阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

うどん入りを皿で

2022-08-31 15:13:49 | 郷土史
 昔からお好み焼きとはあまり言わなくて、お好みと言うことが多い、今回はそのお好みの話。

もう五十年以上前になるけれど、今の家(当時は安佐郡)で過ごした幼少期、祖父が広島駅で買ってきてくれるお好みは楽しみなものの一つだった。二つ折りにしてあって、包んだ新聞紙にタレが染み出ているのが常であった。タコヤキは移動販売が時々来ていたけれど、近所にお好みのお店は無く、祖父が帰ってきてソースの匂いがするとうれしかったものだ。店の名前は知らなかったが、これはもう舌が覚えている味、おそらく麗ちゃんだと思う。今公式サイトを見たら、私が生まれる数年前の創業と出ていた。

その後、広島市内に引っ越すと、近所のお店には皿を持って買いに行った。やはり二つ折りにして鉄板の上で切れ目を入れてから皿に乗った。もちろん店にはエアコンもなく、夏はかき氷の旗が出て、今度はかき氷を買いに行った。広島のお好みの起源は一銭洋食、テイクアウトが基本であった。そして住宅地のお店には皿を持って買いに行くのが一般的だった。店にはイカ天焼いて昼間からビール飲んでるオヤジはいたけれど、あまりお店で食べた記憶はない。広島で人口当たりのお好み焼きの店が多いのは、住宅地のお店の存在が大きいと思う。

焼き方も、昔は生地の上に魚粉を敷いたら、まず炒めた麺を載せるのが普通だった。今はソバをあとからパリッと焼くのが主流であるが、昔の焼き方も卵とキャベツがからみやすい利点があった。ホットプレートで自分で焼くときは、いつもオールドスタイルである。

鉄板でヘラを使って食べる人が増えたのはカープが初優勝した昭和五十年前後からではないかと思うのだけど、これ以前には食べるときに使う小さいヘラは広島では徳川という関西風のお店以外ではあまり見かけなくて、需要がないから作ってもいなくて、住宅地のお店では小さいヘラを手に入れるのに苦労したとも聞いた。ヘラを使って食べるスタイルは、やはり関西の影響だろうか。某総本店に伝わる屋台の隅で食べさせたのが鉄板で食べる起源という話も、まさかお好みをひっくり返す大きなヘラではないだろう。おそらくは箸で食べていたのではないかと思う。

時代の流れで、近年はパリッと焼いたソバ入りを鉄板の上でヘラで食べるのが普通なのかもしれない。お好みだから好きなように焼けばよい。それで結構だと思う。私はというと昔のままに、うどん入りを皿に入れてもらっている。ところが、ソバ入り、鉄板、ヘラを三種の神器のように考えている人たちがいて、うどん入りを皿で食っていたらケチをつけられることがあるのだ。

流川にFちゃんという店があって、この店のソバは生麵をゆでている。そこでうどん入りを食っていたら、この店の生麺を食わずしてうどん入りとは愚かな事よと常連さん?から言われたことがある。私に言わせれば、うどん入りは魚粉との相性が重要であって、Fちゃんの魚粉は香りが良くて美味であったから通っていたのだが、それからFちゃんには行っていない。そして、他所から来た人にうどん入りを食わせたら、うどん入りもうまいじゃないかと言われるから、うどん入りは邪道と観光ガイドブックに書いてあるのかもしれない。ハラペーニョ入りで知られる横川のロベズの店長は「うどんは甘い」と言う。外国出身者の味覚からするとそうなのだろう。広島人の味付けといえば、酒でも寿司でもオタフクソースでも鮮烈な味とはいえなくて、ぼんやり甘ったるいのがその特徴だ。その甘さゆえに、うどん入りは今でも一定の需要がある。メニューにあるものを頼んで他の客からぶつぶつ言われるのは困ったものだ。まあ、広島ではちょっと歩けばお好み屋に当たる。昔と違って我が家のまわりにも徒歩圏内に数店あり、配達もしてくれる。変な常連がいる有名店に行かなくても困ることはない。

文化史という観点からいえば、上記のようにテイクアウト又はお皿で食べるのが伝統的であってヘラは関西のパクリと反論することはできる。しかし、何度も言うがお好みだから好きなように焼いて食えばよいと思う。お皿でテイクアウトする文化があったことは知っていただいて、人の食い方にケチをつけるのはやめていただきたいものだ。








可部に耳あり

2022-08-25 22:37:45 | 狂歌鑑賞
可部の町は私の家からは徒歩圏内で、安佐北区では一番の賑わいのある場所である。広島から出雲に抜ける街道の途中にあり、太田川の水運の拠点でもあった。また、戦国時代には鋳物造りが始まって今に続いている。それから私事ながら、愛飲している旭鳳酒造は可部の地酒である。今回はその可部にまつわる狂歌を、まずは元文二年(1737)「狂歌戎の鯛」という歌集から、福王寺の寺宝、さざれ石を題材にした歌を引用してみよう。


    加部町福王寺碝石物語を見れは
    いにしへ千里の浜にあり業平卿
    もて遊ひ給しと也

                  同国正佐

  かべに耳あれはこそ聞碝石千里の浜も爰にありはら


正佐は貞佐の門人と思われる。「碝石(さざれいし)物語」という書物は見当たらないが、この狂歌集から五十年ばかり後の時代の「雲根志」という本に福王寺の碝石の条がある。一部引用してみよう。

                碝石(さゞれいし)

安藝国加部庄金龜山福王寺の什貲也むかし清和天皇貞観五年の春紀伊国千里(ちり)の濱に夜々光明をはなつ浦人其所をたづぬれは一ツの碝石あり

ここには千里(ちり)とルビがあるのだけれど、伊勢物語、枕草子にも出てくる紀州の千里の浜は「ちさと」現代では「せんり」とも読むのが一般的で、枕草子の木版本には「ちさと」とルビが入っているものが多いようだ。一方、北村季吟「伊勢物語拾穂抄」には「ちり」とルビがあり、雲根志はそこからの引用かもしれない。このあと、右大臣良相から子の常行の手にわたり、その常行が山科の禅師の親王に奉る場面は伊勢物語七十八段から引用している。その中に「きのくにの千里のはまにありけるいとおもしろきいし奉れりき」とあり、この伊勢物語の話と関連付けるために千里の浜の産としたようだ。この伊勢物語の中では「このいしきゝしよりは見るはまされり」聞いていたよりはましな石だったとあり、後に昼夜鳴動や洪水の大事になるような石ではなさそうだ。それに、伊勢物語にはさざれ石とは書いてない。その後この石は二条の后にわたり、後醍醐天皇の時に中納言公忠が賜ったと続く。そしてその公忠が安芸に左遷された時に武田氏に渡ったというのが次のくだりである。

勅勘によつて安藝国に左迁せられける安藝の守護武田伊豆守氏信しきりにのぞむによつて伊豆守に傳ふ 氏信よろこびて城中におさめければひかりものして昼夜鳴動やまず故に福王寺におさめける其後又大江輝元城中へ入けるに雷のことく鳴動す一夜とめて福王寺へかへす持行時は人夫八人にて漸運ぶかへる時は一人してかろしと也 又福嶋正則此寺に来り石を一見して奇特をあらはせと扇を以てたゝきければにはかに雨車軸をなして大洪水してげる今に當寺に在て珍宝とす 

武田氏信、毛利輝元、福島正則いずれも碝石を御することはできなかったという。福王寺の公式サイトによると、昭和52年の落雷で他の文化財とともに、さざれ石も焼けたとある。「さざれ石」の由来と地質学的考察(リンクはpdf)という論文によると、 「1977年に落雷による火災の際に,無数の破片となっ てしまって,元の面影は全く認められなくなってしまった」とある。これは大変残念なことだ。このあとの地質学的考察のくだりで、さざれ石の破片は紀州千里の浜産ではなかったとのことであるが、これは伊勢物語七十八段と関連付けて由緒書を構成したとの推測を裏付けるものだろう。

なお、雲根志では公忠から武田氏に渡ったとあったが、寺伝では京都から直接賜ったとあり、あるいは温品氏が京都から盗んできたとか異説もある。秀吉がこの石と対面したというお話もあるようだ。

一首目が思ったより長くなってしまったが、「可部町史」にもう一首、可部に耳ありの狂歌がある。天保の頃、可部の嘯月樓貞川の歌集「鶯哇集」の冒頭に、可部の狂歌連の師匠だった梅縁斎貞風の歌がある。



         遣医師音信

  流行はとく聞こへけり町の名のかべに耳ある世に御繁昌


ここで町の名とあるが、広島藩において正式な町は、広島城下、宮島、尾道の三か所だけであったという。ところが可部には町奉行が置かれていて、実質的には町に準ずる機能を持っていた。広島藩の儒学者、頼春水が編纂した芸備孝義伝にも、「可部町饂飩屋清兵衛」という記述があり、公的にも可部町と書いて差し支えなかったことが伺われる。貞風の歌は、可部で繁盛している医者を詠んでいるが、可部町史によるとこの鶯哇集の貞川は商人とある。可部に評判の医者がいたのだろうか。

以上のように私が見つけた可部の狂歌二首はどちらも壁に耳ありだった。もうひとひねり欲しい気もするが、まずはそう詠むところかもしれない。ついでにもう一つ、狂歌ではないが、小鷹狩元凱著「広島雑多集」にある「可部に往く」という方言の記述を紹介してみよう。

廣島地方に於て寝(ね)に就くを「可部に往く」という方言あり、可部は広島を距る四里餘りの川上にあり、人々多くは可部を距る又一里許り、吉田に至る道に根の谷という地あるをもて、此方言を生ぜしならんと思えリ、

根の谷から寝るとは、根の谷川をよく渡っているけど考えもしなかった。さらにもう一説は歌林良材を引いて、

「かべ」夢をいふ、夢はぬるにみるによりてなり、壁もぬる物なるによつてなり

とある。せっかく隣町に住んでいるのだから、「可部に往く」も使ってみたいものだ。関連して、柳田国男によると(定本柳田国男集15巻「廣島へ煙草買ひに」)、「広島に煙草を買いに行く」あるいは、広島に茶を買いに行く、広島に米を買いに行く、というのは死を意味する隠語だという。宮島では島内にお墓を作れないから、広島に行くとは死ぬことと聞いたことがあるが、これは宮島だけの話ではなくて四国九州などもっと広い範囲で言われている隠語だと柳田国男は言う。そして、毛利輝元公がこの隠語をご存じだったなら、広島とは命名しなかったかもしれないとも書いている。しかし、広島に煙草を買いに行くが広島城築城以前から言われていたという証拠を見つけるのは難しい。どうしてそういう結論になったかもうちょっと書いてほしかった。

最後はいつものように話がそれてしまったが、今回は可部に耳ありの話でした・・・





狂歌家の風(42) 握りこふし喰ふな

2022-08-23 14:31:54 | 栗本軒貞国
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、今日は秋の部より一首、


        二王門月

  二王門てる月影に浮雲よ出さはつて握りこふし喰ふな


浮雲よ出しゃばって月を隠して仁王様の握りこぶし食らうなよと、比較的わかりやすい歌だ。ひとつ問題になるのが、「喰ふな」は「くふな」か「くらふな」のどちらなのか。現代の送り仮名の感覚だと「くふな」と読みたいところだが、「こふし喰ふな」で七文字だとすると「くらふな」が有力になる。もうひとつ、初期の広島藩学問所で古学を教えた香川南浜が天明年間に記したとされる「秋長夜話」に、

  広島にて人を杖うつをくらはすといふ、

と出てくる。鉄拳をくらわす、といえば全国で通用するだろうが、ただ、くらわす、と言うのである。宝暦九年(1759)「狂歌千代のかけはし」の中にも、くらはすの用例がある。


        卯の花            一峯

 此花を折れは其まゝくらはすと親は卯の花おとしにそいふ


作者の一峯は貞佐の門人で吉田(現安芸高田市)住とある。「卯の花おとし」がどのようなものか、はっきりわからないのであるが、ここでは親が子に「くらはす」と言っているようだ。以前に「がんす」の用例を調べた民話の本にも、おさん狐に化かされた男が、

「ようし、江波のおさん狐めや、今度出会うたら、ぶちくらわしちゃるんじゃけえのう」 
(日本の民話22 安芸・備後の民話1)

と捨て台詞。たしかに、私の昔の友人にも、くらわしたろうか、にやしたる、ぴしゃげたる、しごうしちゃる等不穏な方言を連呼する乱暴な男がいたような気がする。

以上のような事から、「喰ふな」は、「くらふな」の方に私の中では傾いているが、確信とまではいかない。

次に、狂歌家の風には、握りこぶしが出てくる歌が他にも二首ある。紹介してみよう。まずは春の部から一首


         陰陽師採蕨

  占も考て取れ早わらひの握りこふしの中のあてもの


わらびを握りこぶしに見立てて、中に何が隠されているか当て物をしながら採るという趣向だろうか。しかし、陰陽師のいでたちで占い、当て物をするようなパフォーマンスがあったのか、簡単そうに見えてどんな情景を思い浮かべたら良いのかわからない歌だ。江戸時代の占い事情などもう少し調べてみないといけない。

次に、哀傷の部から一首


       先師桃翁在世の折から所持し給へる二王の
       尊像に欲心のにあふ所を打くたきうちくたく
       へき握りこふしてとよみ給ふを思ひ出て

  目をこする握りこふしておもひ出すうちくたかれし人の事のみ


桃翁とはもちろん貞国の師匠である桃縁斎芥河貞佐のことで、詞書にある仁王像と欲心の歌は丸派によって享和三年(1803)に出版された狂歌二翁集のモチーフにもなっている。仁王とかけているのだから「欲心のにほふ」が正しいと思うのだけど、ここはいつか原本で確認したい箇所の一つだ。貞国の歌、目をこするしぐさで握りこぶしを持ち出したのは良いが、「うち砕かれし人」とは貞佐のことだろうから、現代人の感覚だと表現が適切ではないような気もする。貞国は貞佐の晩年の弟子で、どうも貞佐を語ろうとするとうまくいかない。また貞国が哀傷の歌はあまり得意ではないというのもあるだろう。

もっとも、貞佐の欲心の歌は一門の中で知らない人はいない有名な歌であるから、最初の仁王門の月の歌も、貞佐の歌が下敷きにあることは間違いないだろう。こちらについては、欲心と握りこぶしというテーマを貞国らしく再構成した一首と言えるのではないだろうか。



おわび(前の記事「二葉山」を修正しました)

2022-08-21 23:37:23 | 日記
前の記事の二葉山ですが、「加茂の葵の二葉山」と、京都の葵祭に関連した二葉山という言葉が、書籍検索によって出てきました。すると、取り上げた狂歌は広島の二葉山とは無関係の可能性もあり、記事を修正しました。もうちょっと調べれば良いのに、いつもの悪い癖です。お詫び申し上げます。

二葉山

2022-08-21 13:43:14 | 狂歌鑑賞
「ひろしまWEB博物館 学芸員のひとこと」というページに、「二葉って地名と二葉あき子」(2014.5.15 )という記事があった。その冒頭部分に、

 広島市内で「二葉」というと、仏舎利塔のある「二葉山」を思い浮かべる人が多いかもしれませんね。でも、この山、広島城築城の頃は明星院山と呼ばれていました。では「二葉」の名称はいつごろからあるのでしょう?
 天保5年(1834)、新しく作られた饒津神社の名前に、昔の和歌に出てくる縁起のいい「二葉の松」にあやかって「二葉山神社」を社名・山号とし、あわせて明星院山が「二葉山」になったところから始まります。また、神社付近が「二葉公園」と呼ばれ、戦前には広島名所の一つとして絵葉書が出回っていました。そして近くの町名も「二葉の里」になりました。 

とある。この記事だけのリンクができないので少し長めに引用させていただいた。これを読んであれっと思ったのは、天保五年よりも古い、安永六年(1777)撰の「狂歌寝さめの花」に、二葉山が出てくるからだ。引用してみよう。

     
          葵            桟道

  二葉山神の守りの千とせ猶めでたき御代にあふひ草かも


この「狂歌寝さめの花」は芥河貞佐とその門人の歌集で、貞佐が広島移住後に獲得した弟子たちの歌が多数入っている。この歌の作者の桟道は初出の歌に備後庄原の人とある。貞佐没後に出版された「狂歌桃のなかれ」を読むと庄原の連雲斎貞桟が貞佐の重要な門人であったことがわかるが、この桟道は貞桟が貞の字を許される前の号であった可能性もある。歌をみてみると、二葉山、神の守り、あふひ草、で連想ゲームとなると答えは広島東照宮と広島人なら思い浮かぶのではないだろうか。広島東照宮は広島城下の東北、鬼門の守りとして家康33年忌の慶安元年(1648 )に造営され、徳川家の葵の紋を神紋として葵餅という縁起物も配布されている。

ここまで書いてきて、上の歌とぴったりはまっているから、東照宮の山はもっと古くから二葉山と呼ばれていたと結論づけても良さそうだが、実はそうとも言えなかった。書籍検索で、「加茂の葵の二葉山」という語句が出てきて、その説明として、

加茂の葵祭のことをいふとて葵の二葉山とつづけたりあふひはふた葉なるものゆゑ加茂やまをふたば山ともいへり

「加茂の葵の二葉山」は「愛護稚名歌勝鬨」の道行の一節と前のページにあるのだけれど、原本は未確認である。もうひとつ、夫木集の、

  神垣にかくるあふひの二葉山いくとせ袖の露はらふらん

という例も出てくる。こちらも書籍検索で読んだだけで原本を確認していないが、とにかく、葵祭の加茂山を二葉山と呼んでいたことがわかった。上記の桟道の歌は広島の山ではなくて、こちらの線で詠まれたのかもしれない。ただ、天保の命名は葵ではなくて二葉の松とあり、「加茂の葵の二葉山」は注釈が必要であってそれほど有名な語句ではなかったようにも思われる。それに、桟道の歌が葵祭の歌と言われても、ピンと来ない部分がある。まだ、結論を出すのは早いような気もするが、どうだろうか。





かしやんな

2022-08-18 15:17:16 | 狂歌鑑賞
ツイッターでフォローしている妖怪・霊獣・異形の神仏というアカウントのツイートに、

<禍(わざわい、か)> わざわいをもたらすという、巨大な猪や牛のような姿の妖怪。鉄を食べる。 1.『釈迦八相倭文庫』「わざわい」 #妖怪 

と出てきた。「釈迦八相倭文庫 」の挿絵をみると、天竺の話なのに男女とも江戸の人のようないでたちで、妖怪ワザハヒは日本刀を食っている。そしてこの中に、迦旃延 (かしゃうゑん)という尊者が描かれている。この名前は以前に徒然の友に入っている貞佐の狂歌を紹介した時に出てきた。もう一度引用してみよう。


    ○佛護寺といふこと    芥川貞佐
佛護寺といふ寺ありけるがいつのころにやありけん借金いたく嵩みければその支拂方に檀家の人々心配しけるときよめる

 護佛寺は借銭山のお釈迦かな阿難かしやんなもうくれん尊者


仏護寺は今の本願寺広島別院、浄土真宗本願寺派のお寺であって、原爆以前は貞佐の墓が残っていたという。貞佐の歌をみると、護仏寺とひっくり返してあるのは御仏事にかけてあるのだろうか。釈迦、阿難、目連と尊者の名前をつらねて、「あな貸しやんな、もう呉れん、損じゃ」と面白くまとめている。

ここではもう一人、「かしやんな」のところはカッチャーナという尊者がいて、最初に出てきた迦旃延(かせんねん)と同じ人である。問題は貞佐が果たして「カッチャーナ」というサンスクリット語の読みを知っていたのか、これは明治29年に出版されたこの本の作者の作り話ではないのか。貞佐といえば

  死んでいく所はをかし仏護寺の犬が小便する垣のもと

という辞世が知られていて、それで貞佐と仏護寺を結びつけたのではないか、という疑念は疑り深い性格の私でなくても出てくるはずだ。今回のツイートを見て、改めて少し探してみた。国会図書館デジタルコレクションで「梵語」で検索したところ「多羅要鈔」(文政五年)というのが唯一出てきて、「か」の項に迦旃延はあったがカッチャーナは無かった。しかし、出典として信行梵語集という書物の記載があり、こういう本を上方での修行時代に貞佐が見ていた可能性はあるのかもしれない。結論を出すにはまだまだ読書量も知識も足りないが、一応ここまでを書いておきたい。


59

2022-08-14 17:36:32 | 父の闘病
59歳最後の一日である。前にも書いたが、還暦のお祝いはスルーとさせていただきたいので、今日のうちに一年前のことを少し書いておきたい。

去年の8月15日は日曜日であった。この日はサッカーのクラブユースU-15の全国大会の初日であって、私が応援しているサンフレッチェ広島ジュニアユースの経過を追うのが毎年の楽しみであった。それに加えて、瀬戸内高校のインターハイ、夜は愛媛FCのタクムの試合もあって、自宅で父の介護をしながらチェックする予定だった。

ところが、前日の夜中に父は食べたものをもどして、朝食もまたもどした。コーヒー色で、素人目には血ではないかと思った。訪問看護ステーションの時間外の番号に電話をかけて説明したら、しばらくして担当の看護師さんから電話があった。日曜ということで策は限られるのだけど、当番医に行くよりも、前に入院していた県病院に救急車で行くことを勧められた。父は県病院で咽頭摘出の手術、胸水のドレナージ、尿が出なくなった時も入院中であったから、新しく別の病院に行くより話が早いだろうと、すでに県病院に電話をかけてあるとのことだった。父は自分のことは自分で決めると常々言っているからそのまま伝えたら、苦しい表情をしながらうなずいた。

119番に電話して説明したら、「県病院に連絡済みなんですね」と念を押された。コロナもあるから、ここが重要なんだろう。そのあと今から救急車に乗るとツイートした時刻は9時半過ぎだった。私と母も救急車に乗って、5分ぐらいあれこれ聞かれたあと出発、県道に出るまでサイレンは鳴らさなかった。動き出したあとも、これまでの経過とか色々聞かれた。県病院までは道がすいていれば最短45分ぐらいのところを30分で着いた。乗り心地は良いとは言えなかったがこれは仕方がない。コロナ以前に父が喉頭がんで入院した時には毎日のように県病院に通っていたが、救急車が着いたところは見覚えのない建物の裏の入り口、お礼を言ってあわただしく父を追って建物の中に入って保険証と原爆手帳渡して、あちらでお待ちくださいと扉をくぐったら胸水の時に来た救急外来の待合室だった。救急外来の裏に救急車が着いたとこの時理解した。

しばらくして救急外来の当番の若い先生がいらっしゃって、MRI検査と、おそらくは入院になるからPCR検査をする。結果が出てから入院になるので2時間ぐらいかかると言われた。私も母も朝から何も食べていない、時間のある時にと院内のコンビニでおむすび買って食べ終わった頃だっただろうか、内視鏡内科のベテランの先生がいらっしゃって説明があった。

診断は、上腸間膜動脈症候群という聞きなれない病名だった。父は痩せ過ぎてしまって脂肪がなくなったせいで、十二指腸が血管にはさまれて圧迫されて食べ物が通らなくなっているという。肥えたら治る、と言われたが88歳の父にとってそれはかなり難しいミッション、点滴のみで生きることになるかもしれないと言われた。

次に看護師さんが来て、入院申請書とレンタル用品の記入。もう何回も県病院に入院しているからこれは慣れたものだけど、私の年齢はこの日が誕生日だから59と書いた。誕生日当日に新しい年齢をまず入院申請書というのは、できれば避けたかったものだ。

PCR陰性確定を待って、父がいる救急外来の部屋に通された。チューブを鼻から入れて、胃の中にたまっている液体を出すようにしてあって、コーヒー色がたくさんたまっていた。そこにいらした先生によると、血ではないと言われた。父は普通に筆談できていて少し安心した。

入院は今までと違って南病棟だった。看護師さんとこれまでのことなどをお話ししたが、日曜ということもあって先生のお話は明日以降ということになった。ベッドに移る時に留置バルーンから激しく尿漏れがあったみたいですぐに交換したと言われた。もちろんコロナで病室には入れず、母と私はここで病院をあとにした。経過を弟に電話で説明したときに、大雨で芸備線は止まっているからバスで帰れと言われた。そのようなことを考える余裕もなかった。母もここでやっと落ち着いたのか、私の誕生日だから何か買って帰ろうと言った。それでバスだと不動院で乗り換えるところをその前に一度八丁堀で降りて次のバスまでの12分の間に、むさしで私と弟には若鶏むすび、母は俵むすび、モーツァルトでショートケーキを買った。誕生日を祝うという心境ではなかったが、つらい一日であったから少し気晴らしにはなった。

家に帰ってツイートしたのが17時半、今まで緊急入院した時よりも早く帰れたのは病室に入れなかったからであろう。夜は愛媛FCのタクムの試合をDAZNで楽しんで、ジュニアユースの結果をチェックしたら2点取って勝っている。毎年書いている私の誕生日の得点者を、いつも通りツイートした。プロになった人だけフルネームにして、ここにものせておこう。


2012  ケイタ河3、山根永遠、タケ
2013 ヨシト
2014 藤原悠汰、トモ、川井歩、オオイシ、リクト
2015 (トモ3、カンジ2)この年は日程変更で試合がなく、ミニ国体を観戦)
2016 ダイスケ2、ハヤテ2、シロミズ
2017 棚田遼
2018 棚田遼
2019 リョウガN
2020
2021 アラシ、ゆいと


応援している選手たちのがんばりで、夜はひといきつくことができた。

そのあとは、父の担当になった内視鏡内科の先生は体の向きを変えるとか色々やって下さって退院の日も決まったのだけど、退院は二度キャンセルとなり、転院先の広島記念病院でも中心静脈栄養のポートを作って、また在宅専門の先生にお願いするなど退院の準備して下さったがやはり退院の日に悪くなって、父が家に帰ってきたのは11月5日、心臓が止まったあとのことだった。喉頭がんから3年余りの間、医療の現場の方々にはコロナで大変な中、本当にお世話になった。現状は、経済重視で感染者増加はやむなしという方針に見えるのだけど、医療現場の事を考えると、感染者抑制のためにできることはやりたいと思う。何度か書いているように、若い人には存分に行動力を発揮していただきたい。その分、我々が少し考えないといけないと思う。

話がそれてしまったが、この59歳の誕生日の、入院申請書の年齢欄に初めて59を書いた瞬間は忘れがたいものになった。父が最後に固形物を食べたのもこの日だった。明日はまず仏壇に、ご飯をお供えしたいと思う。

狂歌家の風(41) ことの葉の海

2022-08-12 15:17:57 | 栗本軒貞国
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、今日は哀傷の部より一首、


      おなし年の忌に歌の会を催して

  その年の涙の川の行末やけふの手向のことの葉の海


同じ年とは、貞佐の十三回忌の年のこと。貞佐の没年は安永八年(1779)、十三回忌は寛政三年(1791)ということになる。「千代田町史」によると、寛政三年正月二十一日に貞佐の十三回忌の追善狂歌会が広島城下本川の養徳院で行われたとあり(岡崎家文書写本「接木桃」)、その時に詠まれた歌と考えられる。この前年に貞国が願主となって大野村に人丸神社を勧請するなど、貞佐の没後十年を経たあたりから貞国は広島周辺で師匠格としての活動を本格化させていた。この十三回忌の狂歌会で貞国がどのような役割だったかはわからないが、「催して」とあるから貞国主催だったのかもしれない。「接木桃」を読んでみたいものだ。

歌自体は、貞佐が亡くなった時に流した涙が今日の歌会で言の葉の海になったとそれだけの歌だが、「言の葉の海」は貞国の狂歌観を知る上でキーワードなのかもしれないと考えて取り上げてみた。もう一首、狂歌家の風の雑の部から引用してみよう。


       きさらきのすゑつかた狂歌よめる
       人の旅行に餞し侍りて

  され歌の道はこと葉の花盛りはくの小袖のよい旅ころも


「はくの小袖」は、貞柳の師匠、玉雲流の祖である信海が「箔の小袖に縄帯したる風体」を唱えた。「箔の小袖」は伝統的な和歌に出てくるような本来の古語、「縄帯」は俗諺、口語の類をさす。この両方を一首の内に読み込むことが狂歌では重要であるという。貞柳もこれを重視していたし、貞柳の弟子の中でも木端の栗派の本では「箔の小袖に縄帯」は柳門における最も重要な言葉として繰り返し説かれている。貞佐の門下でこれがどれぐらいの重みをもっていたのか、貞佐の狂歌論は見たことがなくてわからない。貞国のこの歌では「はくの小袖」は出てくるけれど「縄帯」にあたるものが見当たらない。むしろ、前の歌と同じように「こと葉の花盛り」こちらに重点があるのかもしれない。さらに、神祇の部から一首、


       人丸社奉納題春日筆柿

  此神の御手にもたれてことの葉の道をこのめや春の筆柿


この歌は私にとって貞国研究のモチベーションであって改めて取り上げる予定であるが、ここでは「ことの葉の道」となっている。あと一首だけ、歌意が未解明なのだけど、雑の部にもどって、


      ある日社中打よりて各詠百首つゝの
      興行せし時満座に

  出ほうたいいふきもくさのより合ふてひとひか百首にむかふきうよみ


貞国得意の縁語を畳みかける歌だが、私には難解だ。伊吹もぐさ、より、ひとひ、きう、が縁語なのはわかる。やけどの跡が小さくなるように、もぐさを捻って火をつける。その一回分が「一火(ひとひ)」であって、ここでは一日(ひとひ)と掛けてある。ラストの「きうよみ」の「きう」は灸だろうが、末句の意味が取れない。「きうよみ」は経読み(僧侶)なのか、それとも別の意味があるのだろうか。それは課題としておいて、ここで注目したいのは最初の「出放題」、何か景気の良い言葉のようだが、「いふき」に続いて、「出放題を言う」となると、でたらめ、でまかせを言うという意味になって、良い意味では使わないようだ。ここでは「出放題」は伊吹もぐさにつながり、伊吹もぐさは「より」を導いていて、「出ほうたいいふきもくさの」までは序詞のようにも見える。しかし、「出ほうたい」は歌がどんどんできるという意味にも取れそうだ。社中が集まって出放題言って一日百首詠んで、という流れだろうか。すると「出放題」も「ことの葉の海」「ことの葉の花盛り」と同じようなことを言っている可能性もあるのだろうか。ともあれ貞国が考える狂歌の理想とは、言葉が次々と湧き出てくるような状態をさすのは間違いなさそうだ。

以上、貞国の歌自体はそれほど面白い歌ではないから後回しにしていたのだけど、今回これを書こうと思ったきっかけがあった。それは、ツイッターの坊主さん主催の選手権で先月、

自然に「たばた」言う選手権 

というお題が出された。毎回見てる訳ではないからどうしてこんな題が出るのか不明だが、最優秀賞をとったのは歌人の俵万智さんで、その回答は、

溶かしたバター 
薔薇の花束、大枚はたく 
ドタバタ劇 
スタバ楽しい 
肩ばたたかんね(博多っ子)

コメント欄には、「反則級の方が参加されている件について 」「草野球に大谷翔平が出場したみたいな 」「子供の喧嘩に大人が出てきた感 」など、レベルの違いを認める発言が相次いだ。さすが言葉のプロフェッショナルという感じだった。そして、私はこの回答を見て、貞国が得意そうな分野だなと思った。それで「ことの葉の海」を思い出したのだ。俵万智さんも普段からこういう言葉のトレーニングはされているのかもしれない。前に書いた「狂歌とは」で、狂歌の定義を考えた時に、31音節の定型詩のうち、1伝統的な和歌のルールから逸脱した歌、2口語を取り入れた歌、このどちらをとっても俵万智さんは狂歌認定になってしまいそうだが、今自室にある俵万智さんの本二冊(もっとあるはずだが言葉の海に沈んでしまっていて見つけられなかった)をざっとみたところでも、上の回答のようなダジャレのような歌は少なかった。あえて引用するならば、


 さんがつのさんさんさびしき陽をあつめ卒業していく生徒の背中

 ゆりかもめゆるゆる走る週末を漂っているただ酔っている


このあたりは狂歌集に入っていても不思議ではない感じだ。また、貞国の最初の歌など、貞国はどうも哀傷の歌は得意ではないようだが、俵万智さんにはちょっと違う視点で死をみつめた歌がある。


  死というは日用品の中にありコンビニで買う香典袋


私は俵万智さんと同じ年の生まれで、コンビニは子供の頃からあった存在ではなくて、大学に入った頃からお世話になったと思う。上記「箔の小袖に縄帯」の匂いがして、これも狂歌集寄りの歌ではないだろうか。

貞佐や貞国の狂歌論を読むことはできなくて、今のところ狂歌の言葉で探っていくしかない。それでも奇人貞佐の考えを知るのは困難を極めるのではないかと思うけれど。

栗本軒貞国 年表

2022-08-11 09:37:52 | 栗本軒貞国

(新たに書き加えた項があり、投稿日時を最新に改めました)

貞国の生涯について、年代のわかっているものを記しておこう。貞国の没年齢については80と87と二説あるが、命日については複数の資料から天保四年二月二十三日で間違いないと思われる。また、狂歌書目集成にある「甲寅春序狂歌」「歳旦帖」は所在が確認できていない歌集だ。こうしてみると、寛政年間に柳縁斎として登場する以前、先師貞佐との関りがほとんどわからない。貞国の号は、あるいは貞佐没後に名乗ったのかもしれない。貞国没後の広島の柳門についてもわからない事が多い。貞風、貞江、貞鴻、貞卯など、年代がわかるものを書き加えた。なお、貞佐の広島移住であるが、広島県史の年表の享保13年は、知新集や近世畸人伝の30歳で養子に入ったという記述に当てはめたもので疑問は残る。ただし、先代が享保16年浅野宗恒公御元服の祝儀として江戸に行くと知新集にあり、その頃までに代替わりがあったのかもしれない。

 

1728 享保13 桃縁斎貞佐が芥河屋の養子となり広島に移住(知新集・近世畸人伝 )

1734 享保19 貞柳没

1746 延享3 貞柳十三回忌追善集に貞佐門人で広島の竹尊舎貞国の歌(狂歌秋の風)

1747 延享4 87歳没とすると、この年貞国誕生か

1754 宝暦4 80歳没とすると、この年貞国誕生か

1777 安永6 「狂歌寝さめの花」に葵という名で4首入集

1779 安永8 貞佐没

1789 天明9 柳縁斎貞国撰「両節唫」 (千代田町史)

1790 寛政2 柳縁斎貞国が願主となり大野村に人丸神社を勧請(松原丹宮代扣書

1791 寛政3 本川の養徳院で貞佐の十三回忌追善狂歌会「接木桃」 (千代田町史)

1793 寛政5 貞国撰か?「歳旦」 (千代田町史)

1793 寛政5 貞国撰「春序詠」 (千代田町史)

1793 寛政5 「狂歌桃のなかれ」に柳縁斎貞国の歌十二首。芸陽柳縁斎師とも。

1794 寛政6 桃縁斎一派による「甲寅春序狂歌」刊(狂歌書目集成)

1794 寛政6 貞国撰「歳旦」 (千代田町史)

1796 寛政8 栗本軒貞国撰「歳旦帖」刊(狂歌書目集成)

1801 享和元 栗本軒貞国詠「狂歌家の風」刊

1804 享和4 栗本軒貞国撰「両節詠」 (千代田町史)

1804 文化元 大島貞蛙の「玉雲流狂歌誓約」に「栗本軒福井貞国 尊師」(大野町誌)

1806 文化3 大島貞蛙の庄屋格を祝う歌会に追加で貞国の歌(大野町誌)

1810 文化7 山縣郡都志見村の駒ヶ瀧にて貞国の歌二首(石川淺之助氏所蔵文書)

1815 文化12 芸陽佐伯郡保井田邑薬師堂略縁起並八景狂歌に貞風と貞国の歌(五日市町誌)

1818 文化15 「狂歌あけぼの草」の貞風の序文に貞国の歌(五日市町誌)

1821 文政4 梅柳斎貞江が柳門伝なる文書を発し烟霞斎貞洲への冠字を許す(呉市史)

1824 文政7 佐伯貞格に与えた「ゆるしぶみ」に貞国の署名と歌(五日市町誌)

1831 天保2 柳縁斎貞卯生まれる(昭和61年の新聞記事、新聞社不明)

1832 天保3 門人の冠字披露のすりものに貞国の歌(岡本泰祐日記

1833 天保4 二月二十三日貞国没(聖光寺狂歌碑、岡本泰祐日記、尚古)

1837 天保8 「鶯哇集」に梅縁斎貞風の還暦を賀す狂歌(可部町史)

1852 嘉永5 熊野村榊山神社狂歌額に「栗本軒貞鴻」(熊野筆濫暢の記)

1899 明治32 柳縁斎貞卯没(昭和61年の新聞記事、新聞社不明)

1901 明治34 柳縁斎貞卯の立机を大阪都鳥社が支援(京攝狂歌師名簿 )

1908 明治41 広島尚古会編「尚古」参年第八号、倉田毎允著「栗本軒貞国の狂歌」 

「がんす」の用例

2022-08-09 19:42:53 | 日本語
前の記事でちょっと触れた地元テレビ番組の「うまいでがんす」であるが、用例を改めて調べたところ、やはり正しい広島弁とは言えない。間違った言葉をタグにしたくないので、最初に結論を書いておこう。分類するのに形容動詞なんて言葉を使うのは久しぶりなので調べてみたところ、大きなヒントになる説明があった。形容詞との違いについて、「静かである」と~であるをつけて大丈夫なのが形容動詞とあった。「うまいでがんす」は、「うまいである」と同じ間違いと言えるだろう。

今回、手近な三冊から用例を探した。いずれも民話である。方言の本は単語を集めたものが多く、今回は不向きであった。用例を列記してみよう。

出典

安 安芸町誌
ひ ひろしまの民話 中国放送編
日 日本の民話22 安芸・備後の民話1


用例

A形容詞の連用形(ウ音便)✙がんす 7例
安 ようがんす
安 さびしゅうがんす
安 ありがとうがんした
ひ ようがんす
日 お経を唱えて暮らすがようがんすど
日 さびしゅうがんす
日 ありがとうがんした

B助動詞「たい」の連用形(ウ音便)✙がんす 2例
安 力になりとうがんした
日 お上人さまの力になりとうがんすが

C「ようがんす」がつづまった形 1例
ひ よがんす

D形容動詞の連用形✙がんす 1例
ひ きれいにがんすのう

E動詞「がんす」 2例
ひ うそじゃあがんせん
ひ 換ぁこうしょうじゃあがんせんかあぃ

F体言+でがんす 25例
安 なんぎでがんしょうのう
安 きかせてもろうとるんでがんす
安 いとわん身でがんすがの
安 ようせんのでがんす
安 不思議なことでがんすのう
安 流れとるんでがんす
ひ もどったんでがんすよ
ひ ほんまでがんす
ひ おったんでがんすよ
ひ 売らんのでがんす
ひ ご苦労でがんした
ひ 法事でがんす
日 なんぎでがんしょうのう
日 果報もんでがんすよの
日 百姓の利平ゆうもんでがんす
日 本当の乞食でがんす
日 ここにうずくまっておったんでがんす
日 楽しみでがんした
日 ありがとう聞かせてもろうとるんでがんす
日 雪や霜でもいとわん身でがんすがの
日 ようせんのでがんす
日 お上人さまのおかげでがんす
日 不思議なことでがんすのう
日 流れとるんでがんす
日 下男でがんす

G体言の省略+でがんす 1例
ひ 言うてでがんすけえ


この通り、用例の三分の二が「~でがんす」となっていて、「うまいでがんす」を決まり文句としたテレビ局の人はこれが一般的な形と思ったのかもしれないが、形容詞、形容動詞はすべて連用形についている。AB形容詞型は例外なくウ音便、Cの「よがんす」は父がよく使っていたが、時に「えがんす」とも言っていた。D形容動詞が「きれいにがんす」となっていて、「きれいでがんす」ではないのが気になるところだが、ここはもうちょっと用例が欲しいところだ。E「換ぁこうしょうじゃあがんせんかあぃ」(かえっこしようではありませんか)をうまく読むのは難しい。そして、Fの名詞プラス「でがんす」が最もよく使われている形だ。Gをどう理解するか、言ってることでございますから、と体言を補ったものと言えるだろうか。もし、敢えて「かばちをたれる」ならば、Gのように、「うまいのでがんす」「うまいんでがんす」の体言が抜けたと主張できるかもしれない。しかし、これらは食べたその場で言う言葉ではない。リアルタイムにうまいと言うなら、やはり「うもうがんす」となる。番組で定着してしまっている言葉であるから今更やめられないかもしれないが、せめて、「正しい広島弁ではありません」とテロップを出すぐらいはしてほしいものだ。