阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

狂歌家の風(30) 花のまさかり

2019-03-27 13:42:58 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、今日は春の部から二首、

 

         花

  きかゝりもなくて山々うれしとは花見にかきる言葉なるらん

  杣はさそひとり心てかこつらん枝をおろした花のまさかり 

 

桜が開花になったところで、花の歌二首、一首目はさしたる技巧などもなく、このまま受け取って良い歌、いやいつものように何か見落としているのかもしれない。「山々うれし」の用例として、落語「文違い」(「落語を歩く 鑑賞三十一話」より)を引いておこう。

「あらいやだ、女の手紙だよ、まァいやだねえ、こんな手紙(もの)を持ってるんだよ・・・締麗な筆跡(て)だねえ、まァ・・・ェェひと筆しめしまいらせ候、先夜はゆるゆるおん目もじいたし、やまやまうれしく存じまいらせ・・・あらいやだ、こんな女と逢ってるんだねエ。だから男ってものは油断ができないよ」

続きは落語を鑑賞していただくとして、二首目に移ろう。杣(そま)は「我が立つ杣」のように本来山林を指す言葉だが、近世以降は木こりなど伐採や製材に従事する人をいう場合が多い。その杣人が出てきて「花のまさかり」とあるのだから、満開の桜の枝を金太郎が持ってるような鉞に見立てているのだろうと想像がつく。「尚古」の「栗本軒貞国の狂歌」には同じ歌を、


  杣はさぞ獨心をかこつらん枝をおろした花のま盛 


と書いていて、「まさかり」は真っ盛りとわかる。用例を探すとむしろこちらが本流で杣とは無関係に「花まさかり」と満開の花を表現する例が出てくる。それなら貞国の歌の杣人は何を「かこつ」(嘆く)のか。「狂歌玉雲集」には、


        山中花          房丸

  ふりあけてもをしやと下におく山の杣も見とるゝ花のまさかり

 
とあり、やはり杣と「花のまさかり」の組み合わせで、枝を切ろうとまさかりを振り上げても「惜しや」と下に置く、とある。ということは、貞国の歌の「枝をおろした」は満開の枝を切り落としてしまって、それを「かこつ」なのだろうか。そうではないかと思いつつ、あと一歩確証というところまで至っていないのは申し訳ないことだ。
 
気を取り直して、尚古から貞国の吉野の桜の歌を紹介しよう。
 
 
       吉野山にて花をよめる

  峯の雲谷の雪気の疑ひを麓にたれて見よし野の花

  この頃はよし野初瀬に浮れ来る人の盛を花や見るらん 

  浮れ出で内には山の神もなく明屋計ぞ見吉野の里 

  七草にかゞめた腰を今日は又月に伸ばする見よしのゝ花 


四首目はゆく年の回でも引いたが狂歌家の風では武蔵野の月見の歌になっている。
  

        三五夜

  七草にかゝめた腰をけふは又月にのはするむさしのゝ原

 

どちらが先か、ゆく年を書いた時は尚古の方は月と花とピンポケな感じだから武蔵野の月見に改作したのではないかと思った。しかし今考えると吉野の方が盛りだくさんで貞国の好みと言えなくもない。

今回は「花のまさかり」がテーマ、しかし尚古の二首目は花見で浮かれている「人の盛を花や見るらん」と逆の視点になっている。幾万と和歌に詠まれた桜を狂歌にするための苦心の跡だろうか。


狂歌家の風(29) とくひ

2019-03-21 12:57:54 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、今日は神祇の部から一首、

 

      大野大頭社にて雩の祈禱に 
      鳥喰祭ありける願主の人々 
      にかはりて

  雨雲をとくひ来りてしるしあれや祈るこゝろの空しからすは 


雩は雨乞いの意味だが、読みは「あまひき」「あまごひ」の二つが出てきて決め難い。狂歌では「あまごひ」が多いけれど、神仏の祈祷では少し気取って「あまひき」と読ませた例もある。あとで引用する当時の大頭神社の宮司さんによる文書が雨乞という言葉を使っていることもあり、一応「あまごひ」で読んでおこう。「狂歌家の風」には雩が出てくる歌が秋の部に一首ある。詞書の「おなじ夜」は十五夜をさす。

 

      おなし夜雨ふりければ

  雩に感応のなき夏よりも悲しき秋のなかそらの雨 

 

「感応のなき夏」とあって雨乞いの神事の効果がないことも多かったのだろう。

次は鳥喰(とぐい)について。昨年九月、初めて「狂歌家の風」を読んだ時に最も心引かれたのがこの鳥喰祭の歌であり、江戸時代の「厳島道芝記」「厳島図会」の二つの書物を中心に調べてきた。ここに書くと長くなると考えて、①弥山神烏、②厳島神社の御鳥喰式、③大頭神社の烏喰祭、と三回に分けて書いた。しかし全部読んでいただくのは大変なので簡単に書いておこう。鳥喰とは神様である特別なカラスに御鳥喰飯をお供えして神烏がこれを「あぐ」すなわち召し上がったら吉とする神事である。カラスにお供えをして吉凶を占う行事は全国各地にあるのだけれど、厳島神社や大頭神社で鳥喰に参加する神烏は厳島の弥山に一つがい二羽住んでいて、夏に子烏を育てた後、大頭神社九月二十八日の鳥喰祭を最後に親烏は紀州熊野に帰り、翌日からは子烏二羽が厳島神社の御鳥喰式に参加する。この九月二十八日の鳥喰祭を孔子の故事にちなんで「四鳥の別れ」と呼んでいる。貞国を師匠として大野村で活動した「別鴉郷(べつあごう)連中」という狂歌連の名も、四鳥の別れにちなんだ大野の別名「別鴉の郷(べつあのさと)」からとられている。

大頭神社ではこれとは別に、詞書の雨乞いの祈祷のようなケースでも鳥喰祭が行われている。貞国の時代の大頭神社の宮司さんが書いた「松原丹宮代扣書」の寛政元年(1789)の記述に、

「六月六日より八日まで御屋敷様より雨乞御祈禱被仰付、当所、小方、戸坂村と相聞く。八日朝よりくもりかけ、鳥喰祭より雨ふり出し、その夜までふり、中雨なり。三郎左衛門、嘉兵衛代参に被参、社参の節ぞうり、かえり時分さし笠。また十一日より十二日朝まで大雨」

とあって、雨乞いの祈祷の一連の行事の中で鳥喰祭が行われていたようだ。この寛政元年は貞国の別鴉郷連中が大野村に人丸神社を勧請する前の年、狂歌家の風の刊行からみると十二年前ということになり、貞国の歌はまさにこの寛政元年六月だった可能性もある。ただ、「松原丹宮代扣書」には鳥喰が上がらなかった、雨が降らなかったという記述は見当たらなくて、うまく行った時だけ書いた可能性もあり、もちろん断定はできない。なお、大頭神社公式サイトでは、「烏喰」とカラスの字が使われていて、詞書の鳥喰は間違いの可能性もと思っていた。しかし貞国と同年代の「松原丹宮代扣書」では厳島神社と同じくトリの字になっていて天保十四年の「大頭神社縁起書」からはカラスの字が使われている。「松原丹宮代扣書」は当時の大頭神社の宮司さんの記述であるから、貞国の時代は鳥喰であったと考えて良いのではないかと思う。

大頭神社の鳥喰祭はどんな光景だったか、厳島図会の大頭大明神の挿絵に、その様子が描かれている。左下の鳥居を少し入ったところ、厳島道芝記には御田とあるから神社所有の田んぼだろうか、その中に四隅に紙垂を立てた御鳥喰飯を置いて、神職が祈祷している。カラスは四羽、鳥居の外に正座して頭を垂れているのは願主の人たちだろうか。もっとも、上記寛政元年の場合は願主は領主上田家と注釈があり(大野町編「古文書への招待」編者の注)、代参したのが庄屋格(同)、願主の領主様は鳥喰祭の現場にはいなかったことになる。奉納歌も、代参の時に届けられたのかもしれない。しかし詞書は「願主の人々」とあるから、この挿絵のような場面に貞国が参加していた可能性も残る。

詞書はこれぐらいにして、貞国の歌をみてみよう。「鳥喰来りて」には「疾く」がかけてあり、鳥喰が上がって早く雨雲をと詠んでいる。第五句に濁点をつければ「空しからずば」だろうか。夏の日照りは願主にとって深刻な問題で、雨乞いの祈祷の奉納歌もいい加減にすませて良いものではない。狂歌は天明期に江戸でブームとなり、広島でも桃縁斎貞佐の移住をきっかけに門人が増え、このような機会に貞国が歌を奉納するというのも、当時の狂歌の隆盛を示すものと言えるだろう。しかし深刻な日照りの最中の祈祷でありながら、最後にカラスを詠みこんでクスッと笑わせるところが狂歌の面目躍如といったところだろうか。

大頭神社は貞国の時代は佐伯郡大野村、今は廿日市市大野という住所で、貞国が脚布かふとしかと詠んだ妹背の滝のすぐそばにある。しかし貞国の時代は同じ大野村でも別の場所、今の社地から徒歩10分ぐらい海に向かって歩いたところにあり、先週その旧社地に行ってきた。去年の例大祭、かつて四鳥の別れが行われていた日に大頭神社を参拝したのだけれど、貞国の時代の社地を訪れなかったのはうかつな事であった。しかしとにかく、この半年ずっと頭から離れなかった鳥喰の歌、その場所に立てて感慨深いものがあった。

この旧社地には鳥居と石碑があり、残りの敷地は参拝者の臨時駐車場として利用されているようだった。

石碑には御朱印にもあった四羽の神烏の宝印のデザインの下に遷座の理由として、

周囲が田畑に変貌し神域として相応しくなくなり」

とあり、田畑なら良いではないかと思うのは現代人の感覚なのだろう。ところが百年後の「大頭神社 御遷座百年記念誌」には、「大頭神社は、大正二年に妹背の滝のほとりに社殿を遷座してきたが、これに伴い「四鳥の別れ」の神事も伝説化してしまい、現在は、日々、神社の傍らの石に烏喰飯を供えるだけである。」とあった。今の妹背の滝を背にした立地は素晴らしいと思うのだけど、ほんの1キロ山側に移動したために弥山の神烏と疎遠になってしまったようだ。旧社地も南東に丘があって弥山は見えない。そんなに条件が変わるのか、もっとも神烏は弥山から来てくれないといけなくて、北の山のカラスがひょいとくわえて行ったのではまずいのだろう。貞国の歌は、厳島でも第一の神秘といわれる鳥喰を正面から詠んでいる上に、当時の地方における狂歌の地位という点でも貴重な一首だと思う。できることならば、大頭神社に歌碑があればと思う。場所は、旧社地では見る人も少ないだろうから、今の大頭神社のどこかにお願いしたいものだ。よく考えてみると、貞国が妹背の滝を訪れたのは大野町誌のもう一首をみても明らかで、貞国は今の大頭神社のあたりには確実に行ったことがあると言えるだろう。しかしこちらの旧社地は歌を届けただけという可能性もある。殺風景なこちらで感慨にふけったのは二重にうかつな事だったかもしれない。


参考3)大頭神社の烏喰祭

2019-03-18 13:04:32 | 郷土史

 「狂歌家の風」神祇の部にある貞国の鳥喰の歌の参考として、今回は大頭神社で旧暦九月二十八日に行われていたという特殊神事、四鳥の別れについてみておこう。

厳島神社の島廻りであったように、鳥喰(とぐい)とは厳島弥山にひとつがい住むという神烏に食事をお供えして神烏が「あぐ」すなわち御鳥喰飯を食されたら成就という神事である。大頭神社の烏喰祭では、道芝記の記述にあるように参道途中の神田の中に御鳥喰飯を供えて対岸の弥山からの神烏の来訪を待ったようだ。大頭神社では貞国の歌の詞書のような雨乞いなどでも烏喰祭が行われたようだが、ここでは九月二十八日の特殊神事「四鳥の別れ」について書かれたものを読んでみる。

この九月二十八日の鳥喰祭には、親子二つがい四羽の神烏が対岸の弥山から来訪して御鳥喰飯を上げた後、親烏は紀州熊野に帰り(古い文献には行方知れずとある)、子烏はさらに一年間弥山に留まって養父崎での御鳥喰式に参加する。この九月二十八日の神事をもって親子の別れとなることから、中国の故事にちなんで四鳥の別れと呼ぶようになった。

大頭神社公式サイトをみると、「御烏喰式」と厳島神社ではトリであったものがカラスの字で書いてある。これは天保十四年の大頭神社縁起書にはカラスの字で書かれているが、それより四、五十年前、貞国と同時代の宮司によって書かれた「松原丹宮代扣書」では厳島神社と同様にトリの字で書いてあって、どうやら天保の縁起書からカラスの字を採用したようだ。また、親烏が紀州熊野に帰るというのも以前の書物では親烏は行方知れずとなっていて、縁起書から採用されたアイデアだろうか。「四鳥の別れ」については、道芝記には無いものの、天明の「秋長夜話」に俗伝と言いながら記述が見えることから、結構早くからあった話のようだ。「松原丹宮代扣書」の同じ天明年間の記述は九月二十八日であるにもかかわらず、「鳥喰すみやかに上る」と簡潔に書いてあって、四鳥の別れという言葉は当時は俗に言われていただけで大頭神社はまだこの言葉を採用していなかった可能性もあり、神職からみると雨乞いなどの鳥喰祭と変わりない神事だったようにも思われる。この四鳥の別れの神事については、あまりごちゃごちゃ説明するよりは、引用した文献を読んでいただきたい。そのあとで御朱印の説明書きに四烏(しあわす)とあったことについて書いてみたが、これは本題とはあまり関係がない。なお、「大頭神社 御遷座百年記念誌」には、「大頭神社は、大正二年に妹背の滝のほとりに社殿を遷座してきたが、これに伴い「四鳥の別れ」の神事も伝説化してしまい、現在は、日々、神社の傍らの石に烏喰飯を供えるだけである。」とあり、残念ながら現在は大頭神社の「四鳥の別れ」の神事は行われていないようだ。


以下参考文献。まずは、元禄十五年(1702)厳島道芝記の年中行事、九月廿八日の条から、

「    廿八日

大頭太明神御祭 厳嶋社家中渡海なり。大野の社人舩場まで上卿を迎に出る。儀式古例として尊敬尋常ならず。社家へ雑餉す。七五三の饗應恒例也。神前に魚鳥の高もりを奉る。楽人出仕。楽ありにんちやうの舞あり。

御鳥喰飯 神前にて御供奉る時五烏にとぐひ奉る也。神前より半町余まへなる御田の中なり。儀式嶋廻の御供(ごくう)のごとし。それ五烏は往古より一雙年々相続せり。三月の末よりは。雌(め)烏巣(す)をつくり子烏一双を儲(まう)く故に四月五月は雌(め)がらす出たまふ事すくなく雄(お)がらすばかり出たまふ事多し。相続の子を養育して六月の末七月にいたつては子烏をいざなひ養父崎の御社まで出てとぐゐあげたまふ事をまなばせり。八月九月の頃は親子二つがい倶(とも)に出て御とぐゐあげ給ふなり。かく有て今日此祭に親がらす。雌雄此所に渡りて。供御をあげたまふ。此供御あげてより親烏は行方しれず。子烏一双相続して翌日よりは御嶋廻に子烏一つがひ出たまふ。神秘微妙筆に及ぶも恐(おそろ)し。厳嶋の御山よりは大野まで一里余の海を隔たるに。必ここに飛来り親烏御名残の供御をあげ給ふ事奇瑞をまのあたりに拝み奉る。五烏例年の相続かくのごとし。」

(国立公文書館デジタルアーカイブより)

 

次は、天明年間の著述という「秋長夜話」から、

「九月二十八日大野村大頭(オホカシラ)大明神の祭に鳥喰(トクヒ)といふ物を供す、神鴉(コカラス)これを食て後、親鴉(オヤカラス)雌雄いつくともなく去り、唯子鴉(コカラス)雌雄留まる、之を四鳥の別といふといふは俗傳の誤なり、四鳥の別といふは初学記に、孔子家語を引て曰、恒山之烏生四子、羽翼既成将分離、悲鳴以相送、これを四烏の別といふとなり」


前項と年代の前後はわからないが「松原丹宮代扣書」の天明三年(1783)の条から

 「九月廿八日 天気吉人寄多し鳥喰すみやかに上る」

 

 

さらに、天保13 (1842)年「厳島図会」、大頭神社の例祭の条(ふりがな一部略)、

「 

例祭九月廿八日 厳島の祠官(しくわん)ことことく渡海し神供(しんぐ)を奉るその式みな古風を存せり榊舞求子(さかきまひもとめこ)の楽を奏ず

○毎年の九月廿八日に四鳥(してう)の別(わかれ)といふことあり当社の祠官鳥居の傍(かたへ)に食を供し神楽を奏ずれば神鴉(こからす)一双(いつさう)とび来り神供をあくるなりそもそもこの神鴉といふは弥山の条に記すごとく往古より一双年々相続せり三月の末より雌烏(めがらす)巣を作り雛烏(こがらす)一双を育す故(かるがゆゑ)に厳嶋島巡に四月のころは雄烏(をからす)たゞひとりのみ出づ六月の末七月に至ては子鴉(こからす)を率ゐ養父崎の御社(みやしろ)に出て鳥喰上(あげ)のことを学ばしむ八九月のころは親子二双ともに出つ然るにこの廿八日に至て親烏一双来りて鳥喰をあげ終りて行方しらずその翌日(よくじつ)より子鴉一双のみ養父崎の鳥喰に出づいにしへより一年もたがふことなし且(かつ)厳島より大野まで一里余の海を隔たるにこの日の此刻(このとき)をかならすたかへずして飛来るも霊奇にあらずや」

 2コマ前の挿絵の鳥居を少し入ったところに、御鳥喰飯を置いて祈禱している神職の姿が見える。鳥居の外に座って頭を垂れているのは鳥喰祭を見守っている人たち、雨乞いなどであれば願主を含む一行だろうか。


そして、天保十四(1843)年「大頭神社縁起書」には、

「かかる霊地なれば又名を別鴉の郷といふ此故は宮島山の神烏此の里に来り年々社辺の樹木に巣をくひ子かへして雌雄のからす厳島山に帰る事おほろけならぬ深き故あり此の神鴉厳島々廻りの神供を上り当社に於て年中祭りの度皷を打歌を聞て来り御祭事の神供を上り厳島山に帰る事神秘の大祭は九月廿六日より八日迄此日厳島社官不残来り神幣に舞楽を奏す此時当社の神主松原姓烏喰居祭執行一社の神秘なり此時雌雄子四鳥の神烏来りて神供を上り二羽の親烏は紀州熊野社に帰るといふ事昔時より伝来なり故に此神事を四鳥の別れ子別の神事といふ諺にも四鳥のわかれ烏跡といへり依て此里を別鴉郷といふ事此の神事より始れり」

 

最後に去年10月大頭神社の例大祭にお参りした時に撮った石板、御朱印とその説明書、そして石板に言及があった別鴉橋の写真。

 

 本題とはあまり関係がないけれど、画像のうち御朱印の説明書きにあった「四烏(しがらす)しあわす」についてちょっと書いてみたい。その次の別鴉橋の写真にも「しあわせ会」という四烏由来と思われる会の名前が見える。「仕合はす」の連用形「仕合はせ」が今の「幸せ」の語源であるのは間違いないところだろう。用例を見ると仕合はせ良し、悪しと言わないと吉凶の判断がつかないケースが多いが、古くから今の意味に近い幸運をいう場合もあるようだ。四烏を「しあわす」といつ頃から言い出したのかわからないが、こじつけながら幸せになるという意味をこめているのだろう。

この「仕合はす」は古語ではサ行下二段動詞、せ、せ、す、する、すれ、と活用する。下二段動詞は近代以降下一段動詞に変化して、せ、せ、する、する、すれ、となるから、現代語の終止形は「仕合わせる」となる。現代あまり使うことはない言葉だろう。最近話題の山口の方言「幸せます」は、この「仕合わせる」に「ます」が付いた形であって、文法的にはそんなに驚くことではない。しかし、「仕合わせます」と書けば違和感はないけれど、山口の人の使うニュアンスは「幸せます」であって、聞くとやはりびっくりする。「幸せる」と終止形で使うことはあるのだろうか、こう書くと名詞に「る」をつけていう若者言葉のようだ。日本の多くの地域で「仕合わせる」を使わなくなったのに対して、山口では幸せのニュアンスを強く出しつつ言葉が受け継がれているということだろうか。「仕合はす」の時代の山口に同じニュアンスの表現があったのかどうか、探してみたいところだ。四烏の大頭神社は安芸国でも周防寄りの場所ではあるけれど、これに該当するかどうかは時代がわからないので何とも言えない。


参考2)厳島神社の御鳥喰式

2019-03-18 11:22:29 | 郷土史

(「狂歌家の風」神祇の部にある貞国の鳥喰の歌の予備知識として、厳島神社の島廻りにおける御鳥喰式について、江戸時代に書かれた二つの書物の該当部分を引用しています。)

鳥喰(とぐい)とは厳島弥山に住む神烏に食事をお供えし、カラスがそれを「あぐ」食べることによって成就する神事のようだ。「あぐ」は「食ふ」の尊敬語、今の若い人の中には「おあがりなさい」と言うのは上から目線で好ましくない言い方という考えもあるようで、作った食事をありがたくいただけと恩着せがましく言われているように受け取る人もいるようだ。しかし、古語の「あぐ」は立派な敬語で神様であるカラスが食べる表現として使われている。厳島神社の島廻りにおいては、養父崎神社という厳島神社本殿や大鳥居から見ると島の裏側一番遠そうなところまで行って粢(しとぎ)と呼ばれる御鳥喰飯を海に浮かべて、弥山の神烏が来るのを待つことになる。

私も二十五年前、今の家に戻って来た時に、日本野鳥の会編「窓をあけたらキミがいる-ミニサンクチュアリ入門」という本を参考に、庭に餌台を作って冬季に野鳥に餌をやってみた。しかし最初は警戒して中々近づいてくれない。しばらくしてスズメが止まるようになってからは順調であったけれど、今度はカラスやヒヨドリが一気に餌を持っていくのに悩まされた。だからカラスに食べてもらうのはそんなに難しいことではないと思う。それでも波間に浮かべてとなると難易度がかなり高いようにも思える。弥山で日々同じものをお供えしているのも助けになっているのだろうか。もっとも、「棚守房顕覚書」に「二月以来島巡りは五ヶ度、四月にも執行すといへども、鳥喰一度も上らず」とあるように、うまく行かない事もあったようだ。

また、穢れがある人は船から降ろされると書いてあって、私はどうもその役が当たりそうであまり参加したくないような気もする。カラスを神聖なものとして食事をお供えする風習は全国にあり、「死・葬送・墓制をめぐる民俗学的研究」では数ページにわたって表にまとめてある。民俗学の題材としても面白そうではあるけれど、今は貞国の歌を読むためであるから、島廻りのあらましを読んでおけば十分ということにしたい。古式よりも少し簡略化されているものの今も御鳥喰式は行われているようで、2007年に行われた島巡りのあらましを紹介したページがあり烏が粢をくわえている写真も載っている。

それでは以下参考文献、挿絵の海に浮かべた御鳥喰飯にも注目していただきたい。厳島図会の方は四隅に紙垂(しで)が立ててあって風でひっくり返りそうな気もするのだけれど、上記の現代の写真では四隅という感じではなくてカラスが停まりやすく空けてあるようにも見える。宮島図会と同じような御鳥喰飯が次回取り上げる大頭神社の挿絵にも描いてある。舟の形も二つの本で少し違っているようだ。厳島図会には貞国に栗本軒の号を与えた芝山持豊卿の和歌がみえる。

まず元禄十五年(1702)刊、「厳島道芝記」から御島廻り養父崎の条を引用してみよう。

「御島廻第五の拝所。已の剋此所に到る。此所は濱もなく洲もなし。打よる浪の岸にくだかれ晴嵐颯々として嶺高し。いはほにたてる松の木の間に朱の玉垣拝まれさせ給ふ。をのをの心(しん)を凝(こら)し遥拝(ようはい)す御師の舩は冲中に漕出し(しとぎ)を波の上にうかへて。楽を奏す。嶺より霊鳥一双(ひとつがひ)。翅をならべ松のしげみをわけ出。御師の舩に移り。波にうかへる供御(ぐご)を雄烏(おからす)あげ給ふ。其時舩中(せんちう)跡なるも先なるも舷(ふなばた)をたゝき御烏をはやし奉る。雌烏(めからす)飛来り最前のごとくあげ給へば。猶いやましにいさみて。とよめけども中々懼(おそ)れ給はず。又雄烏来り以上三度あげ給ふ。されば御嶋廻り。一日に唯一艘(そう)にはあらず。二艘三艘多きは十艘にも餘れり。皆次第次第にあげ給ふ。障(さはり)のなき舟は。その数々あがらずといふ事なし。かくある中に。少も汚穢にふるゝ事あれは。霊鳥いでたまはず。たとへ出ますとても。中途より帰りたまふ既に御師の舩まで乗り移りたまひても。供御あげ給はぬ事あり。かくのごとくなる時は。御師舟を戻して。舩中をあらため銘々に糺ず。少も障ある人をは舟よりおろし。後の濱に残す。其後舩中修禊して新に供御を奉れはさはりなくあかりぬ。あやしさ。おそろしさ感涙袖に餘れり其奇瑞諸人親視(まのあたり)拝せる事なり。猶鳥喰飯の事は。年中行事に記す。かくて舩の中(うち)には喜悦の眉をひらき。祝盃の奥を催す。宿の主は種々の饗をなす事夥し」

 

 

 

(国立公文書館デジタルアーカイブより)

 

もうひとつ、天保13年(1842)厳島図会より(フリガナは一部省略)、

 

「養父崎神社 祭神霊烏(ごがらす) 嶋巡(しまめぐり)の時此處(こゝ)にて鳥喰(とぐひ)の式あり

凡島巡の禊(はらひ)といふは島中の七浦(なゝうら)の神社を巡拝することなりこれ三神この島に降臨(こうりん)ましまし御座所の地を定めんとて浦々を見めくらせたまひし故事によれるとかやその式は願主吉辰(きつしん)を擇(えら)び前日より潔斎をなし当日の未明大宮神前御笠濱より舩(ふね)に乗る祠官(かんぬし)の舩には四手(しで)切かけ賢木(さかき)を立て先に進む願主は真梶(まかぢ)しげぬける舩に幕など引餝(ひきかざり)水主(かこ)十二人こゑを帆にあげ洲崎の松も栄ゆくなど諷(うた)ひ立て漕出(こきいだ)す饗(まうけ)の舩には宿のあるし以下(いげ)乗れり都合舩三艘御山(みせん)を右になし廻るまづ杦(すき)の浦に着て各(おのおの)修禊(はらひ)し社頭に拝謁す祠官(かんぬし)社前に楽を奏し退出(まかんで)のときにいたりて拝殿の濱に茅の輪をたてくゞりて祓(はらひ)をなす以下浦々その式異なることなし但(たゝし)杦の浦にては別に朝餉(あさかれひ)の式ありて膳部質朴(せんぶしつぼく)なりそれより頓(やが)て舩を出し鷹巣(たかのす)腰細(こしほそ)の浦をすぎ青海苔の浦にいたる此處(このところ)にて午飯(ひるげ)を調(とゝの)ふ飯上(はんしやう)に青海苔を粉(こ)にしてかくること例なりさてその式をはりてまた舟を漕出し養父崎(やふさき)につくこの地洲濱もなく岩石かさなりてうちよする波いと清く松の木の間(ま)に朱(あけ)の玉垣みえさせたまふ祠官(しくわん)ふなはだにたち出粢(しとぎ)を海上にうかへ鳥向楽(てうかうがく)を奏すればたちまちに霊烏(れいう)一雙(いつそう)嶺よりとひ来り祠官の舩に移り波にうかへる粢を雄烏(をがらす)まづおりてあぐ次に雌烏(めがらす)また下りてあぐ其時前後の舩舷(ふなばた)を叩き歓(よろこび)の声を発してどよめくこと暫しはなりもやまずとばかりありてまた雄烏来りてあぐ凡(すへ)て三度大かた島巡(しまめぐり)の多き時は一日(ひとひ)にニ三艘より十艘におよふことありといへとも次第みなかくの如し但舩中に不浄汚穢(ふじやうをゑ)あれは霊烏(ごがらす)出ることなしもしさる事もあれば祠官(かんぬし)舩中を點検(てんけん)し聊(いさゝ)かにても障(さわ)りある人をばみな舩よりおろし跡の濱に残し其後(そのゝち)舩中を修禊(しゆけつ)し新(あら)たに粢をうかふればことなくあがる也それより山白濱(やましろはま)をすぎて洲屋の浦にいたる宿主(やとぬし)餡餅(あんひん)の饗(あるし)をなすいかなる所由(ゆゑ)といふことをしらす其所(そこ)を過て御床(みとこ)の浦にいたる各(おのおの)また修禊し石上(いしのうへ)の拝殿に蹲踞(そんこ)す祠官祝詞(のりと)をよみて茅の輪を納(をさ)め大元(おほもと)の浦に漕着(こきつ)け各舩より下(お)り神拝(じんはい)をなして後宴(ごえん)の席(むしろ)を開くさて大宮客神宮(おほみやまらうどのみや)に報賽(かへりまうし)の神楽を奉る以上島巡の梗概(おほむね)なりまた浦巡(うらめぐり)といふこともありこれはさせる潔斎などもせずただ山水逍遙(さんすゐせうえう)のためなり 霊烏(ごがらす)のこと四の巻大頭(おほがしら)大明神の件(くだり)にいふべし

     島めくりのこゝろをよめる

  なゝ浦の島めくりする舟の中のものゝ音あかす神やきくらん 中納言持豊

  いつまでもみるめはうれしいつくしまめくる浦回を面かげにして 似雲 」


参考1) 弥山神鴉

2019-03-18 11:18:50 | 郷土史

(この記事は「狂歌家の風」神祇の部にある貞国の鳥喰祭の歌を読み解くための予備知識として、弥山の霊烏について江戸時代の文献を引用しています)

 栗本軒貞国詠「狂歌家の風」を読んできたけれど、あとどうしても書いておきたいのが、大頭社の鳥喰祭の歌と人丸社奉納歌の二首だ。鳥喰祭は狂歌家の風を最初に読んだ時に一番印象に残った歌でブログを書き続ける上で最大のモチベーションになっていて、シリーズのまとめとして書きたい気持ちもある。人丸社の方は近世上方狂歌叢書のテキストにある「筆梯」を「筆柿」と読みたい、ここで止まってしまっている。「松原丹宮代扣書」と「人丸社棟木札」に寛政二年三月十八日に貞国が大野村更地(更地は地名)の筆柿の元に人丸社を勧請したとある。学生時代に熱中した梅原猛先生の「水底の歌」に人麻呂の命日が三月十八日であることは秘事であった、というのは何度も出てきた。先生の訃報に接して、すぐにでもこの三月十八日について書きたいのだけれど、やはり原本の梯の字を確認してからだろう。柿と読みたい気持ちを抑えて、ここは一度冷静に原本を眺めてみるべきだと思う。しかしながら、高齢の両親の体調を考えると、都立中央図書館まで行くのは現状では難しい。伊丹の柿衛文庫ならば日帰りでとも思うが、閲覧できるとは書いてない。ここは先に、鳥喰祭について書くことにしたい。

 貞国の鳥喰祭の歌を読む前に予備知識として、三回に分けて江戸時代の文献を紹介してみたい。まず今回は、鳥喰祭の主役、厳島の弥山に住むという神鴉(おがらす、古くは「ごがらす」)についてみておこう。この弥山神鴉は厳島八景に入っている。神鴉、霊烏も「ごがらす」とルビが振ってある場合が多いのだけど、厳島道芝記など古い書物には「五烏」とある。弥山の神鴉は雌雄一つがいが年々相続するとあり、子烏を入れても二つがい四羽しかいないはずなのに五烏とはどういうことだろうか、速田大明神の祭神の霊烏を入れて五烏だろうか。いや、これはどこにも見当たらないから、単に御烏と音が同じなだけかもしれない。

 その速田大明神は、今は速谷神社といって広島では車の祈禱で有名で、バスやタクシーに乗ると速谷神社のお札をよく見かける。江戸時代の文献によると祭神は霊烏とあるのだけど、今の速谷神社公式サイトによると祭神は飽速玉男命とあって下述の文献では主役となっているカラスの文字は見当たらない。安芸国総鎮守として、阿岐祭という例祭をもっとも大切なお祭りと書いていて、「太古の昔、安芸国を開かれたご祭神に感謝し、安芸建国を祝うとともに、皇室の弥栄、国家の隆昌、そして地域の安泰と繁栄をお祈りします。」とある。厳島図会でも一説として飽速玉命を祀ったのかと書いているが当時でも社伝は霊烏であり、明治以降変ったようだ。近代の神道においては、カラスでない方が都合が良かったということだろうか。今回このシリーズはカラスの活躍が眼目であるから、少し残念な気がする。

前置きが長くなってしまった。今回は弥山の神鴉の存在を確認すれば十分だ。鳥喰については次回、次々回に譲ることにして、とにかく文献を読んでいただきたい。なお、蛇足ながら、「あぐ」は「食ふ」の尊敬語であって、五烏御供所にある「供御をあげ給はざるなり」は、お供えをしないのではなくて、お供えを召し上がらないという意味になる。

 

元禄15年(1702)、「厳島道芝記」より、

速田太明神 御社厳嶋より海の上五十町陸の路十丁余。都て六十丁余あり佐伯郡平良郷(へらのがう)に鎮座なり。芸州二宮(にのみや)速田(はやた)太明神と号し奉る。玉殿の内巌(いはほ)にてまします。抑速谷(はやた)太明神は。三はしらのひめ神いつくしまにあまくたらせたまふときの従神(じうじん)五烏(ごがらす)鎮座の地なり。はじめ三柱の姫神の部曲(みとも)に侍りて浦々嶋々七所を見そなはし給ひ。笠の濱に宮所を求めさせたまひし後。五烏は笠の濱より艮(うしとら)にあたつて。此平良郷に御光臨あり。いはほの上に御蔭(みかげ)をうつされ。郷(さと)の地主岩木(いはき)の翁に神(かん)がゝりましまして鎮座し給ふ。うしろは山高く(そび)へ松樹(しやうじゆ)斧(をの)をいれねは。鳥雀その所を得。まへは豊御田(とよみた)曠々(くはうくはう)として民をのつから殷饒(あきた)れり。御祭礼年中行事に委し。」

(国立公文書館デジタルアーカイブより、「厳島道芝記」速田太明神)

 

同じく「厳島道芝記」弥山の条より、

五烏(ごからす)御供(くう)所 御烏の神霊は二宮(のみや)速田太明神と跡を垂(たれ)たまふ。今一雙(ひとつかひ)の霊鳥(れいてう)この山にすめり。毎日奉る供御(ぐこ)かりにも不浄あれは。其侭(そのまゝ)にてすたれぬ。御嶋廻にやぶさきの冲におゐて。供御奉る。これを御鳥喰飯(おとぐゐ)と名づく。其日は必此所にて奉る。供御をあげ給はざるなり。御鳥喰飯は午(ひる)にて此山の供御は朝なるに豫(あらかじめ)其瑞(ずい)ある事筆にまかせ侍らんもおそろし。惣じて此御山に烏幾千万といふ数をしらず。其中に五烏雌雄(つかひ)は。神威あらたに類を離れ外のからすあたりへ近づく事あたはず。猶五烏の事は第四第六の巻にあり。」

(国立公文書館デジタルアーカイブより 「厳島道芝記」五烏御供所)

 

「秋長夜話」(天明年間の著述と言われている)より、

「○厳島に五烏(ゴカラス)あり、中華にて神鴉といふ、杜子美の詩に迎擢舞神鴉といふこれなり、又洞庭に神鴉あり、客船過れば飛噪して食を求む、人肉を空中に擲れば哺之、五雑爼に見ゆ、又続博物志に、彭沢に迎船鳥あり、摶飯(タンハン)を擲れば高きも下きも失することなしといへり、是皆同物なり。」

 

寛政6年(1794)、厳島八景之図 弥山神鴉より、

     弥山神鴉  黄門輝光

  この山の宮ゐを

    さしていくとせか

   すめるからすの

     つかいはなれぬ

 

天保13年(1842)、厳島図会 弥山の条より(フリガナ一部略)、数項前に弥山神鴉の挿絵もある。

神鴉(ごがらす)

この山に雌雄一双(しゆういつさう)ありて年々(としとし)子を育し相代(あひかは)れり山内(やまのうち)の凡鴉(ぼんあ)もとより幾百千羽といふ数をしらずといへども神鴉のあたりちかくもたちよること能(あた)はすその霊異は巻二養父崎社の條巻四速田社の條にくはしく挙たれは併せ見て知べし

      弥山神鴉(みせんのしんあ) 八景の一

  このやまの宮居をさらでいくとせかすめる烏のつがひはなれぬ 中納言輝光

  島めくる小舟に神や心ひくみやまからすの波におりくる  宣阿」

 

同じく、厳島図会 速田大明神社の条(フリガナ一部略)

速田大明神社 佐伯郡平良郷に鎮坐 ○幣殿拝殿御門御供所鐘楼等あり

祭神霊烏(れいう)

社傳に云く上古三神伊都岐島(いつくしま)に臨幸ましましける時霊烏部曲(ぶきよく)に侍りけるが御鎮坐の後(のち)この平良(へら)の郷(さと)にとび去しを土人(とじん)岩木某といふおきなこれを一社に勧請せりといへり案ずるに日本紀(にほんぎ)に 神武天皇大和国の逆徒を退治したまへりし時八咫烏(やたからす)先導(みちびき)のことありされはこの社に祭る所の霊烏も三神を厳島に先導たてまつりしなるべしかくて考れば速田は八咫の詞(ことば)の轉ぜるにや古文書には速谷(はやたに)とあり故(かるがゆゑ)にまたの説には旧事記(くじき)に阿岐国造(あきのくにのみやつこ)飽速玉命(あきはやたまのみこと)とありて速玉速谷言(こと)尤(もつとも)近しもしくはこの国造を祭りしならんといへれと社傳にいふところ上件(かんのくだり)の如くなれはその是非(しひ)今さためかたし」


阿武山(あぶさん)を語る(補4) 蛇落地追記

2019-03-13 19:10:56 | 阿武山

 昨日、NHK広島放送局のテレビ番組「お好みワイドひろしま」の中で、「地名が示す 過去の災害」と題して、災害地名という観点から蛇落地の紹介があった。(残念ながらNHK広島にあった動画は削除されてしまったようだ。何枚かキャプチャーした画像を入れることをお許しいただきたい。)



 この放送で案内をして下さっている地元の方の名前には見覚えがある。八木三丁目の蛇落地観音堂が道路工事で立ち退きになり、昨年八月に再建されたという情報をツイッターのフォロワーさんにいただいて、写真も見せていただいたのだけど、新しい観音堂の銘板には施工業者と棟梁の名前に続いて日付とこの方の名前があり、観音堂移築はこの方によって行われたようにも読める。昔からの上楽地の実力者、庄屋のような家だろうか。

 さて、この動画の見どころは何といっても観音堂の内部、観音様に続いて、「奉再建蛇落地観世音菩薩・・・」という木札が映る場面だ。裏面はチラッと移っただけで静止させても読み取ることはできない。右には「手置帆負命」と工匠の神様の名前があり、下に大工の文字も見える。裏と表側の下部が読めなくて、とにかく年代がわからないのが残念だ。これが観音様を地上に降ろした弘化四年のものであれば、再建とあるのは例えば弘化二年の大雨などで山頂の観音堂に被害があって麓に再建したということが考えられる。麓に移ってからもう一度再建したとなると明治維新以降だろうか。蛇落地が地名であった証拠というからには弘化四年のものではないかと思うのだけど、ここは取材側がもう一押ししてほしかったところだ。




(裏面の字は読めなかった)

 このあとは災害地名という観点であるから、陰徳太平記の記述と土石流について、そして最後は梅(埋め)とか牛(憂し)とか栗(刳る)とか5年前によく見た災害地名をあげて終わっている。この後半部分はもうスルーと言いたいところだけれど、陰徳太平記に出てくる蛇王子(じゃおうじ)、これは最終的に大蛇の首が落ちて池になったところで、この蛇王子が蛇落地に転じたと説明していた。一旦観音様のことは置いておいて、この伝承に沿って、もう一度蛇落地を整理してみよう。何度も書いているけれど、私の興味は土石流と蛇落地の関連からは離れて弘化四年に観音様が阿武山山頂から麓に降ろされた場面に移っている。蛇落地は土石流ではなく観音様と結びつきが深いネーミングではないかと最近は考えるようになった。しかし、伝承を軽視してはいけないとも思う。蛇落地はデマではない。自分の主張に合わないものをデマと決めつける風潮からは思い切り距離を置きたいと思う。

 蛇落地の回で伝承を記した二つの書物、「黄鳥の笛」と「しらうめ」を引用した。そこではこの蛇王子は蛇王池と表記され、そのまま「じゃおうじ」と読んである。そして、この蛇王池があるを蛇落地と呼んだとあり、「しらうめ」の方は「蛇落池」と池の字を使って「じらくじ」と読ませている。そして後に上楽地(じょうらくじ)と書き改められた、とある。蛇王子(蛇王池)→蛇落地(蛇落池)→上楽地と変化したことになる。

 ここで上楽地という字について考えてみる。この上楽地という地名は、私が子供の頃は地図に大きく書いてあったから、行ったことはなくても知っていた地名だった。例えば同じ安佐南区で沼田といえば伴という地名がまず思い浮かぶけれど、伴は合併前の村名、すなわち大字である。上楽地は大字ではないけれど、それに匹敵するような有名な地名で八木のかなり広い地域をカバーしているという認識だった。ところが字の書かれた地図をみると、上楽地はかなり狭い範囲だ。蛇落地について詳しく調べていらっしゃるブログの記事にその小さく分かれた字の画像がある。この方もツイッターではフォロワーさんで、5年前の私の未熟なツイートが引用してあってアレだけれども、そこはスルーして画像を見ていただきたい。上楽地の隣の椿原というのは梅林駅の裏手に名前の入った住宅があり、室屋も集会所として名前を留めている。浄光院は日本むかし話に虚空蔵菩薩の話が登場するのだけど、今はないのだろうか。こうやって狭めていくと、この地図にある上楽地は蛇王池の碑があるあたりだろうか。蛇落地観音堂や浄楽寺は外れているのではないかと思う。それなら、蛇王子=蛇落地で決まりかというと、そうとも言えない。蛇王池の場所はわからなくなっていて、上楽地の中で昔は沼であったと伝えられる場所に碑を建てたようだ。長々と書いてきたが、蛇落地は伝承においては、池、あるいは淵とのつながりが深いということは指摘しておきたい。そして、蛇王池の集落を蛇落地と呼んでいた可能性は考えられるけれど、池の周りの限定的な集落名であって、人が住み続けていることから、災害地名としての戒めは無かったと考えられる。それにこの池周りの集落は番組で指摘しているような土石流の堆積物の丘陵とは違う場所にあったのは明らかだろう。また、大蛇退治の後に池になったということをどう考えるか。碑のある周辺は底なし沼であったという伝承もある。江戸初期までの太田川は今よりも西を流れていて、八木地区は水害の多い場所であったという。災害がらみの伝承であったとしても、土石流ではなくて河川氾濫だったかもしれない。それから、この字の地図は昭和40年代ということだが、上に書いた上楽地の地名のイメージと大きな開きがある。もっと広い範囲を上楽地と呼ぶことは確かにあったと思うのだけれど、この字の図とどう整理をつけたら良いのか、私にはよくわかっていない。


(この地図の上楽地も広範囲になっている)

 そしてもうひとつ、宝暦年間にはすでに上楽寺という字の記述があって(宝暦十二年沼田郡八木村地こぶり帳)、蛇落地の伝承を信じるにしても、観音堂が麓に建てられた弘化四年の時点では上楽地に書き改められた後ということになる。この伝承に沿ってストーリーを展開するならば、麓に降ろされた観音様に、大蛇伝説を思い出してその時は地名ではなくなっていた蛇落地の三文字を復活させて付け加えた、ということも考えられなくはない。しかし上楽寺という字は、蛇落地が変化したというよりは、元和年間からあったお寺の名前、浄楽寺からという方がやはり自然なように思われる。蛇落地はデマではない。蛇落地観音様は確かにいらっしゃった。ただし土石流との関連は、慎重に考えてみないといけない。

 蛇落地はまず観音様との結びつき、そして伝承にみられる池や沼のイメージなど別の要素もあり、蛇落地イコール土石流とした災害地名の主旨には賛同できない。しかし観音堂の内部が映った今回の放送は貴重なものであったと思う。思えば過去に二度この観音堂を目指したけれどたどり着けなかった。一度目は災害の跡がまだ色濃く残る団地を見て引き返した。もう一度はあちこち探したけれど見当たらなかった。今考えると、二度目の時点ですでに立ち退きになっていたのかもしれない。テレビ越しとはいえ、観音様を拝むことができたのはありがたいことであった。


 南無蛇落地観世音菩薩 奉願来夏平穏 

 おん あろりきゃ そわか 

 

 


3月8日 広島県立図書館「芸備先哲伝」など

2019-03-08 19:04:10 | 図書館

 調べ始めて半年、そろそろ貞国の鳥喰の歌について書きたい。国会図書館の厳島図会、国立公文書館の厳島道芝記の該当部分を書き出してみたけれど、読みに自信がない箇所がある。舌先の時も間違っていたし、まずは活字になっている本から該当部分をコピーする予定であった。ところがカウンター2に行く途中、郷土資料の書架に寄った時に気が変わって、両書も入っている「宮島町史 資料編・地誌紀行 」を借りて家でじっくり読んでみることにした。もっとも先に借りたのは失敗でとても重かった。

 次に前回見落としがあった「広島県山県郡史の研究」と、見落とし部分は別のもう一冊かと思って「広島縣山県郡史之研究 草稿・原稿・校正刷・本印刷・著述雑書綴」を書庫から出していただいたら、後者はミカン箱ぐらいの箱を司書さんが開けたら茶色く変色した資料がぎっしりつまっていた。これは私の手に余るもので2時間ぐらいの滞在ではどうにもならない。私がやめときますと言うのと、司書の方がこれはちょっと出せないかもしれないと言われたのがほぼ同時であった。帰ってもう一度検索したらページ数・大きさのところに2組30×43cm(箱),31cm(箱)」と書いてあって、これを確認してなかったのがいけなかった。せっかく重い資料を持ってきていただいたのに申し訳ないことだった。しかし、ちょっと玉手箱をあけた気分で貴重な経験だったとも思う。一冊ぐらい手に取らせてとお願いしてみるべきだっただろうか。

 気を取り直して、「広島県山県郡史の研究」を読む。前回は吉水園のところに貞国の歌を見つけてそれで満足してしまったのが敗因で、文化を記述した箇所に未知の貞国の歌四首がのっていた。加計に狂歌の指導に行く道中の歌二首と、文化七年都志見村駒ヶ瀧での歌二首、出典は「都谷村 石川淺之助氏所蔵古文書」とある。都志見村は明治の大合併で都谷村となり、昭和には豊平町、今は北広島町都志見という地名になっている。帰って駒ヶ滝の場所を確認したら、昔、豊平のどんぐり村に蕎麦食いに行ったついでに歩いたことがある場所だと思うのだけれど、写真も撮ってなくて確実ではない。この滝で詠んだ貞国の二首目、


  きぎの葉もちりつるてんとたまらぬや 三味とむの胸のたきのしらいと


四句はこれで良いのかどうか、原典を見てみたいものだ。

次は「広島県人名事典 芸備先哲伝」を書庫から出していただいて栗本軒貞国の項を読んだ。狂歌の号を京都の家元より受けたという例のフレーズに続いて、聖光寺の辞世の歌、しかし、散るや残るを漢字で書いてなくて現物を見て写し取ったものではなく、尚古と同じように「人さへも」の「も」が欠落している。続く六首の引用は尚古と同じ歌ながらやはり漢字の使い方が違っていて、これは五日市町誌と同じ表記になっている。ということは、芸備先哲伝の辞世を含む七首は尚古から漢字の表記にはこだわらずに引用したもので、それを五日市町誌がそのまま引用したということだろうか。辞世の表記の仕方を見る限り、漢字は自分流に書いたもので別資料の存在は期待できないようだ。また同様に、京都の家元云々や八十七歳没も尚古からの引用と思われる。

先哲伝の貞国の項目のコピーをお願いしたら、担当の新人?司書さんが別の司書さんに判断を仰ぐ場面があった。「大丈夫」の声が聞こえてコピーできたけれど、帰って調べたら事典の項目一つだけでも独立した著作物であるという判例があるようだ。図書館でのコピーは著作物の一部、本文の半分以下という原則からすると、なるほど問題があるのかもしれない。それなら何故大丈夫だったのか。「複製物の写り込みに関するガイドライン」(pdfファイル)これによって救済されたということだろうか。貞国の項目はコピー1枚だけであったが、もし2枚以上だったなら全体は無理とか言われたのだろうか、こういう規則の解釈は苦手である。

先哲伝のついでに「安古市町誌」と「安佐郡誌」も書庫から出していただいた。これは尚古にあった貞国の歌にある古市の名物餅について手掛かりがないかと探したのだけれど、見つけることはできなかった。

今回は宮島町史がとにかく重くて、江戸狂歌はお休みして上方狂歌だけ、計二冊を借りて帰った。花粉で目がアレなのだけれど、宮島町史資料編を三週間かけて読んでみたい。


短歌 その17(2019年3月~6月)

2019-03-06 13:10:20 | 短歌(まとめ)

 

 

     豪雨災害から八ヶ月といへる日に

  春雨や捜索ヘリの尾も低く月命日の三篠川ゆく

     さらにひと月後

  九ヶ月前の夏の夜忘るなと月命日に聞くヘリの音

 

     大頭社鳥喰祭の歌について書き終えて

  誰ひとりほめてくれぬが貞国のとぐひの歌を記しおはりぬ

             

      吉田サッカー公園の人工芝の隣、
      サポ捨て山はタイコの人の命名にて、
      老いて頑迷なるサポーターはその
      屈折したる幕や門旗と共にこの山に
      捨てられ、いつまでも休む事なく
      門旗を掲げてバモバモ呟きゐると
      なむ語り伝へたる

  とこしへにうたひつゞけよ吉田なるサポ捨て山に照る月を見て

 

      夜桜追憶

  夜桜も遠き昔となりにけり君の写真のやや霞みたる

 

      木芽和歯痛

  梓弓木の芽も春の筍を噛めば今年も歯ぐきぐらぐら

 

      読書乱心

  図書館のレファレンスなる窓口の清少納言首傾けり

 

      男子生涯成一事耳

  煮えてくる間に一品つくるのは苦手なりけり鍋が気になる

 

      旧三月十八日奉拝人丸神社

  宮島の姫神様に背を向けて人丸さんの森に分け入る

  鴨山の岩根し巻けるさにあらで木漏れ日やさし森の御やしろ

  貞国が願主となりて奉りし歌聞きたまへ春の筆柿

  二百二十九年ぶりに貞国の歌響かさん春の筆柿

  正一位にして歌聖の神様を人丸さんと里人は呼ぶ

  筆柿は碑のみ残りて祭壇の中に幹てふ里人の歌

 

       思病院父

  外泊のもらえぬ父やバラ肉とアナゴの残るチルド悲しも

 

       思慕平成元年

  平成の始まりし日の我といえば除籍間近の七回生なりき

  平成の始まりし日は六畳の炬燵二人でテレビ見居りき

  家賃のみ上がりて時給そのままに家賃のために働きし日々

  頼まれて表紙をみればララはまだ平気なれども少コミはいや

  ただ単に経済的な理由にて二人でシャワー浴びしあの頃

 

       目不合恋

  カウンターに座れば気持ち背が見える君の悲しみいかでとくべき

 

       御譲位改元

  たひらかになれる御代からうるはしくおさまる御代へ悲しみもなく

  

       奉祝令和元年残春

  うるはしくおさまる御代のはじめとて五日かぎりの春を祝はむ

 

       祈夏平穏

  うるはしくおさまるはじめの年なれば水損暴風無き夏をこそ

 

       父入院二ヶ月

  もう一度手術と聞けばはつ夏のあぜ道ふさぐすいば恨めし

  病室で顔を見るなり退院は今日ではないと海ながめ居る

 

       正明院明光寺薬師堂縁日

  はつなつの三篠の土手をひむがしへ歩むおやくっさんの縁日

  新緑の下におはするお大師の杖指すところ薬師堂見ゆ

  五百年前の享禄天文の大蛇退治を知る仏さま

  父の病しばし忘れて御仏の四角き顔をながめ居りけり

  楠若葉光る迷彩頭巾着て阿武山飲むや亀崎の森

 

       五月真夏日

  三十度ぐらいで暑い言うなかれ去年思えば爽やかな春よ

 

       陳腐夢

  ありがちな悪夢真暗き君の背の消えゆく先を追う三篠橋

 

       詰所隣病室

  鬼悪魔痛いやめろは平気でも暇人言われ怒る看護師

  数日で慣れるだろうがその前に声出てほしい父の筆談

  胃ろうてふ言葉を聞けば父も母も強く否みて下を向きけり

 

       親子生別

  バス来たよ道の向かいに声かける我は通院母は看病



       バス待

  夕陽映す君のナンバー過ぎゆきて十分待てどまだバスは来ず

 

 

    


狂歌家の風(28) かち路

2019-03-03 10:19:27 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、今日は春の部から三首、

 

        上巳 

  けふは汐のひのもとのみか蛤のから迄かち路ひらふ海原

        翌日又人々打より
        三月四日といへる題を
        さくりて 

  雛酒の残りに酔ふも昨日しいたそのもうせんのあけの日の色 

  わつさりと見し草餅もひなの日の一夜過れははやかひた色

 

上巳は三月三日の桃の節句のこと。しかし貞国の歌は今のひな祭りとは随分趣が違うようだ。

一首目は、技巧を駆使した結果、私には難解な歌だ。「かち路」は歩行路(かちぢ)、徒歩の旅をさす。「狂歌桃のなかれ」に歩行路が入った貞国の歌がある。

 

       寄竹述懐           貞国

  老の身のひらふ歩行路につく杖のその古を忍ふ竹馬

 

一首目と同じく、「ひらふ」が入っている。これは「かちをひらふ」徒歩で行くという表現で、一首目では蛤の縁語となっている。また、汐が干る、から日の本、に対して唐まで歩行路と言い出して、蛤の殻にかけている。さらに海原を歩行路という面白さも入って、盛りだくさんの貞国らしい歌であるが、何が言いたいのかよくわからない嫌いがある。貞国の時代、潮干狩りは三月三日にするものと決まっていたという。今日は引き潮のみだろうかずっと沖まで蛤を拾っている、みたいな歌意と一応考えておこう。あるいは何か見落としているのかもしれない。

二首目は毛氈の朱(あけ)からひな祭りの明けの日の色と詠んでいる。雛酒といい、朱色の毛氈が出てきて少し今のひな祭りと同じ匂いもする歌だ。しかし、単に酒好きの貞国が酔っぱらっているだけのような気もする。

三首目は、昨日はわっさりと見えた草餅も三月四日になるとかびた色に見える、と詠んでいる。貞国は団子や餅の歌も多く、酒も餅も両方いける口だったようだ。「わつさり」は辞書で引くとあっさりと同義と出てくる。しかし現代では草餅の色をあっさりとはあまり聞いたことがないし、ここではもっと肯定的な、違うニュアンスがあると思うのだけど中々用例が見つからない。

一首目に関連して、貞柳翁狂歌全集類題から一首引いてみよう。

 

       潮干に住吉にまうてゝ

  汐のひるいつも節句のいつもいつも住吉みやけににしるはまくり




(ブログ主蔵「貞柳翁狂歌全集類題」13丁ウ・14丁オ) 


「にしる」は蛤の煮汁ではなくて、「蛤にじる」で潮干狩りの時に足で探って蛤を採ることのようだ。この歌の前に十首ぐらいある節句の歌を見ても、上巳とは酒と草餅と蛤であって女の子の祭りという要素は皆無である。ネットで調べると江戸中期から庶民にも広まったとあって貞柳の時代はまだ無かったのかもしれない。貞国は二首目に少しそんな感じも見えるのだけど、貞国の興味は酒と草餅ということだろうか。

 

【追記1】 「狂歌桃のなかれ」のひな祭りの歌、

 

       三月三日        貞桟

  雛祭りあかねまへたれ緋の袴在所娘もかりのおつほね

                広島 福原氏幸女

  ひな祭り宮もわら屋も押なへて田舎も桃の花の都しや

        草餅      庄原故人 可周

  灸とはあちらこちらに蓬餅ひなに子供かすゑて悦ふ 

 

貞桟は庄原の人で在所娘の普段の暮らしぶりが気になるところだが、寛政年間には地方でも今のように女の子が主役でひな人形を飾ったひな祭りをやっていたようだ。「田舎も桃の花の都しや」華やかな様子が伺える

 

【追記2】 「狂歌手毎の花 二編」から貧家雛祭と題した歌を三首、

 

         貧家雛祭

  身躰も寒いうちとてまつれるは懐手してこさる紙ひな (逸昇亭風姿)

  あきからの戸棚をすくに仮御殿ひんほかくしとなる雛まつり (知足斎愚楽)

  風呂敷をしいてなりとも雛祭初の節句はつゝまれもせす (東翠舎狐月)

 

狂歌手毎の花は同じ作者の歌を数首ずつ記していてこの三首も連続ではなく、別々のところに同じ題で入っていたものだ。貧家雛祭という題が何度も出てくるのは、庶民のひな祭りが華美になっていったことの裏返しとも考えられる。