阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

狂歌家の風(42) 握りこふし喰ふな

2022-08-23 14:31:54 | 栗本軒貞国
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、今日は秋の部より一首、


        二王門月

  二王門てる月影に浮雲よ出さはつて握りこふし喰ふな


浮雲よ出しゃばって月を隠して仁王様の握りこぶし食らうなよと、比較的わかりやすい歌だ。ひとつ問題になるのが、「喰ふな」は「くふな」か「くらふな」のどちらなのか。現代の送り仮名の感覚だと「くふな」と読みたいところだが、「こふし喰ふな」で七文字だとすると「くらふな」が有力になる。もうひとつ、初期の広島藩学問所で古学を教えた香川南浜が天明年間に記したとされる「秋長夜話」に、

  広島にて人を杖うつをくらはすといふ、

と出てくる。鉄拳をくらわす、といえば全国で通用するだろうが、ただ、くらわす、と言うのである。宝暦九年(1759)「狂歌千代のかけはし」の中にも、くらはすの用例がある。


        卯の花            一峯

 此花を折れは其まゝくらはすと親は卯の花おとしにそいふ


作者の一峯は貞佐の門人で吉田(現安芸高田市)住とある。「卯の花おとし」がどのようなものか、はっきりわからないのであるが、ここでは親が子に「くらはす」と言っているようだ。以前に「がんす」の用例を調べた民話の本にも、おさん狐に化かされた男が、

「ようし、江波のおさん狐めや、今度出会うたら、ぶちくらわしちゃるんじゃけえのう」 
(日本の民話22 安芸・備後の民話1)

と捨て台詞。たしかに、私の昔の友人にも、くらわしたろうか、にやしたる、ぴしゃげたる、しごうしちゃる等不穏な方言を連呼する乱暴な男がいたような気がする。

以上のような事から、「喰ふな」は、「くらふな」の方に私の中では傾いているが、確信とまではいかない。

次に、狂歌家の風には、握りこぶしが出てくる歌が他にも二首ある。紹介してみよう。まずは春の部から一首


         陰陽師採蕨

  占も考て取れ早わらひの握りこふしの中のあてもの


わらびを握りこぶしに見立てて、中に何が隠されているか当て物をしながら採るという趣向だろうか。しかし、陰陽師のいでたちで占い、当て物をするようなパフォーマンスがあったのか、簡単そうに見えてどんな情景を思い浮かべたら良いのかわからない歌だ。江戸時代の占い事情などもう少し調べてみないといけない。

次に、哀傷の部から一首


       先師桃翁在世の折から所持し給へる二王の
       尊像に欲心のにあふ所を打くたきうちくたく
       へき握りこふしてとよみ給ふを思ひ出て

  目をこする握りこふしておもひ出すうちくたかれし人の事のみ


桃翁とはもちろん貞国の師匠である桃縁斎芥河貞佐のことで、詞書にある仁王像と欲心の歌は丸派によって享和三年(1803)に出版された狂歌二翁集のモチーフにもなっている。仁王とかけているのだから「欲心のにほふ」が正しいと思うのだけど、ここはいつか原本で確認したい箇所の一つだ。貞国の歌、目をこするしぐさで握りこぶしを持ち出したのは良いが、「うち砕かれし人」とは貞佐のことだろうから、現代人の感覚だと表現が適切ではないような気もする。貞国は貞佐の晩年の弟子で、どうも貞佐を語ろうとするとうまくいかない。また貞国が哀傷の歌はあまり得意ではないというのもあるだろう。

もっとも、貞佐の欲心の歌は一門の中で知らない人はいない有名な歌であるから、最初の仁王門の月の歌も、貞佐の歌が下敷きにあることは間違いないだろう。こちらについては、欲心と握りこぶしというテーマを貞国らしく再構成した一首と言えるのではないだろうか。



狂歌家の風(41) ことの葉の海

2022-08-12 15:17:57 | 栗本軒貞国
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、今日は哀傷の部より一首、


      おなし年の忌に歌の会を催して

  その年の涙の川の行末やけふの手向のことの葉の海


同じ年とは、貞佐の十三回忌の年のこと。貞佐の没年は安永八年(1779)、十三回忌は寛政三年(1791)ということになる。「千代田町史」によると、寛政三年正月二十一日に貞佐の十三回忌の追善狂歌会が広島城下本川の養徳院で行われたとあり(岡崎家文書写本「接木桃」)、その時に詠まれた歌と考えられる。この前年に貞国が願主となって大野村に人丸神社を勧請するなど、貞佐の没後十年を経たあたりから貞国は広島周辺で師匠格としての活動を本格化させていた。この十三回忌の狂歌会で貞国がどのような役割だったかはわからないが、「催して」とあるから貞国主催だったのかもしれない。「接木桃」を読んでみたいものだ。

歌自体は、貞佐が亡くなった時に流した涙が今日の歌会で言の葉の海になったとそれだけの歌だが、「言の葉の海」は貞国の狂歌観を知る上でキーワードなのかもしれないと考えて取り上げてみた。もう一首、狂歌家の風の雑の部から引用してみよう。


       きさらきのすゑつかた狂歌よめる
       人の旅行に餞し侍りて

  され歌の道はこと葉の花盛りはくの小袖のよい旅ころも


「はくの小袖」は、貞柳の師匠、玉雲流の祖である信海が「箔の小袖に縄帯したる風体」を唱えた。「箔の小袖」は伝統的な和歌に出てくるような本来の古語、「縄帯」は俗諺、口語の類をさす。この両方を一首の内に読み込むことが狂歌では重要であるという。貞柳もこれを重視していたし、貞柳の弟子の中でも木端の栗派の本では「箔の小袖に縄帯」は柳門における最も重要な言葉として繰り返し説かれている。貞佐の門下でこれがどれぐらいの重みをもっていたのか、貞佐の狂歌論は見たことがなくてわからない。貞国のこの歌では「はくの小袖」は出てくるけれど「縄帯」にあたるものが見当たらない。むしろ、前の歌と同じように「こと葉の花盛り」こちらに重点があるのかもしれない。さらに、神祇の部から一首、


       人丸社奉納題春日筆柿

  此神の御手にもたれてことの葉の道をこのめや春の筆柿


この歌は私にとって貞国研究のモチベーションであって改めて取り上げる予定であるが、ここでは「ことの葉の道」となっている。あと一首だけ、歌意が未解明なのだけど、雑の部にもどって、


      ある日社中打よりて各詠百首つゝの
      興行せし時満座に

  出ほうたいいふきもくさのより合ふてひとひか百首にむかふきうよみ


貞国得意の縁語を畳みかける歌だが、私には難解だ。伊吹もぐさ、より、ひとひ、きう、が縁語なのはわかる。やけどの跡が小さくなるように、もぐさを捻って火をつける。その一回分が「一火(ひとひ)」であって、ここでは一日(ひとひ)と掛けてある。ラストの「きうよみ」の「きう」は灸だろうが、末句の意味が取れない。「きうよみ」は経読み(僧侶)なのか、それとも別の意味があるのだろうか。それは課題としておいて、ここで注目したいのは最初の「出放題」、何か景気の良い言葉のようだが、「いふき」に続いて、「出放題を言う」となると、でたらめ、でまかせを言うという意味になって、良い意味では使わないようだ。ここでは「出放題」は伊吹もぐさにつながり、伊吹もぐさは「より」を導いていて、「出ほうたいいふきもくさの」までは序詞のようにも見える。しかし、「出ほうたい」は歌がどんどんできるという意味にも取れそうだ。社中が集まって出放題言って一日百首詠んで、という流れだろうか。すると「出放題」も「ことの葉の海」「ことの葉の花盛り」と同じようなことを言っている可能性もあるのだろうか。ともあれ貞国が考える狂歌の理想とは、言葉が次々と湧き出てくるような状態をさすのは間違いなさそうだ。

以上、貞国の歌自体はそれほど面白い歌ではないから後回しにしていたのだけど、今回これを書こうと思ったきっかけがあった。それは、ツイッターの坊主さん主催の選手権で先月、

自然に「たばた」言う選手権 

というお題が出された。毎回見てる訳ではないからどうしてこんな題が出るのか不明だが、最優秀賞をとったのは歌人の俵万智さんで、その回答は、

溶かしたバター 
薔薇の花束、大枚はたく 
ドタバタ劇 
スタバ楽しい 
肩ばたたかんね(博多っ子)

コメント欄には、「反則級の方が参加されている件について 」「草野球に大谷翔平が出場したみたいな 」「子供の喧嘩に大人が出てきた感 」など、レベルの違いを認める発言が相次いだ。さすが言葉のプロフェッショナルという感じだった。そして、私はこの回答を見て、貞国が得意そうな分野だなと思った。それで「ことの葉の海」を思い出したのだ。俵万智さんも普段からこういう言葉のトレーニングはされているのかもしれない。前に書いた「狂歌とは」で、狂歌の定義を考えた時に、31音節の定型詩のうち、1伝統的な和歌のルールから逸脱した歌、2口語を取り入れた歌、このどちらをとっても俵万智さんは狂歌認定になってしまいそうだが、今自室にある俵万智さんの本二冊(もっとあるはずだが言葉の海に沈んでしまっていて見つけられなかった)をざっとみたところでも、上の回答のようなダジャレのような歌は少なかった。あえて引用するならば、


 さんがつのさんさんさびしき陽をあつめ卒業していく生徒の背中

 ゆりかもめゆるゆる走る週末を漂っているただ酔っている


このあたりは狂歌集に入っていても不思議ではない感じだ。また、貞国の最初の歌など、貞国はどうも哀傷の歌は得意ではないようだが、俵万智さんにはちょっと違う視点で死をみつめた歌がある。


  死というは日用品の中にありコンビニで買う香典袋


私は俵万智さんと同じ年の生まれで、コンビニは子供の頃からあった存在ではなくて、大学に入った頃からお世話になったと思う。上記「箔の小袖に縄帯」の匂いがして、これも狂歌集寄りの歌ではないだろうか。

貞佐や貞国の狂歌論を読むことはできなくて、今のところ狂歌の言葉で探っていくしかない。それでも奇人貞佐の考えを知るのは困難を極めるのではないかと思うけれど。

栗本軒貞国 年表

2022-08-11 09:37:52 | 栗本軒貞国

(新たに書き加えた項があり、投稿日時を最新に改めました)

貞国の生涯について、年代のわかっているものを記しておこう。貞国の没年齢については80と87と二説あるが、命日については複数の資料から天保四年二月二十三日で間違いないと思われる。また、狂歌書目集成にある「甲寅春序狂歌」「歳旦帖」は所在が確認できていない歌集だ。こうしてみると、寛政年間に柳縁斎として登場する以前、先師貞佐との関りがほとんどわからない。貞国の号は、あるいは貞佐没後に名乗ったのかもしれない。貞国没後の広島の柳門についてもわからない事が多い。貞風、貞江、貞鴻、貞卯など、年代がわかるものを書き加えた。なお、貞佐の広島移住であるが、広島県史の年表の享保13年は、知新集や近世畸人伝の30歳で養子に入ったという記述に当てはめたもので疑問は残る。ただし、先代が享保16年浅野宗恒公御元服の祝儀として江戸に行くと知新集にあり、その頃までに代替わりがあったのかもしれない。

 

1728 享保13 桃縁斎貞佐が芥河屋の養子となり広島に移住(知新集・近世畸人伝 )

1734 享保19 貞柳没

1746 延享3 貞柳十三回忌追善集に貞佐門人で広島の竹尊舎貞国の歌(狂歌秋の風)

1747 延享4 87歳没とすると、この年貞国誕生か

1754 宝暦4 80歳没とすると、この年貞国誕生か

1777 安永6 「狂歌寝さめの花」に葵という名で4首入集

1779 安永8 貞佐没

1789 天明9 柳縁斎貞国撰「両節唫」 (千代田町史)

1790 寛政2 柳縁斎貞国が願主となり大野村に人丸神社を勧請(松原丹宮代扣書

1791 寛政3 本川の養徳院で貞佐の十三回忌追善狂歌会「接木桃」 (千代田町史)

1793 寛政5 貞国撰か?「歳旦」 (千代田町史)

1793 寛政5 貞国撰「春序詠」 (千代田町史)

1793 寛政5 「狂歌桃のなかれ」に柳縁斎貞国の歌十二首。芸陽柳縁斎師とも。

1794 寛政6 桃縁斎一派による「甲寅春序狂歌」刊(狂歌書目集成)

1794 寛政6 貞国撰「歳旦」 (千代田町史)

1796 寛政8 栗本軒貞国撰「歳旦帖」刊(狂歌書目集成)

1801 享和元 栗本軒貞国詠「狂歌家の風」刊

1804 享和4 栗本軒貞国撰「両節詠」 (千代田町史)

1804 文化元 大島貞蛙の「玉雲流狂歌誓約」に「栗本軒福井貞国 尊師」(大野町誌)

1806 文化3 大島貞蛙の庄屋格を祝う歌会に追加で貞国の歌(大野町誌)

1810 文化7 山縣郡都志見村の駒ヶ瀧にて貞国の歌二首(石川淺之助氏所蔵文書)

1815 文化12 芸陽佐伯郡保井田邑薬師堂略縁起並八景狂歌に貞風と貞国の歌(五日市町誌)

1818 文化15 「狂歌あけぼの草」の貞風の序文に貞国の歌(五日市町誌)

1821 文政4 梅柳斎貞江が柳門伝なる文書を発し烟霞斎貞洲への冠字を許す(呉市史)

1824 文政7 佐伯貞格に与えた「ゆるしぶみ」に貞国の署名と歌(五日市町誌)

1831 天保2 柳縁斎貞卯生まれる(昭和61年の新聞記事、新聞社不明)

1832 天保3 門人の冠字披露のすりものに貞国の歌(岡本泰祐日記

1833 天保4 二月二十三日貞国没(聖光寺狂歌碑、岡本泰祐日記、尚古)

1837 天保8 「鶯哇集」に梅縁斎貞風の還暦を賀す狂歌(可部町史)

1852 嘉永5 熊野村榊山神社狂歌額に「栗本軒貞鴻」(熊野筆濫暢の記)

1899 明治32 柳縁斎貞卯没(昭和61年の新聞記事、新聞社不明)

1901 明治34 柳縁斎貞卯の立机を大阪都鳥社が支援(京攝狂歌師名簿 )

1908 明治41 広島尚古会編「尚古」参年第八号、倉田毎允著「栗本軒貞国の狂歌」 

廣嶋は柳の多きところかな

2022-08-08 14:50:40 | 栗本軒貞国
一昨日、八月六日は家で黙とうした。父が入市被爆者であったことから我が家にも祈念式の案内が来ていたが、私が行きたいのは平和公園ではなく、祖父たちがあの日市内を脱出するために歩いた西白島町から工兵橋を渡って戸坂に至る道である。しかし今年は、父の初盆の行事など色々あって体力気力とも十分ではなく断念した。工兵橋に行って写真を撮ってから書いてみたいこともあるのだけれど、それはまたの機会としたい。

それで六日は一日静かに過ごすつもりだった。ところが夜になって大事件、それはサッカーの話になるのだけど、サンフレッチェ広島の川村拓夢選手のJ1リーグ初ゴールが生まれたことだった。タクムは十年前、彼が中学生の頃から応援している選手で私にとっては感慨深いゴールだった。今回メインのテーマではないが、動画を載せておこう。


【INSIDE】川村拓夢、広島の誇りを胸に涙のJ1初ゴール! 交代出場した選手たちが躍動し、特別な8月6日を勝利で飾る!【vs.鹿島/J1リーグ第24節@カシマ】


これは私にとっては一大事であったが、私の周りでも予想以上に反響があった。ゴール直後から「川村くん」がツイッターのトレンドに入るなど女性ファンが多いのは知っていたが、それ以上の広がりだったように思った。そして翌日、アンガールズの山根さんのツイートにも、

おいおい!
昨日得点取った川村 拓夢選手! 
わしの母校、原小学校のサッカークラブのガッツリ後輩じゃ! 
すごい!あのチームからサンフレッチェの選手が出とるとは!
 おめでとうございます!J1初得点! 
#川村拓夢 #サンフレッチェ広島 

と出てきた。安佐南区の原小学校には行ったことがあって、私の好きな阿武山が見えるグランドだった。




ここから話をタイトルに近づけて行きたいのだけれど、アンガールズが出てきたところで、書いておかなければならない事がある。それは、アンガールズが出ているローカル番組で、何か食べると「うまいでがんす」と言っている。「がんす」は私の祖父の時代までの広島弁に出てくる「ござる」みたいな役割の助動詞だ。いや、「がんした」=あった、「がんせん(又はがんへん)」=ない、だけで言えるから動詞としての用法もある。しかし、私の記憶では「うまいでがんす」は聞いたことがなくて、今調べても用例は見つからない。私の耳に残っているのは、「うもうがんす」であって、母方の祖父は私にお菓子などを与えた時に、「うもうがんひょー?」と聞くのが常であった。「うまいものでがんす」という用例はあった。これは巧みであると感心する時が多いようだ。このあたりのJAの商品「まめでがんす」は昔もよく使われていたと思う。しかし、「うまいでがんす」は私にはどうも違和感がある。間違いとは断定できないが、広島弁としては聞いたことがなかったと言っておこう。

次にこの「がんす」でふと思い出したのが、「がんす横丁」という本のことだ、レトロな広島デルタの描写がある名著で、十代の時に図書館で借りて一度読んだのだが十分理解できていたとは言えないだろう。最近、古本市で見かけてもう一度読みたいとは思うのだけど、どうしても今は狂歌研究が優先で通史や地誌が先になってしまって何度か手にはしたもののレジには持って行かなかった。最近始まった国会図書館の個人送信で見れないだろうか調べたら、四冊とも入っていた。これはありがたいことで、昨日一日かけて読んでみた。色々調べてみたいところが出てきたが、まずは、タイトルにした子規の句、


    廣嶋は柳の多きところかな


が入っていた。こんな何てことはない句を子規が残したのかなと調べたら、確かに全集にものっていた(子規全集第二巻、寒山落木巻四 明治二十八年) 。柳は春の季語で、明治28年の4月に子規は日清戦争の従軍記者として宇品港から出発している。その前、広島で足止めされていた時に詠まれた句のようだ。全集にはもう一句、廣嶋段原村という題で、


    上下に道二つある柳かな 


がのっている。段原は大叔母が住んでいたが、比治山の陰になって原爆からも焼け残った複雑な路地が残っていた。この句は比治山の近くの傾斜地の、高低差のある上下二本の路地に面している柳の木といった情景だろうか。広島中いたるところにこういう路地があって、原爆で焼けてしまったから段原以外は区画整理がスムーズにできたのだと聞かされていたけど、明治時代の子規の目から見ても、段原地区の路地は珍しいものだったようだ。なお、わりと最近ではあるけれど、今は整理されて昔の煩雑な様子は消えてしまっている。

話を最初の句に戻そう。言われてみれば、広島駅から京橋川のほとりを柳橋まで歩くと確かに柳の木は多いような気がする。こういうのは他所の人に言われないとわからないもので、子規は我々広島人に気づかせるためにこのような駄句?を残したのかもしれない。

さて、柳で書いておかなければならないのは、貞国の若い時の号、柳縁斎である。柳門の祖、貞柳は由縁斎貞柳、これは奈良の油烟所の大形の墨が宮中に献上されたと聞いた時の貞柳の歌、


  月ならて雲のうへまてすみのほるこれはいかなるゆゑん成蘭


が有名になって由縁斎と呼ばれるようになった。弟子の芥河貞佐は桃縁斎貞佐、これは由縁斎を一文字替えたものだが、貞佐は笠岡の出身だから桃太郎の桃かなと推測できる。もっとも博識にして奇人伝にも載るような貞佐のことであるから別の考えがあったのかもしれない。そしてそのまた弟子の貞国は、桃を柳に替えている。今までは貞柳の柳、柳門の柳と考えていたけれど、「柳は広島のシンボル」と「がんす横丁」にもあって、広島の柳から採られた可能性も考えられる。貞国の若い時、うるさい兄弟子がたくさん生きてる時の号であるから、柳門の柳とは言いにくかったのではないかと思うが、どうだろうか。今回のメインは最後の部分であり、記事のカテゴリーは栗本軒貞国に入れておこう。ただ、ここにたどり着いたのは上記のような思考の流れであるから、タクムと山根さんには感謝申し上げたい。





狂歌家の風(40) 精霊のたんこ

2022-08-04 20:25:47 | 栗本軒貞国
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、今日は秋の部より一首、


         盆月

  三五夜はあれとけふしも聖霊のたんこて愛る盆の月かけ


来月は十五夜の団子だけれども今日は「精霊の団子」で旧七月のお盆の月を愛でるという歌である。十五夜もあるけど・・・という歌は狂歌家の風にはもう一首あり、この歌のほんの五首前、夏の部に入っている。ついでに紹介しておこう。


        夏月

  中秋の兎はあれとそれよりも蚊がもちを搗夏の夜の月


蚊が餅をつく、というのは蚊の動きをとらえた面白い言い回しだ。中秋の兎はあれど、とあり、月のウサギは十五夜にしか餅をつかないような詠み方になっている。そういう共通理解があったのか気になるところではあるが、話を最初のお盆の歌に戻そう。

広島では十五夜には白みそ仕立ての団子汁でお祝いすると以前に書いた。しかし、浄土真宗安芸門徒の勢力が強かった広島ではお盆の行事はあまり出てこない。墓掃除をしてお墓に安芸門徒独特の灯篭を立てるけれども、浄土真宗では自宅にご先祖様をお迎えはしない。私の住む広島市安佐北区は、隣町の可部に福王寺どいう真言宗のお寺があるけれど(可部には高野山の荘園があった)、それ以外はすべて浄土真宗のお寺という状況であり、お盆に聖霊の団子というのは聞いたことがない。貞国も御真向や二河の譬えの歌があり、また師匠の貞佐も仏護寺の辞世で知られるように西本願寺派の安芸門徒であった。貞佐の師匠で柳門の祖である貞柳は、大阪御堂の前で菓子屋を営んでいた。こちらは東本願寺派で、前にも引用した魂祭の歌、


    隣家魂祭あると聞て我等は東本願寺門徒なれは

  御宗旨はたふとけれともとてもなら盆に一度は戻りたいもの



(ブログ主蔵「貞柳翁狂歌全集類題」22丁ウ・23丁オ)


阿弥陀様に導かれて極楽浄土に旅立った後は、真宗の門徒は子孫が暮らす家には帰りたくても帰れないのである。御宗旨は尊いけれども盆に一度は戻りたい、「とてもなら」が効いている貞柳らしい味のある一首である。続きの歌で中元の祝儀として鯖、晒、素麺が出てくるのは注目しておきたいところだ。盂蘭盆の前の題、七夕のお供えにも鯖と素麺は登場していて、お盆限定ではなくてこの季節のお供え物だったのだろう。一つ前の歌では、


       隣家他宗にて玉祭するを見て

  ちきりおきし弥陀如来をはうたかひてあはれ盆にも鯖すはりけり


とあって、魂祭をしない貞柳にとっては、鯖は七夕限定のお供え物だったのかもしれない。しかし、お盆にも鯖を供えるなんてと言っておいて、盆に一度は帰りたいものと続けて詠んでいるのが中々面白いところだ。

何回も言ってるが、話を戻そう。とすれば貞国は、他宗の家で団子を食べたのか、それとも安芸門徒でもお盆に団子を作ったのか。安芸門徒の風習については、正月のおたんや、盆の灯篭などはたくさん出てくるのだけど、団子は見当たらない。一方貞国は酔ってへべれけの歌もあるが、餅や団子の歌も多い。江戸時代の狂歌では上戸は酒、下戸は餅という対比で詠まれることが多いのだけど、貞国は両方いける口だったようだ。他宗であってもお盆に団子を作っている家があれば、「弥陀如来をば疑ひて」などとは言わずに御馳走になっていたのかもしれない。

私事ながら、この八月は去年亡くなった父の初盆ということになる。今住んでいる安佐北区の家は母の実家であって仏間には浄土真宗の仏壇がある。父方の日蓮宗のお盆はそれこそ初めての経験で、小さな仏壇と盆灯篭を客間に据えて、聖霊棚というものに挑戦してみたいと思う。そこでネットで日蓮宗の聖霊棚の例を調べてみた。すると、そこにある画像は笹の葉が飾ってあり、また素麺がお供えしてあって、ぱっと見七夕である。上記の貞柳の歌の例のように、旧七月のお供えとなるとこうなるのだろう。笹の葉さらさら、も七夕限定ではなくて、この時期のお飾りだったのだろう。そして、胡瓜の馬に茄子の牛、これも作ってみたいものだ。狂歌でも、狂歌棟上集にそのあたりの歌があった。


           魂祭

  手向けたる三輪素麵やなき魂のしるしにたつる杉のませ垣

  茄子は牛胡瓜は馬になる世ぞと不孝を悔いて魂祭せり

  すが菰にあらぬ真菰の魂棚は七ふに團子三布は御佛

  精進はしらぬいきみの玉くしげふた親持ていはふさし鯖


どうも私ははしゃぎ過ぎであって、「不孝を悔いて魂祭」しなければいけないのだろう。そして、聖霊棚の七割方は団子であると、ここにも貞国のように団子好きの方がいらっしゃったようだ。    

「柳井地区とその周辺の狂歌 栗陰軒の系譜とその作品」 (下)

2022-07-22 15:09:02 | 栗本軒貞国
前回に続いて、「柳井地区とその周辺の狂歌 栗陰軒の系譜とその作品」について、今回気になったところを書いてみたい。

この本の中には柳門の系譜について書いたページがあって、まずは、貞柳、貞佐、貞国、貞六と、貞国が三世、貞六が四世を名乗ったという事実に沿った系譜があり、そのあとで「狂歌寝さめの花」に貞佐から国丸(貞右)に玉雲流の秘書などが譲られたことを根拠に、玉雲軒信海を祖として貞佐と貞国の間に国丸をはさんだ別説があげられている






私の結論から申し上げると、国丸は玉雲流の四世を名乗り、貞国は柳門の三世を主張した。国丸の後継は丸派の弟子であって、貞国の先師は貞佐である。貞国の元に「勝まけの払子文台」などの遺品が譲られることはなかったと考えられる。もしそういうことがあれば、貞国は大々的に宣伝して勢力拡大に利用していたはずだ。ただし後述の通り、一門の狂歌集の贈答歌によって自らの地位を上げるという手法を国丸に続いて貞国もやっている。京都の貴族から軒号をもらうのも貞国は国丸を真似ている。貞国が柳門三世を名乗ったということは貞国は国丸の弟子ではないが、ひょっとすると貞国の国は国丸の国からとった可能性はゼロではないのかもしれない。一方、二人の師匠の貞佐の思惑はよくわからないが、あるいは柳門の宗匠は永田家(貞柳の遺族)にあると考えて自らは後継を名乗らなかったのではないかと思う。

まずは、「狂歌寝さめの花」の問題の部分をもう一度引用してみよう。


     先師翁より授りける古今の秘書及ひ玉雲流の伝書等
     浪花の国丸へ譲りあたふるふしよめる   貞佐


  おとこ山にわきて秘蔵の石清水其水茎の跡つけよかし


     かへし                 国丸


  流くみて心の底にたゝへつゝほかへもらさし水茎の跡


「古今の秘書及ひ玉雲流の伝書等」が国丸に譲られたとある。国会図書館の個人送信が始まって、「武庫川国文」に入っている西島孔哉先生の論文がネットで読めるようになった。それによると、貞柳の没後上方では木端の栗派が先行して勢力を伸ばしていて、後発の国丸にとっては、この「狂歌寝さめの花」の出版は重要なことであったと思われる。序文と跋文は安芸の門人に譲り、挿絵入りの国丸の歌もない。しかし、上記の二首をもって、玉雲流の後継であることを上方でアピールできる訳だ。この本が上方で再版を繰り返した理由もそこにあるのだろう。のちに狂歌玉雲集の序文において、

それより我師安芸国桃縁斎の翁先師より伝来の秘事口決古今八雲の秘書及び勝まけの拂子文台を伝え請たまへは玉雲翁第三世の詞宗たりやつかれかくたいせちの品々を授り」 



(ブログ主蔵「狂歌玉雲集」序)


とあり、信海、貞柳に続く貞佐が玉雲流の三世である。その貞佐から大切の品々を譲り受けた自分が四世という主張だと思われる。国丸が継承したのはあくまで玉雲流であって、木端のように柳門を前面に押し出してはいなかった。最初に書いた通り、貞佐の胸の内については中々見つけられないのだけど、上方において永田家を支援するという役割を国丸に期待していたのかもしれない。

一方、貞国はどうだったのか。貞国は貞佐晩年の弟子であって、狂歌寝さめの花の時点では貞の字がつかない葵という号であった。もっとも、貞国以降においては、貞の字の冠字は大きな節目で赦文などが残っているけれど、貞佐以前はどうだったのか、文書をあまり見かけない。貞柳の時代は、木端など貞の字がつかない高弟も多く、冠字は行われていなかっただろう。貞佐の高弟は貞の字がつく人が多く、冠字は貞佐が始めたことかもしれない。しかし、国丸が貞右と改めたのは貞佐の没後数年を経てからであるように、冠字の赦しをもらってすぐに改名という感じではなかったのかもしれない。話を戻して、貞国が貞佐の存命中に貞の字を許されたかどうかはわからない。

その後貞国という名前が初めて確認できるのは、貞佐の没後十年、天明9年の柳縁斎貞国撰「両節唫」であるが、これは「千代田町史」の記述であってまだ現物を見ていない。 「大野町誌」では柳縁斎貞国と栗本軒貞国は同一人物か、という疑問が呈されている。確かに柳縁斎改め栗本軒という文献はこれまで見ていない。栗本軒は福井貞国が多数あるが、柳縁斎の方は福原貞国と誤記が疑われる一例があるだけだ。しかし、千代田の壬生と大野村の狂歌連において、柳縁斎と栗本軒が引き続いて関わっていること、また「狂歌桃のなかれ」の柳縁斎貞国の立秋の歌一首が栗本軒貞国の歌を集めた「尚古」にもみられることから、同一人物と考えるのが合理的だと思う。話がそれた。

そして、今回の話題で注目すべきは、寛政5年の「狂歌桃のなかれ」だろう。「桃」とは、桃縁斎貞佐の桃であって、貞国の文書でも「先師桃翁にかはりて」などと出てくる。「桃のなかれ」は文字通り貞佐一門の狂歌集ということになる。その中で、貞国は「芸陽柳縁斎師」と詞書にある。引用してみよう。


    芸陽柳縁斎師に始てまみえし折から   柳芽 

  今よりもむかし男になれそめてやさしいことのはなし聞はや

    返し                 貞国

  昔男とはの給へとあいそめてきりやうのなひに恋さめやせん  


最初の歌の柳芽は石州津和野の人とある。この桃の流れの中では、序文跋文は兄弟子が書いているし、貞国はそんなに目立たない。「芸陽柳縁斎師」も、貞佐の後継者というよりは広島地区の師匠格にすぎない、そんな印象を受けた。桃の流れでは三次や庄原に重鎮の兄弟子がいて、これらは「芸陽」すなわち安芸南部の範囲外であるからだ。しかし今回、前出の狂歌寝さめの花のあとでこれを読むと、貞国も国丸と同じように一歩引いてはいるけれど、「芸陽柳縁斎師」と書いてもらうことに大きな利益があると考えたのではないか。ちょい役にみえて、あるいは桃の流れ出版の動機に関わっていたのかもしれない。この狂歌桃のなかれの跋文では、

「桃の流れと名つけけるもりうもんをこひしたふことのなれは宜なりけらし」

柳門を恋い慕って桃の流れと名付けたとある。しかし、享和元年の狂歌家の風では、芝山持豊卿から栗本軒の号が送られたことが前面に出されて、柳門の二文字を見つけることはできない。貞佐の十三回忌や仁王像の歌はあるけれど、貞佐とのやりとりを含んだエピソードは皆無である。晩年の弟子ということで、貞佐について語るべきことがなかったのか。そしてまだ兄弟子も生きていて、柳門の後継を名乗れる状況ではなかったのかもしれない。

それでは、貞国はいつ頃から柳門正統三世を名乗ったのか。私が購入した花月雪の掛け軸には「柳門狂哥正統第参世」の印があるが、年代はわからない。貞国が晩年に愛用した五段に分けた書式が用いられていて、文化年間の後半以降ではないかとは思う。




年代がわかるものでは、五日市町誌に写真が出ている佐伯貞格に与えた「ゆるしぶみ」 に「柳門正統第三世」の署名があり、これは文政7年、かなり空白がある。もう少し遡れるかもしれないが、師匠格になってから柳門正統を名乗るまでかなり時間がかかったのは間違いない。

柳井の本を読むと柳門の系譜が周防の国に移った貞六以降は師匠から弟子へきちんと送伝された証拠が残っているが、貞国まではそういう感じではなかったように思える。貞国の弟子でも、可部や保井田や戸河内で活動していた梅縁斎貞風は柳門四世と五日市町誌にある(出典未確認)。このあたりのニュアンスを知るにはまだまだ探してみないといけない。



「柳井地区とその周辺の狂歌 栗陰軒の系譜とその作品」 (上)

2022-07-20 20:36:28 | 栗本軒貞国
前の記事で、「狂歌寝さめの花」に入っている葵という作者名の四首が、柳井市立柳井図書館編「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」で栗本軒貞国の狂歌として紹介されている歌と一致したことを書いた。そこでこの本をもう一度読んでみることにした。

前回は狂歌を調べ始めたばかりの時、広島県立図書館で「貞国」で検索してまず読んだのがこの柳井の本だった。貞国に関連するところはコピーしたけれど、後継の栗陰軒貞六の箇所はうろ覚えである。貞国の歌を特定するために周防の資料は重要と考えて、この際ネットで購入することにした。連休をはさんで昨日やっと届いて、目を通したらやはりあちこち気になる。

巻末の参考文献のうち2冊は岩国と柳井の図書館で読めることがわかった。残りの資料などはこの本を出している柳井市立図書館のレファレンスで相談することになると思うが、その前にうちから近い岩国で2冊を読んで予備知識を持って臨みたいものだ。来月60歳になったら4回目の接種ができるはずで、そのあと今の第7波が収束したら出かけてみたいと思う。

次に本の内容で今回気になったところを書いてみたい。まずは軽い話題から、貞国の後継で柳門正統四世を名乗った栗陰軒貞六の辞世、

  花に暮し月にあかして楽みに心残らず消ゆる雪の世

貞国の雪月花の掛け軸の回で雪月花の順番について論じたが、この一首を加えてもう一度書いてみる。

「雪月花」は白居易の漢詩、「雪月花時最憶君」の並びであって、我々もこの並びで使う事がほとんどだろう。しかし、和歌や和文では「月雪花」をよく見かける。狂歌でも太田南畝の、

  やよ達磨ちとこちらむけ世中は月雪花と酒とさみせん 

  てる月のかゞみをぬいて樽まくら雪もこんこん花もさけさけ 

などは月雪花の順になっている。ネットで月雪花を検索すると、「雪月花に同じ」と出てきて、「月雪花」という言葉も認知されていることがわかる。

ここで貞六の辞世をもう一度眺めてみると、花月雪の順になっている。実はこの順番は柳門正統を名乗っていた貞国や貞六にとっては重要なもので、柳門の祖、貞柳の辞世、

  百居ても同じ浮世に同じ花月はまんまる雪はしろたへ 



(ブログ主蔵「貞柳翁狂歌全集類題」57丁ウ・58丁オ)


がこの順番になっている。貞柳にとってはリズムを整えたらこうなっただけかもしれないが、貞国や貞六にとってこの順番は自身のアイデンティティに関わることだったのだ。貞国の辞世、

  花は散るな月はかたふくな雪は消なとおしむ人さへも残らぬものを 



(聖光寺、栗本軒貞国辞世狂歌碑)


も花月雪の並びになっている。私が購入した掛け軸も歌三首を

 花 峯の雲 谷の雪気の うたかひを ふもとにはれて みよし野の山

 月 七種に かゝめた腰を けふは又 月にのはする 武蔵野の原

 雪 辷たる あともゆかしや うかれ出て われよりさきに 誰かゆきの道

この順番で記している。ただ、貞柳の高弟にして貞国の師匠である芥河貞佐は全く違う辞世を詠んでいる。

  死んでゆく所はおかし仏護寺の犬の小便する垣の下

貞佐が柳門二世と名乗ったのかどうか、私は確認できていない。出藍の誉れ、広島に来た後に門人千人を得たという貞佐には卓越した才能と実力があった。肩書やしきたりなど貞佐には必要なかったのだろう。次回もう一度、柳井の本について、柳門の継承と国丸について書いてみたい。



  



葵(狂歌寝さめの花)と貞国

2022-07-06 14:00:56 | 栗本軒貞国
 先週、ヤフオクに「狂歌寝さめの花」が出品された。貞佐が亡くなる2年前、安永6年の撰であって、これは是非とも手に入れたいと思った。それで6万円までは競ったのだけど、そこで冷静になってやめておいた。私にとっては半年分の本代であるから、それ以上は無理と考えるべきである。

 これは残念な出来事ではあったけれど、これを機にふと思いついたことがある。私が調べている栗本軒貞国は、貞佐晩年の弟子と考えられる。貞佐没後に一門によって出版された「狂歌桃のなかれ」(寛政5年)には柳縁斎貞国として入集しているが、貞佐の生前の歌集には名前が出てこない。あるいは、貞佐の没後に一門に加わったのか、もう一つの可能性としては、別の名前で、例えば狂歌寝さめの花に入っているのではないか。うかつな事に、ここを確認していなかった。ここは気を取り直して、国立国会図書館の個人送信から、西島孔哉先生の翻刻(武庫川国文21「狂歌寝さめの花」をめぐる諸問題ー付(翻刻)狂歌寝さめの花)を読んでみた。そしたら、簡単に貞国の歌は見つかった。葵という名前の4首が、「柳井地区とその周辺の狂歌 栗陰軒の系譜とその作品」 の中で貞国の狂歌として紹介されている歌と一致した。さっそく狂歌寝さめの花から引用してみよう。


       海上落花           葵

  墨染の桜の是もゆゑんやらすゝりの海に花の浮むは


       郭公

  聞かはやとおもへと道のほとゝきすさそな鳴らん死出の山路は


      塗師屋の婚姻を祝して

  いく千代もかはりなし地といはゐぬる御夫婦中もよしの漆や


      寄火吹竹祝

  一ふしに千代をこめたる火吹竹ふくとも尽し君か長いき


葵の作はこの4首だけで、4首とも漢字の表記は少し違っているが「柳井地区とその周辺の狂歌 栗陰軒の系譜とその作品」で貞国の歌として紹介されている。柳井の本は出典の記述がなく、間違いなく貞国の歌かどうか若干の疑問は残るものの、貞国の後継、柳門四世を名乗った栗陰軒貞六が残した資料によっていて、貞国から伝えられた歌集などによった可能性もあるだろう。狂歌の師匠から弟子へ「古今の秘書」が伝授という話はよく出てくるが、その中に貞国の歌集もあったのではないか。できれば山口に行ってこの資料の存在を確かめてみたいものだ。

また、柳井の本では、ほととぎすの歌は辞世の前に置かれていて、貞六が弟子になってからの晩年の作と考えていたが、実は貞国の若い時の作であった。寝さめの花の安永六年は、貞国は三十歳前後、まだ柳門の貞の字も許されていない時代の作だったと思われる。

なお、この狂歌寝さめの花の選集には、混沌軒国丸、のちの玉雲斎貞右が動いて実現したとされている。序文も跋文も広島の弟子が書いていて、国丸はそれほど目立たないが、終わり近くに国丸にとって重要な貞佐との贈答歌がある。


     先師翁より授りける古今の秘書及ひ玉雲流の伝書等
     浪花の国丸へ譲りあたふるふしよめる   貞佐

  おとこ山にわきて秘蔵の石清水其水茎の跡つけよかし

     かへし                 国丸

  流くみて心の底にたゝへつゝほかへもらさし水茎の跡


貞佐がいう先師は貞柳であるが、男山の石清水はそのまた師匠の信海がいた場所である。寝さめの花が貞右によって再版を繰り返したのは、この二首の存在が大きいのではないかと思う。

話を貞国に戻して、 いままで想像できなかった貞佐の弟子の時代の貞国の作を四首だけではあるが今回特定できたことになる。ヤフオクがきっかけであるから、寝さめの花を出品してくださった方に感謝したい。ただ一つだけ、先にこの作業がすんでいて貞国の歌が入っていると知っていたならば、もっとお金を出していただろうか? いや、私の生活規模からするとそれは無謀なことだと考えることにしよう。

豊島嘉兵衛編「狂歌集」

2022-03-22 21:06:15 | 栗本軒貞国
 国会図書館デジタルコレクションで狂歌の本を読み進めるうちに、タイトルの狂歌集に、「徒然の友」に載っている貞国の贈答歌と似た歌があった。引用してみよう。


   来て見れば名も廣嶋にひろひろと
    七ツなからにねておられけり

   はつかしやいなか木綿のおりわるふ
    おまへにめをはあけてもろふた


この狂歌集の編者、徳山村の豊島嘉兵衛氏は明治初年の山口県においては屈指の豪商であったという。ウィキペディアの徳山藩の項に名前があるから幕末の生まれなのかもしれない。狂歌とのかかわりについてはわからないのだけど、この狂歌集は作者名の入った歌は一つもなくて、題や詞書は数首に入っている。この二首もこれだけでは状況がわかりにくい。次に徒然の友の「貞国のはなし」を引用してみる。


    ○貞国のはなし
廣島に貞國(ていこく)とて狂歌(きようか)の名人ありしが或日の夕方一人の狂歌師尋ね来りけるに折節(をりふし)貞國うゝた寝(ね)してありければ

 貞國と名は廣島にはたばりて七つ半(なから)でねてをられけり

とよみたりしかば貞國目をさまして返しに

 はづかしやいなかもめんのをりわるふ目をばそなたにあけて貰(もら)ふた


ここでは、最初の歌の「はたばりて」という言葉に着目して貞国は織物の縁語を畳みかけて返している。徒然の友には出典の記載はなく、この歌が本当に貞国作かどうかは確信が持てないのだけど、軽快に縁語を駆使する貞国初期の作風に似ているとは言えるだろう。

一方、豊島氏編の狂歌集では、はたばりても貞国も出てこないが、広島という地名は入っている。また、二首目も伝言ゲームのように語句や語順が異なっている。これだけではどちらが先とか決められないのだけど、狂歌集の方には他にも私が知っている歌に似ているけど微妙に違う歌が入っている。例えば、

   
   達磨とのちとこちむきやれ世の中は
    月雪花に酒と三味線

   世の中に酒とおんなはかたきなり
    とふそかたきにめくりあひたし


など、南畝の歌と少し違ってるような気もする。これをどう考えるか。また、この狂歌集には南畝の他、貞徳、貞柳、貞佐、一休道歌などが確認できるが、この本が出版された徳山など周防を詠んだ歌もある。


   とく山の富はうとんかそうめんか
    ひへたともいふのひたともいふ

   そろはんの橋は二一天さくか
    人けんわさとは誰か岩國


「二一天作の五」といって、旧式のそろばんの割り算の九九のようなものらしい。昔は掛け算だけでなく割り算も覚えなければならなかったようだ。算盤橋といえばもちろん錦帯橋のことだ。この他、フグを詠んだ歌など、周防の人が作った狂歌も多数入っていると思われる。貞国の周防の弟子と編者の豊島氏の間に何らかの接点があって、貞国のエピソードを伝える歌が入ったとも考えられる。もう一度、周防の柳門の系譜が書いてある栗陰軒の本を当たってみないといけない。

狂歌家の風(39) 長いきの本け

2022-02-04 15:33:52 | 栗本軒貞国
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、今日は祝賀の部より一首、


         六十一賀

   長いきの本けはこゝしや幾千代をかけかんはんの軒の松が枝


狂歌家の風の祝賀の部には9首の歌があり、そのうち5首が、初老、五十、六十一、七十、八十八歳を祝う歌になっている。五十と八十八の歌は誰がその年になったのか詞書にあるのだけど、他の3首はこの歌のように誰のお祝いなのかわからない。ここまで見てきたように狂歌家の風では極端と思えるぐらい詞書が短くしてあって、そのせいで状況がわからなくなってしまった歌も多い。文字数で出版の値段が違ったのだろうか。この歌も下の句「掛け看板の軒の松が枝」に合った人物の還暦祝いだったはずだが、どうもかゆいところに手が届かない感じは否めない。私が今年還暦ということもあってこの歌を取り上げてみたいと思ったのだけど、最初からうまくいかない感じだ。

いや、気を取り直して歌を見てみよう。「長いきの本け」は還暦のことを本卦還りというように本卦とは生まれた干支のことだ。狂歌溪の月(溪月庵宵眠詠)の用例をみておこう。


       鞘師霞鳥六十一の賀

  これからか命なかさや漸とことし本卦にかへりくりかた


狂歌栗下草には貞国の歌と同じ「長生のほんけ」で始まる歌がある。


       沢良宜専念寺六十一祝に  穿桂亭栗節

  長生のほんけと杜はおもはるれお寺の名さへせんねん寺にて


還暦の本卦にかけて「長生きの本家」と詠むのはありふれた発想なのかもしれない。それだけに、「長生きの本家はここじゃ」と強調したあとの「掛け看板の軒の松が枝」がぴったりはまらないといけないと思う。ただ単に「幾千代をかけ」からつなげただけということは無いと思うのだけど、詠まれた状況が今ひとつわからない。「軒の松が枝」の用例は書籍検索で出てきた「うけらが花」の歌をみておこう。



     松代の君の六十の賀に檐松有嘉色といふ事を

  千世までのよはひに富める色なれやみつばよつばの軒の松が枝



詞書にある檐という字は「のき」とか「ひさし」とかいう意味で、軒の松が枝はそれ自体おめでたい存在のようだ。すると幾千代から軒の松が枝につなぐためにかけ看板を入れて調子を整えただけで特段の状況があった訳ではなかったのかもしれない。

どうも、自分が還暦だから、というのではモチベーションが上がらないようだ。赤いちゃんちゃんこはできれば勘弁してもらいたいと思う。ただ、還暦でひとつ興味があるのは、いつ還暦を迎えるのか、正月なのか、あるいは立春なのか。普通、数え年では正月に年をとるという認識だけど、中には立春に年をとるという地域もあるようだ。また、お寺さんや神社でもらう暦では厄年などを決める上で節分と立春の間に境目がある場合が多い。手元にある日蓮宗のお寺でもらった暦にも、「一月一日から節分の日までに生まれた方は九星学上では前年の六白辛丑生まれとなります」と書いてある。

どうしてこれにこだわるかと言うと、還暦で真っ先に思い浮かぶ一茶の句(一茶発句集)では、


       還暦

  春立や愚の上にまた愚にかへる


一茶は立春を迎えて還暦の述懐を句にしたと考えられる。しかし、これをもって一茶は正月でなく立春で還暦を迎えると考えたと決めつけるのは早計だろう。この一茶発句集の冒頭には元日の句のあとでこの還暦の句があり、その次はまた「年立や」とお正月の句になっている。手元にある上方狂歌のテキストをざっとみたところでは、何歳になった感慨というのは歳旦、すなわち旧正月に入っていることが多いようだ。例えば貞柳の「家づと」でも歳旦の二首の次に、


      三十一になりける年

  みそしあまりひとつの春になりにけり守らせためへいつも八重垣

  春たつというはかりにや茶うす山今朝は霞の引まはしけり


の二首がある。その次は、甲子の年、丙午の年という題の歌が続いて、上の二首は春立つとは出てくるけれど、普通に正月の歌ともいえる。一茶の句も春立つが季語ではあるけれど、そこは言葉上そうなっただけであって、意識の上ではお正月でも立春でもそう変わらないのかもしれない。立春か元日かということでは、たとえば若水を汲むのは元々立春の行事であって元日ではなかったと書いてあるものを読んだことがある。しかし狂歌集では若水は歳旦に入れられている。また、古今集以来の題である「年内立春」も古今集のように春の部の冒頭に置くか、あるいは歳暮除夜の前に置くか、狂歌集によって違うようだ。このあたりはどういう順で読ませるか、という構成上の意図もあるのだろう。立春と元日どちらの行事かを論じるのに歌集や句集を持ち出すのは適当ではないのかもしれない。

それから、上方狂歌で探してみた限りでは、何歳になった感慨という歌は四十とか五十は結構あるのだけれど、六十一は少ない。私はこの春をもって還暦でございます、という歌はほとんど見かけないのである。還暦祝いは日を改めて行うことであるから、わざわざ言わないのだろうか。実はこの記事を書くにあたって、自分の還暦とか面倒であるから一茶の句や狂歌を引き合いに出してこの立春をもって還暦の話はおしまいにしたいと思ったのだけど、目論見が外れてしまったようだ。今年は立春より先であった旧正月に書いてしまえば良かった。しかしながら、せっかく準備した言葉であるから、そのまま書いて結びとしたい。

私事ではありますが、一茶の句をよりどころにして、本日立春をもって還暦ということに致したく存じます。なお、まことに勝手ながら、喪中につきお祝いは無しでお願いします。

  
【追記】     
最近手に入れた「増補狂歌題林抄」立春の項に、
「春たつ日をさしてよまん事勿論なれともおほむね元日の心によみ来れり」
とあり、上記の歌や句についてもそういう共通理解があったのだろう。



(ブログ主蔵「増補狂歌題林抄」上巻の冒頭部分)


【追記2】
国会図書館デジタルコレクションで「還暦」を検索すると、「普通年中用文章」(明治11年)に「還暦年賀祝儀の文」と題する手紙文のお手本が出てくる。還暦に「六十ノガ」と左注があって明治11年はすでに六十一賀ではなかったようだ。また「還暦之御賀」に対して返書では「本卦相祝」と言い方を変えているのも漢語のバリエーションが豊かなこの時代の特徴だろう。お祝いの品の「紅木綿襦袢地壱端」はちゃんちゃんこを作るためのものだろうか。他にも還暦祝いの手紙文は出てくるが、年賀にからめたのはこの一例だけだった。明治も年を重ねるうちに、年の始めに還暦祝いの手紙を出すことも少なくなっていったのかもしれない。