阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

狂歌家の風(15) ろく字

2018-11-30 19:02:11 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年)、今日は釈教の部から一首、

 

       念仏一行のこゝろを 

  馬駕籠の心遣ひも南無あみた仏の道はろく字はかりて


念仏一行の心という題から、「南無阿弥陀仏の道は六字ばかりで」というのはわかる。それが「馬駕籠の心遣ひ」とどうつながるのか。これも最初はわからなかったが、ヒントは狂歌詠方初心式の中にあった。


    ○仮名違の事 
凡詞のいひかけよくとも、仮名の違ひたるは嫌ふよし、行風は制し置れし、たとへば 

  山吹の花がまことのかねならばいかにぬすみに井手の里人 

出はいてにて、井手はゐで也、此類きはめて多し、梶はかち、加持はかじ、六字はろくじ、陸地はろくぢ也、是等類あげてかぞふべからず


これによると、歌中の出で(いで)と井手(ゐで)を掛けるのは仮名違でよろしくない。同様の例として、六字(ろくじ)と陸地(ろくぢ)も挙げてある。すると貞国の歌は、馬駕籠の心遣いをしていただきましたけれども平地ばかりですから歩いて行きます、みたいな意味が掛けてあることになる。

この狂歌詠方初心式の著者、江月翁了山は木端につながりが深い栗派のようだが、その論に従えばこの貞国の歌は仮名違いの難ありということになる。しかしこの時代、栗派であっても「ゆゑ」を「ゆへ」と書いているし、歴史的仮名遣いの通りということはない。当時区別可能であったものに対して比較的厳格だったということだろうか。一方、貞佐の門人によって編まれた「狂歌桃のなかれ」には「~へ」というところを「え」とした箇所が複数みられた。一例をあげると、

       寄鏡恋            帛掌 

  美しい姿もよそえ移り気と聞は恨もますかゝみやま


また同じ「狂歌桃のなかれ」の貞国の歌、


         初秋             貞国

  今朝の秋風の音にも驚ぬ御代や目にしる稲の出来はゑ 


最後の「出来はゑ」の「はゑ」は本来「栄え」でヤ行だと思われる。それで思い出したが、ゑびす講も歴史的仮名遣いだと「えびす」のようだ。恵の字をあてたためだろうか、ゑびすの表記もよく見かける。ともかく、貞国やその門人たちは上記栗派のようなタブーはなかったように思われる。いや、緩かったというべきかもしれない。


【追記】明治41年、広島尚古会編「尚古」参年第八号、倉田毎允氏「栗本軒貞国の狂歌」の中に、狂歌桃のなかれから引用した貞国の歌と同じ歌があるが最後が少し違っている。

 

  今朝の秋風の音にも驚かぬみよや目にしる稲の出来はへ

 

と、こちらは至って普通である。こうして比べてみると桃の流れの「出来はえゑ」は面白い。


狂歌家の風(14) かはち

2018-11-28 10:02:34 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は雑の部から二首、

 

       題風鈴 

  一文もなけれはちんともならぬ也銭てかはちをたたく風鈴 

  たん尺は真帆とも三井の鐘の音やせゝのあたりにひゝく風鈴 


風鈴という今もなじみのある題であるにもかかわらず、二首とも難解であった。「銭でかはちをたたく」とは何か、「せゝのあたりに響く風鈴」大音響なのか、わからないことだらけだ。一つずつ考えてみよう。

まず、風鈴は歳時記では夏の季語とあるけれど、狂歌では初秋も多く、またこの二首のように雑も見かける。読みは「ふうれい」「ふうりん」二種類あるようだ。上方狂歌「狂歌かゝみやま」に、

 

      初秋聞風鈴               木端

  秋来ぬと風のれいにそをとづれぬ浜荻ならぬあしのそよきに

 

これは「風のれい」と詠んでいる。一方、南畝は「徳和歌後萬載集」

 

  ふうりんのりんとひゞきし秋風は荻の上はの一文の銭

 

と、「ふうりん」である。りんと鳴っていたら漢字で書いてあっても「ふうりん」だろう。貞国の歌は「ちん」であるからまだ断定はできない(「ちんともかんとも」でうんともすんとも、の意)。この南畝の歌にも一文の銭が出てくる。江戸時代、長崎のびいどろの風鈴はまだ高価で普通は鉄か青銅製で、中の舌は一文銭を吊り下げていたようだ。それで、「一文もなけれはちんともならぬ也」となるわけだ。

次に「かはち」、広島弁の「かばち」だろうか。しかし、かばちをたたく、とは今は聞いたことはない。元々「かばち」は顎の意味だったという。風鈴の顎という表現は成立するかどうか。しばらくここで行き詰っていたけれど、物の周辺部をさす「かまち」という言葉を思い出して辞書を引いたら、「顔の横の頬骨あたりの称。「かばち」とも」(岩波古語辞典)とあり、かまちとかばちは同じ言葉のようだ。それならば「かばちをたたく」は舌から見て周りを叩く、で意味が通る。これで解決としたいが、残る興味は貞国の歌に広島弁のかばち(生意気、へらず口、屁理屈)のニュアンスが加わっているかどうか。一文銭で音を出しているからお金が無いと風鈴は鳴らない、それは当たり前のことで、それだけの歌なのだろうか。それに、この二首を見る限り、貞国は風鈴の音を納涼とか風流の題材としてはとらえていない。鳴り響く風鈴をうるさく聞いてイラっとして「かばちよ」と言ってた可能性はあると思う。狂歌家の風には方言の類は全く見られない。あるいはタブーだったのか。ただ、「かばち」は西日本のかなり広い地域に痕跡があり、方言と思わず使ってしまったのかもしれない。「かばちをたたく」を探してみたい。

二首目に移ろう。真帆とは追い風で帆を十分に張った状態。三井寺の鐘との関連で言えば、近江八景に「三井の晩鐘」とともに「矢橋の帰帆」があり、


  真帆引てやはせに帰る舟は今うち出の濱をあとの追風


という歌が知られている。「せゝ」についても琵琶湖との関連で詠まれた歌を「狂歌拾葉集」から二首引いておこう

 

       湖邊納涼               艸丸 

  四文銭のせゝのうら波涼しやなあつまから吹て来たる青東風  



       湖邊水鳥               崎丸 

  日まはしのせゝの入江の水鳥はあしのせわしいものにそありける 


二首とも「せゝ」は「ぜぜ」、銭のこととして詠んでいる。一首目の四文銭は裏に波形が入っていて浦波に続く。二首目では「日回しのぜぜ」、また「あし」もお金を指す言葉だ。私の曾祖母もよく「おあしが逃げる」と言っていた。そして二首とも湖、琵琶湖の歌となると「せゝ」は「膳所」だろうか。

これをふまえて貞国の歌をみると、真帆の舟が行き交う膳所のあたりに三井寺の鐘が響く、しかしこれはビジョンであって、実際目の前の光景は「ぜぜ」すなわち一文銭の下の短尺が強い風を受けて風鈴が鳴り響いている、ということだろうか。

なお、狂歌家の風には短尺を船の帆に見立てた歌がもう一首ある。

 

      花見にまかりて 

  短尺の帆うらをうつてみゆる哉風なき庭の花のしら浪


さらに「狂歌桃のなかれ」(pdfファイル)にも、


       庭上虫          広島 葭葉 

  松むしの音にくらふれは短冊の帆風とらるゝ朝の風鈴


とあり、貞国やその門人が好んだ取り合わせだったようだ。しかし私にはピンとこなくて、こうやって調べてみた後でもまだスッキリしない部分が残っている。もっと探してみたい。


【追記1】鳥取県では「かばちをたたく」と言うようだ。

「おめーらはえらそーにかばちばっかりたたいとんな」

という例が出ている。今の広島では、「かばち」は「たれる」ものというのが強すぎて中々見つからない。少し昔を探さないといけないのだろう。


【追記2】山口でも「かばちをたたく」の記述があり、

    かばち      共通語:おしゃべり 「~をたたく」

また柳井の方言としても

  「かばちをたれる・かばちをたたく」= 大言壮語する。

とある。最近書かれたブログなどでは、鳥取、山口両県とも、やはり「たれる」が多い印象を受ける。しかし、「かばちをたたく」という表現は確かにあって、どうやら貞国は風鈴の音を快く聞いてなかったという可能性が大きくなってきた。もっとも「かばちたれ」と言っても、おしゃべりな人ぐらいの文脈で出てくることもある。どれぐらいの不快感を伴った言葉であったのか、貞国に近い時代の用例を見たいところだ。難しそうだけど、ぼちぼち探してみたい。

 

【追記3】明治41年、広島尚古会編「尚古」参年第八号、倉田毎允氏「栗本軒貞国の狂歌」の中に二首目と同じ歌があるが、詞書、歌の語句ともに家の風とは異なっている。

 

       風鈴の短冊に書ける近江八景を

  短冊は真帆とも三井の鐘の音かせゝのあたりに開くふうれい

 

なんと、風鈴の短冊に近江八景が書いてあったと。そうわかっていれば歌の解釈に難儀することはなかった。しかし、近江八景の情景をビジョンとした上記の解釈は惜しかった。当たらずとも遠からずということにしていただきたい。問題は、一見重要にも思えるこの詞書を狂歌家の風ではどうして端折ってしまったのか。無い方が面白いと感じたのか、それとも無くてもわかるだろうということだろうか。ここは課題として残った。「開く」のところは本の活字がつぶれていてルーペで見たけれど、今の所「開く」にしか見えない。そして最後、「ふうれい」となっている。貞国は風鈴を「ふうれい」と読んでいた可能性が高くなった。

 

【追記4】 1927年「出雲方言考」にも「かばちをたゝく」の記述があった。

「「かばちをたゝく」とは人に負けぬように口ごたへする様を罵りていふ、その発する音を鉢か何かをたゝく音にたぐへていつたものであらう。」

とあり、ここで面白いのは後半の筆者の想像の部分であって、「かばちを叩く」という表現は何かを叩いて音を出すのが先で、そこから口から発せられる言葉について言うようになったのではないかと。その通りであるならば、貞国の「かはちをたゝく」は、まだ人語のうるさい意味は加わっていなくて風鈴の音だけの可能性も残っていることになる。やはり同時代の用例を見つけたいものだ。

 

【追記5】 一休禅師の狂歌問答に、矢橋、ぜぜ、三井寺が出てくるやりとりがあった。

 

  光陰(くわういん)は矢(や)ばせをわたる舟(ふね)よりも

  早(はや)いとしらばすゑを三井寺(みゐでら)    一休

 

  分限(ぶんげん)に粟津(あはづ)にぜゝをつかふなよ

  心(こゝろ)かたゝにしまつからさき         蜷川


近江八景はよく知られた題材だったようだ。


柳縁斎貞国

2018-11-25 19:05:10 | 栗本軒貞国

 

「狂歌桃のなかれ」(pdfファイル)をネット上で見つけて読み始めたら、いきなりタイトルの柳縁斎貞国が出てきた。この表記を見るのは初めてだった。「狂歌桃のなかれ」は桃縁斎貞佐の弟子、三次の星流舎貞石編、寛政五年(1793)刊とある。口絵の貞佐の歌に続いて石丈薗芝郷の序文があり、本編はまず貞石の歳旦の歌があり、その次の歌、

 

                       広島 柳縁斎貞国 

  いゝいつる言の葉もみな和歌めくや今朝は見るもの聞く物につれ

 

雑の歌にも、

 

      芸陽柳縁斎師に始てまみえし折から    柳芽

  今よりもむかし男になれそめてやさしいことのはなし聞はや


      返し                  貞国

  昔男とはの給へとあいそめてきりやうのなひに恋さめやせん


とあり、栗本軒の前貞国は柳縁斎と名乗ったことがわかる。詞書に芸陽とある。この「狂歌桃のなかれ」は編者である貞石が三次、その他にも庄原、東城など備北地区の門人が名を連ねている。備北から広島方向を眺めたニュアンスが入っているのではないかと考える。また、寛政二年に貞国が佐伯郡大野村に人丸神社を勧請(松原丹宮代扣書)した三年後の撰であり大野の門人の名前も見える。すでに別鴉郷連中の動きも活発になっていた頃と推測される。このあと貞国は芝山持豊卿から栗本軒の軒号をいただいて享保元年(1801)に「狂歌家の風」を刊行、撰者柳園井蛙の序文には、

「爰に吾師貞国 翁わかふより此道にさとく秀て先師桃翁の本に古今八雲人丸等の 奥秘をつたへ終に正風幽玄のさかいに至り」

とある。一方、今読んでいる玉雲斎貞右撰「狂歌玉雲集」寛政二年(1790)の序には、

「それより我師安芸国桃縁斎の翁先師より伝来の秘事口決古今八雲の秘書及び勝まけの拂子文台を伝え請たまへは玉雲翁第三の詞宗たりやつかれかくたいせちの品々を授り」

とある。貞右は玉雲翁信海、貞柳、貞佐と続く玉雲翁四世という認識を自分で持っていたようだ。序文を比較しただけならば、貞右が先に良い物をもらった印象だけど、家の風の序文は栗本軒に重点が置かれていて、貞佐との関係はこの一節だけで詳しく語られてはいない。なお、貞右の玉雲斎という号は、貞佐ではなく「やんことなきおほん方より」とある。しかしそれならば、貞柳からの「柳門」は誰が継いだのだろうか。木端が柳門二世を名乗ったというのは見かけたけれど、柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」によると、柳門は貞国から周防の栗陰軒貞六に伝えられたという。玖珂にある貞六の碑には、

「柳門四世栗陰軒貞六翁之塔九十四歳」

とあるようだ。貞柳→貞佐→貞国→貞六、というのが貞国や貞六の言い分と思われる。もちろん異説もある。ネット上で検索しても、柳門は木端の栗派と貞右の丸派に二分したと出てくる。狂歌の系譜に貞国や貞六は見当たらない。また、柳井の本には貞佐と貞国の間に貞右が入る可能性に言及しているけれど、今のところそんな感じは見られない。「狂歌桃のなかれ」庄原の連雲斎貞桟の跋文には、

「星流舎先生狂歌をこのみ近里遠郷の風人より消息の端にかいつけ来ぬる歌及ひ社中の詠をあつめ壱冊となし桃の流れと名つけけるもりうもんをこひしたふことのなれは宜なりけらし」

柳門を恋い慕って桃の流れと名付けた、とある。「りうもんをこひしたふ」とはいかなる意識、距離感なのか。柳門イコール「桃の流れ」ということなのか、あるいは柳門は三次庄原から見て広島よりもっと遠いところにあるということなのか。もっとも何が伝えられたのかも私にはよくわかっていない。今はこのあたりでやめておこう。


11月22日広島県立図書館 「松原丹宮代扣書」「大頭神社縁起書」など

2018-11-22 20:12:17 | 図書館

 今日は書庫の本をいつも出してもらうカウンター2に行く前に、郷土資料の書架から「広島県史 近世資料編6」を取ってきて「秋長夜話」を読んだ。大頭神社の神事を四鳥の別というのは俗伝との項を見ると、これを引用していた「広島県史 第2編」では四烏とカラスの字になっていたのだけれど、今日見た資料編では鳥喰、四鳥ともすべてトリの字になっていた。もう、このトリとカラスにはかなり悩まされていて今日もルーペで何度も見た。秋長夜話については一応こちらの資料編を信用して先に進もう。ひとつ関連して、厳島道芝記にあった「五烏」について秋長夜話には、

「厳島に五烏あり、中華にて神鴉といふ、杜子美の詩に迎擢舞神鴉とあるこれなり」

とあり、厳島で五烏、中国で神鴉というのは本当にそういう対比で良いのかと思うけれど、とにかく道芝記と同じ「五烏」という表記があった。

「秋長夜話」はリアルタイムでの田沼批判の記述から、天明年間の著作と言われている。広島の方言についての考察も出てくるが、語源については首をかしげたくなるものもある。しかし、「いびせし」「もとほらぬ」「ふてる」など、この時代から使われていたことがわかる。その中に、

 「広島にて人を杖うつをくらはすといふ」

というのがあった。狂歌家の風に「握りこふし喰ふな」を「くふな」と読むか「くらふな」と読むかの、ひとつの参考だろうか。また、深川薬師について、仏像のみならず梵鐘の値打ちを述べている。そして上深川村の吉川興経の墓について、

「岩国よりかくてさしおかるゝこそ心えね」

と岩国領吉川氏がこの墓を放置していることは納得いかないとしている。


次は、同じ郷土資料の書架から、「大頭神社 御遷座百年記念誌」を読んだ。まず、「四鳥の別れ」の神事について、

「大頭神社は、大正二年に妹背の滝のほとりに社殿を遷座してきたが、これに伴い「四鳥の別れ」の神事も伝説化してしまい、現在は、日々、神社の傍らの石に烏喰飯を供えるだけである。」

とある。今の大頭神社は素晴らしい場所と思うけれど山に近づいた分、弥山の神烏と疎遠になってしまったのだろうか。さて、この本は古文書の解説にページ数を割いていて、これはありがたいことだった。まず、「大頭神社縁起書」天保十四(1843)年は写真で全文を読める。烏喰祭は確かに厳島神社とは違ってカラスの字であった。また、道芝記になく、厳島図会にはあった四鳥の別れが入っている。そして、この両書では、神事のあと親カラスは行方しれずとあったけれど、縁起書には、



「此時雌雄子四鳥の神烏来りて神供を上り二羽の親烏は紀州熊野社に帰るといふ事昔時より伝来なり故に此神事を四鳥の別れ子別の神事という諺にも四鳥のわかれ烏跡といへり依て此里を別鴉郷といふ事此の神事より始れり」

とあり、親烏は熊野へ帰るとある。行方知れずが古く熊野は比較的新しい後付けではないかと思っていたけれど、天保まで遡れることがわかった。

次に、「松原丹宮代扣書」(まつばらたみやだいひかえがき)についての解説が載っていた。この文書については、

「大頭神社に残る古文書の一つで、安永六年(一七七七)から文化一〇年(一八一三)の三六年間にわたって、時の松原丹宮宮司が大野村を中心に世の中の出来事を日記風に書き綴ったものです。」

確かに大野で初めての亥の子祭り、天変地異や訴訟など興味深い記述が多いのだけど、寛政二年(一七九〇)の記述にアッと声が出てしまった。

 

「三月十八日 人丸神社更地左近谷筆柿の本へ遷宮仕、御神体願主福原(福井の誤か)貞国、御社願主上下氏子中狂歌連中十二人にて寄進す。(後略)

(解説)当時草深い田舎の大野村に、広島の栗本軒貞国を師匠とし、芸文の花を咲かせていた「別鴉郷(べつあごう)連中」という狂歌のグループがあった。狂歌とは、三十一文字の和歌の形をとるこっけい文学で、俳句の形をとる川柳とともに、江戸時代の大衆文学であった。師匠の貞国は広島の「化政文化」を代表する狂歌師であった。これらの人たちによって、石見人丸神社(益田市にあり)を更地迫の谷に勧請(かんじょう)したのである。人丸は万葉歌人柿本人麻呂を祭神とし、文学詩歌の神としてあがめられているものである。」

 

これは見つけにくい貞国についての記述であるとともに、私にとって何か所も有益な情報を含んでいる。まず、三月十八日は「水底の歌」に何度も出てきた人麻呂の命日、私は梅原猛先生のファンで益田の柿本神社にも行ったことがある。次に筆柿、狂歌家の風の人丸神社の歌には筆梯という言葉が出てきて今のところ用例も見つからず意味も取れていない。梯ではなく柿の異体字の柹」として「筆柿」の可能性はないのかと以前から考えていたけれど、ひとつ難点があって、それは詞書に「人丸社奉納題春日筆梯」、歌は、

 

  此神の御手にもたれてことの葉のみちをこのめやはるの筆梯 

 

とあって筆柿に置き換えた時に実のある秋ではなく春とした意味がわからないことであった。しかし、筆柿のある場所に人丸神社を勧請した時、寛政二年三月十八日の歌ならばあり得るのではないかと思う。ただ一方で、梯の字に「もたれる」という意味があり、このままで何か意味があって「持たれて」と掛けている可能性は残る。これはまず原本を見てみたいものだ。筆柿が長くなってしまったけれど話を戻して続けよう。狂歌家の風の神祇の部は、住吉社、人丸社、厳島社、大頭社の順に並んでいて、人丸社が大野村だとすると、住吉社も広島の水主町あるいは宇品の住吉神社なのか、考えてみないといけない。住吉、人丸と並んだら当然摂津だと思っていた。さらに解説文中の「別鴉郷連中」、初めて見る言葉だ。これが出てくる文献は何なのか、もっと大野村関連の史書を読まないといけない。図書館でドキドキしたのは久しぶりだった。それにしても、(後略)とあるのがとても残念だ。ひょっとしたら上述の奉納歌の記述があったかもしれない。記念誌のこの資料についての記述は大野町編「古文書への招待(松原丹宮代扣書)」からの転載とあったので、ここで今日は行ってなかったカウンター2で書庫から出していただいたが、やはり後略であった。原本は大野町の公民館で厳重に保管とあり、行っても見せてはもらえないかな・・・

なお、この「松原丹宮代扣書」には「鳥喰すみやかに上る」やはり普段はすんなりとカラスが食ってくれないんだなという記述や、雨乞いで鳥喰祭が行われたという貞国の歌の詞書のような記述もある。しかし、天保の縁起書と違って、鳥喰はすべてトリの字を使ってある。宮司さんの記述であるにもかかわらず、カラスではない。解説は今の大頭神社公式にならってカラスで書いてあるから、本文ははっきりトリなのだろう。縁起書から五十年前、この宮司さんの時代には厳島神社と同じようにトリで書いたか、あるいはトリかカラスかこだわっていなかったか、この鳥喰・烏喰問題はまだまだ虫メガネが手放せないようだ。

借りて帰ったのは「近世上方狂歌叢書26」と「京都大学蔵潁原文庫選集 第4巻」の二冊。後者は貞柳狂歌訓などが入っている。前者は「狂歌二翁集」の「鯨涅槃図」に興味を引かれたのがきっかけだった。国会図書館デジタルコレクションで「貞佐」と検索すると、「果蔬涅槃図」と描かれた野菜・果物について、という論文が出てくる。京野菜好きの私にとって野菜の涅槃図も大いに興味を引かれるところだけど、この論文の中に「狂歌二翁集」の「鯨涅槃図」の記述があって、注釈に、

「明和三年(1766)画、享和四年(1804)刊の『狂歌二翁集』に桃縁斎芥川貞佐の記と供に載る「見立涅槃図」である。鯨飲の洒落で、酒好きを表している。」

とある。今日初めて見たけれど、中央に鯨がでんと横たわって、周りにいろんな魚介類が描かれているようだ。



この二冊、三週間で読むのは大変な分量だが、頑張ってみたい。

 

 


狂歌家の風(13) 十八のきみ

2018-11-21 09:56:02 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)今日は釈教の部から一首、

 

     他力安心といへる題を得て 

 本願と同し数なる十八のきみかちからをのほる藤なみ 


「本願と同じ数なる十八」は、四十八願のうち第十八願を「念仏往生の願」として真宗などではもっとも重要な本願と考えていることによる。他力安心という題からすると、「きみかちから」が他力ということだろうか、しかし藤が登っていくとはどういうことか。十八は二八の君と同じように年齢なのか。この歌も意味がとれなくてしばらく放置していた。ところが最近、「狂歌かゝみやま」を読んでいたら正月の歌にタイトルの「十八のきみ」が出てくる歌が二首あった。



 わかやいて老せぬ門ととし毎にいつも十八のきみをかさるか(木端) 

                
 門毎の十八のきみの立すかた見てやかすみのなひく成らん(華産) 


二首ともお正月の門松の歌、「十八のきみ」は「十八の公」で漢字の松の字をばらした言葉だった。十八公(じふはちこう)は和漢朗詠集に用例があり、より一般的な言い方のようだ。貞国の歌の十八は「じふはち」で良さそうだけど、「狂歌かゝみやま」の二首は歌の調子から言って三文字で読んでいるように思える。とはちだろうか、これは他を探してみたい。

それにしても、松と藤をセットで詠んだ狂歌は何首も見ていたのに、全く松に思い至らなかったのはいただけないことだった。それに十八公は辞書で見ていたのに全く関連性を考えなかったのもアレだった。古今夷曲集の貞徳の歌

 

 紫のふどしに似たりふぢのはな松のふぐりを咲きてつゝめば

 

男は松女は藤という言葉もあり、そういう意味もこめての組み合わせだろうか。和歌の用例でも平安時代から定着した組み合わせのようで、松(天皇家)と藤原氏の関係という指摘もある。しかし、藤を松に登らせると松が弱ってしまうような気がする。今はあまり見られない光景ではないかと思う。うちにも祖父の形見の松の木が玄関先にあるけれど、つるを登らせるとかとんでもないことだ。貞柳の歌に、

 

     安井御門跡のお庭にて

 松に藤かゝるためしは多けれどかゝる詠は京てなうては

 

ためしは多い、という表現はみんながやってる事ではなさそうにも思える。この一つ前のやはり松と藤を詠んだ歌は全く意味がとれない。

 

     藤

 松は千代まさいるくとや白藤はねちゑんかうん風にうなつく

 

どなたかわかる方いらっしゃったら教えて下さい。最初の貞国の歌に戻ると、他力の本願を藤が松を登っていく姿になぞらえた歌だった。無知に加えて頭が鈍くなってるせいで随分時間がかかってしまった。その分わかった時の喜びは大きかったとは言えるのだけど。

 

【追記1】「狂歌五題集」に「十八のきみ」が入った歌があった。

 

          藤

  末かけて引しめ藤も千とせ迄十八のきみにまとひつくらん  高槻 花遊

 

これも三文字で読むようだ。

 

【追記2】狂歌江都名所図会の増上寺の項に十八公が出てくる歌が二首ある(二首目はリンクの次々項、13ページ目)。

 

  千代八千代かはらてしける枝葉さへ十八公の御手植の松  鶴のや松雄

 

  檀林の十八公のもと木とて円坐の松も枝葉茂れり   東風のや

 

この二首は松という言葉も入っていて、単に十八公イコール松ということにはなっていない。増上寺は関東十八檀林の筆頭であり、この十八という数は本願である第十八願に由来し、また松平十八公の盛運を祈ってのものだという。松平十八公という言葉も松平家に十八の家系がある訳ではなく、十八公が松を指すことから来ているようだ。

 

【追記3】明治41年、広島尚古会編「尚古」参年第八号、倉田毎允氏「栗本軒貞国の狂歌」の中に、「十八の公」が入った歌があった。

 

    三味線のこまさらへにてチヽチン千世の
    ためしをひき猶十かへりの花をやうには
    箒の竹の幾萬代をふりこめふりこむヤツ
    此の所作事

  いつまても長生の名は高砂や老も若木の十八の公

 

詞書に興味を引かれる。三味線の歌詞を探してみたい。


「徒然の友」貞国のはなし

2018-11-18 19:08:41 | 栗本軒貞国

 「狂歌家の風」以外で栗本軒貞国の歌を見つけるのは中々難しいのだけど、今回は「徒然の友」にある「貞国のはなし」を書き出してみよう。

 

    ○貞国のはなし

廣島に貞國(ていこく)とて狂歌(きようか)の名人ありしが或日の夕方一人の狂歌師尋ね来りけるに折節(をりふし)貞國うゝた寝(ね)してありければ

 貞國と名は廣島にはたばりて七つ半(なから)でねてをられけり

とよみたりしかば貞國目をさまして返しに

 はづかしやいなかもめんのをりわるふ目をばそなたにあけて貰(もら)ふた

 

折悪う(タイミング悪く)寝ていた、というのを「田舎木綿の織り悪う」と詠んでいる。目をあける、も織物の縁語と思われるが具体的にどのように隙間をあけるのかよくわからない。「おまむき」の回でこの「徒然の友」から貞佐の仏護寺の歌を紹介したけれど、貞佐の歌もこの貞国の歌も出典等は書いてなく今のところ本人の作で間違いないという証拠は見つけられていない。そういう目で眺めるせいだろうか、この歌は狂歌家の風に収められている貞国の歌の作風とは少し違っているような気がする。「狂歌家の風」の歌は、歯切れがよく軽快で、広島人であれば少し早口でしゃべっているような印象を私は受ける。一方「徒然の友」の方は祖父の代の古い広島人がこの時期ならば「寒うなりましたの」とゆっくり目に話しかける、方言の語彙はなくても本来の広島弁のテンポだろうか。「狂歌家の風」には、こういうスローテンポの歌はあまり見られない。意図的にそういう歌を採らなかった可能性もあるのかもしれない。もちろん、こちらは贈答歌だからということはあるだろう。寝起きということもあるだろうか。それはともかく、貞佐であれば笠岡の生まれで様々な文化人との交流を経て後に広島に住んだことが知られているが、貞国については「広島の狂歌師」、しか見たことがない。ひょっとしたら東国の生まれではないかと思わせる言葉の使い方もないではなく、あるいは上方ではなく江戸を意識した作風だったとも考えられる。これは上方も江戸も狂歌をもう少し読んでから考えてみたい。

さて、この「徒然の友」は明治29年の刊で、味潟漁夫 (入沢八十二) 編とあるのだけれど、検索してもこれ以外の著作は出てこない。この本の後半には糸崎八幡宮や三次郡山家村の話が出ていて、備後国に詳しい人かもしれない。こちらも探してみたいと思う。

 

【追記】来訪者の歌にある「はたばり」の用例が「狂歌手なれの鏡」にあった。

 

    寸長斎桃里の都へまからは必立よりねとあるに上京

    せしかと逗留程なくて尋さる故かくいひ贈る  木端

  君か方えゆきあはぬのは二三日ちよつとかりきのたひ衣ゆへ

    かへし                  桃里

  おりあらは重ねてきませ旅衣はたはりもなき住居なれ共

 

とある「はたばり」は徒然の友の来訪者の歌では幅をきかせる、意気盛んというような意味合い、一方桃里の歌では住居の幅、広さを言っているものと思われる。この贈答歌のように衣や織物の縁語になり得るもので、この「はたばりて」をとらえて貞国が織物の縁語を並べた歌を返したということになる。

 


狂歌家の風(12) にかのおたとへ

2018-11-16 11:12:03 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」、今日は釈教の部から一首、

 

     寄薬釈教 

 ほんのうの病をなをす良薬は熊膽よりもにかのおたとへ


 釈教の歌ということで、初句は本能ではなく煩悩。熊膽は熊の胆のうから作った生薬で音読みすれば「ゆうたん」、ここは類歌によって「くまのゐ」と読んでおく。「にかのおたとへ」は浄土真宗における二河白道(にがびゃくどう)の譬えを指す。もちろん良薬は口に苦しの「にが」もかけてある。

 二河白道は元々は中国浄土教の比喩譚、後に親鸞が教行信証に引用したようだ。おおまかな内容は、ある人が西に向かって遠い道のりを進んでいたところ、突然目の前に火の河と水の河が現れた。北の水の河と南の火の河の間に一本の白道があるけれどもその幅はわずか四五寸に過ぎない。後ろからは群賊悪獣、南北からも悪獣毒蟲が迫り、進退窮まったと思われた時に・・・ここからは二河白道図会を引用してみよう。わかりやすい挿絵が入っている。


「東の岸にたちまちに人のすゝむる声をきく(釈尊の発遣也)仁者必定して是道を尋てゆけ。かならず死の難無けん。もしとゞまらばすなはち死せむと。又西の岸の上に人ありて(弥陀如来の召喚なり即第十八の本願なり)喚ていはく。汝一心正念にして直に来れ。我能汝をまぼらん。総て水火の難に堕せん事を惶(をそれ)ざれと。」


そしてこの声に導かれて、人は白道を渡り切り西岸にたどりついたという。阿弥陀様の待つ彼岸に行くのに死の難を逃れるというのはアレっと思ったけれど、それはきっと私の信心が足りないのであろう。

これで貞国の歌は一応理解できたことになるが、最近読んでいる「狂歌かゝみやま」にちょっと変わった熊膽の歌があったので引いてみよう。


     ある人遺精を月に六七度も見るに一医の 
     すゝめにて熊膽の入し丸薬を一日に三度つゝ 
     服すれとも験なし久服くるしからすやと問は 
     れて返答にこまり戯れによみける       栗山

 すゝめられ熊のゐ三度まいれともまためくらぬかいせい七度


詞書の久服は頓服の対義語で長期間服用することのようだ。勧められてくまのゐを三度服用したけれどまだ薬が体を廻らないのか遺精七度が治ってない。しかし「戯れに」とあるし、ただそれだけの歌ではないだろう。三度と七度を歌に入れている、ここがポイントだろうか。熊野参りが三度ということかと調べたら、

   「伊勢へ七度熊野へ三度、愛宕様へは月まゐり」

愛宕様のところはお多賀様にもなるようだけど、このような俗謡が出てきた。かぶきのさうしでは熊野は十三度になっている。

「茶屋のおかゝに末代そはば、伊勢へ七度熊野へ十三度、愛宕さまへは月まゐり」

すると、この俗謡をふまえて、この狂歌と詞書は創作されたと考えるべきだろう。遺精とか出てくるから変だとは思った。

ありがたいお話から一転、まだまだ西に向かって進む心境には遠いようだ。

 

【追記1】同じ「狂歌かゝみやま」に、もう一首「くまのゐ」の入った歌があった。

 

     良薬苦口といふ事を      木端

 少しても強いにかみや腹の内に積と棒ねちする熊のゐとて

 

棒捻(ばうねぢ)は二人が向かい合って棒の両端を持ち反対にねじり合ってねじり取った方を勝ちとする遊び。くまのゐは胃がねじれる程苦いのだろうか。すると貞国の歌の「にが」は良薬は口に「にが」もあるけれど、熊膽よりも「にが」に重点があるのかもしれない。

 

【追記2】「萬載狂歌集」に上記の遺精と同じ歌があった。詞書が少し違っているので引いてみよう。

 

     ある人遺精を月に六七度づつゆめみて心地あし

     ければあるくすしのすゝめにて熊膽丸日ごとに

     三たびづつ服すれどしるしなしといふを聞きて  栗山

 すゝめられくまのゐ三度まゐれどもまだめぐらぬかいせい七たび

 

「狂歌かゝみやま」は1758年刊、「萬載狂歌集」は1783年刊であるからこちらは、「狂歌かゝみやま」から採ったものと思われる。いかにも作り物っぽい設定に思えるのだけど、着想が評価されたのだろうか。それはともかく、詞書をみると、まず、「ゆうたんがん」という現代にもある薬の名前になっている。それから、「遺精を月に六七度づつゆめみて心地あしければ」のところの表現は手が込んでいる。しかしながら、遺精と夢精は、とか書き始めると面倒なのでやめておこう。


狂歌家の風(11) 二八の君

2018-11-15 10:17:14 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は恋の部から一首、

 

     寄喰物恋 

 喰込た二八の君かそはにのみ何やかやくをたしに遣ふて 


二八そばに寄せた恋の歌。二八、蕎麦、かやく、出汁と詠みこんでいる。二八が狂歌でよく出てくるのは月見の頃、十五夜を三五、十六夜を二八というのはよくみかける。「狂歌かゝみやま」から一首引いてみよう、


    もちいさよひはさし曇りつるに立待の月の

    はれけるを              木端

 九々の数の三五二八にすぐれたるこよひの月は算用の外

 

十七日の立待月は九九の算用の外だと詠んでいる。貞国の歌に戻って、「二八の君」は十六歳の女性のようだ。同じ「狂歌かゝみやま」に、

 

     若き男の遊所にて新造にふられしといふ

     はなしをきゝて                栗山

 けんとんな二八はかりのふり袖にふられて出るはこしやうあかりか

 

新造は遊女見習いで、客を取るのは十六、七とあるからこの二八も十六歳だろう。「けんとん」は下級女郎という意味の他に、蕎麦うどんなどを一杯ずつ盛切りにしたものという意味もあり、ここは両方を掛けていると思われる。「小姓上がり」は現代では前任者に取り立てられて出世コースを歩んだという文脈が多いように思うが、ここでは無能のニュアンスだろうか。数えで十六歳だと今なら中学3年生ぐらい、これらの歌をみると恋愛対象としても問題なかったようだ。同じ「狂歌かゝみやま」には十四歳で嫁入りという歌がみえる。

 

    もゝといふ女の十四才にてよめいりせる日戯む

    れて読てつかはす               雨蛍

 十とせ余りよもとのこかけそれならて今宵そ色のはしまりにける

 

十四歳なら話題になるということだろうか、話がそれてしまった。「二八」で検索すると二八蕎麦の語源について書かれたものが多く出てくる。そば粉の割合という説は二八うどんもあるからボツ、値が十六文というのも十六文よりもっと安かった時代から二八と呼ばれていたからボツ、中々難しいようだ。「狂歌秋の花」に十六夜の二八からうどんを連想した歌がある。

 

     同十六夜           永日庵其律

 先の夜は芋とたんこに詠め来て二八の月にうとん恋しき

 

昨夜(十五夜)は芋と団子で月をながめて、今夜は二八の月を見てうどんが恋しい。作者の永日庵其律は名古屋の人、名古屋も大阪同様にうどん文化だったようだ。貞国が住んでいた広島はどうだったか。冒頭の歌だけをみると二八は蕎麦だったように思える。また、「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品 」には、貞国がそば粉を贈られた時の、

 

 恥しや舌も廻らぬ石臼にお引廻しはご免あれかし

 

という歌が載っていて、あるいは蕎麦が好物だったのかもしれない。しかし、貞国の時代に広島城下に蕎麦屋があったのかどうか、まだ見つけられていない。「芸備孝義伝」に可部のうどん屋の清兵衛さんの話がのっているが、「家まづしけれど」とあり、あまり流行ってはなさそうだ。

色々書いてきたけれど、最初の貞国の歌、まだスッキリしないところがある。恋の歌として最後のだしに遣う、のは何をだしに使うのか。「かやく」は江戸時代には薬味のことを指す場合が多いようだが、何か別の意味があるのか、それとも、「何や」何とかして君の側にいたい、という意味でかやくは蕎麦の縁語に過ぎないのか、もうちょっとかゆいところに手が届いていない感じもする。

【追記1】と書いたその日のうちにラストはやはり私の読みが足りなかったことに気づいた。「何やかやく」は「何やかや」あれやこれや、だった。すると恋の歌としては、あれやこれやダシに使って君のそばに、ということになる。もうちょっとよく考えてから書けばとも思うが、ここに書いてみて気づくこともある。今後もこんな感じでやっていきたい。

 

【追記2】 「二八娘」の用例を上方狂歌から、

 

       娘待嫁入      籃果亭拾栗

  麺類の二八娘はこん礼を細長うくひをのはしてそ待 (狂歌百羽搔)


       娘有佳色      白石花陘

  もゝの媚有てようようほめらるゝ二八のむすめたれにとつかむ (萩の折はし)


一首目は貞国の歌と同じ趣向ながら麺類と読んでいるからうどんも蕎麦も両方念頭にあったのかもしれない。二首目の「もゝの媚(こび)」は長恨歌にある「回頭一笑百媚生」によるもので平家物語にも「この后一たびゑめば百の媚ありけり」とある。江戸時代には、十六歳はそろそろ婚礼の話が出始める年頃だったように思われる。ネットなどでは十五歳が平均のように書かれたものもあるが、雨蛍の歌からは十四歳はまだ子供、早過ぎるという感覚が読み取れる。二八娘はそろそろ、というニュアンスも含んだ言葉だったのかもしれない。


妙手とAI

2018-11-14 10:18:33 | 囲碁

 今回は囲碁のお話。私は中学高校大学と囲碁部に所属してそれなりに情熱を傾けて団体戦では全国大会にも出場した。広島に戻って来てからもネット対局で楽しんでいたけれど、ここ十年は両親が高齢になって家にいても時間をかけて碁に集中できる環境ではなく休止状態だ。したがって現在の囲碁界に詳しいわけではないが、少し前にAlphaGo Zeroの論文を読んでみて少し思うところがあったので書いてみたい。

 囲碁史の中で妙手と言われる手はたくさんあるだろうが、有名なのは秀策の耳赤の一手だろうか。秀策の故郷、尾道市因島にある本因坊秀策囲碁記念館の解説によると、

 

秀策は二度目の帰郷から江戸に帰る途中大阪に立ち寄り、当時準名人位(八段)として名をはせた十一世因碩と対局します。勝負は中盤まで因碩が有利な形勢で進み、秀策が長考を重ね百二十七手目を打ったその時「秀策の勝ち」を予言する男が現れます。その男は医師で、理由を尋ねる門人達に「あの一手で因碩師の耳が赤くなった。動揺し自信を失った証拠」と述べたそうです。

予言通り形勢は逆転し、秀策が勝利します。この一手は、秀策の気力と天分が凝縮した究極の一手だといわれています。

 

とある。ところが、この耳赤の一手は妙手ではない、という話もよく耳にする。直前の126手目のハザマを突いた手が疑問手で、呉清源先生は「若手棋士(40年前)なら第一感で打つ」と発言されているし、ネットで検索したら「私でも打てる」といった話も引っかかる。

しかし、そもそも妙手とはいかなる手のことを言うのであろうか。囲碁の神様から見ると、盤上には最善手(一点とは限らない)のみが存在し、それを超える手はないはずだ。すると妙手か妙手でないかという議論そのものがナンセンスということになる。何やら訳のわからない話になりそうなので、もうひとつのテーマ、AIについて考えてみよう。

AlphaGo Zeroについての論文、

Mastering the Game of Go without Human Knowledge (リンクはpdfファイル)

(ダウンロードしないと見れないようです。すみません)

を読んでみた。もちろん私にはアルゴリズムを記述した部分は理解できない。表題にもあるようにこのAlphaGo Zero”without Human Knowledge”、人間の棋譜を参考にすることなく”self-play algorithm” 自己学習のみでプロ棋士よりも、またそれまでのAIの上を行く棋力に到達した。興味深いのは人間の棋譜をインプットしていないにもかかわらず、途中の段階で我々もお世話になっている基本定石が登場していることだ。AIというのは囲碁の神様、すなわちすべてを読み切る全知全能を目指したものではなく、あくまで人間の思考、学習を極めようという目的があるように思える。囲碁のAIの実力を飛躍的に向上させたとされるモンテカルロ木のアルゴリズムは、取捨選択した候補手については終局まで読んでいるそうだ。後述するセドルさんの「神の一手」のあとAlphaGo Lee(AlphaGoの以前のバージョン)が悪手を連発したことについては当時のモンテカルロ木のアルゴリズムの弱点を露呈したものだという指摘がある。しかし、この取捨選択こそがAIのAIたるゆえんであり、他の分野での応用という意味でも、我々は最終的な実力だけでなく、その途中経過に目を向けた方がいいのだろう。

さらに興味深いのは、シチョウについての記述。

Surprisingly, shicho (“ladder” capture sequences that may span the whole board) – one of the first elements of Go knowledge learned by humans – were only understood by AlphaGo Zero much later in training.

盤を斜めに相手の石を追いかけて取ってしまうシチョウは、碁を覚えたその日に習うことが多く、人間だと視覚的にすぐ理解できるのに、AIには比較的苦手な項目だったようだ。思い出したのは高校生の時、数学の証明問題で、数学の先生が「これはあまり使わない方がいいけれども」と前置きして、「視察により」と黒板に書いた。一目見てわかることを後に続けたのだけど、その後先生が変わって、テストで視察によりと書く者続出で先生がおかんむりだったことがあった。人間が一目でわかることでも論理的数学的に論述しないといけないということなのだろう。これは逆に人間が苦手なことなのかな、話がそれた。

また、色々ネットで調べていくうちに、囲碁のように着手を数値化できるものはAIの得意とするところだけど、これを他の分野に応用となると簡単ではない、実用化できる分野は限られているという指摘をあちこちで見かけた。AIが学習を重ねて行きついた果ては狂気であった、というのはSFの中だけの話ではないかもしれない。

こちらも訳のわからない話になってきた。最後に、セドルさんの「神の一手」に登場してもらおう。前述のAlphaGo Leeに土をつけた一手、



このワリコミはAlphaGo Leeの意表をついて、その後AlphaGo Leeは悪手を連発、セドルさんの勝利となった。この碁は各所で中継されていて、私もリアルタイムで手順を追った。このワリコミによって、本当にAIが動揺したようにみえて、このあとの展開には心を動かされるものがあった。ありきたりな結論で申し訳ないが、妙手とは、見ている人に感動を与える一手のことではないかと思う。そして、セドルさんの一手は囲碁史に残る妙手と断言できる。AIはその後も進化して、今や人間が勝利するのは難しくなったと聞いている。AIの登場で、囲碁界の将来は難しくなった面は確かにあるかもしれない。しかし、考えてみると例えば陸上競技において、人間は自動車や飛行機より遅いから人間の記録には意味がないという話は聞いたことがない。AIが先に行ったからといって、これが最後の妙手だとも思わない。これからも、我々の心を動かすような手に出会えると信じたい。簡単ではないだろうが、悲観することもないだろう。


狂歌家の風(10) ゑひす講

2018-11-13 09:11:15 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は冬の部から一首、

 

     胡講 

 町なみの御神燈をは鯛をつる漁の火とも見よゑひす講

 

この胡講は広島の胡子神社の今でいう胡子大祭と思われる。しかしずっと広島に住んでいても「町なみの御神燈」がどんな情景だったのか想像するのは難しい。なお、歴史的仮名づかいは「えびす」であるが、当て字で「恵」の字を用いたこともあって、ゑびすの表記も多数見られる。ヱビスビールも、「惠比壽麦酒」という漢字が先で、それによって恵比寿という駅名、地名が誕生し、カタカナ表記はそのあとだったようだ。狂歌家の風には画賛の部にえびす様の絵を詠んだ歌がある。


     胡の画賛に 

 此神に追ひつくものはあら磯やたすきはつさぬ翁のいとなみ 


貞国の歌に限らず、えびす様を詠んだ狂歌は鯛を釣る姿がベースになっている。しかし、子供の頃から広島のえびす講には何度も出かけたけれど、商売繁盛はあっても磯の香りを感じたことはなかった。最近リニューアルされた胡子神社の公式サイトには、

胡子神社の御祭神は蛭子(ひるこ)神・事代主神・大江広元公(毛利家の始祖)の三柱が三位一体となったえびす神としてお祀りされ、商いを営む人だけでなく、福の神として多くの人々に崇敬されております。

とあり、大江広元公が入っている分えびす色が三分の二なのかなと思ったりもする。明治33年広島繁昌記 には、恵美須神社の項に次のような記述がある。

胡町にあり事代主神を祭る、当社の起りを尋ぬるに毛利元就吉田の庄にありし時同地に其の祖大江広元を祭りし像あり、広島に移城するに及びて何故にか取残されけるを里人見て蛭子神とのみ信じけるが(中略)正則即ち吉田の長に命じ広島に致さしむ(中略)左れば祭れる所の像は蛭子神にはあらず大江広元と知るべし」

毛利家の祖たる広元像を輝元公が放置したのはいかなる理由だったのか疑問も残るけれど、上記の胡子神社のサイトにも「胡子神社の起源が吉田にあるのは間違いありません。」とある。大正10年広島県史. 第2編にも恵美須神社の項に、

「像は方面無鬢、烏帽子狩衣を着け、叉手して立てる人物なり、之に依れば、当社の神、実は大江広元なるに似たり。」

(追記:「叉手して立」までは「秋長夜話」からの引用のようだ)こう念を押されるとやはり広元像なのだろう。吉田が出自というのも潮の香りがしない原因なのかもしれない。この像については胡子神社公式に記述がない。今も残っているのだろうか。

なお、この広島県史の神社の格付けを見ると、

一、官幣中社  (厳島神社)

二、国幣小社  (沼名前神社)

三、官祭招魂社 (廣島招魂社、福山招魂社)

四、縣社    (饒津神社、多家神社など)

五、郷社    (白神社、速谷神社、安神社、清神社など)

六、村社    (碇神社、比治山神社など地域の氏神様や八幡社)

七、無格社   (恵美須神社、住吉神社、愛宕神社、稲生神社など)

とある中で、恵美須神社は最後の無格社の所に出ている。広島の三大祭りの胡子神社と住吉神社が最低ランクなのは面白いところだ。

 冒頭の貞国の歌に戻ると、いさり火に見立てた「町なみの御神燈」がやはり心に引っかかる。今年もあと十日で「えべっさん」がやってくる。どんな光景だったか、絵でも何でも再現してもらいたいものだ。

 

【追記】 「広島胡子神社由緒」に、上記の御神体の像はやはり原爆で焼失したとあった。また、鎌倉の大江広元像も失われたという記述があり、胡子神社サイドでも大江広元像という認識だったようだ。


【追記2】 新修広島市史7巻(資料編2)に胡祭夜参詣を禁ずる觸書がのっている。

        覚
一胡祭之刻例年相觸候通、夜参詣令停止候節六つ時仕廻可申候、此段町中可相觸者也 「御觸諸用控帳」(堀川町)安永五年(1776)

とあって、狂歌家の風が刊行される二十年以上前に、夜間の参詣は禁止となっていたようだ。歌中の「町なみの御神燈」は参拝とは切り離された情景だったのだろうか。