代の作である。初句の「名にし」のところは写真だと「なかし」にも見えて中々意味が取れなかったが、「狂歌ならひの岡」に、


       晴天旅          林端 

  やつの詠めなにしあふみの旅路にもひとつはかけし唐さきの景 


という歌があり、「大さかつき」の「大」までで「その名にし負う」と続いていることにやっと気づいた。しかし、その名を背負った大さかづき、とはいかなる意味なのか、ここも時間がかかったが、調べていくうちに武蔵野杯という大杯があることがわかった。これは大杯を「野見尽くさぬ(飲み尽くさぬ)」と洒落て武蔵野と呼んだもので、「西鶴織留」には、

「此の御坊酒ずきとみえて、杯小さきをなげき、「我常住のたのしみに是れを飲むより外はなし。昔上戸ののみつくさぬとて名を付けし、武蔵野といふ大盞(たいさん)はないか。」といふ。」

とある。また、狂歌肱枕(明和四年)に武蔵野と大盃の入った歌があった。


         野      韓果亭栗嶝

  すつと出た大盃の月影も千畳敷と見ゆるむさし野


ここまでをふまえて貞国の歌を見てみると、武蔵野という名前を背負った大杯で呑んで腹一杯満ち足りた、そして、大杯のような満月の光がさして武蔵野の野原いっぱい見通せる、という構成になっている。どちらかといえば前者の酒と大杯が主役だろうか。名にし負う、月、原、武蔵野という縁語を軽快に駆使した貞国らしい一首と言えるだろう。

さて、ここからは「ゆく年」の回にも書いたのだけど、当時の武蔵野という言葉のニュアンスについて考えてみよう。貞国が詠んだ武蔵野が入った歌を列記してみると、


  武蔵野の秋の外にもゆく年の尾花に師走の月は入けり  (狂歌家の風)

  七草にかゝめた腰をけふは又月にのはするむさしのゝ原  (同上)

  むさし野もなとか及はむ空々と真如の月のすめる此はら  (狂歌桃のなかれ)


三首目は大きなお腹の布袋様の挿絵があり、「此はら」は原と腹がかけてある。あとで引用する南畝の歌をみると二首目の「のばす」も武蔵野の縁語かもしれない。この貞国の歌に限らず、上方狂歌で武蔵野と出てくると、どこかのだだっ広い野原みたいな、武蔵野自体はそれほど重要ではない付け足しのような歌が多い。山間に住む人間が広い関東平野の真ん中に置かれた時に感じる疎外感なのか、天明の江戸狂歌に対するコンプレックスなのか、あるいは単なる字数合わせで武蔵野はどうでもよかったのか。次に、大田南畝の蜀山百首から、武蔵野の歌を見てみよう。


  春がすみたちくたびれてむさし野のはら一ぱいにのばす日のあし

  鎌倉の海よりいでしはつ鰹みなむさしのゝはらにこそいれ

  花すゝきほうき千里のむさし野はまねかずとてもたみのとゞまる


三首目は詩経の「邦畿千里 維民所止」によっていて、武蔵野の縁語である花ススキから「ほうき(邦畿=王城の地)」そして詩経の文句の「民の留まる」と続けている。見比べてみると、縁語の使い方、武蔵野の広さを詠むいうのは貞国の歌と変わらないように思える。しかし一首目などはしっかり武蔵野が主役であって立ち疲れて足をのばす、そして夕陽の日の足が武蔵野の野原いっぱいにのびている、と詠んでいる。同じ武蔵野と腹一杯を使っていても江戸っ子の南畝に一日の長があるようだ。いや、有名な初鰹の歌よりも貞国の布袋さんの歌の方が面白いと思うし、南畝や朱楽菅江の上方狂歌批判に同意はしないけれども、やはり上方狂歌の武蔵野は、少しアウェイ感というか他所事になってしまっているだろうか。

それでも、最初の貞国の歌は貞国らしい一首だと思う。しかし、栗本軒の軒号を得て狂歌家の風を出版するその直前の時代の作でありながら、狂歌家の風にこの歌は入っていない。理由はわからないが、この題材で勝負するのはよろしくないと思ったのだろうか。

昆布焼

2020-01-18 18:46:28 | 日記
父母どちらの家のじーさんばーさん共、昆布を直接火であぶるのは絶対ダメで昆布をストーブに近づけるだけで激怒だった。貧乏になると言っていた。今考えてみると、おせち料理でも昆布は健康や繁栄の象徴であるから、それを燃やしてしまうのはタブーなのだろう。もちろん両親もそれに従って、我が家では昆布を焼くという料理は見たことが無い。

いや、よそでも見たことがなかったのだけど数年前、かき小屋に連れて行ってもらったら、牡蠣の昆布焼というメニューがあって、昆布を焼く料理をメニューとはいえ見たのは初めてだった。我々はそれを頼まなかったけど、じーさんばーさんが見たら激怒だろうなと思った。その時一緒に行った若い人に聞いたら、そんな話は聞いたことが無いとのことだった。

そしてつい今し方、両親が見ている料理番組にタラの白子の昆布焼が登場、湯通しした白子を昆布に乗せて、それをコンロの網に乗せた瞬間、両親が大ブーイング。まあ、我が家では当然の反応だろう。迷信といえば迷信なんだろうけど、祖父母も両親も激怒だったのだから、この先も昆布を焼いてみたいとは思わない。


【追記】書籍検索で「昆布を焼いて食べると天神様が泣く 」というのが出てきた。「迷信の知恵」という市立図書館にある本なので、読んでからまた書いてみたい。

【追記2】書籍検索では他にも昆布を焼くと、庚申さんが泣く、出世しない、貧乏する、などがあった。昆布と天神さんといえば天満の天神さん、昆布と庚申なら天王寺庚申堂と大阪あたりが出所かもしれない。図書館に無い本も多いが、一つずつ当たってみたい。

【追記3】 「迷信の知恵」には、「昆布を焼いて食べると天神様が泣く 」が半ページ書かれていたが、由来等の記述はなかった。しかし、北前船によって大阪に昆布の文化が生まれたという記述はヒントになるかもしれない。一度、天満天満宮と四天王寺の庚申堂を訪れてみたいものだ。

大田南畝「小春紀行」より 廿日市→広島城下→海田市

2020-01-17 21:36:36 | 大田南畝
二葉の里の七福神めぐりの回で道に迷いながらたどりついた岩鼻跡と言う場所について、南畝の小春紀行に記述があった。つい十日前に歩いた場所でもあり、引用してみることにしよう。南畝は文化元年に長崎奉行所に赴任、翌年十月に長崎を出て江戸に帰るまでの旅を記述している。それでは文化二年(1805)十月二十三日に廿日市の宿を立って広島城下を抜け、海田市の宿で昼休みをとるまでの記述から、まずは草津に至るまでを引用してみよう。


廿三日寅の半にやどりを出て、宿の中を左右に曲り行、田間をゆけば五日市村あり、海を右にし田を左にしゆきて八幡川をわたる、土橋なり、又海を右田を左にしゆくを、海老の鹽濱といふ(いびの鹽濱といふやうようにも聞ゆ)いびの坂を上り下りて又右に海あり、坂を上り下る處を小ごえ山といふ、人家わづかにあり、又海を右に見つゝ坂を上り下れば、人家長くたてつゞけり、草津といふ、左に寺あり、この所にて夜明けたれば、これまで見のこしつる所多かるべし、

この部分で疑問なのは、海老の塩浜が八幡川より東に記述されていることだ。ひろしまぶらり散歩の海老塩浜跡でも、海老山(かいろうやま)の西側となっている。午前四時頃宿を出て夜明け前の道中でもあり塩浜が見えていなかったのか、あるいは後で書く時に間違ったのだろうか。一方、「いびの鹽濱」「いびの坂」という当時の現地の発音の記述があるのは貴重だと思う。そして「小こえ山」とはどこか。このあとのくだりで己斐川をこゑ川と書いているから、井口の小己斐だろうか。しかし小己斐島、小己斐明神以外、西国街道筋にも小己斐という地名があったのかどうか、はっきりしない。

上の続き、広島城下に入るまでを引用してみよう。

左右ともに田ある所を行に、右に海ちかくみゆ、左に少し人家あり田間をゆきて左に鳥居あり、岨を左にし土手に上りゆけば、右に田をへだてゝ海みゆ、川ありこゑ川橋を渡る、長き土橋なり、松原といふ所に人家わづかにあり、左右ともに畑にして、右に海とほくみゆ、小屋川の板橋をわたりて木戸に入れば、廣島の城下なり

岨は「いしやま」という訓になるようだ。「こゑ川橋」は己斐川(山手川)にかかっていた橋と思われる。しかしこの記述の通り次の小屋川(天満川)を渡ったあとに広島城下の入り口である木戸があり、古い広島城下の地図は西が切れてしまっていて己斐川にかかる橋を確認することができない。ネットにある明治十年の地図は読み取りにくいがどうやら「己斐土橋」と書いてあるようだ。これは土橋か板橋かという種類を書いたもので橋の呼び名ではないのだろう。場所は現在放水路にかかっている己斐橋と大差ないようだが、己斐川橋という記述は見つけられなかった。一方で己斐をこゑと南畝が聞いていたことは興味深い。秋長夜話には「己斐村は峡(カヒ)村なるへし 」とあったけれども、別の語源の可能性もあるのかもしれない。

己斐川を渡ってデルタに入ると、左右ともに畑とある。やはりデルタの中では稲作は難しかったのだろうか。私は幼少の頃(昭和45年ごろ)、南観音に住んでいたことがあり、その時期の原風景はネギ畑であって陸稲が植えてあったのは覚えているが普通の田んぼは記憶にない。広島城下でも貞国が商いをしていた水主町などデルタの海側の地域の井戸がどうであったのか興味があるのだけど、こういう記述を積み重ねて考えてみたいと思う。

次の小屋川は天明年間の火災が原因で天満川に、橋も小屋橋から天満橋に改称になったとあり、南畝が訪れた文化二年はすでに天満川となっていたはずだ。しかし川の名前はお上が決めてもすぐに浸透するものではないことは、私が最近調べている三篠川の例でも顕著である。三篠川という名称はかつてはデルタを流れる太田川の美称であったのを、明治三十年代に高田郡安佐郡(当時)を流れる支流の名前に移動させたはずだが、その後もお城の近くの雁木のあたりは三篠川と呼ばれ、今でも基町と寺町の間を三篠川と呼ぶ方はいらっしゃる。南畝が古い地図を持っていた可能性も勿論あるけれども、川の名を訪ねた時に小屋川と返ってきたとしても不思議な事ではない。

それでは次は広島城下の記述、

城下の市町にぎはゝしき事佐嘉にまされり、左におさん焼餅といへる札あり、右に名酒うる家あり、川あり板橋の長きをわたる、根小屋橋といふ、左に本屋あり、左に折れ右に曲りて川あり、板橋あり元やし橋といふ、右に本屋二軒ばかりみゆ、左に名酒屋あり、九霞堂といふ、小き板橋をわたり、左に曲り右にまがりゆけば古着屋多し、左に小社あり、こゝを夷町といへば、夷をまつれるなるべし、左へ曲がり右へ曲がれば川あり、板橋をわたる京橋といふ、これまで左の方に城の門みへしが、これより見へずなりぬ、川あり板橋をわたる、ゑんこう橋といふ、人家あり、こゝにしてやうやく城下をいでゝ田間をゆく、」

おさん焼餅とはどんなお餅だったのだろうか。餅屋、酒屋、本屋、古着屋と西国街道沿いの城下の様子が伺える。根小屋橋で検索すると全国各地にある橋で、これも南畝が間違えたのだろうか。普通は猫屋橋と書いて、豪商の猫屋九郎右衛門が私財を投じて橋をかけたということになっている。これには別に異説はないようだ。今のところこの橋を根小屋橋と書いた例は見つからないのだけど、こや橋、ねこや橋と続いていることは、少し引っかかる部分ではある。

広島城下を西国街道が通るにあたって、少し北にある東の出口の猿猴橋に向かって左右にジグザクと北東方向に曲がって進んでいて、胡子神社が左手なのはアレと思ったけどこれで正しいようだ。してみると広島城下までのアップダウンや左右の景色も正確なのかもしれない。ここは私にはどこを通っているのかイメージがわかない部分もあり、詳しい方に検証していただきたい。

次は海田市の宿まで、

人家間々あり、左右ともに山ある所をゆく、右に人家あり岩鼻といふ、左の岨に立岩多き故の名なるべし、こゝにきよらなる家あれば、しばしやすみて酒くむ、右かたに田面はるかに見渡されて、朝日のかげさやけし、田間をゆけば、一里塚と見えて左右に松あり、土橋の長き川をわたり、田間をゆく人家少しありて鍛冶多し、田間をゆきて岨を右にし田を左にし、又田間をゆき人家をこへ、田間をゆきて、海田市の宿にいり、脇本陣猫屋新太郎がもとに晝休す、家居あらたにたてつゞけて、庭に松あり、長門の船木よりこれまで、食物の味よろしからねども、飯は精をいとはざりき、これよりして飯の粗にして糠くさきもまじれり、姫路よりして東は食味ともによろし

岩鼻はお正月に二葉の里歴史の散歩道で歩いた場所、その時はよくわかってなかったが、私がマンションとマンションの間を横切ったあたりにも昔は岩があったようだ。そのあとの矢賀の一里塚から府中大川を渡って府中町浜田の空城山までは良く歩くコースで、右の岨とは空城山のあたりだろうか。海田までには船越峠などアップダウンがあったはずだが、記述のどのあたりが峠なのか良くわからない。海田の脇本陣の猫屋さんは広島の猫屋町から移ってきたそうだから猫屋橋を建てた人の子孫ということだろうか。お米の話、しっかり精米してなくて糠臭いという。昔は確かに広島のお米は評判が良くなかったけれど、今はそうでもないような気がする。もっとも南畝は普段から良い物を食べていたのかもしれない。

南畝はこの前日、二十二日に厳島神社に参拝している。面白いのは、「此ほとりに牡鹿のむれあそびて人をおそれざれば、試に鼻紙を出してくはしむるに、さながら飼へる犬のごとし」とあって、宮島の鹿は今とそんなに変わらないということがわかる。鹿は質の悪い再生紙だと匂いだけかいでやめてしまうけれど、当時の鼻紙は支倉遣欧使節団でも欧州人に珍しがられたとのことで、上質の紙だったようだ。

ここまで読んで来て感じることは、私はまだまだ江戸時代の広島城下についての知識が足りないようだ。南畝についてもわからない事が多い。それで疑問に思うことはあっても中々結論にたどりつけない。こういう紀行文が他にもあれば読んでみたいものだ。


ゴーン中納言

2020-01-17 10:52:35 | 大田南畝
ゴーン氏が逃げた日のツイッターで、例の脱出方法の一報を見て、しかしまだ大手メディアには載っていなくてどこが発信源だろうと検索してみた。結論はアラビア語のツイートだったようだけど、その過程で、

  Ghosn is gone. 

  Ghosn with the wind.

というのをたくさん読まされて閉口した。日本人が思いつきそうなダジャレだけど、外国の人も言っていたから国際的にもこれで通用するのだろう。まあ、これはこれだけの話だった。

ここからは権中納言のお話、大田南畝「千紅万紫」の中に、


       定家卿月をみるゑに    

  十五夜にかたふく月のうたよめばあかつきのかね権中納言  


いわゆる画賛の歌で、定家が月を見る絵とある。「十五夜にかたふく月のうた」で思い当たるのは新勅撰和歌集にある、


    後京極摂政左大将に侍ける時月五十首哥よみ侍けるによめる
                     権中納言定家

   あけは又秋のなかはも過ぬへしかたふく月のおしきのみかは


だろうか。そして「あかつきの鐘権中納言」と続けたわけだ。そういえば大晦日にはゴーン氏と除夜の鐘をからめたツイートもたくさん見たような。いや、話をもどして、南畝が活躍した天明から化政期にはすでに鐘はゴーン、これはどれぐらい時代を遡れるのだろうか。

  





肩身が狭い

2020-01-16 20:37:56 | 日記
政治家やってる中学高校時代の同級生に会ったのは、吉田サッカー公園の竣工式だから98年11月、もう二十年以上前のことだ。選挙区内の安佐北区に住んでいると言ったら、「それじゃあ」と手を出した。それじゃあとは何だとは思ったけれど、政治家というのはそういうものかもしれないと握手はしておいた。彼は可部線で通学していて、横川、西広島の一駅間だけ一緒だった。しかしどんな話をしていたか全然記憶にない。野球は読売ファンだったと記憶しているが、野球の話もそんなにしなかったような気がする。キリスト教の学校では洗礼を受けて、自民党では靖国参拝の先頭を歩く、そういう生き方だから、菅さんが説得しない限り自分では離党も辞職もしないだろう。願わくは、次の選挙では野党に立派な候補者を立てていただきたいものだ。

(政治的な議論はしたくないので、この記事へのコメントは辞退させていただきます。)