阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

狂歌家の風(39) 長いきの本け

2022-02-04 15:33:52 | 栗本軒貞国
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、今日は祝賀の部より一首、


         六十一賀

   長いきの本けはこゝしや幾千代をかけかんはんの軒の松が枝


狂歌家の風の祝賀の部には9首の歌があり、そのうち5首が、初老、五十、六十一、七十、八十八歳を祝う歌になっている。五十と八十八の歌は誰がその年になったのか詞書にあるのだけど、他の3首はこの歌のように誰のお祝いなのかわからない。ここまで見てきたように狂歌家の風では極端と思えるぐらい詞書が短くしてあって、そのせいで状況がわからなくなってしまった歌も多い。文字数で出版の値段が違ったのだろうか。この歌も下の句「掛け看板の軒の松が枝」に合った人物の還暦祝いだったはずだが、どうもかゆいところに手が届かない感じは否めない。私が今年還暦ということもあってこの歌を取り上げてみたいと思ったのだけど、最初からうまくいかない感じだ。

いや、気を取り直して歌を見てみよう。「長いきの本け」は還暦のことを本卦還りというように本卦とは生まれた干支のことだ。狂歌溪の月(溪月庵宵眠詠)の用例をみておこう。


       鞘師霞鳥六十一の賀

  これからか命なかさや漸とことし本卦にかへりくりかた


狂歌栗下草には貞国の歌と同じ「長生のほんけ」で始まる歌がある。


       沢良宜専念寺六十一祝に  穿桂亭栗節

  長生のほんけと杜はおもはるれお寺の名さへせんねん寺にて


還暦の本卦にかけて「長生きの本家」と詠むのはありふれた発想なのかもしれない。それだけに、「長生きの本家はここじゃ」と強調したあとの「掛け看板の軒の松が枝」がぴったりはまらないといけないと思う。ただ単に「幾千代をかけ」からつなげただけということは無いと思うのだけど、詠まれた状況が今ひとつわからない。「軒の松が枝」の用例は書籍検索で出てきた「うけらが花」の歌をみておこう。



     松代の君の六十の賀に檐松有嘉色といふ事を

  千世までのよはひに富める色なれやみつばよつばの軒の松が枝



詞書にある檐という字は「のき」とか「ひさし」とかいう意味で、軒の松が枝はそれ自体おめでたい存在のようだ。すると幾千代から軒の松が枝につなぐためにかけ看板を入れて調子を整えただけで特段の状況があった訳ではなかったのかもしれない。

どうも、自分が還暦だから、というのではモチベーションが上がらないようだ。赤いちゃんちゃんこはできれば勘弁してもらいたいと思う。ただ、還暦でひとつ興味があるのは、いつ還暦を迎えるのか、正月なのか、あるいは立春なのか。普通、数え年では正月に年をとるという認識だけど、中には立春に年をとるという地域もあるようだ。また、お寺さんや神社でもらう暦では厄年などを決める上で節分と立春の間に境目がある場合が多い。手元にある日蓮宗のお寺でもらった暦にも、「一月一日から節分の日までに生まれた方は九星学上では前年の六白辛丑生まれとなります」と書いてある。

どうしてこれにこだわるかと言うと、還暦で真っ先に思い浮かぶ一茶の句(一茶発句集)では、


       還暦

  春立や愚の上にまた愚にかへる


一茶は立春を迎えて還暦の述懐を句にしたと考えられる。しかし、これをもって一茶は正月でなく立春で還暦を迎えると考えたと決めつけるのは早計だろう。この一茶発句集の冒頭には元日の句のあとでこの還暦の句があり、その次はまた「年立や」とお正月の句になっている。手元にある上方狂歌のテキストをざっとみたところでは、何歳になった感慨というのは歳旦、すなわち旧正月に入っていることが多いようだ。例えば貞柳の「家づと」でも歳旦の二首の次に、


      三十一になりける年

  みそしあまりひとつの春になりにけり守らせためへいつも八重垣

  春たつというはかりにや茶うす山今朝は霞の引まはしけり


の二首がある。その次は、甲子の年、丙午の年という題の歌が続いて、上の二首は春立つとは出てくるけれど、普通に正月の歌ともいえる。一茶の句も春立つが季語ではあるけれど、そこは言葉上そうなっただけであって、意識の上ではお正月でも立春でもそう変わらないのかもしれない。立春か元日かということでは、たとえば若水を汲むのは元々立春の行事であって元日ではなかったと書いてあるものを読んだことがある。しかし狂歌集では若水は歳旦に入れられている。また、古今集以来の題である「年内立春」も古今集のように春の部の冒頭に置くか、あるいは歳暮除夜の前に置くか、狂歌集によって違うようだ。このあたりはどういう順で読ませるか、という構成上の意図もあるのだろう。立春と元日どちらの行事かを論じるのに歌集や句集を持ち出すのは適当ではないのかもしれない。

それから、上方狂歌で探してみた限りでは、何歳になった感慨という歌は四十とか五十は結構あるのだけれど、六十一は少ない。私はこの春をもって還暦でございます、という歌はほとんど見かけないのである。還暦祝いは日を改めて行うことであるから、わざわざ言わないのだろうか。実はこの記事を書くにあたって、自分の還暦とか面倒であるから一茶の句や狂歌を引き合いに出してこの立春をもって還暦の話はおしまいにしたいと思ったのだけど、目論見が外れてしまったようだ。今年は立春より先であった旧正月に書いてしまえば良かった。しかしながら、せっかく準備した言葉であるから、そのまま書いて結びとしたい。

私事ではありますが、一茶の句をよりどころにして、本日立春をもって還暦ということに致したく存じます。なお、まことに勝手ながら、喪中につきお祝いは無しでお願いします。

  
【追記】     
最近手に入れた「増補狂歌題林抄」立春の項に、
「春たつ日をさしてよまん事勿論なれともおほむね元日の心によみ来れり」
とあり、上記の歌や句についてもそういう共通理解があったのだろう。



(ブログ主蔵「増補狂歌題林抄」上巻の冒頭部分)


【追記2】
国会図書館デジタルコレクションで「還暦」を検索すると、「普通年中用文章」(明治11年)に「還暦年賀祝儀の文」と題する手紙文のお手本が出てくる。還暦に「六十ノガ」と左注があって明治11年はすでに六十一賀ではなかったようだ。また「還暦之御賀」に対して返書では「本卦相祝」と言い方を変えているのも漢語のバリエーションが豊かなこの時代の特徴だろう。お祝いの品の「紅木綿襦袢地壱端」はちゃんちゃんこを作るためのものだろうか。他にも還暦祝いの手紙文は出てくるが、年賀にからめたのはこの一例だけだった。明治も年を重ねるうちに、年の始めに還暦祝いの手紙を出すことも少なくなっていったのかもしれない。