阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

栗本軒貞国 参考文献(1)

2019-01-31 10:29:51 | 栗本軒貞国

昨日のメモにも書いたように、このあと新しい歌を探すのは時間がかかりそうな見通しなので、ここで一度参考文献を整理しておきたい。今回は、貞国の狂歌が記載してある文献を順不同で。

 

「近世上方狂歌叢書 九」 西島孔哉 編

 栗本軒貞国詠「狂歌家の風」都立中央図書館本の全編を収録し、西島先生による広島の狂歌壇についての解説も載っている。


「武庫川国文21『狂歌寝さめの花』をめぐる諸問題ー付(翻刻)狂歌寝さめの花」 西島孔哉 著

 「狂歌寝さめの花」で葵という作者名の4首が、後述の「柳井地区とその周辺の狂歌 栗陰軒の系譜とその作品」 の中で貞国の歌として紹介されている歌と一致している。柳井の本には出店の記述はないが、貞国の後継、柳門四世を名乗った栗陰軒貞六の残した資料に基づいた記述であって、貞佐生前の貞国の号は葵であったと考えられる。

 

「狂歌逍遙 第2巻 」 吉岡生夫 著

 「狂歌家の風」から代表作9首を引用して語句を解説してある。

 

『狂歌桃のなかれ』書誌・影印・翻刻 中野眞作 著

 桃縁斎貞佐の芸備の門人による歌集で柳縁斎貞国の歌は12首入っている。参考文献に「狂歌家の風」享和二年版の存在が記してある。

 

「尚古」 広島尚古会 編 参年第八号 「栗本軒貞国の狂歌」 倉田毎允 著

 貞国の歌を37首記載してある。長い詞書を持つ歌も数首あり、歌集かそれに近いものからの引用もあったと思われるが出典の記述はない。貞国が苫の商いで裕福であったこと、京都の門人360人によって辞世の碑が建てられたのとの記述もあるが、これらもソースは書かれていない。貞国没から百年経っていない時期の著述であり、伝承の可能性もある。


「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」 柳井市立柳井図書館 編

 貞国の歌12首を収録、出典は書かれていないが周防の弟子たちの資料による晩年の作が入っていると思われる。貞国から周防に伝えられたとする柳門の系譜を詳しく書いてある。

(追記)12首のうちの4首は、「狂歌寝さめの花」の葵という作者の歌と一致している。晩年の作と書いたが、逆に貞佐生前の貞国三十代の歌も入っていることになる。


「広島県大野町誌」 大野町郷土誌編さん委員会 編

 妹背滝で詠んだとされる貞国の歌一首が載っているが、出典の記述はない。大野村にあったという貞国を師匠とする狂歌連「別鴉郷連中」の記述があり、寛政二年の人丸社の勧請はこの狂歌連が願主となって行われたとある。年表によると、「松原丹宮代扣書」または「人丸社棟木札」のどちらかに「別鴉郷連中」の記述があるようだ。また、大野村の門人であった大島家蔵の「玉雲流狂歌誓約」や貞国筆の掛け軸(判読困難)の写真、さらに追加で貞国の歌があるという文化三年の歌会の文書の存在も記されている。この大島家文書には、まだ活字になっていない貞国の歌が残されているように思われる。


「五日市町誌 上巻」 五日市町誌編集委員会 編

 「芸陽佐伯郡保井田邑薬師堂略縁起並八景狂歌」に追加として載っている貞国の歌一首、保井田村の門人佐伯貞格に与えた「ゆるしふみ」の写真にも「柳門正統第三世栗本軒貞国」の歌一首、また貞格詠「狂歌あけぼの草」梅縁斎貞風による序文冒頭に置かれた貞国の歌一首の記載もある。さらに、すべて尚古と重複する貞国の歌7首の記載があるが、出典の記述はない。表記を比較したところ、尚古を引用したと思われる芸備先哲伝から引用したようだ。それから柳門四世貞風という記述もあり、玖珂の栗陰軒貞六だけでなく広島にも柳門四世を名乗る門人がいたことがわかる。

 

「沼田町史」 広島市 編

 伴村出身で大和国で開業していた医師の天保年間の日記、「岡本泰祐日記」に冠字披露のすりものにあったという貞国の歌一首の記載がある。また、天保四年に貞国の死をしらせる書状を受け取ったという記述もある。

 

「加計町史 上巻」 加計町 編

 文化年間に貞国が吉水園を訪れた時の歌二首(吉水録)と、龍孫亭書画帳に貞国が記帳した歌一首が記載されている。

 

「内海文化研究紀要 11号」 広島大学文学部内海文化研究室 編

 永井氏蔵の屏風に張り付けられた貞国の懐紙と短冊の写真があり、各一首ずつ歌が入っている。短冊は狂歌家の風にもある寄張抜恋の歌を辞世の碑と同じ五段に分けて書いている。懐紙には柳縁斎貞国とある。


「徒然の友」 味潟漁夫 (入沢八十二)  編

 「貞国のはなし」に貞国の歌一首、また「仏護寺といふ事」の中に貞佐の歌一首(辞世ではない)も見えるがどちらも出典の記述はない。


「日本庭園史大系 第24巻」 重森三玲 著

 吉水園の来遊者の資料として吉水録にある貞国の歌二首の記載がある。加計町史とは一文字だけ読みが違う箇所がある。

 

「柳井市史 各論編」 柳井市史編纂委員会 編

 柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」にもあった貞律入門時の貞国の歌一首がある。また、貞国を経て周防へ伝わったとする柳門の系譜を載せている。

 

「山県郡史の研究」 名田富太郎 著

貞国は狂歌の指導のためにしばしば加計を訪れたとあり、道中で詠んだ歌二首と山県郡都志見村の駒ヶ瀧で詠んだ歌二首をのせている。出典は、「都谷村 石川淺之助氏所蔵古文書」とある。また、吉水園の項に「加計町史」と「日本庭園史大系」が吉水録から引用した二首と同じ歌が載っているが、出典の記述はない。注目されるのは、この二書と同じ詞書のあとに「栗の本の貞国」と二書にはない作者名が入っていることで、これは私の家に伝わる掛け軸の「栗のもとの貞国」と同じ書き方になっている。

 

「広島県人名事典 芸備先哲伝」 玉井源作 著

種々の通史に引用されているが、尚古からの引用が多いようだ。聖光寺の辞世の歌は散るや残らぬが漢字を使っていなくて、尚古と同様に「人さへも」の「も」が欠落している。また、辞世以外にも尚古にある歌の中から六首をのせていて、これらも尚古とは漢字の使い方が違っている。しかし辞世の表記を見る限り、別資料からの引用というよりは、尚古から引用する際に漢字の使い方は筆者の好みに書き換えた可能性が高いように思われる。すると京都の家元から号を得たとか87歳没も尚古からの引用だろうか。


「戸河内町史 資料編(上)」 戸河内町 編

「戸河内狂歌集」(不免大一郎氏蔵)と題した資料中に貞国の歌三首が見える。最初の一首に虫損で読めない箇所がある。柳門四世を名乗った梅縁斎貞風の歌が多く入っている。
  

1月30日、広島県立図書館「加計町史」など

2019-01-30 18:41:20 | 図書館

 今日は前回の続き、グーグル書籍検索で出てきた栗本軒貞国の記述のある本、といっても残りは少ない。まず書庫から加計町史と日本庭園史大系24巻の二冊を出していただいた。どちらも文化年間に吉水園を貞国が訪れて狂歌二首を詠んだという「吉水録」からの引用で、加計町史はこれに加えて「龍孫亭書画帳」に貞国が記帳した歌一首も載せている。吉水録から一首紹介すると、

 

  又も世にたくひはあらしものすきのきつすい亭の山川の景

 

物好きは生粋の縁語だろうか。私も加計の吉水園には一度だけ行ったことがあって、「よしみずえん」と読むのは知っている。しかし、その中の吉水亭の読み方がこれで合ってるかどうかわからなくて帰って調べたら、ひろしま文化大百科には確かに「きっすいてい」とあった。吉水園の歴史を読むと、貞国が師匠と呼ばれるようになった頃だろうか、吉水園は天明の初めに完成した庭園で、その後文化四年までに三度の改修を経て今の形になったと書いてある。貞国が見たのは私が見たのとほぼ変わらない景色だったようだ。

これで貞国が地元で狂歌を詠んだ場所としては、厳島、大野、保井田、己斐、古市、そして加計と少しずつ集まって来た。しかし、貞国が住んでいた広島城下の地名が入った歌はほとんどなく、詞書に水主町の住吉神社が出てくるぐらいだ。これは原爆でとすぐに考えてしまうけれども、どこかに残ってないものだろうか。

日本庭園史大系の方は1ページに触れただけだったが、庭園の来遊者の資料に貞国が出ていたのは驚きだった。簡単に検索で出てくる書物はほぼ読み終えて、これからはこういう書物を探っていく必要があるのだろう。

次は「柳井市史 各論編」、これは国会図書館デジタルの図書館通信にあった。カウンター2で頼んでPCの席へ案内してもらった。図書館送信の制限がついたのが見れるというだけで、操作は家でインターネット公開の図書を見るのと同じであった。ところが内容は、柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」に出ていた貞律入門時にそば粉を贈られた時の贈答歌しか載っていなかった。この貞律という人は系譜でいうと貞国の三代あと、貞柳から数えて六世だけど、最初は貞国の門下、後に五世貞一門下とあった。栗陰軒の本を読んだ昨年9月の時点では狂歌について全くの初心者でよくわからずに読んでいたところがあった。近世上方狂歌の研究とあわせて、もう一度読んでみないといけないのだろう。

一時間の持ち時間なのに一瞬で終わってしまって、もったいない?から厳島道芝記の活字の本の大頭神社の項を読んだ。和綴じの本を読んだ時のノートと比べながら、まあこれは時間つぶしみたいなもんだった。上方狂歌は5巻、江戸狂歌は10巻を借りて帰った。

帰りは御幸橋を渡って川沿いを少し歩いた。阿武山が見えないかと思ったのだけど、御幸橋からは見えず、少し上流に歩いたところでビルの間に見えた山は帰って方角を調べたら阿武山ではなくて武田山のような気もする。

宇品から船にのって阿武山を眺めたいとずっと考えていて、予備知識としてどんな感じに見えるか知っておきたかったのだけど、これは空振りだったようだ。まずは、宮島と原爆ドームを結ぶ航路の方がいいのかもしれない。

庭園史のところにも書いたように、ここから新たに貞国の歌を見つけるのは簡単ではなさそうだ。阿武山や三篠川などを調べながら、ぼちぼちやっていきたい。

 

 


狂歌家の風(25) さいか谷

2019-01-21 09:44:11 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は雑の部から一首、

 


      城西甲斐村さいか谷のほとりを通りけるに
      死刑の者を捨る処なりけれは 

  命かけの勝負と山を打みれは気もすころくのさいか谷かな

 

まずは、「城西甲斐村さいか谷」とはどこだろうか。甲斐村で検索すると、伊勢亀山藩の鈴鹿郡にかつて甲斐村が存在したようだ。しかし、単に「城西」とあるからには貞国のなじみの土地、この城は広島城と考えるのが自然だろう。すると、城西にあるのは甲斐村ではなく己斐村だろうか。ところが己斐村の古地図を見ても、さいか谷は見つからない。しばらく放置していたのだけど、先日「廣島軍津浦輪物語」に、己斐の音楽学校の隣の山が新山で、その北の谷が才ケ谷という記述を見つけた。漢字がわかったら地図から探すのは簡単で、己斐橋の少し上流、ノートルダム清心中学校・高等学校の西隣の谷筋が才ケ谷だった。死刑の者を捨てる所という先入観から、人里離れた山奥ばかり探していたのが敗因だったようで、実際は太田川に近い場所だった。広島市のホームページの己斐の歴史めぐりにあるパンフレット(pdfファイル)にも、大正、昭和、平成の地図それぞれに才ケ谷がのっている。平成の地図だと清心の校舎の真上に才ケ谷の文字があるように見える。芸藩通志など江戸時代の地図に無いのは、積極的に書くべき地名ではなかったのか、一種のタブーということもあったのだろうか。

己斐が甲斐になっていたことについても考えておこう。秋長夜話には、

「己斐村は峡(カヒ)村なるへし、峡は山間なり、此地両山の間にはさまる故にかく名つくるなるへし、甲斐国も峡国なり」

しかしこれは推測の域を出ず、実際に己斐を峡と呼んだ例は見つけられない。甲斐村になってしまったのは狂歌家の風を出版するときに版元などが間違えたか、あるいは場所の性格上わざと違う村名にしたということもあるのだろうか。

才ケ谷の漢字がわかったところで検索してみると、「切支丹風土記 近畿・中国編」の中にあるHubert Cieslik著「芸備の切支丹」に記述があった。

「古老の伝によれば、己斐の才ヶ谷(国道己斐橋をわたり、川と鉄道線路に沿ってある小路を数町行った己斐山の麓)でその昔キリスト教徒が焚殺されたという。」

驚いたことに、これによると谷を分け入ったところではなく、川沿いの平地である。この場所には今はキリシタン殉教之碑が建てられていて、その説明板には、

「附近に刑場のあつたこの地に碑石を建立する」

とある。この己斐の刑場は文献にあまり登場せず、河原にあったという刑場も含めて才ケ谷と呼んだのかどうか、はっきりしない。上記「芸備の切支丹」を読むと、福島正則公も浅野公も幕命によりやむを得ず弾圧という側面があったようだ。また、築城からそれほど年月を経ていない広島城下に他国から集まって来た人々の中に改宗者が多く、元々の広島の住人に改宗者は少なかったとある。それは広島城下には色々な宗派のお寺があるけれど、一歩離れると浄土真宗安芸門徒一色という土地柄からも容易に想像できる。ちょうど四百年前の1619年、浅野公につき従って紀州からやって来た人々、また福島正則の家臣で浅野家に召し抱えられた武士の中にもキリシタンへの改宗者がいたと思われる。芸藩にとっても、才ケ谷はあまり触れたくない歴史だったのかもしれない。

 

さて、ここで貞国の歌を見てみよう。貞国の時代には、広島のキリシタンはすでに根絶ということになっていたと思われる。しかしこのような悲しい歴史があり、刑場があり、谷に死刑の者を捨てたという場所、そこで詠む歌としては「命がけの勝負」とか「すごろくのさい」とか、現代なら炎上しそうな歌だ。死刑は死を免れない運命なのに「命かけの勝負」という感覚もよくわからない。江戸時代への違和感といえば、近松の「堀川波鼓」、江戸番の間に不義密通のあった妻を刺し殺し、公儀に敵討ちの届け出をしてから見事相手の男を討ち果たす、というお話を若い頃に読んで何じゃこりゃあと憤った事を思い出した。今調べたら女敵討ちといって、もし放置するならば武士の面目が立たないと書いてあるけれども、それでもこのお話をすんなりと受け入れて鑑賞する心情にはなれない。話を貞国の歌に戻すと、この才ケ谷をすごろくの賽の目と詠み飛ばすところが狂歌の狂歌たる所以なのだろうとは思う。また、「山を打みれば」というからには、上記殉教碑があるところからは近すぎて、川の上の舟か、あるいは対岸から眺めたのだろうかと考えて、己斐橋歩道橋を渡り切った東詰から写真を撮ってみた。

死刑の者を捨てた場所はさすがに女子高を越えて谷筋を登ったところではないかと想像するけれど、あるいはこれも現代人の感覚であって、刑場の近くの竹やぶにでも捨てていて貞国もその場所に立ってこの歌を詠んだということもあり得るのだろうか。どうもこの手の話は怖がりの私には向いてないようだ。せっかくそこまで行ったのなら谷筋を歩いてみればいいのにと言われても、まっぴらご免である。

江戸時代の刑罰施設というページに、各地の刑場について詳述してある。その中に、

さて、残る一つの重罪人の処刑が執行された己斐村の処刑場であるが、竹ヶ鼻や樽ヶ鼻のような詳しい記録やレポートが入手できていない。

とある。すると貞国の歌は、狂歌であるからこそ、当時はタブーであった可能性もある才ケ谷を正面から詠むことができたとも言える。この詞書と歌は、案外史料としても貴重なのかもしれない。


ちうとこう

2019-01-16 19:06:57 | 栗本軒貞国

 歳旦の回で、明治41年、広島尚古会編「尚古」参年第八号、倉田毎允氏「栗本軒貞国の狂歌」から引用した貞国の歌、はっきりしない所があったのだけど、お正月ということもあってごちゃごちゃ書かずに引用に留めた。最近「五日市町誌」を読んだところ似た歌が載っていて、比べてみて新たにわかったこともあった。少し書いてみよう。まずは尚古の歌、尚古には貞国の歌が三十首以上載っている。

 

        歳旦

  忠と孝おしゆるやかな国の春明けの烏も軒の雀も

 

「おしゆる」は「教ゆる」で、古語辞典には「をしふ」とハ行下二段でのっている。それが江戸時代にはヤ行下二に変化して、終止形も「教ゆる」が見られる。それと「ゆるやか」がつながって、ゆるやかな国の春、のどかなお正月を詠んでいる。「明けの烏」は明け方に鳴くカラスで男女の別れの描写によく登場する。新内節の「明烏夢泡雪」(あけがらすゆめのあわゆき)は有名だ。これについて書いていると長くなってしまうので置いておいて、問題は最初の「忠と孝おしゆる」は何なのか。ゆるやかと言うための単なる序詞なのか、それとも後ろと何か関連があるのか、そこがよくわからなかった。ところが、「五日市町誌」の歌、


  ちうとこう、おしゆるやうな玉の春

          あけのからすも家の鼠も

      栗 本 軒

 

これは、佐伯郡保井田村の門人で薬師縁起も起草した貞格(佐伯久兵衛)詠、「狂歌あけぼの草」にある梅縁斎伊東貞風による序文の冒頭に置かれた貞国の歌である。比べてみると、「おしゆるやかな」が「おしゆるやうな」に、これは「可」と「宇」は時に紛らわしいこともあるから誤読、誤写の可能性もある。「国の春」と「玉の春」は俳句ではどちらも新春の季語で音の調子以外に大差ないように思われる。もちろんこれも誤写誤読の可能性を残すが、どちらも原本を確認できないので何とも言えない。しかし、「軒の雀」が「家の鼠」になっているのは明らかな推敲の痕跡であって、するとどちらが先だろう。あけぼの草の序文には、「ふみなれる十あまりいつつのとし」とあり、文化十五年(1818)と思われる。尚古の方には出典の記述がない。

まずはその部分、軒の雀がよいか、家の鼠か、という所から考えてみよう。「あけぼの草」は初句がひらがなで書いてあって、鈍い私にもやっとわかった。「ちうとこう」は鼠とカラスの鳴き声だった。すると尚古の方も、忠は雀の鳴き声ということになる。これはちょっとわかりにくい反面、「忠と孝教ゆる」と説教臭く始まっておいて、実は鳥の鳴き声だったという面白さがある。ラストに鳴き声だったとわかってもらえるならば、初句は漢字で忠と孝の方がよさそうに思える。しかし私は全然わからなかった。鳴き声でいえば、「ちう」ならば鼠の方がわかりやすいし、江戸時代でもカラスは「かあかあ」が多数みられる。ここは忠と孝に持って行った以上仕方がないところだろうか。

次に、「おしゆるような」では、お正月である必然性がなくて、ここは「ゆるやか」が入っていた方が良いように思われ、また貞国らしい言葉の使い方だろう。しかし、前述のようにここは誤写の可能性もある。「国の春」と「玉の春」は私にはそんなに違いはないように思える。

それでは、どちらが古い形だったのか。私ならば、尚古のように漢字で始めて末句だけ家の鼠に変えたのを決定稿にしたいけれど、このままでどちらが古いかと言われると悩んでしまう。忠と雀はわかりにくいから、ちうと鼠に改めたとも考えらえるし、正月早々家の鼠もアレだから雀にしたとも考えられる。あれこれ書くより、尚古の出典を探した方がよさそうだ。

 

【追記】 雀の「ちう」はわかりにくいと書いたけれど、そうではなかったようだ。柳田国男「雀をクラということ」には、

 

「近代の都会の子供は、

    雀はちゅうちゅう忠三郎

 などと唱えて、大抵チュウと啼くことにしているが、自分の生まれた播磨ではチュンチュン、福島県以北ではチンチンと聴くのが普通で」

 

都会というから東京だろうか、チュウが一般的だったとある。また、手柄岡持「我おもしろ」(寛政元年)にも、

 

    流行におくれ俳諧を止るとき

  鶯に口をとちたる雀かな

    屠竜君のこの句を聞き玉ひて

  宴のおあひくらゐは友雀

    チウとはいかいもまゝとり出しかの成なと仰せことありければ

  おあひさへ奈良漬に酔ふ雀なれはさゝれぬうちに飛のきそする

 

とあり、江戸ではチウと聞いていたようだ。広島ではどうだったのか。私の祖父は忠三郎ではなくチュン太郎と言っていた記憶もあるのだが、貞国の時代は「ちう」で通じていたということだろうか。あるいは、広島では通じなかったから鼠にしたか、江戸向けに雀に変えたか、みたいな可能性もあるのかもしれない。


1月12日 広島県立図書館「沼田町史」など

2019-01-13 10:16:10 | 図書館

 夜に飲み会があって土曜日5時の閉館時間までいられるから、いつもより少し余裕がある。グーグルの書籍検索で出てきたものを時間の許す限りつぶしていく作戦だ。

まずは、郷土史の書架にある本から攻めることにして、「広島県史 近世2」、グーグル書籍検索では別鴉郷連中の記述が見えて期待したのだけど、この出典は大野町誌であった。聖光寺の辞世歌碑を建てた京都の門人360人も出典は尚古となっていて、中々原資料にたどりつけない。しかし新たな発見もあって、ネットで出てくる保井田薬師の貞国の歌は、「五日市町誌」に記述があることがわかった。

その五日市町誌上巻をみると、「芸陽佐伯郡保井田邑薬師堂略縁起並八景狂歌」(文政十二年)の全文の記載があり、八景狂歌は地域の門人による八首のあとに師匠の貞風と貞国の歌があった。驚いたことに、五日市町誌の解説に貞風は柳門四世と書いてある。周防国玖珂の貞六が柳門四世を称したことは前に書いたが、広島にも四世を名乗る門人がいたことになる。この五日市町誌上巻の狂歌の記述は8ページ余りに及び、「柳門正統第三世栗本軒貞国」と署名した「ゆるしぶみ」の写真や、大野町誌に写真があった狂歌誓約の翻刻など、じっくり見たい箇所が多く比較的薄い本で荷にならないこともあり借りて帰ることにした。

次は「沼田町史」、伴村出身の医師、岡本泰祐は大和国十市郡今井村(現橿原市)で開業していて、日記に大野村の大島氏などからの書状が届いた記述があり、門人の冠字披露時の貞国の歌(天保三年)の記載がある。また、

「天保四年八月九日の条には、「天満屋伝兵衛来る、鰯を恵む、芸州大野村大島屋書状を持来る、卯月八日認め、(中略)栗本軒貞国翁二月廿三日病死之事報来る」とある。」

京都の門人が建てたという聖光寺の辞世歌碑にもこの日付があり、また八十七歳没説の元と思われる「尚古」参年四号の記述は戒名もあることから過去帳などからの引用が考えられ、そしてこの岡本泰祐日記の記述を見ても、貞国が天保四年(1833)二月二十三日に没したのは間違いないことと思われる。このときの年齢は辞世歌碑の八十と尚古の八十七と二説が存在している。いずれにせよ、「狂歌秋の花」に登場する芸州広島の竹尊舎貞国なる人物は、貞佐の門人、しかも狂歌秋の花で貞柳の十三回忌(1746年)に追悼歌を残しているのは一部の門人だけで、そのような重要人物ではあるけれども、時代が合わないため栗本軒貞国とは別人ということになる。同じ貞佐の門人でこのように同じ号というのは、二人の貞国の間に何か縁があったのかどうか、今のところ手掛かりはない。

ここで郷土史の書架を離れ、書庫から内海文化研究紀要(広島大学文学部内海文化研究室 編)の11号から14号を出してもらった。グーグルの書籍検索では11から14までとなぜか絞れてなくて、4冊出してもらったが、狂歌の論文は11号にあった。永井氏蔵の屏風に張り付けられた貞国の歌二首の写真があり、うち短冊の一首は「狂歌家の風」にもある「寄張抜恋」と題する歌で、上に題、左下に貞国、そして一句を三行に分けて五段に書いた書式が聖光寺の辞世歌碑と全く同じで、あの見上げるような縦長の石碑は短冊をそのまま写したもののようだ。

この写真をコピーしたところで4時半を過ぎ、上記五日市町誌上巻に加えて、上方狂歌の四巻と江戸狂歌の十一巻を借りて帰った。

いつもはここでおしまいだけど、ちょっと続きがある。まだ飲み会まで時間があるので、シャレオでやってる古本市をのぞいてみようと路面電車で紙屋町に移動した。そしたらまだ明るくて、古本市の前にパセーラ6階、北の阿武山方向が見えるというテラスみたいなとこに行ってみた。今調べたらスカイパティオという名前がついた場所のようだ。そして、確かに広島城、の向こう、基町白島の高層住宅群の上に、権現山(左)と阿武山が見える。

 

前に書いた広島城と阿武山の話で、真北ではなくやや西にずれた阿武山山頂と広島城を結んで、城下の朱雀大路としたという論文を読んだ。しかしここから眺めた限りでは、お堀のラインを延長していくと、阿武山山頂ではなく二つめか三つ目のごぶに当たるように思える。まっすぐライン上に立ってないから不正確でもあるし、当時の道はまた違ったのかもしれないけれど。

古本市をやってるシャレオ中央広場は紙屋町交差点の真下ということもあり、時折頭上をガタガタと路面電車が通過する音が気になった。私は疑り深い性格で、広島の三セクといえば軒並みアレだから天井が抜けて電車が落ちて来ることはないという確信が持てないのだ。それはともかく、ここでも郷土史関連の本を中心に探していくと、厳島図会や厳島道芝記を活字化した本を見つけた。これは合わせても三千円で欲しかったけれど、先ほど借りた三冊がずしりと重く、さらにこれを持って飲み会にいくのも難儀なのでやめておいた。厳島図会の舌先で引用した部分を見たら一か所漢字の間違いがあって、帰ってすぐに訂正した。やはり活字化した本はありがたいものだ。

「広島胡子神社由緒」という本があり、気になる原爆のあたりを読んだら、えびす講の回で書いた御神体の像はやはり原爆で失われていた。そして、胡子神社の方も、この像は大江広元という認識だったようだ。

もうひとつ、「廣島軍津浦輪物語」の中の己斐の地名に「才ケ谷」とあり、狂歌家の風の詞書に「城西甲斐村さいか谷」とあるのは、己斐村才ケ谷が有力になってきた。漢字がわかったことで、地図から見つけることができた。もっと山奥かと思ったら太田川に近い場所だった。己斐橋から少し上流、キリシタン殉教碑があるあたりの谷筋、女子高の周辺だろうか。虫メガネもってウロウロしてたら通報されるかもしれない。これはもう少し調べてから書いてみたい。

今回はたくさん収穫があったけれど、まだ全部消化できていない。腰を落ち着けてひとつずつ調べてみたい。

 

 


狂歌家の風(24) こゝろふと

2019-01-11 10:40:39 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は夏の部から一首、

 

        心太 

  暑き日に人の肝まてひやさすはいかなたくみのこゝろふとそや

 

思いっきり季節外れではあるけれど、今図書館から借りている江戸狂歌の「狂歌四季人物」に心太売と題した歌が三十首あり、今回はところてんについて書いてみることにしよう。

貞国の歌で目を引くのは、「ところてん」ではなく、「こころぶと」になっていることだ。狂歌四季人物では仮名で書いたものはすべて「ところてん」上方狂歌でも、まず「ところてん」であって、「こころぶと」は見かけない。時代を遡って中世末の七十一番職人歌合、ラストの七十一番に「心(こゝろ)ぶとうり」が登場、挿絵に、

「心ぶとめせ 

 ちうしやくも

 入りて候」

とある。ちゅうじゃく(鍮石)は真鍮のことで、ところてんを突き出す器具の先についていたのかと思っていたが、新日本古典文学大系の脚注によると、真鍮と同色であることから、からしを指すとあった。この挿絵の前項七十一番右の歌二首は、


  うらほんのなかはのあきの夜もすから月にすますやわかこゝろてい


  我なからをよはぬこひとしりなからおもひよりけるこゝろぶとさよ


「こころてい」という呼び名もあり、こころぶと→こころてい→ところてん、と変化したと考えられる。しかしウィキペディアの「ところてん」の項には、

古くは正倉院の書物中に心天と記されていることから奈良時代にはすでにこころてんまたはところてんと呼ばれていたようである。」 

という指摘もある。江戸時代の狂歌を見る限り、貞国の時代にはほぼ「ところてん」だったと思うのだけれど、「こころぶと」としたのは何故か。上の句「人の肝まで」としたところから縁語の「こころ」で受けたかったのかもしれない。あるいは、地方では江戸中期でもまだ「こころぶと」と普通に言っていた可能性もある。ここは地方の文献を探してみないといけないのだろう。

「人の肝までひやさす」に似た表現の歌が「狂歌四季人物」にある。


  突出してちうて手取りの心太買ふ人そ先胸をひやせる  板ハナ 爽霞亭一詠


  突きあけて今落さふに胸もとをひやひやさする心太うり  サノ 糸降園静雨 


江戸の心太売りはところてんを宙に突き上げて皿で受ける曲芸を披露していたようで、それで「先胸をひやせる」「胸もとをひやひやさする」となる。同じ「狂歌四季人物」からもう一首、


  曲突に世をすき箸を手に持て皿にそうくるところてん哉  雪の下 千羽楼鶴成


注目を集めてたくさん歌に詠まれている理由もこの芸によるところが大きいのかもしれない。ここまで見て貞国の歌に戻ると、「人の肝までひやさす」というからには、ところてんの涼味だけを詠んだとすれば少し大げさかもしれない。貞国もこの皿で受ける芸を見て詠んだと考える方が自然だろう。広島にもそのような心太売りがいたのか、都会で見たのか、わからないけれど。

広島でところてんといえば、私などは子供時代、夏祭りの「とうかさん」の露店で友達と「酸いい酸いい」と言い合いながらところてんを食った思い出がある。そして、大学生になって京都で黒蜜のかかった甘いところてんを食べた時は本当に驚いた。ところが狂歌のところてんからは酢いも甘いも味が感じられない。からしは上記の職人歌合せと、「狂歌四季人物」に一首あった。

 

  牛引も休む木陰のところてん鼻の穴まで通す粉からし  馬遊亭喜楽

 

からしが使われていたのはわかったが、どんな味付けだったのか。守貞謾稿巻六、心太売の項には、

「心太トコロテント訓ス三都トモニ夏月売之蓋京坂心太ヲ晒シタルヲ水飩ト号ク心太一箇一文水飩二文買テ後ニ砂糖ヲカケ食之 江戸心太値二文又晒之ヲ寒天ト云値四文或ハ白糖ヲカケ或ハ醤油ヲカケ食之京坂ハ醤油ヲ用ヒズ」

とあり、江戸では砂糖又は醤油、京坂では砂糖とあり、どちらも酢の記述はない。江戸はそのうち酢が加わって、上方は一貫して甘味だろうか。しかし、京都で酢を入れたと思われるお話がある。明治40年「水産叢話には、

「昔京都東洞院に弥吉と云ふ者が居って、此者が洛東糺森(たゞすのもり)に納涼茶屋を出して居りました處、或日のこと、或堂上方が、弥吉の店頭を御通行になりまして、其處にあつたトコロテンを御覧になって、

  ところてんつき出したる今宵かな

と一句詠じられました處が、一人の公家が取敢へず

   たゝすをかけてかも川の水

と、跡の句をつけたので、大層興を添へたのであります」

とある。これは「糺」と「ただ酢」かと思ったら、「蓼酢」をかけているという解釈もあるようだ。京都で鮎を買うと蓼酢がついてきた経験はあるけれど、ところてんに蓼酢という組み合わせがあったのかどうか、このお話の時代、出典と合わせて今のところわからない。

江戸ではいつ頃から酢が入ったのか。明治43年「玄耳小品」には、

「子供の時旨かったもので今も尚ほ変らぬ味は心太だ、胡麻醤油を注けたのが好い、唐辛子の利いたのは更に妙。」

とあり、酢は入っていないようだ。明治44年「残されたる江戸によると、

「立よつて一ト皿を奮発すれば冷たい水の中から幾本かと取出して、小皿に白瀧を突き出し、これに酢醤油かけて箸を添へて出す。」

こちらは酢が入っている。明治の終わりぐらいだと、酢を入れる入れない両方あったのかもしれない。

最近は夏祭りに出かけることも少なく、今でもところてんの露店があるのかどうか。今年あたり、ところてんを探しに出かけてみたい気もする。いや、ところてんの酸いいのはあまり得意ではないけれど。

 

【追記】 江戸狂歌にも、「心ふと」と詠んだ歌があった。「飲食狂歌合」(1815)に、

 

        左勝  心太      甲、塩部 千代友鶴

  かけられてからしと思ふかけがねを心ふとくもはつしてぞまつ

 

厳密には心太の漢字から、あるいは上記職人歌合にならって「心ふとくも」と詠んだだけで「こゝろぶと」という名前でこの時代に呼んでいたという証拠にはならないかもしれない。グーグル書籍のテキストには二か所濁点が見えるが「はつして」には無く、「心ぶとくも」と読んでもいいのかもしれない。


ぬるいデモンストレーションの提案

2019-01-10 11:06:37 | 日記

 広島のサッカースタジアム問題で、中央公園を最終候補地というニュースが流れている。市長選向けのパフォーマンスではないかという見方もあり、もちろん楽観的になれる状況ではない。4年前の市長選で松井市長はスタジアムの建設候補地については、メディアのアンケートに対して、どちらとも言えないという回答で争点化を避けた。結果はダブルスコア以上の差での再選、今回も今のところ有力な対抗馬もなく、このあと著名人の立候補でもない限りは三選が濃厚な状況と言っていいだろう。サッカーファン向けのパフォーマンスは必要ないのではないかとも思うけれど、それでも市長にとっては面倒な懸案なのかもしれない。市長はスタジアムを整備する方向と発言している。そして、今回最終候補地が決まるということで、これに乗っかる形でデモンストレーションをやってみたらどうだろうか。ごちゃごちゃ長く書く前に、要旨を先に書いておこう。たたき台にしていただきたい。

 

      以下のようなデモンストレーションを提案する。

○候補地付近を歩き、適当な場所があれば集まり、候補地付近で食事または買い物して帰る。

○市役所や県庁には行かない。メッセージは早期建設のお願いに限り、抗議や批判はNGとする。騒音となるような声出しもしない。

○サンフレサポには紫の着用を呼びかけるが、これに限らず広く賛同者の参加を募る。他チームのサポーター、他競技のファンで賛同していただける方が各々のユニで参加することを歓迎する。  

以上

 

 最終候補地が決まってもその後放置されて建たない、という未来を想像している方も多いだろう。これまでの経緯を考えるとそうならないとは言えない。そうなってからのデモとなると批判色の強いものになるかもしれない。私は、数年後よりは、今の方がやりやすいのではないかと思う。また、上記どちらとも言えないが勝ったのであるから、場所は球場跡地を主張することもできる。跡地がダメな理由がはっきりしないのも確かに不審なことだ。しかし、ここはサポーターの間でも意見が分かれるところでもあり、今回は早期建設のみを求めるということでどうだろうか。古い人間の言う事であるから、旧来のデモのやり方にとらわれている所があるかもしれない。若いサポーターの中にはもっと効果的な方法があるという方がいらっしゃると思う。お聞かせいただきたい。ご存知のように野球のマツダスタジアムもすんなり建った訳ではなく、土地の先行取得から紆余曲折があって、本通りでは建設を求めるデモも行われた。我々に何ができるかについてはは議論のあるところだろうけど、私はそろそろ何かやっても良いのではないかと思う。


狂歌家の風(23) たゝくなゝ草

2019-01-07 10:39:07 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は春の部から人日の歌を二首、

 

        人日 

  神国のならはせなるか仏の座雑まな板でたゝくなゝ草 

  あめつちのつくり初穂のみつきもの若菜は時をたかやさすして

 

一月七日は人日といって、五節句の一つだった。いや今でも五節句の一つと書いてある。しかし今我々が節句と聞いて連想するのは桃の節句と端午の節句で、七草と七夕はお祝いはしたとしても節句という言葉はあまり使わず、重陽は前にも書いたように明治以降廃れてしまって何もしない人が多いのではないだろうか。

一首目、神国だから仏の座が雑まな板で叩かれる、今は七草というと七草粥を食べることにスポットライトが当たる事が多い。一方貞国の時代にはその前夜に七草を音をたてて叩くことが重要だったようだ。今ちょうどNHKの料理番組の再放送で七草を叩く時の「七草囃し」を歌っているのを見たところだけど、ざっと聞き取ったところでは、

「七草なずな 七日の晩に 唐土(とうど)の鳥が 日本の土地に 渡らぬ先に 七草なずなを手に摘みいれて ホーットホッホ」

と聞こえてきた。これは調べてみるとかなり地域差があるものの、唐土の鳥が日本の土地に渡らぬ先に、のところは共通のようで、小正月の鳥追いの行事に由来する歌と言われている。小鷹狩元凱「廣島雑多集」には、

「年初は物音を高くせざるとかやにて、七草までは人々謹慎して物の音をたてざりしを、如何なる故事にてや、正月六日の暁より武家にては我劣らじと円形斗桶(米を容れる器)の上に俎板を載せ、之に前日摘み取りし七草をおきて薪もて節面白く叩き、此日は夜までも絶えず叩き、翌七日の暁を以て叩き畢りぬ。是より家も人も皆物音をたつること平常に復す、俎板を叩く音調の譜を記憶のまゝ之を掲げん

 トントン、トントン、唐土の鳥が、日本の土地へ、渡らぬうちに、七草叩いて、ストヽン、トントン

此七日朝には餅と七草とを入れたる粥を作り食す、但し七草は兎角摘取り難きを以て、他の菜葉を代用せり」

とある。七草までは物音を立てないで過ごして、七草を叩いたあとは平常に戻すというのが面白い。しかし、六日は一日中叩いたのだろうか。この七草ばやしを貞柳が狂歌に詠みこんでいる。

 

      朝敲七草           貞柳

  日本の鳥唐土の鳥の渡らさるさきにと口をたゝく七くさ

 

ここでは日本の鳥と唐土の鳥は並列だろうか。また、「狂歌吉原形四季細見」にも、

 

      七種          和深亭末広

  七種をはやすくるわの唐土より日本の鶏の告るきぬきぬ

 

とあり、こちらは後朝の鶏と結び付けている。この囃し歌は全国各地で歌われていたようだ。「唐土の鳥」は疫病の類とも言われている。

七草を叩く歌を「狂歌吉原形四季細見」からもう一首、

 

     七種           長松園清女

  なゝ種の薺のほかに客の背を又来ませとて扣くうかれ女

 

吉原ではナズナを叩く以外にも遊女が「また来てね」と客の背をたたくと詠んでいる。また「狂歌四季人物」には、

 

     鳥追           松代 梅香

  人の日の朝またきより打つれてまつ七種を唄ふ鳥追

 

とある。ここには鳥追という題で十余首、その中に七草の歌もあり、江戸でも小正月の鳥追と人日の行事が融合しつつあったのかもしれない。

貞国の二首目は簡単そうでスッキリしないところがある。初穂は米だけでなく初物を神様にお供えしたということで、ここでは若菜なのだろう。問題は「時をたがやさず」で、時を耕すとは難し気な言葉だ。しかしこれまでの貞国の言葉の使い方をみると、時を違えずと言いかけてとっさに縁語の耕さずに置き換えたように思えるのだけど、どうだろうか。ここは引き続き考えてみたい。

七草はおかゆを食べるよりも、音を立てて歌いながら叩くのが重要とわかった。ぜひこれは、やってみたいものだ。正月それまで物音を立てないのはちょっと難儀かもしれないけれど。

 

【追記1】七草囃しに関する図書館レファレンスによると、

山梨「唐土の鳥と日本の鳥と渡らぬ先に、あわせてこわせてバッタバッタ」

栃木「七草なずな唐土の鳥と日本の鳥と渡らぬうちにすととんとんとんとん」

宮城「七草ただげ七草ただげ七草なずなとうどの鳥といなかの鳥と通らぬ先に七草ただげ」

とあり、共通する部分もあるが、日本の土地が日本の鳥やいなかの鳥に変化していて、各地それぞれ違うようだ。貞柳の大阪でも山梨栃木の歌詞のように「唐土の鳥と日本の鳥と」だろうか。狂歌で見る限りでは「日本の土地」の方が新しく、古くは日本の鳥と並列だったのかもしれない。もっと探してみたい。

 

【追記2】「狂歌棟上集」にみえる唐土の鳥の用例、

 

         春鳥

  なゝ草の唐土の鳥のさきにはや谷わたりする春の鶯  秀馬

 

とあり、これは日本の鳥と並列ではなく唐土の鳥が渡らぬ先、のように思える。江戸時代から、歌詞は色々あったのかもしれない。


狂歌家の風(22) 御意をいたゝく

2019-01-06 14:19:54 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は雑の部から二首、

 

      筑後柳川侯に御目見へ 
      つかふまつりける時 

  有難やこのみに取て上もなきたち花様の御意をいたゝく 



      御盃頂戴の折から 

  さも重き御盃をいたゝいて軽いあたまのあからさりけり 


今回も前回に続いて貞国と武家との関係について書いてみよう。この二首はどういういきさつかわからないが、筑後柳川の立花公にお目見えした時の歌とある。ウィキペディアの柳河藩の項を見ると、狂歌家の風の出版の4年前の寛政9年(1797)に代替わりがあり、貞国が会ったのは7代鑑通(あきなお)公なのか、8代鑑寿(あきひさ)公なのかはっきりしない。これは柳河藩の資料を探す必要があるのだけれど、こちらの図書館では難しそうだ。歌をみると、「御意をいただく」はあまり見かけない表現で用例もすぐには見つからず、当時一般的な言い方だったのかどうかよくわからない。一方「御意を得る」は用例が多数出てくる。ただ、「初めて御意を得る」と面と向かって言うのは、行きずりの武士同士みたいなケースで、殿様に向かって言う例は見つけられない。実際はもっと丁寧な言葉だったのだろうか、探してみたい。しかし気になるのはそこだけで歌の内容的には、お目見えして杯をいただいた、それだけの歌だ。序文で先師貞佐との関係よりも持豊卿から栗本軒の額をいただいたことを強調しているのと同様に、柳川公にお目見えした歌を載せるのは貞国の狂歌壇のために重要なことだったのだろう。しかし、この二首は武家との関わりという点では特殊なケースであって、これを除くと狂歌家の風で武家が登場するのは夏の部の一首だけのようだ。


       武家納涼 

  あつさ弓夕への風の涼しさにぬいたるかたもいるゝものゝふ 


夕風の涼しさに脱いで出していた肩を入れる武士、という、こちらも無難な歌になっている。武家を詠むことはタブーではないが、このあたりが限界なのだろうか。問題は最初の「あつさ弓」。梓弓といえば張る、春、引くなどにかかる枕詞で、この歌でかかりそうな語句といえば「いるる」だろうか。しかしここは射る(ヤ行上一段)ではなく現代では入れるという意味の「入る」(ラ行下二段)なのだが、これでいいのだろうか。前に書いた仮名違いもアリだったから、貞国としてはこれで大丈夫なのか。最初の「あつさ」を言い出したかっただけで、弓を夕に言い換えたような事かもしれない。

貞国と武家との関係は、狂歌家の風ではこれぐらいしか手掛かりがない。私の御先祖様は武家でありながらどうして貞国の掛け軸を子孫に伝えたのか、まだまだ調べてみないといけないようだ。



狂歌家の風(21) ものよみの窓

2019-01-05 14:18:56 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は秋の部と冬の部から学館を詠んだ歌を一首ずつ、

 

         学館虫 

  ものよみの窓にはたおりきりきりす誰かおこたりをいさめてや鳴

 

        学館寒梅 

  火をともす寒紅梅にふる雪のあかりはからしものよみの窓

 

二首に共通するのは題の「学館」と「ものよみの窓」、「ものよみ」をネットで引くと

書物を読むこと。特に、漢籍を素読すること。

とある。するとこの学館は広島藩の学問所だろうか。よく引用する小鷹狩元凱の著書には学問所とはあるが学館という言葉は見当たらない。しかし、「月瀬幻影」には、

「芸州広島藩の学館教授阪井虎山」

とあり、他藩においても藩学と同義で学館という言葉が使われているようだ。同時代の用例ではなく断定はできないが、この学館は私塾というより広島藩学問所と思われる。前回地方文化を論じた時に学問所と町人文化の狂歌は異質なものと書いた。しかし貞国はこの学問所を狂歌に詠んでいたようだ。すると貞国は「ものよみの窓」を外から眺めていたのだろうか。二首目は窓の外の梅を内から眺めているような気もするけれど、内部の描写もなく「ものよみの窓」と貞国との間には距離があるような印象も受ける。それから「あかりはからし」の意味がはっきりしない。雪明りで謀るまいぞ、という意味だろうか。ここは用例を探してみたい。

まだはっきりしない部分も多い学館の二首ではあるが、学問所について触れたこのタイミングで書いてみた。貞国はどのような心情で「ものよみの窓」を詠んだのか、引き続き調べてみたい。


【追記】 「二十六大藩の藩学と士風 」によると、天明五年広島藩は学問所においては専ら朱子学を学ぶべしという学令を出し、頼春水が新たに規律を作って講堂に掲げたとある最初に「本藩学館、為程朱之学」とあり、学問所が学館と呼ばれていたことがわかる。