阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

ブログタイトルを変更しました。

2020-01-14 10:46:18 | 日記
ブログを開設した時とは少し傾向が違ってきたため、タイトルを変更しました。書くことはしばらくは変わらないと思います。三篠川を書き始めたら、それもタイトルに加えたいものです。引き続きよろしくお願いします。

【追記】プロフィールも書き直して、あとから見たら一本の掛け軸って変だなと。調べたら、かけてある時は一幅で巻いてあると一軸であると。書く時は気付かないけれど、読むときは重箱の隅が気になる性格で一本では変というのは何となくわかった。書く時は勢いも必要なので、と言い訳しておこう。

大田南畝「寸紙不遺」をざっと眺めてみた

2020-01-12 16:32:14 | 大田南畝
大田南畝(蜀山人)の生没年は1749~1823となっていて、一方、私が調べている栗本軒貞国は没年齢に二説あることから、1747又は1754~1833となり、どちらが年上かは確定できないが同時代人であることは間違いない。しかし二人の経歴を比べてみると、南畝は幕臣で天明期から大ブームを起こした江戸狂歌の第一人者であり、一方の貞国は町人で上方狂歌の柳門三世を名乗ってはいるが地方の一狂歌師とずいぶん差がある。私が良く行く図書館でも南畝の全集は二十巻、一方貞国の歌集は狂歌家の風が入っている近世上方狂歌叢書の一冊だけとなっている。また、南畝が天明期を代表する文化人と評されるのに対し、貞国は広島の化政文化を担ったと言われることが多く活躍した時期もずれている。もっともこれは文化史の枠に二人を当てはめた時にそう言われるだけであって、南畝は化政期の著作も多く残しており、貞国も現在私が読むことができる範囲内では、その代表作の多くは寛政期のものである。

という訳で、私がひねくれ者だからだろうか、この江戸の巨人の著作はこれまで後回しにしてきたのだけど、ネットに大田南畝の寿老人の歌の情報があり、爺様の掛け軸の解読のためにも読んでみた方が良さそうだ。貞国とは同年代であるから、時代の背景や語彙の用例でも参考になることが多いのではないかとは思う。しかし、全集を順に読んでいくのは性に合わない。目についたところから、今回はタイトルの「寸紙不遺(すんしふい)」からいくつか拾ってみたい。

この寸紙不遺は南畝のスクラップ帳のようなもので、内容も狂歌俳諧のみならず、広告、暦、社寺のお札、本の表紙、種々の刷りもの等、多岐にわたっている。南畝の著作以外も多いけれど、南畝の趣味が十分に反映されていると思う。

まず目についたのが、「藝州厳島社頭之圖」という刷り物。狂歌家の風の舌先の回で論じた場所は、「舌嵜」となっている。これは私にとっては発見であって、さっそく舌先の記事に追記しておいた。南畝は長崎奉行所の任から江戸に帰る途中、文化二年に厳島神社を参拝したと小春紀行に見える。この小春紀行には広島城下を通過した折の記述もあり、別の機会に引用してみたい。


次は歌舞伎役者のなぞかけ。これは左端に折り目があることから本の一頁を貼り付けたように見える。なぞかけの部分を書き出してみよう。

中村冨十郎とかけて
うきゑののぞきととく
心はおくぶかう見へます

嵐金妻とかけて
風くるまととく
心はあたるほとよふまはります

「うきゑののぞき」は、「のぞきからくり」とか「のぞき眼鏡」とか言われる大道芸。一例をあげておくと、絵本御伽品鏡に「のぞき」の挿絵と貞柳の歌がある。歌は、


  のそきをば見るは若輩らしけれと女中の笠の内そ目がゆく 


となっていて、子供が絵を覗いている場面が描かれている。話はそれるが、絵本御伽品鏡の次頁の「はみかきや」は面白そうな題材なので興味のある方は絵を見ていただきたい。歌は、


  歯を磨(みがく)薬買(かふ)人多けれと心の 耵(あか)は知らぬからなり


と読める。動物はネズミの歯に替えてくれだろうか。


話を寸紙不遺に戻して、次は色と欲を天秤にかけた絵に狂歌が添えてある。これも刷り物のようだ。歌は、

  色と欲持(もち)くらぶればおなしことどちらても身をほろぼすである

  いろを好む心にかえて道しれる人をしたはゞ人となるべし

とある。「である」は今と同じ用法だろうか。一文字ずつ明瞭に書いてあって他に読みようがない。

最後に鸚鵡の絵に添えた文を引用してみよう。


「夫鸚鵡は南天竺新羅国の鳥也、名は海内に聞ると虽(いへとも)日本へ渡る事稀なれば其鳥を見る人なし依て今日本に壱羽の鸚鵡を乞(こひ)移て人々に見せしむるものならし、此鳥よく物まねをなす譬木魚の音うぐひすの聲からすの声がつてんがつてんおじぎなどよふにまかせまねする事実に耳目を驚かす奇々妙々の鳥也

   身の尺壱尺五寸
   頭にときの色あり

此鳥の因縁(いはれ)長けれは爰(こゝ)もらしぬ今日本に只一羽の鳥なれは見る人はなしのたねとなし給はらん事を乞(こひ)ねがひ候なり」


昔のオウムはガッテンガッテンを覚えさせられたようだ。これもスクラップ帳という性格からすると南畝の文章ではないのかもしれない。以上脈絡のない引用で何の意味があるんだと言われたら困るのだけど、こんな調子でやっていきたい。

1月5日 二葉の里 歴史の散歩道 (下)

2020-01-06 12:59:03 | 寺社参拝
(前回のつづきです)

 去年は時間いっぱい狂歌碑を眺めていたのだけれど、今回はせめて東照宮の福禄寿までは行きたい。聖光寺をあとにして次は国前寺。日蓮宗のお寺で、門前には日像上人が船をつないだという松の木があった。といっても木の大きさからして何代目かだろう。枝に隠されて字が読めなかったのが残念だった。


妖怪退治の稲生武太夫にもゆかりのあるお寺で、七日には稲生祭があると予告があった。ばけもの槌とはいかなるものだろうか。いつもお世話になっている「広島ぶらり散歩」の稲生祭の記述によると撮影禁止だったとのことで、いつか見に行ってみたいものだ。



本堂のあと七福神の大黒様にお参りしたところで、小銭入れがすっからかんになってしまった。このコースを歩かれる方は、小銭は十分にご用意ください。いや、あとから考えると御守りでも買えば良かったのだけど。



次は尾長天満宮。ここは19才の正月、浪人していた時に大須賀町の予備校の自習室を抜け出して二人でお参りしたことがある。私の人生の中で、浪人時代は飛び抜けてモテた時期であった。理由は簡単で、古文の成績が良かったから。その予備校の広島校は開校2、3年しかたっていなくて、英語や数学は名古屋の本家から実績のある先生が出張して来ていた。しかし国語はこの辺で調達していて実力がどうもアレだった。はっきり言って私に聞いた方がましだったのだ。そんな訳で昔のことだから記憶が定かではないが、おとなりの東照宮には日を改めて別の女性とお参りしたような気がする。その人とは帰り道が同方向、といっても彼女は早稲田で私は白島、私が遠回りして饒津神社から川沿いを歩いた。手を振って別れた場所が二又橋という名前なのは最近になって知ったことだ。

話が大きくそれてしまった。しかし、尾長天満宮の寿老人と東照宮の福禄寿で悩まなければならないのは、その時の報いかもしれない。

話を尾長天満宮に戻そう。問題の寿老人はそんなに頭が長い感じではなかった。これについては福禄寿も見てから考えよう。




そろそろ疲労感が出てきて、このあたりからあまり写真を撮っていない。私にはウオーキングのブログは無理のようだ。唯一これ以外で撮ったのは撫で牛の写真だった。



次は広島東照宮。聖光寺からこちら、初詣に七福神めぐりする方は結構いらっしゃって、多くの人とすれ違った。しかし東照宮は別格で、車も列をなしていて露店もあって、ここだけお参りする方が多い印象だった。参拝も行列で、先に福禄寿といっても中々見つからない。そういえば父は子供の頃西白島に住んでいて、東照宮の裏にあった椎の木のどんぐりを取っていたら有刺鉄線が頭にささったという話を何度も聞かされたなあと本殿の裏手に回ったら、椎の木はわからなかったが福禄寿様はいらっしゃった。まずはその横の亥の子石から。ひもを結ぶチェーンもついている。





そして問題の福禄寿。





長い頭が日陰になって、帽子をかぶったように隠れている。直感的にはこれで決まり、という訳にもいかない。ちょっと考えてみよう。この二葉山山麓七福神めぐりには御詠歌のような歌がついていて、マップの裏に一覧があった。




これによると、福禄寿の歌に「その御頭(みかしら)の長きこと」とあり、一方の寿老人はそんなに頭が長く描かれていない。しかし、江戸時代という事で見ると、頭が長いと詠んだ歌は両方にあり、江戸狂歌の第一人者、大田南畝には寿老人の頭の長さを詠んだ歌が複数あるという(まだ見つけていないけれど)。

ここで、爺様の掛け軸の絵をもう一度、



歌ももう一度、

                    栗のもとの貞国

 あたまからかくれたるよりあらはるゝおきてをしめす福の神わさ


この歌の下敷きにあるのは中庸の、

 莫見乎隠 、莫顕乎微 

 隠れたるより見(あら)はるるはなく、微なるより顕なるはなし

であって、隠れてる物の方がかえって良く見えているものであるという。それに歌を見ると隠れているのは頭である。つまり、

  頭を隠しとる、ゆうとるんじゃけえ、それでもう分かるじゃろ

と貞国は詠んでいる。しかし、私はまだ確定できないでいる。七福神のうち、あとの五神に比べて、福禄寿と寿老人はあまり話題にならない。かなり人気薄である。解決するためには、貞国と同時代の広島において、頭が長いのはどちらであったか探すしか今は方法が見つからない。気長に探してみたい。



さらに西に歩いて、二葉あき子の歌碑までたどり着いた。ここから山手に入ったところに、掛け軸を伝えた母方のお墓がある。お供えもお花も持っていないが、お参りに寄った。奥都城と入った神道のお墓なのだけど、いつも気になることがある。じーさんのじーさん、ひい爺さんの次に、元治元年という没年が入っている。



曾祖父が日清戦争の折、広島に設置された大本営にお仕えした前後に神道に改宗したのではないかと想像しているのだけど、その時に前のお墓に先々代からの遺骨を納めたのだろうか。この墓は祖父が建てたと刻んである。この元治元年没のご先祖様は、ひょっとすると晩年の貞国と関わりがあったのかもしれない。

次は鶴羽根神社の弁天様。残念ながらここでタイムリミットとなり、広島駅に引き上げた。七福神はあと二つ、次回いつになるかわからないが、逆に不動院から広島駅を目指してみたいと思う。二又橋の話はその時に書けば良かった。新年早々、くだらない話になってしまったこと、おわび申し上げます。







1月5日 二葉の里 歴史の散歩道 (上)

2020-01-06 09:55:27 | 寺社参拝
初詣という感じでもないけれど、一年の最初は貞国の狂歌碑がある聖光寺にお参りしたい。それで今日は午後、矢賀駅から二葉の里を目指して歩いてみた。しかしタイトルの散歩道みたいな記事になるかどうか。書くことはいつもと変わり映えがしないのではないかということ、書く前にお断りしておきます。

昼飯を早めに片づけて、12時41分下深川発の芸備線で出発、いつもの日曜のサッカー観戦に出かける時よりも混んでいた。今日は東区役所のページに載っていた二葉の里、歴史の散歩道のコースを参考に歩いてみたい。




貞国の狂歌碑がある聖光寺には必ずたどり着きたいから、スタートはマップで東の起点となっている芸備線矢賀駅とした。いつもはここから踏切を渡って東のグランドにサッカーを見に行くことが多いのだけど、今日は矢賀小の北から西に向かって、13時過ぎに歩き始めた。



最初の目的地は才蔵寺、出かける前に地図で確認したところ、広電ゴルフの裏をぐるりと回れば着けるはずだ。しかし、そこは丘の上で、坂道登ってあさっての方向に行ってしまったら新年早々近くの火葬場ということになってしまう。私はスマホも地図も持っていない。ここはリスクを負わずできるだけ平地を通って聖光寺に近づいてから考えることにして、矢賀小の北を折れて旧道のような一本道を西に進んだ。すると太い道に出て散歩道の案内板が見える。これは助かったと読んでみたら、昔は岬の突端であった岩鼻跡という場所だった。



この図は矢賀駅が起点ではなくて、矢賀新町バス停付近で見たことがある矢賀一里塚から線が引かれていて西国街道のルートのようだ。ともかくこれで現在位置がわかって、才蔵寺めざして北へ歩き始める。矢賀駅からみるとV字型に遠回りしてしまったが仕方がない。しかし、この道もどんどん坂を登って車もたくさん通っている、大丈夫だろうか。一度不安になると火葬場へ着く気しかしない。門松は冥途の旅の一里塚、ってこないだ一休さんを読んだばかりではないか。いやここは冷静にと立ち止まって周りをみると、北からしっぽのように細長い丘がさっきの岩鼻という岬の突端まで伸びている。今の道は丘の東側を登っているけれど、西を見ると丘の上のマンションの向こうは崖のようにみえて下に尾長の住宅地が広がっている。そしてちょうどマンションとマンションの間の公園のようなところから、下に降りる道が見える。ここは再び安全策をとって西側の地上に降りることにした。あとで地図を見たら元の道で間違ってはいなかった。しかし、火葬場に近づいていたのも確かで、不吉な予感も当たっていた。才蔵寺と火葬場は直線距離でせいぜい500メートル、頭の中の地図はその位置関係があやふやであった。

平地を北に向かって少し歩いて、また東に戻るように坂を登って、たまたまラッキーかもしれないが才蔵寺を見つけることができた。元日は川土手から阿武山の観音様に手を合わせたけれど、初詣はこのお寺のミソ地蔵尊ということになった。



福島正則に従って広島に来た可児才蔵という武将ゆかりのお寺で、なんでもお地蔵さんの頭に味噌を乗せてお願いすると頭が良くなるらしい。このお地蔵さんもユニークだが、注意書きが一々石に彫ってあるのも特徴的だった。




参拝を終わって案内板を眺めると、ここのは矢賀駅起点になっていて、ここまで才蔵峠を越えて900メートルとある。3倍は歩いた感じだがちゃんと着けたのだから文句は言うまい。方違えみたいなもんだ。



ここからは仏舎利塔も見えているし迷ってもしれている。落ち着いて聖光寺を指して歩いた。しかし瀬戸内高校が見えたところでそちらへ折れてしまったため、西国街道沿いの史跡を逃してしまったのはミステイクだった。矢賀駅から1時間かけて、2時ちょうどに聖光寺に着いた。まずは一年ぶりの貞国の辞世狂歌碑。




もう一度書いておこう。


        辞世               貞国

  花は散るな月はかたふくな雪は消なとおしむ人さへも残らぬものを 


尚古だと「人さへも」の「も」が無いのだけど、何度見ても「も」はあるように見える。あと12年で阿武山の大蛇の五百年忌、その翌年が貞国の二百年忌なのだけど、私は生きていれば70歳ということになる。その日にこの場所でこの歌を声に出して詠じてみたいものだ。今年も何度か歌ったあとで、次は学問所と貞国の兼ね合いで名前を出させていただいた金子霜山のお墓をお参りした。



去年、墓石が無くなっていると書いてしまったのは私の大間違いで、霜山の墓は土饅頭型の儒式とのことだった。霜山は幕末江戸番の時に他藩の武士にも講義をして、維新に功績があったとして没後に正五位を贈られた。右の碑はそのことが書いてあるようだ。広島藩学問所を詠んだと思われる歌二首を取り上げた「ものよみの窓」の回でも書いたが、当時広島城三の丸にあった学問所(学館)の窓を貞国はどこから見ていたのか。お堀を越えた城外遠くから眺めた歌ではないような気もする。日本教育史資料2によると旧広島藩では、

平民ノ子弟教育方法 藩立学校ヘ入学ヲ許サス然レ𪜈学事ニ従事スルヲ禁セス

とあって、学事に従事とはどんな事なのか、貞国と学問所はどのような関わりだったのか、これからの課題である。

そのあと去年お世話になった丘の上の聖光観音をお参りして、十一面観音がいらっしゃる本堂から前回はスルーしてしまった内蔵助親子の遺髪を納めた供養塔にもお参りした。そして二葉山山麓七福神めぐりの布袋様、今回はこの七福神にも注目してみたいと思う。



母方の家に伝わった爺様の掛け軸の中の絵は、以前に神様の絵ではなく祝福芸ではないかとの指摘もいただいたのだけど、この一年間読んできた限りでは、江戸時代の狂歌において福の神といえば100パーセントに近い確率で七福神のどれかを指しているようだ。そして、掛け軸の歌は、


  あたまからかくれたるよりあらはるゝおきてをしめす福の神わさ


となっていて、絵のじいさんは烏帽子をかぶって頭を隠している。そして、長い頭が透けて見えるような感じもする書き方だ。すると、七福神の中で頭が長いのは福禄寿か寿老人ということになる。しかしこの二人は、中国では同一人物だったようで、七福神の絵でも持ち物と連れている動物でしか区別できないようだ。掛け軸の絵は両手を後ろに回して持ち物も隠していてどちらか判別できない。今回二葉山麓の七福神めぐりでは、寿老人は尾長天満宮、福禄寿は東照宮にある。何か手掛かりはないものか、注意して見てみたい。




今回は一気に書く必要も無いようなお話なので、後半は次回に。



本因坊算砂の辞世

2020-01-04 21:48:16 | 囲碁
本因坊算砂(ほんいんぼう・さんさ)は囲碁における最初の名人で、信長から家康のころに活躍した人だ。本因坊とは京都、寂光寺の塔頭の名前で、算砂以降は囲碁家元のひとつ本因坊家として、今は毎日新聞社主催の棋戦の名称としてその名を留めている。私も京都で過ごした学生時代は囲碁部に所属していたこともあって、何度か左京区寂光寺の算砂のお墓にお参りしたことがある。最近あれこれ読んでいる狂歌の本の中にその算砂の辞世を見つけて懐かしくもあり、少し書いてみたい。

まずは珍菓亭編 「五十人一首」の算砂の辞世を見てもらおう。珍菓亭とは柳門の祖、貞柳の別号である。上方狂歌の筆頭と言っていい貞柳が選んだ五十人の中に算砂が入っている訳だ。碁盤と算砂の肖像画とともに、次の歌が載っている。


         本因坊算砂

 碁なりせば かうをも立て生べきを死ぬるみちには手もなかりけり


「かう」とは囲碁用語でコウ(劫)のことで、この歌の面白さを知るためにはコウの説明が必要だろう。日本棋院の囲碁入門のコウのページに良い解説があるのだけど、訳の分からないブログのリンクはクリックできないという方も多いだろうから、画像を拝借。



囲碁は孤立した一つの石であるならば、上下左右の四か所を相手に抑えられると取られとなって盤上から除かれてしまう。1図の場合は白が真ん中の一か所空いたところに打てば黒の一子を取ることができ、2図となる。ところが次に黒が打つと、白の一子を取って1図となる。くり返してきりがないから仏教の長い時間を表すコウ(劫)という言葉で呼んでいる。未来永劫の劫といえばわかりやすいだろうか。ルールでは1図から白がコウを取って2図になったら、黒はすぐには取り返すことができず、一手よそに打ってから、その次の手では取り返すことができる。そしたら白もすぐには同じコウは取れなくて、一手おいてからということになる。その他所に一手打つ手をコウを立てる、コウダテと呼んでいる。算砂の歌の「かうをも立(たて)て」はこのことを言っているのだけど、それがどうして「生(いく)べき」につながるのか。

詰将棋といえば、王手を連続して詰みになるまで読めば正解だけど、詰碁は少し事情が違っている。黒から打ち始めて相手の白石の一団を取ってしまえば「黒先白死」という結果になる。また、自分の黒石を取られないように打つ問題ならば「黒先活(生き)」となる。そしてもう一つ、両者最善の攻防の中で上記のコウが生じて、生死はコウの勝ち負けに委ねられる「黒先コウ」という結果になることもある。普通の詰碁ならばここまでであるが、実戦であれば、こちらに有利な結果が全く得られない「手なし」ということもある。下の句の「手もなかりけり」も囲碁ならではの言い方ということになる。つまり、算砂の歌は、

もし囲碁であったならば、死にそうな石でもコウで粘って生きることもできるのに、自分が死ぬとなると打つ手がないことだ

という意味になる。学生時代、よく解説会を聞きに行った宇太郎先生の本から詰碁でコウになる例を見ておこう。宝ヶ池プリンスでの解説会の冒頭だったか、「本因坊の由来をお話ししましょうか」とおっしゃって、みんなタイトル戦の進行が気になって首を横に振ったが、今思うと宇太郎先生が本因坊について語られるのを聞いておけば良かったと思う。



(橋本宇太郎著「詰碁・奥の細道」より、詰碁の解答例。右上は黒先白死であるが、左下は黒先コウが正解となっている。)

これで算砂の歌は理解できたことになるが、算砂とコウといえば、もうひとつ有名なお話がある。それは、本能寺の信長公の御前で算砂が碁を打って、三コウ無勝負という珍しい形が生じ、そして本能寺を退出した直後に本能寺の変が起きたという。三コウについて簡単に書いておくと、上記のようなコウができてコウダテしながら争ったとしても、一手おきに他所に打っているのだから局面は少しずつ進行していく。しかしコウの形が3つ以上あって、お互いに取り番になるコウの場所だけに打って行ったら、一回りして全く同じ局面に戻ることになる。コウ以外の場所には打っていないから、碁が進まない訳だ。今のルールでも同じ局面が二度現れた時点で無勝負ということになっている。また、本能寺の変の直前に三コウが生じたことから不吉の前兆と言われることもある。「爛柯堂棊話」本能寺にて囲棊の事を引用してみよう。


「天正十年信長公光秀が毛利征伐援兵に赴く武者押しをし給んとて江州安土より御登京都本能寺に御座あり六月朔日本因坊と利玄坊の囲棊を御覧あるにその棊に三刧といふもの出来て止む拝見の衆奇異の事に思ひける子の刻過ぐる頃両僧暇給りて半里許り行に金鼓の聲起るを聞き驚きしが是光秀が謀反にして本能寺を圍むにてぞありける後に囲棊の事を思ひ出て前兆といふことも有もの哉と皆云ひあへりとぞ其時の棊譜なりとて今も傳へたり此の棊を思ひ見るに利玄が隅の石を取らるゝを見損じたる本因坊が布置手配りの様子是亦前兆とも云べきか」


この本能寺での対局は途中までの棋譜が伝わっているけれども、三コウができそうな余地は無いという。また日本棋院の囲碁の歴史のページにも、「江戸時代になって伝えられた話で史実とは異なるとする説が今日では有力となっています 」とある。しかし、算砂が秀吉や家康の御前で碁を打ったのは事実らしい。

話を算砂の歌に戻そう。この歌は囲碁名人の辞世という点でも囲碁の用語が入り、それは狂歌という観点からも縁語となっていて良くできた歌といえるだろう。最初に紹介した五十人一首に選ばれるのもうなずける。こういう良くできた辞世を見るたびに思うことは、まだ元気な時に辞世の歌として準備していたのかどうかという事だ。しかし、どうもそうではないようにも思われる。算砂の死後四十年後に編まれた古今夷曲集にはこの歌を


      臨終に棊打なりければ

 棊なりせば劫(こふ)を立てても生くべきに死ぬる道には手もなかりけり 算砂


とあり、語句が少し違っている。また、「坐隠談叢」には、


辞世に曰く
    碁なりせは刧を打ても活くへきに死る途には手もなかりけり
此歌につき「碁ならせば刧なと打ちて活くべきに死ぬるばかりは手もなかりけり」とし又他に「碁ならばや刧をもたてゝ活くべきを死ぬるみちには手一つもなし」とするものもあり茲には加賀の本行院に傳ふる者に據る

と3つのパターンを載せていて、上の2つと合わせて5種類、同じ歌意でありながら語句がどれも微妙に異なっている。これは紙に書かれた辞世の色紙が出発点ではなく、伝言ゲームが行われた結果だろう。本因坊家の口伝が外部に伝わるうちに、様々な表記のずれが生じたのかもしれない。しかし意地悪な見方をすれば、元は算砂の歌ではなかった可能性もあり得るだろう。前に見た一休さんの正月の歌のように、ことわざや慣用句、あるいは歌謡が有名人の歌として伝えられるようになったパターンかもしれない。よくできた辞世であるだけに、名人の歌と言われてみんなすんなり信じてしまったという可能性は考えられないだろうか。

【追記】

美濃の國に野瀬といふ碁打いまはの時、 

  碁なりせば劫を棄ても活くべきに死ぬる道には手一つもなし

とあり、似た歌が算砂でない人の歌として出ている。 醒酔笑は元和9年、算砂の没年に成立とあり、算砂が亡くなる前から似た歌が存在した可能性が高い。


ふるさとの山河

2020-01-02 10:48:35 | 日記
昨日は一休さんに手間取ってしまって、外へ出て撮った写真を載せるのを忘れていた。我が家は三篠川沿いにあって、川土手に登るとこのブログでも書いて来た阿武山(あぶさん)が見える。2020年最初の一枚は、子供の頃から眺めてきた山と川を撮ってみた。広島城築城の際に阿武山を玄武としたのではないかという説は何度か紹介した。広島デルタからは北に見える阿武山も我が家からは西方、日が沈む山だ。そこで写真は朝ではなく夕刻を狙ってみた。ご存知のように5年前の広島土砂災害では阿武山から権現山にかけて土石流が多発して多くの犠牲者を出した。三篠川も一昨年の西日本豪雨では芸備線の鉄橋が崩落、去年十月やっと復旧した。また上流で流された方はいまだに見つかっていないと聞いている。元日にふるさとの山、ふるさとの川を眺めて、阿武山の観音様にお願いすることはただ一つ、平穏な夏を過ごせますように。




   まず願う夏の平穏阿武山の南無観世音あろりきゃそわか




一休宗純の正月を詠んだ狂歌

2020-01-01 20:56:11 | 狂歌鑑賞
 新年のあいさつに代えて、タイトルの一休さんの狂歌を紹介しようと思ったのだけど、私の頭にあった歌は調べてみるといずれも一休さんの作かどうか疑わしいようだ。そのあたりのことを書いてみたい。

 まずは、「笈埃随筆」巻八に記述がある元政上人の歌、


  松立すしめかさりせす餅搗すかゝる家にも春は来にけり



国立公文書館デジタルアーカイブ「笈埃随筆」その4より、左端が引用の歌


私の頭の中にあった一休さんの歌は古今夷曲集に入っていて、


 餅つかずしめかざりせず松たてずかかる家にも正月はきつ
 

初句と三句が入れ替わって、末句も違っている。生きた時代は元政上人より一休さんの方がはるかに古いのだけど、元政上人が亡くなったのが寛文8年(1668)、古今夷曲集は寛文6年刊と微妙である。笈埃随筆はそれより約百年後であるから一見古今夷曲集の一休作が正しそうではある。しかし古今夷曲集は他の歌も作者が怪しいものが多数あり、心証としては一休作と主張する勇気は持てない。なお、元政上人の松立すの前のもう一首、


  あららくや人か人ともおもはねは人を人とも思はさりけり


は面白い歌だ。このような上人の人となりから、一休禅師と伝えられる歌を上人の作と記憶違いで入れてしまった可能性がないとは言えないだろう。しかし、だからといって古今夷曲集が正しいとは言いにくい。

次に、狂歌問答から、


 門松はめいどのたひの一里づか 馬かごもなくとまり屋もなし


下の句を「めでたくもありめでたくもなし」と記憶されている方もいらっしゃると思う。ところがこの歌も、一休さんの作ではなさそうだ。図書館のレファレンスでも上の句は諺という説と二種類の下の句について書いてある。また「狂歌詠方初心式」不吉の歌の事の項にも、


「又、俳諧師來山が歳旦の発句に

  門松は冥途の道の一里塚

 かやうに発句せし年身まかりけるよし」


不吉な句を詠んだらその年のうちに死んでしまったとあり、この上の句は来山の俳句としている。しかし、なぜこれらの歌を一休さんの作としてしまったのだろうか。

江戸時代、一休さんの道歌は人気があったようで、一休蜷川狂歌問答はベストセラーだったようだ。その中にも正月の歌がある。

 
 極楽といふ正月にゆだんすな 師走といへる地獄目のまへ


この本は明治の復刻版であるが、明治に入っても一休さんは人気だったのだろう。米屋や酒屋の取り立てが来ている師走の様子を描いた挿絵が入っている。そして、ここに入っている歌もどうやらほとんど江戸時代の作のようだ。このあたりが慣用句あるいはことわざが一休作歌に変化したからくりだろうか。

ここまで書いてきて、もうひとつ大きな間違いに気づいた。それは、一休さんの歌を紹介しようと思った時点で、正月らしいおめでたい雰囲気にはならない事は確定していたのではないか。これらの歌が一休さんの作でないのは私のせいではないが、一休さんの歌で2020年をスタートしようというのはあまりよろしい考えではなかったようだ。この点、新年早々ながらおわび申し上げます。そして、このようなブログではありますが、今年もよろしくお願いします。


【追記】 一休宗純著「一休骸骨」には骸骨の絵と共に歌が入っている。その中には、


  わけのぼるふもとのみちはおほけれどおなじ高ねの月をこそみれ


のような歌もある。この歌は幕末の長州藩士の作とする説など異説もあるけれど、上記リンクの編者は写本について「紙質などから考へても決して天文年間を下るものではない。」(リンクの3コマ目)と記述していて、また元禄五年の一休骸骨にも入っていることから幕末の作ではないようだ。ただし、この本はあくまで法話であって歌集ではない。一休さんオリジナルの歌ばかりで構成されているかどうかは確信が持てない。それにこの歌も末句を「月をみるかな」で記憶されている方が多いと思う。一休作と伝えられるものには、色々歌詞を変えて歌われる歌謡のような傾向があるのか、あるいは逆にそのような歌謡が一休作と伝えられるようになったのかもしれない。