阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

釈迢空 大つごもり 六首

2019-12-31 12:50:35 | ちょこっと文学鑑賞
一年の終わりがエラーなのも面白くないので、釈迢空「海やまのあひだ」から大つごもりの歌を引用して、2019年の締めくくりとしたい。


            大つごもり

 この霜にいで來ることか。 大みそか 砂風かぶる。 阪のかしらに

 乾鮭(カラサケ)のさがり しみゝに暗き軒 錢よみわたし、 大みそかなる

 病む母も、 明日は雑煮の座になほる 下ゑましさに、 臥(ネ)ておはすらむ

 この部屋に、 日ねもすあたる日の光り 大つごもりを、 とすれば まどろむ

 屋向かひの岩崎の門に、 大かど松たつるさわぎを見おろす。 われは

 鱈の魚 おもおも持ちて來る女の、 片手の菊は、 雨に濡れたり


一首目がわかりにくいのだけど、ここで悩んでいたら年が明けてしまうので引用に留めよう。最近ツイッターに、折口信夫は都会で生まれ育ったという点で、柳田国男とは違う視点を持っているという話が流れてきた。そういえば「昭和職人歌」なども、そういう傾向があるのかもしれない。一首引用しておこう。


  ゑいとれす

  くちびるに、
  色ある酒も 冷えにけり。
   頬(ホ)にまさぐれば、
    髪の みじかさ


さらにここから引用したら新年を迎えるのにふさわしくない事になりそうなのでこの辺で終わりとしたい。 それでは、みなさんよいお年を。

曾根崎心中でエラー

2019-12-31 10:15:43 | 日記
このブログの狂歌、郷土史の記事は内容が偏ってるせいか、はっきり言ってアクセスは多くない。この際タグは見に来ていただくことよりも参考文献を優先しようかなと思って数日前から少しずつタグを編集していた。それで曾根崎心中の観音廻りを引用した回があって、曾根崎心中というタグをつけたら、「曾根崎心中というタグは受け付けられません。」というエラーが出た。旧字だからいけないのかと曽根崎にしてみたけど同じで、どうやら心中の二文字がいけないようだ。そういえば、死にたいとつぶやいた人につけこむ事件もあった。心中のタグは悪用される恐れがあるのかもしれない。試しに六本木心中とタグを付けて下書き保存しようとしたら、やはりこれもNGだった。曾根崎心中の徳兵衛やお初のセリフは現代人から見ると異質なものもあって、心中に至る心の動きをすんなり受け入れて鑑賞するのは難しい。これは他の近松作品にも言えることで、心中物でなくても教科書に載らないのは当然だろう。しかし曾根崎心中は文学史上有名な作品なのだから、タグはなんとかならないだろうか。検索すると他のブログ等では曾根崎心中のタグはあるようだ。

転院のころ

2019-12-30 21:02:25 | 父の闘病
今年一年をふり返るとなると、やはり半年以上に及んだ父の入院を外すことはできない。その間、大勢の方々にお世話になったのは言うまでもないが、今回は6、7月に民間病院に転院していた時のことを書いてみたい。

父は2月の最初の入院で声帯のポリープを切除、しかし組織検査の結果がんが見つかって、3月に放射線治療とPET検査でがんの可能性が出た大腸のポリープ検査のために再入院した。大腸は陰性であったけれど、放射線治療の合併症で声帯に癒着が生じ、窒息の危険があるということで5月上旬気管切開の手術を受けた。食事が再開になってまずプリンを食べたところ、その一部はのどに装着されたカニューレから出てきてしまった。食事は再び中断されて鼻から栄養剤を入れることになった。胃ろうを勧められたが父は断った。そして嚥下のチームに入ってもらってゼリーひと口から飲み込みのリハビリが始まった。転院の話があったのはその頃だった。嚥下のリハビリを続けてある程度体力を回復してから気管切開を閉鎖ということになれば、入院は90日以上になってしまう。一度転院して1ヶ月後に戻って癒着切除の手術をして、経過が良ければ気管切開の閉鎖ができるかもしれないという提案だった。当院は急性疾患の治療はするけれど慢性的な疾患は他院でと、また婦長さんからはかんの治療は終わったとも言われた。

しかし当時は正直言って、そう言われても・・・という心境だった。何事もなければ放射線でがんの治療は終わって退院できるはずであった。それが喉に穴があいてカニューレがついてどうみても治ったというより悪くなっている。がんの治療は放射線治療をもって終了したから移ってくれと言われても、すんなりとは受け入れられなかった。そうは言っても、どうも90日以上は置いてもらえない雰囲気で、こちらからは2つの事をお願いした。その頃父は嚥下のリハビリを頑張っていて、好きではないゼリーを苦労しながら飲み込んでいた。このリハビリは家族にとっても大きな希望だった。嚥下のリハビリを続けられる所をお願いしたいというのが一つ目、もう一つは母も足が悪くてバリアフリーではない芸備線での移動は難しく、母がバスを乗り継いで行ける所にしてほしい、この二つだった。この条件で病院の患者総合支援センターの方に探してもらった結果、安佐南区の民間病院への転院が決まった。転院担当の方によると「専門ではないけれど、気管切開の患者さんを多数受け入れている」とのことだった。この時は「専門ではない」をそんなに深刻には受け止めていなかった。

そして6月下旬の月曜日、ちょうど入院90日目となる日に転院となった。ここでの主治医は呼吸器内科の先生で、転院先の病院には耳鼻科は無かった。しかし、気管切開は呼吸器で問題なく診てもらえると思っていた。ところが、この先生「耳鼻科のことはわからん」と言ってカニューレに触ろうともしない。そういうものなのかどうか、素人の私にはわからない。熱を計って肺炎をケアしつつ、眠れないと言えば安定剤などを処方、そういう治療だった。一方、リハビリの方は嚥下、上半身、下半身と3人の担当者が毎日来て充実していた。栄養士も毎日のように昼食時に来て何が食べられるかチェックされていた。実はこの病院、地元在住の叔母に聞いても、またサッカーの知り合いに聞いても評判はかなり悪かった。父が入院しているのは2階であったが、3階の6人部屋に入れられると生きて出てくるのは難しいという噂であった。しかし、看護師さんのモチベーションも高くて吸痰も問題なく、耳鼻科がないことを除けば居心地は悪くなかった。このまま無事に一ヶ月過ぎてくれたら何の問題もなかった。

ところが転院から10日が過ぎた金曜日、午前の検温の看護師さんから、吸痰の時にカテーテルが入りにくくなって一回り細いチューブを使っていると言われた。看護師さんがライトをつけてカニューレの中をのぞくと、やはり痰がこびりついて狭くなっているところがあるということだった。先生を呼んでもらって、看護師さんに促されて先生も初めてカニューレをのぞいて確認していた。こういう時前の病院では吸入器(ネブライザー)を使って痰を柔らかくしていたと言ってみたのだけど、呼吸器内科ではネブライザーはそういう使い方はしないのだろう、先生は効果に懐疑的であった。一度前の病院で診てもらった方が良いということで月曜日に耳鼻科外来を受診することになった。細いチューブとはいえ吸痰できているし、この時は今の永久気管孔とは違って一時的な気管切開で口も少しは息が通っていた。まあ大丈夫だろうということで私は夕刻帰宅した。

しかしそのあと夜になってから、父は不安になったようだ。月曜までもたないかもしれないと言い出したそうだ。父の不安には伏線があって、前の病院でもある土曜日の夜に突然吸引カテーテルが入らなくなったことがあった。看護師さんが先生に連絡して来てもらってカニューレを外して掃除して元通り吸痰できるようになった。それだけの話で、その時はあまり気にもかけなかった。ところが翌週、火曜日に嚥下のチームの回診があって、いつもの看護師さんだけでなくて内科や歯科の先生もいらっしゃったそうだ。その時にどの先生かわからないが、「あんたぁ危なかったそうじゃの」と言われたそうだ。これは土曜日の事をカルテなどで見て言われたのだろうが、冗談なのか、本当に危なかったのか、素人にはわからない。しかしこの一言は本人にとってはかなりのダメージで、この時は死にかけたと思ったようだ。そして、大きな病院だったから土曜の夜でも先生がやってきて処置してもらったけれど、今の病院ではそれは望めないだろう。それに主治医の先生が耳鼻科のことはわからんと言うたびに、父のストレスはたまって来ていたようだ。それで私が帰ったあとでぶつぶつ言い出して看護師さんを困らせたようだ。

ところがである。夜勤の看護師さんのうちベテランの看護師さんが、これぐらい何とかしますと言ってまずネブライザーを使い、そのあとピンセットのようなもので3人がかりでカニューレの中の痰を取り除いて、翌朝母が行った時には普通に吸痰できるようになっていた。民間病院の底力だろうか、これは本当にありがたいことだった。

その後も父は神経質にあれこれ言っていたけれど、何とか再転院の日を迎えることができた。朝の担当になる事が多かったTさんは准看護師で父がこれから帰る病院に週1回研修に行っていると明かしてくれて、マスクを取ってみせた。あちらで見かけたら声をかけてくれということだろうか。准看護師ということはこの日まで知らなくて、ベテランの看護師さんに比べると少し頼りないかなと思っていたけれど、Tさんの向上心は初めて見た素顔を通じて伝わって来た。その顔をしっかり覚えておこうと思った。

最後にひとつ、転院の時に耳鼻科のある病院という条件も私が言わなければならなかったのだろうか。それとも転院担当の方か先生か・・・いや、誰が悪いのでもなく、通らなけばならない道だったと思うことにしよう。そして残念ながら、今でも通院の度にキョロキョロしているのだけど、Tさんには会えないでいる。


12月26日 広島県立図書館「千代田町史」など

2019-12-26 21:12:21 | 図書館
今年は餅つきをどうするか。我が家で餅つきは今までほとんど父がやってきた。そして、いかなるいわれがあるのかわからないが餅つきは早朝に終わるべきものと父は考えているようだ。確かに私が子供の頃はまだ祖父が仕切っていたけれど、朝起きたら餅つきは終わっていた。ここ何年かは父も弱って来て餅つき機の音が聞こえたら起きて手伝うようにはしていた。今年は半年以上の入院を経て、父もさらに弱って声も出ず助けも呼べない。だから餅つきはやめようと言っていたのだけれど、今日になってモチ米を買うと言い出して、もう言い出したら聞かない。私が起きている時にやってくれと言ってみたが、これも良い返事はもらえなかった。毎年遠方の親戚にも広島菜漬などと一緒に餅を送っているのだけれど、今年は大量につくのは無理だからモチ米は例年の半量を買うことで父も納得してくれた。あとは、あん餅にいれるあんこの買い出し、そのついでに今日は昼から図書館に行くことにした。

昼の片づけに手間取っていつもより30分遅れで家を出て下深川駅の階段を登ったところでふり返ったら、家の方向から白煙が上がっている。いや、家よりは南にずれている、そして少し遠方なのを確認して13時11分の芸備線広島行きに乗りこんだ。芸備線は非電化ディーゼルだから電車とは言えず、またこの13時11分は1両のみで列車とも言えない。もちろん汽車でもないから、何に乗ったと書けば良いのか悩む。話を戻して、乗ったらすぐにアナウンスがあって線路の近くで火災が発生して確認に行くから発車が遅れると。そして運転士がタブレットのようなものを持ってホームを中深川方向に歩いて行った。火事は広島方向とは逆であるから、ほっといて発車してくれたらと思うけれど、そうはいかないのだろう。去年7月矢賀戸坂間で線路に人が倒れていた時は車掌がいたけどやはり運転士が線路に降りて確認に行った。今日はワンマンカーであり、また下深川駅は業務委託でJRの社員はいないはずだから他に選択肢はなさそうだ。運転士は思ったより早く帰って来て15分遅れでの発車となった。しかし今日は雨のせいなのか広島駅前からのバスも遅れていて、図書館に入ったのは2時半を過ぎていた。持ち時間は90分弱ということになる。

借りていた新修広島市史の資料編を返却して、まずは大師講関連で「日本の食生活全集34 広島の食事」という本を開架で探して読んだ。芸北、備北地方とも冬季に団子汁を食べる記載はあったが、小豆が入った大師講の団子汁の記述はなかった。次にカウンター2に行って、10月に三篠川問題で相談にのってもらった司書さんに聞いてみたいことがあったのだけど、レファレンスの担当者がその時と違っていて一から説明するのも面倒であるから今日はやめておいた。書庫から出していただいたのは、日本庶民生活史料集成の第2巻 、これには御笹川の記述がある河井繼之助「塵壺」が入っている。該当箇所を読むと、「是を七つに堀り分て」の傍注に「安藝の七川と云由」とあって、三篠川が七つに分かれた、あるいは七つの川を含めた総称とも取れる書き方であった。来年は、この三篠川について書いてみたいのだけど、まだまだわからない事が多すぎる。

そのあと郷土関係の書架から千代田町史の狂歌関連の項を読んだ。貞佐の「千代のかけはし」についての記述があることは蔵書検索の目次からわかっていたが、その続きに貞国の時代の記述もあり、いくつか初見の狂歌集の記述もあった。しかし、その狂歌が収録されている資料編の下巻は準備中となっていて閲覧できなかった。貞国の歌で活字になったものは全部見たかと思っていたけれど、書籍検索にかからないところにまだまだあるようだ。これは一通り読まねばと次に戸河内町史の資料編を見たら戸河内狂歌集(不免氏蔵)に貞国の歌が三首のっていた。参考文献や年譜に書き加える事項が見つかったのは一歩前進だろう。この不免氏の元には狂歌家の風など貞国から伝わったと思われる狂歌集の記載があって、原爆の難を逃れた歌集が貞国の門人の子孫の元にまだまだ残っている可能性があるということだろう。今日はここで4時をまわってしまって、何も借りずに急いで帰途についた。来年どこから手を付けるか、ゆっくり考えたい。



狂歌家の風(33) 印地

2019-12-26 10:59:31 | 栗本軒貞国
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は夏の部から一首、 


        端午

  打祝ふ印地の石も年を経て粽の粉をひく臼となるまて


今回も思い切り季節外れであるけれど、前回の亥の子同様に今図書館で借りている新修広島市史の資料編に印地を禁止する觸書があったので、このタイミングで書いてみたい。

貞国の歌の印地打ちとはおもに端午の節句に子供が川原などで二手に分かれて石を投げ合う遊びである。時に大人も混じって負傷者も出て度々禁止されながら中世から幕末まで続いたようだ。

貞国の歌をみると、印地の石がちまきの粉をひく臼になるまでと、さざれ石が巌となって苔が生す歌をふまえつつ、印地打ちを祝う構成になっている。夏の部に入っているが、寄印地打祝という題で祝賀の部に入っていてもおかしくない歌だ。石を投げ合って負傷者が出るような遊びのどこがめでたいのか、とケチをつけたくなるのだけど、そこは現代人との感覚の違いだろう。才ヶ谷の回で死刑の者を捨てる場所でありながら、「命がけの勝負」「すごろくのさいが谷」と詠んだ感じと似ている。そのギャップが狂歌の面白さなのかもしれないけれど。

類歌は古今夷曲集巻第二から続きの二首、


  印地にし深入りしつゝ深手をば負ふはふかくな深草の者 久清


    五月五日雨降りければ    左衛門督藤原義景

  風の手の礫のやうにうち散らす雨こそ今日のそら印地なれ 


一首目は印地に深入り、深手、不覚、深草と畳みかけている。二首目は風の手からつぶてのようにうち散らす雨が折しも端午の節句のそら印地のようだと表現力のある詠みっぷりだ。「そら印地」とは空に向かって石を投げることから、目標や相手もなく印地打ちをすること、とネットには出てくる。古今夷曲集にはもう一首そら印地の用例がある。巻第八に、

  暁月がしはすのはての空印地年うちこさん石ひとつたべ

年を印地打して年越ししたいから石をひとつ下さい、と読めるが、空印地のニュアンスはもうひとつわからない感じがする。もう一例、狂歌ではないが「秋の夜の長物語 」から、


「我等が面白きと思ふ事は、焼亡、辻風小いさかひ論の相撲、白川ほこのそらいんし、山門南都のみ輿振り、五山の僧の問答だて、これ等にこそは興ある見物もいできて、一風情ありと思ひつるに、昨日三井寺の合戦は、稀代の見事かな。 」


これは天狗の会話の中に、天狗たちが面白いと思うものが並べてあり、その中に「白川ほこのそらいんし」とある。他の列挙から派手なパフォーマンスではないかと想像はつくけれど注では未詳となっていて、これもはっきりしない。この三例で考えると、そら印地が上記の「目標や相手もなく印地打ちをすること」以外のニュアンスが何かあるような気もするが、ここは宿題としておいて先に進もう。なお、この引用の少しあとに、「座中の天狗共、皆笑壺(ゑつぼ)に入りて笑ひける」という面白い表現があった事をメモしておこう。

広島城下の印地打ちの前に、尾張名所図会の印地打の古図を見ておこう。これは正月十五日、熱田神宮で御的射神事のあとで行われていた。絵を見ると多数の人が入れ乱れて石を投げていて、負傷者が出るのは当然のように見える。文字を拾ってみると、


的射畢つて見物の諸人其的を奪取り守りにせんとてあらそひ果には礫(つぶて)を打合ひ名古屋及び在郷の者は北の方熱田の者は南につどひ下馬橋を中にしてたゝかふ程に怪我人手負人などありていにしへ石戦印地打などいへるは是なるよし


とあり、死者が出たことも記されている。こういう荒っぽい行事は昔は結構あったのかもしれない。

それでは、貞国が暮らした広島城下に戻って、印地を禁じた觸書を見ておこう。


      町諸事覚書

五月朔日
一印地打御法度、のほりかふと母衣其外結構成もの立候儀無用之由、町幷新開中へ觸之 「顕妙公済美録」巻十三上、貞享元年(1684)


これによって広島城下での印地打ちは禁止となったはずだが、同様の觸書が幕末にもう一度出ている。


     端午行事に付觸書

端午子供遊戯之儀前々ゟ有之事二候得共、所により多勢群衆石瓦之類投ケ合、年長之者も相交り互に争ひ手荒之及振舞候義有之、其邊住居野輩及迷惑諸人之往来も差支候趣相聞(後略) 「郡中諸書付控」慶応二年(1866)


とあって、最初の觸書は効果がなかったのか、あるいは二百年の間にまた印地打ちが目立つようになったのだろうか。今回も小鷹狩元凱「自慢白島年中行事 」に参考になる記述があった。端午の章の途中から引用してみよう。


「廣島場末の各所には、弱冠前後は申すに及ばす、三十男も交はりて、威勢よくも對陣し、礫を飛ばし棍棒を振り、殆んど鎬ぎをけづる大合戦、殊に城下の東在、矢賀府中の争闘は、夜間に入りて猖獗を加へ、大負傷者をも出だすといふ、此風俗の善悪は、姑く置くも封建時代の気質としては、又止むを得ざるの事ならん、我が白島も吾儂等が、八九歳の頃までは、神田橋を中央に、白島と牛田との合戦は、頗る烈しきものなりしが、此處は多数の往来人に、妨害なすこと甚しければ、嘉永安政の頃ほひに、官より厳に禁ぜらる、是より西大川筋の一本木と、惣門といふ家老別邸の所在地とを堺と為して廣漠たる、堤みの上に双方の勇者猛者の幾百人が、手には餘れる大礫を、投げ飛ばし入り亂れ、奮争激闘」目ざましき事といふべきなり」


これによると、幕末の頃も矢賀府中間、牛田白島間で激しい攻防があり、二度目の觸書の少し前、嘉永安政の頃に神田橋での合戦は禁じられたとある。しかし場所を移して続いていたようで、慶応の觸書のあと、明治に入っていつまで続いたのかはわからない。矢賀府中というと私も時々府中のイオンモールから矢賀駅まで歩くことがある。牛田と白島は間に川があるけれど、府中と矢賀の境に住む人はそれは迷惑な事だったと想像がつく。

貞国の歌をもう一度ながめてみると、このような大騒動をはた目にみながら、「粽の粉をひく臼となるまて」という祝の歌に仕上げたところに面白さがあるのかもしれない。私は運動会の騎馬戦や棒倒しでも安全第一でさっさと敗れ去っていた人間なので、この手の話は真相に迫れていないかもしれないけれど。

亥の子

2019-12-23 13:13:56 | 栗本軒貞国
今日は久しぶりに貞国の狂歌を広島尚古会編「尚古」参年第八号、倉田毎允氏「栗本軒貞国の狂歌」 (明治41年)から一首、


  ついた所つかぬ所も見ゆるなり亥の子の餅もあらかねのつち


亥の子とは旧暦十月(亥の月)の最初の亥の日に、主に西日本で亥の子餅を作り子供たちが紐のついた亥の子石を地面に叩きつけながら町内を歩く行事だ。子供の頃に旧広島市内の観音や白島に住んだ時はそこの子供会では亥の子の行事は無かったけれども、テレビのニュースなどで亥の子祭りが紹介されていて、また友達の手足を4人で持って歌いながら亥の子石を叩きつけるように体を上下させるちょっと危険な遊びもあって、亥の子の歌はみんな知っていた。しかし、亥の子餅というのはニュースでもやってなくて食べたことも見たことも無い。広島では歌はいたってシンプルで、

  〽いーのこ、いのこ、いーのこ餅ついて、繁盛せー、繁盛せー

貞国の歌をみてみよう。「あらがねの」は土や槌にかかる枕詞、ここでは亥の子石が地面を叩くことを言っているのだから槌だろうか。ウイキペディアをみると亥の子石で窪んだ跡が大きい方が吉とあるから、「ついた所つかぬ所」と興味を持って地面を眺めたのだろう。しかし「つかぬ所」とは、何らかの理由でスルーされた家があったのか。このあたりの秋祭りでも、おみこしが来た時に御祝儀を渡すともう一度わっしょいわっしょい言ってもらえるぐらいの事しか私には思いつかない。貞国が活躍した寛政から化政期の人ならば、「つかぬ所」と言われたらピンと来るものがあったのだろう。

亥の子の類歌は貞柳の歌を紹介しておこう。絵本御伽品鏡から、


       豕子糯(いのこもち)

  孫や子と皆息災にいのこもち辨才天の恵たるとや


貞国の歌も亥の子餅が槌であると言い、この歌も亥の子餅と言いながら挿絵は亥の子石をつく場面である。亥の子石も、あるいは石で地面をつくのも亥の子餅と呼んでいたと思われる。また弁財天のお祭りに亥の子餅を作るのも西日本各地で見られる風習で、弁天様は十月に出雲に行かなくて居残りが亥の子になったという俗伝もあるようだ。


もう一度広島城下の亥の子に戻って、小鷹狩元凱 「自慢白島年中行事 」から亥の子祭りの章の冒頭部分を引用してみよう。

「十月の第一亥の日に亥の神を祭る、通俗之を亥の子といひて、廣島市街の大抵は、一町毎に祭場を設け、神酒供物を擎くるの外、種々なる假面を懸け聯ね、専ら兒童の祭りといひたりき、祭りの當日暁天より、縄もて縛りし大丸石へ、五色の紙の采配を、其中央に括り附け、又幾十條の手縄を結び、幾十人の壮者幼者、此縄握り此石引摺り、家々の戸前に富貴せー。繁昌せー」の掛け聲をもて、地面を擣くこと十數回・・・」

と続いている。注目すべきは町ごとに亥の子石を祀っていて、これが後述する隣町との対抗意識を生んだようだ。上記大阪の貞柳は家族で石つきをやっているような挿絵でそこが少し違っている。そして文中に食べる餅は登場しない。また歌は「富貴せー。繁盛せー」と今に近いものだが、このあとの記述の中で、

「前に述べたる丸石をもて、地上を擣くとき一種異様の童謡あり、今尚記憶に存すれども、語中の終りに鄙野あれば、是は略して載せざりき」

載せられないような下品な歌もあったということだろう。このあと、牛田地区の亥の子は盛大であったこと、この亥の子の日から儀式の食事が膾から煮膾に変更になったこと、又たとえ暖かくても必ずこの日から炬燵を出すことになっていて、「コタツノアケゾメ」という言葉があったことが記されている。ネットで検索すると炬燵を出すのは二度目の亥の日との記述もある。そういえば、茶道の炉開きも中の亥の日だったようだ。

今回やや季節が外れてしまったのにも関わらず亥の子を取り上げたのは、今図書館から借りている新修広島市史の資料編に亥の子に関する觸書が載っていて、貞国の歌の「つかぬ所」のヒントになる部分があった。引用してみよう。


       亥ノ子祭に關する觸書

毎年町方子供相集り、亥ノ子祭りいたし候處、其内ニハ近年大人も相交り町内軒別石つきいたし、銘々心ニ不叶家々ニテ祝言ハ不相唱、都テ聞苦敷雑言等相唱、町境ニテハ争論いたし、并獅子舞なそらへ猥ニ座上へ舞上り、不敬不埒之次第モ有之趣相聞候ニ付、此已後ハ右躰之不行儀も於有之ハ、忍之役方兼テ相廻し直ニ召捕セ候間、子供を持親ニハ別テ厚ク申聞せ、已来ハ全十五才以下之子供斗り相集り、獅子舞等ハ戸口之外ニテ取扱ひ、決テ家之内江這入候事不仕、往来斗舞歩行可申候、石つき等家々繁昌ヲ祝い可申、心懸り之雑言少シニテモ相唱申間敷、若不埒之子供於有之ハ無用捨可申出候叓 「御觸帳」(堀川町)文化十年(1813)


とあって、隣町と喧嘩したり座敷に乱入したりも書いてあるが、注目すべきは「心に叶はざる家々にて祝言は相唱へず、すべて聞き苦しき雑言等相唱へ」のくだり、「心に叶はざる家」では聞き苦しい雑言を唱えたという。最初の貞国の歌は作風からこの觸書の文化十年より前の比較的若い時の作ではないかと推測するのだけれど、石つきをしないだけでなく、雑言をもって囃し立てたということもあったようだ。それで觸書を出して、家々の繁昌の祝いは言っても雑言の類は申すまじく、という事になった。広島デルタを一歩離れた海田や矢賀に伝わっている「祝わんものは鬼産め蛇産め角のはえた子産め」のような歌詞が伝わらず「繁昌せー」だけになったのはこのおふれ書きの影響もあったのかもしれない。

自慢白島年中行事にあったように仮面をつけて、おふれ書きのような不行儀を働いたというと、近年盛んになっている外国由来の行事を思い出す。時期もほとんど同じだ。しかし、広島人なら亥の子じゃろー、と最後に言っておこう。

大師講

2019-12-19 17:17:26 | 郷土史
広島弁の用例を探すために読んだ「ひろしまの民話(昔話編)第二集」(昭和57年、中国放送編)の中で、比婆郡西城町(当時)の山野ミギリさんの大師講のお話がちょっと気になった。引用してみよう。他地方の方のために蛇足ながら、泊まっちゃった、行っちゃった、しちゃった、は~してしまった、ではなくて、軽い尊敬プラス親しみの気持ちが入った方言である。これは今でもわりとよく聞く表現だ。一方、「小豆ぅ」の音便は発音すればアズキューだろう。かばちたれの「かばちぅたれる」もカバチュータレルみたいな発音になるが、高齢者でもあまり聞かなくなってきた。私も話せと言われればできるけれど、まあ使わない。



       「跡かくしの雪」

むかし。
お大師さんがのう、十一月二十三日の、まあ寒い日にのう、泊まっちゃったんじゃげな。
「おかあや。おかあや。団子汁が食いたいけえ、して食わせえ」
言うちゃったんじゃげな。そいたら、
「小豆がないけえのう、ようして食わしたげん」
言うたいうて、そしたらのう、お大師さんが、
「へいじゃあ、小豆がありゃあ、食わしてくれるか」
「そりゃあ、食わしたげますよ」
「ほいじゃあ、小豆ぅ持って来るけえ、食わしてくれえ」
へえて、お大師さんがのう、悪いことたぁ知りながら、食いたあもんじゃけえ、よその小豆ぅ盗みぃ行っちゃったんじゃそうな。
お大師さんはやけどをしちゃったんでしょう。足首から先が無い、めぐり(すりこぎ)のような足じゃったん。へえて、来る道で、はで(稲掛け)へ小豆ぅ掛けたるのを見とっちゃったけえ、そりょう盗んで来てのう、
「おかあや。小豆ぅ煮て、団子汁ぅしてくれ」
言うちゃった。へえで、お大師さんがのう、その片ひら足の一本めぐりの足じゃったけえ、「わしの足跡ぁ、人の跡たぁ違うけえ、朝までにゃあ、雪が降って、この跡が消えにゃあいけんが」いうて、思いよっちゃったゆうて、そしたら、お大師さんのことじゃけえのう、大雪が降って、大嵐が来て、へえで、いっそ(全然)跡が見えんように消えたんじゃいうて。
へえで、大師講にゃあ寒いんですがぁ、毎年団子汁ぅして茶碗に入れて、神さんにも仏さんにも向きょうりました(供えていました)。
大師講には、朝まで凍みるように寒うさえあれば、作物が良うできるゆうて、聞きよりましたで。


小豆の入った団子汁というのは食べたことが無い。いや、それより問題なのはお大師さんが盗みを働いている。弘法大師を信仰していらっしゃる方からするととんでもない話だ。西城は私が住む安佐北区から芸備線で一本ながら、鉄道利用では同じ広島県内でも日帰りは難しい。調べてみるとそれより近い高田郡や山県郡でも似たような話が出てくる。年中行事や民俗学の本に引用されている高田郡の例は「高田郡誌」が出典のようだ。調べてみると高田郡誌の記述は「国郡志御用ニ付下調書出帳」を書き直したもののように思われる。広島県立図書館にある「国郡志御用ニ付下調書出帳 吉田村之部」は原文の表記を読みやすく改めているような印象も受けるので高田郡誌の方を引用してみよう。


         十二月
○報恩講 (略)
○大師講 陰暦十一月二十三日夕より各戸とも大師講と称し、小豆に蘿匐蕪菁等を入れて、団子汁を焚き食す、俗説に、弘法大師、雪夜に癩人に化し、旅館に宿し蘿匐蕪菁の汁を求め、自ら雪を履み野菜を竊み来りて之を食ひ、主人が菜圃に指なしの足跡を容れば、事露見すべしと云うに至り、呪文を唱へ、更に雪を降らし、其足跡を隠し、遂に其行く處を知らずと云ふ、然るに此日は弘法大師の縁日にはあらずして、天台宗の祖智者大師の忌日なり、何等訛傳なるか無稽の事なり。


これによると団子汁は小豆の他に根菜類が入るようだ。共通するのはお大師さんは足が不自由で指が無く、足跡から盗みが露見してしまうという点だ。違うのは西城では小豆を盗み、吉田では根菜類を盗んでいるところだろうか。これが島根県の雲南地方になると、また少し違っている。まんが日本昔ばなしの「たいしこ団子」では、足が悪く、盗みを働くのはお婆さんの方で盗むのはお米であり、お大師さんは南無阿弥陀仏を唱えると足が良くなると言って去っていく。どの地方の民話かわからないが同じまんが日本昔ばなしの「あとかくしの雪」では火山灰で足跡がついたのを雪が消すことになっている。これもお婆さんが大根を盗んでいる。大師講は関係ないようだが、このタイトルで検索すると、大師講の話として伝わる地域もあったようだ。最初の西城の話も同じタイトルだけど、語り手の方がタイトルも語られたのかどうか、はっきりしない。

「たいしこ団子」のページには、カテゴリを空海とするのは疑問というコメントが入っている。お大師さんが盗みを働く、あるいはお婆さんに盗ませるというのは、やはりお遍路さんや高野山を信仰する方にとっては受け入れがたいものだ。それは高田郡誌の最後の記述のように空海でなはくて天台宗の智者大師だったとしても同じことだ。仏教ではない別の民間信仰が入っているのではないかということになる。柳田国男は「日本の伝説」大師講の由来という一文の中で、

「さうするとだんだんに大師が、弘法大師でも智者大師でもなかつたことがわかつて来ます。今でも山の神様は片足神であるように、思つてゐた人は多いのであります。」

と書いていて、一本足の山の神様がお大師さんに変化したと推測している。この大師講の話は新潟や山形にもあって、旧暦十一月二十三日、あるいは二十四日にお供えするのも関東では小豆粥であったり色々あったようだ。きりがないのでこれぐらいにしたいが、あと一つ、「山県郡 大師講」で検索すると「広島県山県郡の太子講団子は小豆の味噌汁に団子を入れたものを言います 」と出てくる。しかし、その出典がわからない。これはもう少し探してみたい。しかし、みそ汁に小豆や団子が入ってどんな味なのか、私は広島に住みながら似たようなものを食べたことが無く、想像するのは難しい。

今日十二月十九日はちょうど旧暦十一月二十三日、大師講の夜は必ず雪が降ると書いてあるお話も多い。しかし、今年は全国の予報を見ても雪ダルマはいないようだ。



【追記】 方竟千梅「篗纑輪」(宝暦三年刊)、十一月の条に大師講についての記述がある。

一 大師講 廿四日 天台大師ノ御忌也 比叡山三井寺其外 台家皆之ヲ行 庶民家ニ小豆粥ヲ焼テ之ヲ食 近江ノ国中殊ニコレヲ嚴(ヲコソカ)ニス


(ブログ主蔵「わくかせわ 下」57丁ウ・58丁オ)

大師講は天台大師の忌日であって、比叡山や三井寺のお膝元の近江で小豆粥を炊く風習が盛んであったとある。大師講の小豆粥は天台宗由来という認識があったことがわかる。





Jヴィレッジ

2019-12-18 19:09:10 | 日記
以下はJヴィレッジから聖火リレーが始まるというニュースに対する感想ですが、意見が違う方と議論する気力は全く持ち合わせていないこと、最初にお断りしておきます。


Jヴィレッジにはクラブユース選手権(U-18)の観戦のため三度行ったことがある。といっても最後が2004年だからもう15年前の話だ。センター棟の入り口をくぐると原発推進のディスプレイがあり、メインスタジアムのゴール裏にも高圧電線の鉄塔が立っていた。この施設は東電の資金によって建てられ(原子力発電所立地地域の地域振興事業 とウイキペディアには書いてある)、その後福島県に寄付されたもので副社長の一人は東電の人であった。原発事故のあと、ここが作業の拠点となったのは、そういう事情からも当然の成り行きだったと思う。

オリンピックのあり方についても書きたいことはあるけれど、それは今は置いておいて、聖火リレーが福島から始まるということについては、意義があることだと思う。しかし、上記のようなことであるから、Jヴィレッジになでしこ選手を配して聖火リレーを始めることについては、何かすっきりしないものを感じる。隠ぺいとかシュレッダーとかすり替えとかと、同じ匂いを感じてしまう。そのあたりであれば、小名浜漁港や勿来の関、あるいは相馬野馬追で聖火リレーのスタートとしても良いのではないか。これをもって日本が一つになるとニュースで言われても、首を横に振るしかない。

12月14日 広島県立図書館「文政二年高宮郡 国郡志御用につき下調べ書出帳」など

2019-12-14 20:30:48 | 図書館
今日もあまり時間が取れず、2時間弱の滞在だった。まずは郷土関係の書架で新修広島市史の資料編、知新集が入ってる6巻は分量があって今日はじっくり読む時間が無く、また重くて借りて帰るのも難儀なことだ。それより少し薄い7巻をパラパラめくっていたら、阿武山と広島城の回で紹介した郷土史に詳しいブログに出てきた、江波と仁保島の海苔篊(ひび)の境界を定めた史料が目に留まって、こちらを借りることにした。海上から阿武山を見通して境界を定めた部分は、

「此度相改六番之八重篊西袖之鼻ゟ潟上之江眞直ニ見通し、向沼田郡八木村之内蝱山峠を著ニ相刺、夫ゟ西手ハ明潟ニ取斗置、双方役人共立會之上少しも刺越申間敷候事」(郡方諸御用跡控、天保三年)

とある。なぜかこれがスッと目に入ったことで他にどんな史料が入っているかまだよく見ていないけれども、家でじっくり読んでみたい。そのあとカウンター2に行って書庫から3冊出していただいた。インフルエンザの時期でもあり、司書さんがマスクをされていた。3冊の内訳は、

「国郡志御用二付下調帳  吉田村之部」
「文政二年高宮郡 国郡志御用につき下調べ書出帳」
「文政三年高宮郡 国郡志御用郡辻書上帳 」

似たような本だが目的が違っていて、吉田村は高田郡誌にあった大師講の俗説について、高宮郡は今の三篠川についての記述を見るためであった。吉田村については、この下調帳を高田郡誌が引用したのかと思ったら、下調帳は高田郡誌よりもずっと平易な文章である。小豆の団子汁の具について、高田郡誌では蘿匐蕪菁とあるのをそれより古い下調帳は蕪大根と書いている。これはひょっとすると原文ではないのかもしれない。今日は他の本をあたる時間がなくて解明はまた次回になってしまった。

高宮郡の二冊を読んだところ、地図も本文も今の三篠川は三田川とあって、深川の三村の項でも後年の深川川みたいな表記は無かった。これをどう考えたらいいのか。また、文政二年の本には、中深川村の条に阿武山関連で香川勝雄の短刀と杯の記述があった。

「一、香川勝雄ノ短刀 但長九寸五分 銘正家 一腰
  虻山大蛇退治ノ節頭ヲ刺シ候由申伝候

 一、右同人所持 盃一木皿二枚
  右同断退治ノ後祝ニ用ヒ候由申伝候」

これは前には所有の田畑屋敷などが書かれていて続きが私にはよくわからないのだけど、蛇落地の記述がある「黄鳥の笛」には、祝宴で勝雄が主君より賜った盃は亀崎神社の久都内氏蔵とあった。するとこれは亀崎八幡社の所有物だろうか。

関係箇所をコピーした後、帰る前に加計町史の水運のところを読んだ。貞国が加計に行くのに舟で行ったという可能性はあったのか気になった。すると、下りは一日で、急流を抜けた可部からは帆を張って進んだとあるが、上りは一泊必要で、しかも上流の急流は応援が必要だったとある。それにどうやら人じゃなくて荷を運ぶのでやっとこさのような書き方だ。貞国は徒歩で行ったと考えるのが自然だろうか。そして、太田川の名前について書いた項に、ちょっとヒントになる一文があった。正確にメモしなかったが、目の前の川を太田川と呼ぶ人はいなくて、太田川と言うのは役人と議員ぐらいのものだと書いてあった。なるほど、狭い地域に暮らして一本の川しか関りがなければ、川の名は必要ないのかもしれない。すると、三田川も同じような事だろう。それまで川の名前など気にしたこともなかったのに、書物に三田川と書いてあるのを見て、深川村の人が残念に思って深川川なる呼び方を提唱したということも考えられる。明治30年代、役所が三篠川という呼称をデルタ付近から支流に移した時も、気に留める人は少なかったのかもしれない。そうだとすると、河川名変更の痕跡を探すのは増々困難ということになるのだけど、どこかに残っていそうなものだ。気長に探してみたい。



PET検査

2019-12-11 15:26:07 | 父の闘病
 昨日は父のPET検査だった。咽頭摘出の手術から3ヶ月経過したからという主治医の説明だったが、通院している病院には設備がないため中区の病院へ行かなければならない。前回バスでの通院、そして検査で病院内を歩き回ったのは父にとってはかなりの負担だったようで、今回は運転して行くと言った。これは予想できていたことで、体調が悪かったらバスで行こうと言うに留めた。86歳の運転は心配ではあるけれど、病人扱いせず本人の意見をリスペクトすべき、という意見も多く聞いた。一言は言うけれど、それ以上は現状では逆効果のようだ。

 昨日の朝、道は比較的すいていて、40分ほどで中区の病院に着いた。途中二度ばかり気管孔のたんを拭き取った。一階の受付を済ませて、父は更衣室で検査着に着替えて二階に上がった。ここで私も荷物を一緒にロッカーに入れておけば良かったのだけど、この時はそこまで頭が回らなかった。

二階には検査を待っている人が何人かいて、呼ばれた人は扉のところで看護師に名前を告げて奥に向かっていく。扉の横には黄色の背景に赤の三角が三つ、放射線管理区域の標識があった。この検査は放射線を出す物質を注射して、CTでがんを検出するもの、という説明は読んでいたけれど、患者向けの説明書きでは管理区域のことはわからなかった。これでは私が扉の向こうへノコノコついていく訳にはいかないかもしれない。筆談ボードを持って来ていたのを二階の係の人が見つけて、一人で行けるか聞かれた。父はこの検査は二度目で、前回三月は一人で大丈夫だったと思う。もっとも前回はまだ声が出ていて筆談は必要なかった。今は更に耳も遠くなっていて、予定では2時間以上、たんも何度か取らないといけないだろうと伝えた。

その結果、私も一緒に行くことになった。しかし注射の後の安静室、検査の後の回復室には付き添いの居場所はないのだろうか、個室を用意するけれども区域内にいる二時間余の間に個室が必要な重症者が来た場合は移動してもらうこともあると言われた。そして、区域内に食品を持ち込むと放射線の影響を受けるから預けるようにと。ズボンのポケットにのど飴が3粒、不細工なことではあるけれど、ポケットから出して渡した。しばらくして名前が呼ばれて、扉のところで管理区域のマークがついたスリッパに履き替えて、まずは注射のあと、個室に案内された。薬が体中に行き渡るまで一時間の安静の間は脳を休ませないといけないそうで、テレビも読書もダメ、部屋はわざと薄暗く照明を絞ってあった。父はベッドに横になった。私は立派な椅子に腰をおろしたけれど、暗くて読書もできない。暇だからさっき履き替えた管理区域のスリッパの写真を撮った。


個室のトイレには注意書きがあって、おしっこが飛散すると放射性物質がスリッパや床面から区域外に漏れるかもしれない、男性も座ってするように書いてあった。最近は男性も座ってとよく言われるけれど、放射能漏れの恐れがあるからというのは初めて見た。
 
一時間たって、排尿してから検査に行くと声がかかった。トイレとたんを取ってから父は検査へ、また個室に戻って来るから私はここで待つように言われて、照明も明るくしてもらった。検査の間のニ十分間は落ち着いて読書ができた。

父が戻って来て、ここからは本来は回復室で過ごす1時間、放射線量を下げてから区域外に出る、ということのようだ。それでも帰りに自家用車などで妊婦や乳幼児の近くにいないようにと事前の説明書きにあった。放射線というのは本来厳重に管理されるべきものなのだろう。この1時間はテレビも見れてすぐに退室の時間となり、扉の前でスリッパを履き替えて管理区域を出た。できれば、そう何度も来たくない場所だった。受付で飴玉3つ、一階の受付にまで申し送りされているのは申し訳ないことだった。検査の結果は来週、通院先の先生から聞くことになる。何か見つかったとしても高齢であるから・・・というのは今考えても仕方のないことだ。