阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

二葉山

2022-08-21 13:43:14 | 狂歌鑑賞
「ひろしまWEB博物館 学芸員のひとこと」というページに、「二葉って地名と二葉あき子」(2014.5.15 )という記事があった。その冒頭部分に、

 広島市内で「二葉」というと、仏舎利塔のある「二葉山」を思い浮かべる人が多いかもしれませんね。でも、この山、広島城築城の頃は明星院山と呼ばれていました。では「二葉」の名称はいつごろからあるのでしょう?
 天保5年(1834)、新しく作られた饒津神社の名前に、昔の和歌に出てくる縁起のいい「二葉の松」にあやかって「二葉山神社」を社名・山号とし、あわせて明星院山が「二葉山」になったところから始まります。また、神社付近が「二葉公園」と呼ばれ、戦前には広島名所の一つとして絵葉書が出回っていました。そして近くの町名も「二葉の里」になりました。 

とある。この記事だけのリンクができないので少し長めに引用させていただいた。これを読んであれっと思ったのは、天保五年よりも古い、安永六年(1777)撰の「狂歌寝さめの花」に、二葉山が出てくるからだ。引用してみよう。

     
          葵            桟道

  二葉山神の守りの千とせ猶めでたき御代にあふひ草かも


この「狂歌寝さめの花」は芥河貞佐とその門人の歌集で、貞佐が広島移住後に獲得した弟子たちの歌が多数入っている。この歌の作者の桟道は初出の歌に備後庄原の人とある。貞佐没後に出版された「狂歌桃のなかれ」を読むと庄原の連雲斎貞桟が貞佐の重要な門人であったことがわかるが、この桟道は貞桟が貞の字を許される前の号であった可能性もある。歌をみてみると、二葉山、神の守り、あふひ草、で連想ゲームとなると答えは広島東照宮と広島人なら思い浮かぶのではないだろうか。広島東照宮は広島城下の東北、鬼門の守りとして家康33年忌の慶安元年(1648 )に造営され、徳川家の葵の紋を神紋として葵餅という縁起物も配布されている。

ここまで書いてきて、上の歌とぴったりはまっているから、東照宮の山はもっと古くから二葉山と呼ばれていたと結論づけても良さそうだが、実はそうとも言えなかった。書籍検索で、「加茂の葵の二葉山」という語句が出てきて、その説明として、

加茂の葵祭のことをいふとて葵の二葉山とつづけたりあふひはふた葉なるものゆゑ加茂やまをふたば山ともいへり

「加茂の葵の二葉山」は「愛護稚名歌勝鬨」の道行の一節と前のページにあるのだけれど、原本は未確認である。もうひとつ、夫木集の、

  神垣にかくるあふひの二葉山いくとせ袖の露はらふらん

という例も出てくる。こちらも書籍検索で読んだだけで原本を確認していないが、とにかく、葵祭の加茂山を二葉山と呼んでいたことがわかった。上記の桟道の歌は広島の山ではなくて、こちらの線で詠まれたのかもしれない。ただ、天保の命名は葵ではなくて二葉の松とあり、「加茂の葵の二葉山」は注釈が必要であってそれほど有名な語句ではなかったようにも思われる。それに、桟道の歌が葵祭の歌と言われても、ピンと来ない部分がある。まだ、結論を出すのは早いような気もするが、どうだろうか。






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