阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

大さかつき

2020-01-20 10:22:24 | 栗本軒貞国
今日は内海文化研究紀要11号に写真が載っていた貞国の懐紙(永井氏蔵)について、この歌は狂歌家の風の「ゆく年」の回の追記に一度は書いたのだけど、今読んでいる南畝に武蔵野の類歌があり、こちらに独立して書いてみたい。それでは歌を見てみよう。



      酒百首よみける中に
      秋の部 月を

  其名にし大さかつきの影さしてはら一はいにみつる武蔵野  柳縁斎貞国


寛政年間の終わりに栗本軒の号を得る以前の柳縁斎の時代の作である。初句の「名にし」のところは写真だと「なかし」にも見えて中々意味が取れなかったが、「狂歌ならひの岡」に、


       晴天旅          林端 

  やつの詠めなにしあふみの旅路にもひとつはかけし唐さきの景 


という歌があり、「大さかつき」の「大」までで「その名にし負う」と続いていることにやっと気づいた。しかし、その名を背負った大さかづき、とはいかなる意味なのか、ここも時間がかかったが、調べていくうちに武蔵野杯という大杯があることがわかった。これは大杯を「野見尽くさぬ(飲み尽くさぬ)」と洒落て武蔵野と呼んだもので、「西鶴織留」には、

「此の御坊酒ずきとみえて、杯小さきをなげき、「我常住のたのしみに是れを飲むより外はなし。昔上戸ののみつくさぬとて名を付けし、武蔵野といふ大盞(たいさん)はないか。」といふ。」

とある。また、狂歌肱枕(明和四年)に武蔵野と大盃の入った歌があった。


         野      韓果亭栗嶝

  すつと出た大盃の月影も千畳敷と見ゆるむさし野


ここまでをふまえて貞国の歌を見てみると、武蔵野という名前を背負った大杯で呑んで腹一杯満ち足りた、そして、大杯のような満月の光がさして武蔵野の野原いっぱい見通せる、という構成になっている。どちらかといえば前者の酒と大杯が主役だろうか。名にし負う、月、原、武蔵野という縁語を軽快に駆使した貞国らしい一首と言えるだろう。

さて、ここからは「ゆく年」の回にも書いたのだけど、当時の武蔵野という言葉のニュアンスについて考えてみよう。貞国が詠んだ武蔵野が入った歌を列記してみると、


  武蔵野の秋の外にもゆく年の尾花に師走の月は入けり  (狂歌家の風)

  七草にかゝめた腰をけふは又月にのはするむさしのゝ原  (同上)

  むさし野もなとか及はむ空々と真如の月のすめる此はら  (狂歌桃のなかれ)


三首目は大きなお腹の布袋様の挿絵があり、「此はら」は原と腹がかけてある。あとで引用する南畝の歌をみると二首目の「のばす」も武蔵野の縁語かもしれない。この貞国の歌に限らず、上方狂歌で武蔵野と出てくると、どこかのだだっ広い野原みたいな、武蔵野自体はそれほど重要ではない付け足しのような歌が多い。山間に住む人間が広い関東平野の真ん中に置かれた時に感じる疎外感なのか、天明の江戸狂歌に対するコンプレックスなのか、あるいは単なる字数合わせで武蔵野はどうでもよかったのか。次に、大田南畝の蜀山百首から、武蔵野の歌を見てみよう。


  春がすみたちくたびれてむさし野のはら一ぱいにのばす日のあし

  鎌倉の海よりいでしはつ鰹みなむさしのゝはらにこそいれ

  花すゝきほうき千里のむさし野はまねかずとてもたみのとゞまる


三首目は詩経の「邦畿千里 維民所止」によっていて、武蔵野の縁語である花ススキから「ほうき(邦畿=王城の地)」そして詩経の文句の「民の留まる」と続けている。見比べてみると、縁語の使い方、武蔵野の広さを詠むいうのは貞国の歌と変わらないように思える。しかし一首目などはしっかり武蔵野が主役であって立ち疲れて足をのばす、そして夕陽の日の足が武蔵野の野原いっぱいにのびている、と詠んでいる。同じ武蔵野と腹一杯を使っていても江戸っ子の南畝に一日の長があるようだ。いや、有名な初鰹の歌よりも貞国の布袋さんの歌の方が面白いと思うし、南畝や朱楽菅江の上方狂歌批判に同意はしないけれども、やはり上方狂歌の武蔵野は、少しアウェイ感というか他所事になってしまっているだろうか。

それでも、最初の貞国の歌は貞国らしい一首だと思う。しかし、栗本軒の軒号を得て狂歌家の風を出版するその直前の時代の作でありながら、狂歌家の風にこの歌は入っていない。理由はわからないが、この題材で勝負するのはよろしくないと思ったのだろうか。