阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

狂歌家の風(19) ゆく年

2018-12-29 20:33:36 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は冬の部から三首、

 

      遊里餅搗 

  和らかな其上を又よねの手にもまれて丸むさとの餅搗



      煤払 

  そうち際立てきたなし煤払の箒てよこす軒のしら雪



      除夜 

  武蔵野の秋の外にもゆく年の尾花に師走の月は入けり

 

今年もあと二日余りということで、餅つき、すす払い、除夜と続く冬の部ラストの三首を読んでみたい。

一首目の「よね」は遊女のことで、「和らかな」がキーワードになっている。遊女の柔らかな手にもまれて餅が丸まってゆく、世の男性にとってはちょっと気になる表現かもしれない。遊里、遊女は狂歌の題材として多数詠まれていて、狂歌家の風にも数首ある。遊女について改めて書いてみようというモチベーションも元気も持ち合わせていないので、この際まとめて紹介しておこう。

 

      遊里五月雨 

  はまり人の多いか無理か五月雨に恋の淵とも見ゆるいろ里

      遊里菊 

  あかつきの星かあらぬか大尽をおきまとはせる床のしら菊

      遊女年明

  くかいしてつとめの年も十かへりの花やかにして出るさとの松 

      樹下に辻君の絵に 

  辻君と木の下陰を宿とせははなや今宵の名残ならまし


辻君は路地などに店を構えた下級の遊女で、これは画賛の部に入っている。貞国は広島だとどこの遊郭に行ったのかなど気になるところもあるのだけれど、ここはこれぐらいにしておこう。

年の暮の歌に戻って二首目の煤払い、「煤払の箒てよこす軒のしら雪」というのは貞国らしい着眼点だ。ただ、最初の「そうち際立てきたなし」がもうひとつはっきりしない。これは掃除している人が「たちて」なのか、箒を「たてて」なのかどちらだろうか。汚いのは箒だからここは一応後者で読んでおこう。

三首目は除夜という題。旧暦の大みそかならば月は新月に近く、しかも有明の月で眺める頃には年が明けている。すると「師走の月」は単に十二月ということでお月さまは無関係と思われる。「ゆく年の尾花」も一年のラストぐらいの意味で、尾花は武蔵野の縁語、月もそうだろう。武蔵野の秋については狂歌家の風の中に十五夜の名月を詠んだ歌がある。

 

       三五夜

  七草にかゝめた腰をけふは又月にのはするむさしのゝ原

 

これも、草、月、原が武蔵野から連想されている。そして除夜の歌も武蔵野の名月が下敷きになっているのは明らかだろう。貞国に限らず、上方狂歌の系統で武蔵野という言葉は、遠いところのだだ広い野原という風に他人事のように詠まれていて、実際の情景が浮かんでくるような歌は少ない。実はこの三五夜の歌も、元は武蔵野ではなかった。明治41年、広島尚古会編「尚古」参年第八号、倉田毎允氏「栗本軒貞国の狂歌」の中に

 

      吉野山にて花をよめる 

  七草にかゞめた腰を今日は又月に伸ばする見よしのゝ花


とある。これはさすがにピントがはっきりしない歌で直しが入るところだろう。サラダ記念日が実はサラダではなくカレー味のカラアゲだったというような推敲は昔からあったようだ。話がそれた。「狂歌桃のなかれ」にも武蔵野が入った貞国の歌がある。


  むさし野もなとか及はむ空々と真如の月のすめる此はら



「空々」は「空々寂々」と真如の悟りの境地を指す言葉のようだ。武蔵野の原も及ばないと詠まれた大きなお腹は布袋様だろうか、しかしここでも武蔵野は比較の対象でしかない。貞国や上方の人がどういう気持ちで武蔵野という言葉を使ったのか。広島に住んでいる人が東京へ行くと、関東平野の広いところへポツンと置かれた感じで毎日落ち着かないという話はよく聞くけれど、これもそういう疎外感なのか、それとも江戸狂歌に対するコンプレックスなのか、もう少し探ってみたい。しかし、このフレーズを何度も使っているうちに、今年も暮れてしまった。



(以下の追記について、このあと読み始めた大田南畝の類歌を合わせて「大さかつき」として独立の記事としました。同内容ですが、この追記も歌を読み解いた過程として残しておきます。)

【追記】 内海文化研究紀要11号に、屏風に張り付けた懐紙に書かれた貞国の歌の写真があり、武蔵野が入っている。


      酒百首よみける中に
      秋の部 月を

  其名にし大さかつきの影さしてはら一はいにみつる武蔵野  柳縁斎貞国


最初は初句の意味がわからなかったが、「狂歌ならひの岡」に、


       晴天旅          林端 

  やつの詠めなにしあふみの旅路にもひとつはかけし唐さきの景 


という歌があり、「名にし負う」と続いていることにやっと気づいた。この貞国の歌もまた、月、原、そして、名にし負うも武蔵野の縁語だろうか。武蔵野に月影がさして「原いっぱいに見つる」、大盃で「腹いっぱいに満つる」とかけている。スケールの大きさは感じるけれど、やはり武蔵野は漠然としたイメージで詠んでいるような気もする。

追記の追記:大杯を「野見尽くさぬ(飲み尽くさぬ)」と洒落て武蔵野と呼んだという記述があり、これを見落としていた。武蔵野杯という大盃があって「その名にし負う」と言っていたわけだ。するとこの歌では地名の武蔵野はビジョンであって、月を見ながら大酒を飲んでいるのが主題というべきだろうか。

「西鶴織留」で武蔵野が出てくる場面、

「此の御坊酒ずきとみえて、杯小さきをなげき、「我常住のたのしみに是れを飲むより外はなし。昔上戸ののみつくさぬとて名を付けし、武蔵野といふ大盞(たいさん)はないか。」といふ。」

また、狂歌肱枕(明和四年)に武蔵野と大盃の入った歌があった。


         野      韓果亭栗嶝

  すつと出た大盃の月影も千畳敷と見ゆるむさし野


貞国の大さかづきの歌と同じ趣向だろうか。


12月27日広島県立図書館「尚古」など

2018-12-27 19:01:41 | 図書館

 今日は午前中に餅つきがあって出るのが30分遅れた上に蕎麦買って帰れと言われて図書館の滞在時間は1時間弱だった。それで「狂歌桃のなかれ」の解説の参考文献にあった「尚古」を読むことにした。明治41年の第参年四号と八号に貞国関連の記述があるということだったが、県立図書館では芸備史壇としてまとめられていて何巻に入っているかわからない。1から3を出してもらったら、両方とも2巻にあった。第四号の方は倉田毎允氏による「名家墳墓」に栗本軒貞国の項があり、

「苫屋弥三兵衛と称し広島水主町に住す狂歌に巧妙なるを以て栗本軒貞国の号は京都狂歌の家元より受けたるものなりとそ天保四年二月二十三日歿す年八十七本譽快樂貞國良安信士と謚し天神町教念寺に葬る墓石表面に合塔の二字を刻し両側面には文化八年閏二月七日とあるのみ蓋し其祖先の歿年月を記したるものなり」

とある。もちろん京都狂歌の家元とあるのは誤解で栗本軒の号は堂上歌人の芝山持豊から賜ったものだ。それから普通の先祖代々のお墓だったようだ。天神町というと戦前までの繁華街で今の平和公園のあたり。中区の同じ三角州でも旧天神町から1キロ以上南の羽衣町に今も教念寺というお寺があるが、このような普通のお墓だとすると、原爆に耐えてしかも移転して残っているかどうか、難しそうな気もする。

参年八号は同じ倉田毎允氏「栗本軒貞国の狂歌」、三十七首の貞国の歌が載っており、狂歌家の風や狂歌桃のなかれと重複する歌も語句や表記が異なっていて出典は別のようだ。長い詞書の歌もあり、歌集あるいはそれに近い形式のものからの引用と思われるが、残念ながら出典の記述はない。原爆で焼けてしまった資料もあったのだろうか。家の風関連の歌はそちらに追記、あるいは近々書いてみることにして、それ以外で興味を引かれたところでは、まず亥の子の歌、

 

  ついた所つかぬ所も見ゆるなり亥の子の餅もあらかねのつち

 

亥の子石で叩いた場所は跡がついてわかるということなのか、今ひとつはっきりしない。また、古市の餅の歌、

 

     沼田郡古市村なる名物餅のことをよめる

  能因に味あわせたやあめならて古市に名の高き歌賃を

 

これはどんな餅だったか気になる。「能因に味あわせたや」も現時点ではよくわからない。

また貞国の商いや辞世の碑についての記述もあった。明治41年というと貞国が没してからまだ百年たっていない時代、伝承も残っていたのかもしれない。まずは、初詣のついでに辞世の碑があるという聖光寺に行ってみたい。お天気と体調次第だけど。

借りたのは4冊、近世上方狂歌叢書は二巻を、江戸狂歌は十二巻を借りた。上方は頭から、江戸は後ろからという感じで深く考えて選んだわけではない。それから守貞謾稿の4巻5巻を借りた。国会図書館のカタカナは読みにくく活字でと思ったけど1から3は書架になく貸出中だろうか。まあ3週間で読む分量としては十分だろう。上方狂歌を読み始めたら狂歌手なれの鏡(木端撰)の木端の歌がちょっとアレだった。

 

      男色のこゝろを

  和歌集かいや若衆もおほかたは十一二より恋の部に入る

 

たしかに古今集などでは巻第十一から恋の歌だが、若衆の方はそれでいいのか。しかし木端師の歌であるから、そういうものだったのかもしれない。

貞国については次の方針が難しい。貞国は若い時の歌が見つからず、貞佐の没後の寛政年間にいきなり「柳縁斎師」と登場してくる。柳井の本にある「道化」という号の歌を見つけることができないでいるが、どこを探せばいいのか。しばらくは用例集めをしながら周辺をうろうろ、ということになるのかもしれない。

 


折れた色紙

2018-12-25 13:43:22 | 日記

  ぼちぼち大掃除ということで、客間の引き出しをひっくり返したら神社のお札などの間に色紙を一枚見つけた。歌がかいてあるようで、左下が折れてしまっている。

 

 

ぱっとみたところ祖父の苗字と名前が詠み込まれている。三、四、五行目の末尾の仮名は全部別の字かもしれない・・・今はそれぐらいでしばらくじろじろ眺めて解読したい。

祖父は明治の終わりの生まれで、成人してからこれを誰かに書いていただいたとすれば、昭和に入ってからということになる。戦前に祖父一家が住んでいた尾長町の家は原爆で焼けてしまっているから、戦後かもしれない。もっとも、来年新しい元号になって、その新元号下で生まれた人から見れば、昭和も二つ前の元号、我々における明治のようなものだ。新しくはない。祖父が誰にこれを書いてもらったのか。そしてどういう性格の歌なのか。お礼はどれぐらい・・・お正月にでもじっくり調べてみたい。今は、大掃除や餅つきが先よね。

 

【追記1】「しん土井と袋おろした大黒」まではわかるが、上の句最後の仮名はいくつか候補があってはっきりしない。下の句は「こゝろ安衛に」のあとが意味が通るように読めない。漢字は「横」に見えるが「横けた(さ?)りけり」では意味がわからない。横で「ころげざりけり」と読めるのかどうか。あるいは横が間違ってるのかもしれない。

考えてみるとこの母方の祖父が亡くなったのは私が小学生の時で四十年以上前のこと。PCから祖父の名前を入力したのはもちろん初めてで、そこは新しい気持ちで祖父の思い出と向き合うことができた。まだわからないことが多いけれど、もうちょっとじろじろ眺めてみたい。

 

【追記2】最近通院している病院で、看護師さんに「ころげとってください」と言われる。方言だろうが、「ベッドに横になってお待ちください」の意だと地元の人間にはわかる。転んだらいけないだろうと「横げざりけり」と考えていたけれど、横になったの意があるなら、「ころげたりけり」これで一応読んでみよう。

 

  しん土井と袋おろした大黒は こゝろ安衛に横けたりけり

 

これであってるかどうか。まだ作者名は読めない。


【追記3】最後は「文風謹詠」のような気がするが、「詠」は違うかもしれない。印も「文風」と読めるから、この歌を詠んだのは文風という号を持つ人で間違いなさそうだ。しかし、この人についての手がかりは見つからない。

狂歌家の風(18) 舌先

2018-12-24 10:03:31 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は神祇の部から一首、

 

       厳島社頭舌先にて 

  一ツならす又二柱みつしほもよみつくされぬいつくしま山 


 歌は、ひ、ふ、み、よ、厳島、となっていて、厳島神社の三柱の祭神を「一つならずまた二柱」としたところに苦心の跡がうかがえるけれども難しい歌ではない。今回は詞書の「舌先」について考えてみたい。

 厳島神社で舌先と聞くと、ピンと来る場所がある。もし貞国に舌先で待ち合わせと言われてもすぐに会えるだろう。本殿の回廊の外にある平舞台からさらに大鳥居に向かって伸びた場所ではないかと、まず思った。ところが、観光ガイドなどを見るとこの場所は、「火焼前(ひたさき)」となっていて、祭礼の時にかがり火を焚いたと由来を書いたものもある。待ち合わせ場所は間違ってはいないけれど、江戸っ子の「ひ」が「し」になってしまうかのように一文字違ってる。すると火焼前が正式で舌先は俗称だろうか。ところがところが、御鳥喰式を調べた時に読んだ江戸時代の二つの書物、「厳島道芝記」と「厳島図会」をみると、


「二宇の間に幅二丈余長さ十丈冲の方へ造り出し名付て舌先(したさき)といふなり俗に社頭楼台の形を龍頭にかたどるといふ」(厳島道芝記)

「○廊嘴(したさき) 門客神社二宇の間より長く延出して西北にむかふ正殿よりこの間凡三十六間当社宮殿は中央に神殿をおき長廊廻屈して蟠龍の如しこの處長くさし出たり依て俗に是を舌先とよぶ」(厳島図会)


厳島道芝記」(国立公文書館デジタルアーカイブより)


とあり、舌先は出てくるけれども火焼前は出てこない(厳島図会の方は漢字に自信がないので間違いを指摘していただきたい)。それに、正式名称は無くて神殿、回廊の形から俗称で龍の舌先と言われるようになったと取れる書き方だ。しかしこれが明治の書物になると、明治11年「厳島宮路の枝折には、

「○火焼前(ひたきさき) 俗に舌先といふ」

さらに明治39年「山紫水明 : 現代の美文には、

さらに桟廊の海中に斗出すること七間、そのつくるところ燈籠を置かる、火焼前(ほたきさき)といへるはこれぞ」

とあり、火焼前と書いて「ひたきさき」又は「ほたきさき」と読んでいる。すると普通に考えたら、ひたきさき→ひたさき→したさき、となりそうなものだが、江戸時代以前に火焼前の記述を見つけることはできない。時代順にみると、舌先が早いように思える。リビングひろしまのふるさと歴史散歩にも、

「回廊は、その長さから龍に例えられます。本社前の火焼前(ひたさき)も、龍の舌の「舌先(したさき)」が変化した言葉とも言われるくらいです。」

とあり、舌先から火焼前と変化したという説があることが読み取れる。もっとも舌先は江戸時代にも俗称であって、神社の正式名称ではない。今は厳島神社公式サイトの参拝順路の高舞台をクリックすると「火焼前から大鳥居を望」という写真があり、火焼前は神社公認と言っていいだろう。まとめると、昔は正式名称はなく、俗称として舌先と呼ばれていた。それが天保13年の厳島図会以降に俗称であった舌先の音をもとに火焼前という正式名称がつけられたと考えられる。古い文献から火焼前が出てこない限りは、貞国が無知だったわけでも江戸なまりでもなく、当時は舌先という呼び名しか無かったということだろう。

どうも狂歌と関係ない話になってしまったので、狂歌二翁集にある貞佐の宮島の歌を紹介しておこう。


竜宮の
 鏡立
  とや
 みやしまの
鳥居に
  かゝる
 秋のよの
    月

 桃縁斎


この絵の角度で満月が沈むだろうか。いやそこは狂歌だからごちゃごちゃ言うまい。


【追記】明治41年、広島尚古会編「尚古」参年第八号、倉田毎允氏「栗本軒貞国の狂歌」の中に同じ歌があるが、詞書、歌の表記とも狂歌家の風とは異なっている。


      或時厳島明神へ詣てゝ一二三四五の數字を句の上に置てよめる

  一(い)つならす又二柱(ふたはしら)三津しほの四(よ)みつくされぬ五(い)つく嶋山


ひ、ふ、み、よ、いつ、と読みたいと思うのは時そばの先入観だろうか、ここでは「一(い)つ」とルビが振ってある。これが貞国の詠んだ通りなのかどうか、どうもすっきりしない。また、「又二柱」でも句の上に置いたことになるのか、という疑問も残る。それで家の風の詞書には折句の言及はないのかもしれない。逆にこちらの詞書には舌先は入っていない。


【追記2】 大田南畝編「寸紙不遺 」の中に、「藝州厳島社頭之圖」がのっていて、その中には「舌嵜」とある。年代はわからないが、次頁左上に厳島道芝記の記述があり、大田南畝のスクラップ帳みたいな性格と思われる本であることから、貞国が活躍した時代のものと思われる。厳島道芝記の舌先、厳島図会の廊嘴の間に舌嵜という表記もあったようだ。しかし、音はすべてしたさきであって、家の風の歌が詠まれた寛政年間までは舌先でその後に舌嵜、廊嘴となったのか、書く人によって漢字が違っていただけなのか、まだわからない。

漢方医

2018-12-23 09:43:26 | 日記

 七月の豪雨災害のあたりから体調が思わしくなくて、不本意ながら医者にかかることにした。近所の内科は9年前の胆のう炎の時はエコーで胆石を見つけてもらったのだけど、それ以降はどうもコミュニケーションがうまくいかない。どこを治療したいのかと聞かれる始末で、きっと相性が悪いのだろう。そこで9月中旬のこと、ジュニアユースOB選手のお母さんに教えてもらった、中島の職安の筋にある漢方医を訪ねた。ひととおり症状を説明したら、医者は「冷えだわ」と言った。冷え性というと女性だけかと思っていて、これは意外だった。言われてみれば、同じ部屋にいて私だけ寒いと感じたり、夏でも寒気がしたり、大好物の冷たい蕎麦をたらふく食ったあとに鼻水が止まらなかったり、思い当たることもある。処方してもらった漢方薬を飲みながら、二週間に一度通院して電気マッサージの治療を続けてみた。食事についても脂っこいものや冷えの原因となるような寿司やパン食などを避けるように言われた。揚げ物は衣を外して中だけ食べるように言われて、そういう食べ方をする人がいるのは聞いていたけれど、医者推奨とは知らなかった。南国の果物は体を冷やす、リンゴなら良い、というのはちょっとうさんくさいと感じた。しかしこの医者にかかる以上はとりあえずやってみようと思った。帰って調べたら冷えそのものは西洋医学では病気ではなく、一方東洋医学では治療の対象と書いてあった。

 その医者はいつも混んでいて、一時間は待たされる。しかし、通院は嫌ではない。電気マッサージはうつぶせから裏表10分ずつ、リラックスできる。食生活も寿司や天ぷらが食べられなくても、そんなに残念なことではなかった。制限することで、時にうっかり食べてしまってこれが良くなかったんだなと気付くこともあった。症状は少し改善してきた。しかし、焼肉や冷たい果物食ったり暖房つけるの忘れて作業したりすると逆戻りということも二度三度あった。

 12月に入って、そういうことを医者に説明したら。医者はまず、仕事が出来て、食欲があって、夜寝られて、それで良しとしないといけないと言った。私もそういう年なんだろう。その上で、前回までの漢方薬はストレス半分、冷え半分だったけど、寒くなってきたからお腹を温めることに重点を置いた薬に替えると言われた。これまで、私からストレスを言ったことはなかったし、医者もストレスという言葉は使わなかった。ストレスをやわらげる薬が入っているとは知らなかった(薬局でもらった説明に痛みを緩和するとあるのが多分それだろう)。しかしもちろんストレスはあるから腹は立たない。逆にストレスの薬を外して大丈夫かと不安になった。考えてみると、今日も反抗期の中学生男子とそれに悩むお母さんが来て一緒に治療を受けていた。薬局でそう説明していた。この医者が流行っているのは現代人のストレスとも向き合っているからかもしれないと思った。

 帰って新しい薬を飲んだら、舌がしびれた。これはいけないと調べたら、成分に山椒が入っていた。もうひとつの薬には附子というからトリカブトだろうか。しかし、前の薬より断然調子が良かった。二週間たって今年最後の通院でそう言ったら、寒い間は飲み続けた方が良いと言われた。ずっと続けて飲むには強い薬なんだろう。東洋医学の治療が本当に私に合っているのかどうか、まだわからない。しかし、年末で一ヶ月分の薬をもらって残念な感じがしたということは、少しはまっているのかもしれない。

 

  食間にリラックスして湯で飲めばすでに効きたる心地こそすれ

 

 


阿武山(あぶさん)を語る(補3) 弘化四年を考える

2018-12-21 16:22:25 | 阿武山

 阿武山麓の八木に伝わる蛇落地(じゃらくじ)の伝承を調べるうちに、最初は陰徳太平記に描かれた天文元年(1532)の大蛇退治に注目したけれど、私の興味は次第に阿武山山頂の観音様(蛇落地観世音菩薩)が麓に降ろされた弘化四年(1847)に移って行った。蛇落地とは、もちろん大蛇伝説をふまえた上で、すでに字として成立していた上楽地(じょうらくじ)、あるいは観音様が降り立つとされる補陀落(ふだらく)山をもじった、この観音様のためのネーミングという可能性もあるのではないか、そう考えるようになった。最近、江戸時代の狂歌とその周辺の資料を読み進めるうちに、少しこちらの話のために書き留めておきたいことがあった。そのあたりをだらだらと書いてみたい。

 前に書いた弘化二年の土石流は大野村でも被害があったようで「豊助日録」に、

  「八月六日から大雨、大洪水、中山山くずれ」

とある。大竹から呉まで広い範囲で被害があったことがわかっているけれど、阿武山の沼田郡ではどうだったのかまだ見つけられていない。江戸では弘化二年に青山(権田原)火事(表中弘化三は弘化二の誤り)、翌三年佃火事と連続して大火があったようだ。また、大野古文書管見(一)の解説によると、広島藩では天保頃からインフレが始まって、弘化四年には藩札の下落により物価は三十倍、四十倍になったという。また、沼田郡八木村ではこの頃、阿武山に設定した中島村の入会地の境界で訴訟になっている。明治維新の二十年前、幕藩体制の崩壊の足音が聞こえてくるような世相に見える。

なお、幕末に向けて広島藩の財政は悪化の一途をたどり、鋳物の町である可部でも大がかりな贋金造りが行われたと可部高校近くの寺山の観音様の説明文にあった。


藩札の下落も歯止めがかからず、明治29年「狂歌ねさめの伽」には、


    宮島の水月庵といへるに石の地蔵尊半より金
    になりたりと聞き当時藩札下落の折柄とて

  札さへも金にならさる此国に石の地蔵のかねになるとは


とある。これは三首あとに鞆の津にて東京舩便という詞書があることから東京と藩札が同居していた明治初年の作と思われる。話が少しそれてしまった。

 弘化という時代の世相は徐々にわかってきた。一方、当時の八木村の観音信仰とはどのようなものであったのか、これが中々手掛かりが見つからない。江戸時代の沼田郡、高宮郡といえば浄土真宗の安芸門徒の勢力が強かった。広島城下は殿様も毛利、福島、浅野と交代があり武士も入れ替わりがあったせいだろうか、色々な宗派のお寺がある。しかし、私が住んでいる安佐北区では可部の福王寺(可部には高野山の荘園があった)が真言宗というのが唯一の例外であとはすべて浄土真宗だ。深川薬師も江戸時代以降は浄土真宗のお寺になっている。こうなった理由について「秋長夜話」には、

「此国は一向宗盛にして、郡中村々一向門徒にあらざるはなし、元来村々に寺ある事なし、多くは仏護寺十二坊の門徒なり、其村所にて農民の僧形となりて勧化するものを手次坊主といふ、一向宗に限りていにしへよりこれあり、蓮如上人の文章にも手次坊主たちと書れしなり、此手次坊主ども漸々村の用意を得て勢つき、後は堂をも建立し、おのづから寺のやうになりしなり、取次頼み本願寺へ請て、寺号・木仏・開山上人画像・太子七高僧代々門跡上人の御影など申受て一寺を創立するなり、創寺の事は他宗にては一向なりがたき事なれども、本願寺門徒にてはいかなるゆゑは知らねど殊外容易なり、一向宗の年を逐て盛るは是をもての故なるべし」

とある。この通りかどうかはわからないが、貞国の歌をみても浄土真宗の宗旨はしっかり浸透していて、その中で観音様はどれぐらいの重みがあったのだろうか。中世の観音信仰は現世利益から浄土信仰へと変質していったと言われている。すると江戸時代は浄土信仰に位置づけられるはずだが、たとえば曾根崎心中の観音廻りはどちらかと言えば現世利益、あるいは当時の娯楽のようにも思える。このあたりが山頂にあったのでは不都合な理由だったのかもしれない。しかし、曾根崎心中の観音廻りは都会の話だ。この時代の地方の農村に暮らす人々の観音信仰、心の内を表した資料、手掛かりはないものだろうか。阿武山の観音様に近づくには、まだまだ努力が足りないようだ。

 

(安佐北区口田南あたり、高陽団地行きバスの車窓から太田川の向こうに権現山、阿武山を望む)


狂歌家の風(17) 住吉社

2018-12-19 20:08:28 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は神祇の部から一首、

 

       住吉社奉納題中臣の祓 

  雨露のめくみに木ゝのまことをはあらはして咲花のくちひる


 爺様の掛け軸がきっかけで読み始めた狂歌家の風、その中で一番興味をひかれてしっかり調べて書いてみたいと思ったのは神祇の部の大頭社、鳥喰祭の歌だった。そのせいか、他の神祇の部の歌も後回しになってしまった。大野村との関係も少しずつ明らかになって鳥喰を書く日も遠くないような気もする。まず最初の住吉社の歌にとりかかってみたい。

歌自体はそれほど難しくない。ただ、歌と中臣祓との関係がはっきりしない。中臣祓とは六月と十二月の大祓の時に唱えられる祝詞で、天つ罪や国つ罪を列記してそれを祓うという内容になっていて、貞国の歌とは関連が薄いしそもそも六月晦日もしくは大みそかの大祓の歌という感じはしない。むしろ、天つ水がキーワードになって植物を生み育てる中臣寿詞の方が貞国の歌の内容に近い。しかしこちらは天皇即位や大嘗祭の時に唱えられるとのことで、これを奉納歌とするだろうか。それに蒜や筍は生えてくるがこちらでも花は咲いていない。これは考えてもわからないので新たな手がかりを待ちたい。

祝詞はこれぐらいにして、貞国はどこの住吉社にこの歌を奉納したのか考えてみたい。狂歌家の風の神祇の部で神社名が入っているのは順に住吉、人丸、厳島、大頭となっていて、和歌三神の住吉と人丸が入っているから、これは本家の住吉大社と明石の柿本神社に貞国が出向いて歌を奉納したのかと思っていた。しかし、「松原丹宮代扣書」の寛政二年の記述に、

「三月十八日 人丸神社更地左近谷筆柿の本へ遷宮仕、御神体願主福原貞国、御社願主上下氏子中狂歌連中十二人にて寄進す。」

とあり、大野村の人丸神社は貞国を師匠とする別鴉郷連中が勧請した、ということは、次の歌の人丸社は大野村の人丸神社の可能性が大きくなった。すると、住吉社も地元かもしれない。大野村にもかつては住吉神社があったようだ。享和元年というからちょうど狂歌家の風が出版された年(1801)に住吉新開という新しい農地が完成した時、貞国の門人で後に大野村下組の庄屋となった柳唱斎貞蛙が詠んだ歌が「大野町誌」に載っている。


         こたび御恵み給ふ新開のかたはらに
         胡子住吉の社ありけるによりて、人々
         住吉新開ともまた胡子新開ともいへる
         者もありければ
 
  百姓も猶これからは住吉のかみの力をゑびす新開


大野町誌によると、この住吉神社はいつ廃、あるいは合祀になったのかわからないそうだ。もし貞国の歌が大野村の住吉神社だとすると、神祇の部に並べた住吉、人丸、厳島、大頭の四社はかなりご近所ということになる。もう一つの可能性としては、広島の住吉神社

享保18年に(1733)勧請されました。
 江戸時代、浅野藩の船の守護神として信仰されました。」

とある。貞国の時代は比較的新しい神社だったと思われる。和歌の神様も書いてあるけれど、当時はやはり船の神様の意味合いが強かったと考えられる。今の住所は中区住吉町、しかし貞国の時代の住所は水主町で、これも新開、すなわち三角州が先に延びた新しい土地に建てられたようだ。そして、「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」には貞国について、

「広島水主町(今の中区)で苫を商う苫屋弥三兵衛、号は道化、柳縁斎」

とあり、住吉神社は町内ということになる。広島の住吉神社が有力な気もしてきた。しかし断定できる材料はない。「大野古文書管見一」にある大野町更地の新田家に伝わる公務細見という文書の弘化四年の項には、大野村から広島城下に船で往復した記述が見える

「未正月五日昼乗船御城下ヘ罷出ル、九日昼乗船、船浮ばず十日朝帰ル」

とある。大野古文書管見の解説によると番船と称して大野広島間に定期船があり、大野を昼すぎに出て潮や風向きの良い時は一時間余り、おそくても五時間ぐらいで江波沖に着き、満潮を待って本川を上り住吉神社のところに接岸とある。貞国が商いをしていた水主町と大野の間に定期船があったわけだ。貞国が別鴉郷連中の狂歌の会合に出かけるのにこの船便を利用したのだろうか。もっとも、上方狂歌の歌集には京大坂の移動に船中での歌も結構見かけるのに、船中で詠んだ貞国の歌は見つからない。あるいは船旅は苦手だったのか、五時間もかかったり上記のように船浮かばずとなったら歩いた方が早いということもあるかもしれない。

最初の歌とはあまり関係ない話になってしまったけれども、貞国の周辺ということでご理解いただきたい。

 

【追記1】船中で詠んだ貞国の歌は見つからないと書いたが「狂歌桃のなかれ」に一首あった。

 

        船中歌会 

  せん頭も混本も読歌の会言葉の海に乗出しては 


混本が良くわからない。古今集真名序に混本歌とあるのは旋頭歌とする説があることから、船頭、混本と続けたのだろうか。

 

【追記2】明治41年、広島尚古会編「尚古」参年第八号、倉田毎允氏「栗本軒貞国の狂歌」の中に、水主町の住吉神社の祭礼の見世物をめぐる長い詞書と歌がある。

 

    水主町の鎮守住吉神社の祭礼は毎年六月十四十五 
    日なり、此両日の賑いの為め見世物と称して町々 
    大なる物の形なん作りていとめつらかなる細工多 
    かる中に、円入寺と云へる寺の町へ瓢べを以て鯰 
    をおさへたる形を造りたるが、見物の諸人町々群 
    集の中誰れありて何物と云ふことを弁へず、看過 
    るもの評定区々なり、然るに之れを営みし人自ら 
    不出来なることを知れど、今更改むることもなら 
    ざれば、彼是れといと気色を損じ、貞国か元へ行 
    き云々の由を述べ、鯰なる事を諸人いひくれんこ 
    とを祝してよと乞ひければ、 

  ひょうたんの軽口ちよつとすべらかす鯰のせなへ押付の讃 

    之れにて往き来の人々興じあへりとなり


見世物が不出来で何かわからないという状況を貞国の狂歌で丸くおさまったという構成になっている。やはり水主町の住吉神社は有力だと思う。


狂歌家の風(16) ひとよきり

2018-12-15 10:21:16 | 栗本軒貞国

 栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は夏の部から一首、

 

       夏菊 

  活筒のひとよきりより一夜酒の銚子にさゝん夏菊の花

 

一夜酒とは、一夜のうちに熟成するところから、甘酒のことだという。室町時代の宮中の年中行事を記した「公事根源」には、

「供醴酒(ひとよざけをきょうす)

一夜さけとはけふつくれはあすは供するなり一夜をへだつる竹葉の酒なれは一夜酒とは申なり又はこざけとも或文に侍り昔は口中に米を嚼て夜をへて酒に作けるにやこの酒は造酒司(さけつかさ)けふより七月卅日まて日毎に奉るなり」

とあり、六月一日から七月三十日まで作ったとある。の字はあまざけの訓がある。夏ばてに効果があるそうで、夏の季語となっている。このあたり現代の感覚とは違うところだ。もっとも、江戸時代の狂歌にも寒い時に一夜酒という歌もある。「狂歌気のくすり」には、

 

         一夜酒          故人 宣平 

  一夜酒のんて寒さを忘れけりあたゝまりぬる腹のはるへに


とある。また、明治36年百物叢談の甘酒の項には、

「○甘酒 志賀理斎といへる人天保十四年に軒のしのぶといふ本を著はせり其中に近世はよろづ風俗の転変して暑中に甘酒土用入りよりして冬の納豆汁を売りあるき又暑中通して菜漬を売るかくの如く皆時節気ならざる物を売る世となれりとさらばにや此の甘酒をうりあるき始めたるは近き天保初年の頃なるべし」

とあり、天保以前暑中に甘酒は季節外れだったと書いてあって、公事根源の宮中では六月から供したというのと食い違っている。あるいは、土用の鰻や近年の恵方巻のようなことなのか、このあたりもう少し探してみたい。

次に、最初の「ひとよきり」を検索すると縦笛の一節切(ひとよぎり)が多数出てくる。尺八のような楽器だったようだ。その中に数は少ないけれど、竹の花器としても一節切というものがあり、竹の節を一つ残してあると説明があった。遠州流という流派で今でもこの言葉を使うようだ。また、茶道用語の中にも「竹花入の切り方の一種」とあった。

これで「ひとよきり」と「一夜酒」は一応理解したけれど、花器の一節切よりも一夜酒の銚子に挿したい、という貞国の心情はいかなるものであっただろうか。上記の百物叢談の記述を信じるならば、貞国の時代には江戸にも甘酒売りは登場していなくて、一夜酒と夏菊の組み合わせが一般的だったかどうか。どうも、あと一歩か二歩か貞国の歌意に近づけていないようだ。

夏菊について、明治10年「作文必読」の中の贈夏菊文という例文には、

「凡子愛育の夏菊一瓶培養疎雑見所薄候へとも」「花葉ともに見苦存候へとも」

とあり、注にも、「風韻乏少、無幽艶之趣、有艶色無香気、枝葉最鄙、枝重葉厚」と秋の菊に劣るという表現が並んでいる。少し見劣りのする夏菊を、一夜きりとも読める活筒ではなく手元の銚子に活けて、と勝手にストーリーを作ることはできるけれど、実際の貞国の心情はどうだったのか、まだまだ調べてみないといけないようだ。

 

【追記1】夏菊の俳句を読んでみると、夏痩せという連想の句があった。

   ひとり世に痩せたる夏の黄菊哉 正岡子規

   夏菊に木曽の旅人やせにけり 正岡子規

   夏菊や土蔵の陰に痩せてけり 正岡子規 

   痩せたりと言はる夏菊の黄はさえて 細見綾子

   夏菊や戦さに痩せし身をいとふ 渡邊水巴

この線で貞国の歌を解釈すると、痩せた夏菊に夏バテに効くという一夜酒を、ということだろうか。もしこれで正解だとすれば、寛政期までには甘酒は夏痩せに良いと信じられていたということになる。なお、百物叢談が引用している志賀理斎「軒のしのぶ」という著書は見つからないのだけど、志賀理斎の没年は天保11年とあって、百物叢談の考察よりも早く甘酒売りが登場した可能性はあると思われる。


【追記2】天保八年起稿の守貞謾稿に、「夏月専ラ売巡ル者ハ」に続いて甘酒売の記述がある。

「甘酒売 醴売也京坂ハ専ラ夏夜ノミ売之専ラ六文ヲ一碗ノ値トス江戸ハ四時トモニ売之一碗値ハ八文トス」

明治の書物に暑いのを我慢して甘酒を飲むのは江戸っ子の面白いところとの記述があり、夏の甘酒売りは江戸だけかと思ったら上方にもあったようだ。しかし上方が夜だけなのに江戸では四時ともにとあるから、やはり江戸っ子のそういう面は出ているのかもしれない。

 

【追記3】同じ守貞謾稿に当時の銚子の絵がある。しかしここに夏菊を挿しても絵としてはぱっとしないような気がする。やはり、夏痩せの菊に甘酒を飲ませる説が有力だろうか。

 

【追記4】銚子ではなく燗鍋の例歌であるが、「狂歌友かゝみ」に燗鍋に菊を挿した絵があった。


  節句とて竹杖はなれ翁草けふかん鍋の手にそひかるゝ (園果亭義栗


追記3で絵としてぱっとしないと書いたのは私の想像力の欠如で、挿すといっても浸すのではなかった。甘酒は温めてあるのだからよく考えたらわかりそうなものだ。それでも、歌の解釈としては夏痩せに甘酒でいけると思うのだけど、ちょっと自信がなくなってきた。


【追記5】 笛の方の一節切の用例が狂歌上段集(寛政五年)にあった。


       初嵐             枝柑子光成

  あきはやき笛の稽古ははつ嵐ひとよきりにて吹やみにけり


(「き」についている濁点は最初からあったか判別できない。一応除外しておいた。)

また、「狂歌手毎の花 二編」にも、


        旅宿夢         野内庵面也

  尺八の竹のふしみに旅ねしてむすひし夢もひとよきりかな


とある。やはり「一夜きり」と詠みたい素材、貞国の歌にその意味はないのだろうか。


12月12日広島県立図書館「大野町誌」など

2018-12-12 20:00:49 | 図書館

 今日はメシ当番の都合でいつもより芸備線2本、40分ほど持ち時間が少ない。まずは郷土の書架から「大野町誌」を読む。巻末の年表を眺めると、阿武山関連で弘化二年の災害の記述があった。

「八月六日から大雨、大洪水、中山山くずれ」(豊助日録)

中山は道ゆきぶりに出てくる中山だろうか。この年表には文化年間や他にも水害の記録がある。また、この弘化二年は大竹から呉まで、かなり広い範囲で土砂災害があったようだ。阿武山に近い町村の地誌を見直してみたい。

 前回、松原丹宮代扣書」に出てきた寛政二年の人丸神社勧請の事は年表には、

「三月十八日 人丸神社を更地迫の谷筆柿の元に遷宮、願主柳縁斎福原貞国狂歌別鴉郷連中」(松原丹宮代扣書、人丸社棟木札)

とあり、人丸社棟木札という資料が出てくる。前回読んだ松原丹宮代扣書」のこの条は後略となっていて、そこまでに書いてなかった柳縁斎と別鴉郷連中は人丸社棟木札にあるのか、それとも松原丹宮代扣書の後略の部分にあるのかはっきりしない。

なお、お恥ずかしい話であるけれども、「狂歌桃のなかれ」にも柳縁斎とあったのに貞佐と同じ桃縁斎と見間違っていたことに今日気付いた。貞右の玉雲斎とからめて書いた回は全く意味をなさないもので、帰ってすぐに非公開(下書き)にしてその後訂正しました。読んでくださった方には全くもって申し訳ないことで、おわび申し上げます。

さて、気を取り直して、貞国は狂歌桃のながれの寛政五年までは柳縁斎で、狂歌家の風の享和元年までに栗本軒の額をいただいたことになる。家の風の序文はこの軒号が主題のような書き方であるから、栗本軒を得てから出版に取りかかったという流れだろうか。

大野町誌の本文にも、貞国について二か所記述がある。まずは大野町に関する文芸作品を抜粋した項には、まず貞国の弟子の柳唱斎貞蛙なる人物が登場する。大野の実力者のようで、本名は大島周蔵、この大島家に貞国や別鴉郷連中の狂歌を記した文書や掛け軸が伝わっているようだ。また、貞国の掛け軸を所持されている大島忞氏(故人)は前回読んだ「古文書への招待」の著者と同名でご子孫なのかもしれない。住吉新開という新たな土地が享和元年に完成した時の貞蛙の歌の中から一首紹介しておこう。


       こたび御恵み給ふ新開のかたはらに胡子住吉の社ありける

       によりて、人々住吉新開ともまた胡子新開ともいへる者も

       ありければ

  百姓も猶これからは住吉のかみの力をゑびす新開


そして、出典不明だった貞国の妹背の瀧の歌も載っている。

  

  めをと滝そのみなもとはかわれどもすえはひとつにやはりおほのぢゃ


しかし、大野町誌にもどこから引用したかは書いてなかった。さいごの「ぢゃ」はあまり見かけない表記だが、意味があるのかないのかよくわからない。

また、大野町の文芸を解説した項には、別鴉郷連中について3ページにわたって解説している。瑞川寺(現聖光寺)にあるという碑についての記述もあった。

「その辞世の歌が、京都の門人三六〇人によって尾長村(現広島市東区尾長町)瑞川寺境内に碑にして建てられている。その辞世の歌は「花は散るな月はかたふくな雪は消なとおしむ人さへも残らぬものを 貞国」と、そして「行年八十八翁、天保四癸巳年二月二十三日没」と碑に刻まれている。」

とある。辞世の歌については、柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」には、「花散るな月傾ぶくな雪消へなおしむ人さへ残らぬものを」とあり、大野町誌の引用は字余りの助詞が多くなっている。碑が残っているなら見にいってみたいものだ。うちの貞国の掛け軸の母方の先祖は広島藩士で家は尾長にあったという。大野の大島氏と同様に尾長にも有力な門人がいたのだろうか。

もうひとつ、大野町誌の興味深い記述としては、

「今、大野東小学校に別鴉郷連中の歌を彫った版木が残っていることから推して、歌集を刊行していたことも考えられるが、その版木も虫食いで損じて読み難く、また歌集も発見されていない。」

大野に版木が残っているというのは驚きだった。どこかに歌集が残っていないものだろうか。

またこの項には2枚の写真があり、「狂歌伝授誓約書」「貞国の筆跡」と題されている。

 

誓約の内容は日付と貞佐貞国の名前と落首の戒めぐらいしか私には判読できない。漢字が全然で「狂歌誓約」の前の肝心な所からして読めないのだから話にならない。掛け軸の二つの印がうちの掛け軸のと似ているような気もするが、もちろんこの写真では全然わからない。

借りて帰ったのは4冊、近世上方狂歌叢書は狂歌阿伏兎土産が入っている二十四にした。それから江戸狂歌本選集十三、これは狂歌江都名所図会が入っている。国会図書館デジタルコレクションで読めない歌が多いので見比べてみたい。三冊目は大野古文書管見 1 、ここには狂歌や大頭神社関連の文書はないが、大頭文書の3は持ち出しできないので1をゆっくり読んでみたい。最後に岩波文庫の近世畸人伝を借りた。しかし、貞佐が入っているのは続編だった。これは失敗。まあ同年代の本として言葉を探しながら読んでみたい。この4冊とともに年を越すか、あるいは年末もう一度行くかは読書の進み具合をみて決めることにしよう。


ラーメン

2018-12-10 09:46:20 | 日本語

 日本語の「ラーメン」の語源はネットで検索したらいくつかの説が書いてあるけれども、ラーメン好きの方の興味は言葉よりもラーメンの中身であって、もっともそれは自然なことだと思われるが、「ラーメン」という言葉が入ったメニューの初出はどこなのかという探求はあまりみかけない。それで3年前だったか少し調べてみた。結論を言えば、戦前の文献にはラーメンはほとんど登場しない。戦後も、昭和33年のチキンラーメン以前にラーメンを見つけるのは難しい。写真とか挿絵のようなものにメニューが描かれていないかとも思うけれど、私にはラーメンに対する愛情が足りないのか、今のところそれを探してみる情熱を持ち合わせていない。以下少し調べた過程で気になったことを書いてみよう。

 日本で最初にラーメンを食べたのは黄門様というのはクイズ番組などでよく耳にする。もちろん、ラーメンという名前ではなかったし、今調べてみると異説もあり室町時代に中華麺を食べた人がいるとか。しかしラーメンという言葉と関係ないので今回はスルーしよう。一般人が普通に食するということになると明治になってから、東京でまず流行ったのはワンタン屋の屋台のようだ。これは横浜華僑が源だろうか。そして、ワンタン屋の屋台のメニューの中に中華麺があったと思われる。大正15年「裸一貫生活法 : 生活戦話によると、

「東京では露店の立つ場所に、支那そば、ワンタン屋の屋台の出てゐない處は殆どない。」

「十円の保証金を問屋に納めさへすれば、屋台から材料一切を貸してくれて、要領を教へてくれる。」

と後半は何やらフランチャイズ詐欺みたいなことが書いてあるが、そういう元締めの問屋が複数書いてある。また、大正十四年「食行脚. 東京の巻には、柳麺に「らあめん」とルビを振ったメニューが出てくる。これは数ページ前を見ると、支那料理五百数十種の中から、日本人向きの数十種を選んだとあり、問題の箇所は雲呑麺の一種として柳麺(たけのこいりそば)に「らあめん」とルビが振ってある。注目すべきは、その2つ前にある麺類ではなく、雲呑麺の中にこれが入っていることだ。チャーシュー麺も雲呑麺の項に入っている。逆に麺類のメニューは今のラーメンからは遠いもののようだ。これは今の焼豚やメンマが入ったラーメンがワンタン屋台から分かれた名残のように思われる。しかしながら、ラーメンという言葉にこだわった時に、当時は支那そばという呼称が圧倒的であって、この「らあめん」を他で見つけるのは困難であった。内容的にはこの柳麺はラーメンの原型としてかなり有力であるけれども、言葉としてのラーメンの語源とは言いにくい。戦後のラーメンに言葉としてつながっていないからだ。

 同様に、札幌の中国人店員がラーと返事をしたからラーメンになったというのは大変魅力的な説ではあるけれど、それをきっかけとしてラーメンという言葉が札幌から広まったという形跡は発見できない。戦前において、ラーメンという言葉を見つけるのはとにかく難しい。戦前にラーメンと言ってもわかる人はほとんどいなかったのではないかと思われる。

 すると方法論としては、チキンラーメンから遡ればよい、それも終戦からのせいぜい十数年の間に手掛かりがあるはず、ということになる。40年前、私が子供の頃はラーメンと頼むと店主が「うちは中華そばじゃ」と嫌な顔をされることがあった。地方においてはチキンラーメン以前にラーメンという言葉を聞いた人は少なかったと思われる。インスタントの匂いがするラーメンという言葉を嫌がったのだろう。それではチキンラーメンという商品名は、どのラーメンから持ってきたのか。戦後の大阪でどれぐらいラーメンという言葉が広まっていたのか。大陸からの引揚者の中に「拉麺」を持ち帰った人がいたのかいないのか。しかしここも文献から調べるのは難しかった。あるいは今ドラマでやってることだし百福さんのストーリーを読めば出ているのかもしれないが、なぜかそういう本には手が伸びないのだから仕方がない。ラーメンの語源を特定するには戦後の大阪がキーポイントではないかと書くに留めて、他の方の考察を待つことにしたい。

 私が小学生高学年で食べ盛りに入った昭和40年代後半には、すでに出前一丁やサッポロ一番など鍋で作るタイプのインスタントラーメンが出ていて、チキンラーメンを食べたことはなかった。存在を知ったのは巨人の星のアニメで星一徹が丼に湯をかけてラーメン食ってるのを見てあれは何だと興味を持ったのを覚えている。カップヌードルの登場もオバQの漫画で知った。漫画家がインスタントラーメンの普及に貢献したということはあるかもしれないが、ラーメンの語源を漫画で見つけるのは難しいかな。あるいは誰か背景にメニューを書いてないものだろうか。だらだら書いても仕方ないからそろそろ終わりにしよう。現時点ではラーメンの語源はチキンラーメンと書いても半分は当たってるような気がしているのだけれど、どうだろうか。

 

【追記1】ワンタンのレシピを探してみたところ、明治の本には中々見つからず、大正十五年「手軽に出来る珍味支那料理法でやっと見つけた。上に引用した二つの本と同時期であり、この少し前にワンタンの屋台が全盛期を迎えていたのではないかと推測できる。そして、驚くべきことに、このワンタンにはメンマとチャーシューが入っていて、ネギと胡椒をかけて完成となっている。大正期の屋台でワンタンは独自の進化を遂げていて、それがラーメンの具に影響を与えた可能性もある。この時代のワンタンと中華麺は同じ具や薬味で供されて雲呑麺として同居することもあり、極めて近い関係だったとも言えるだろう。

 

【追記2】ウィキペディアのワンタンの項によると、ワンタン(雲呑)は広東語で、中国の標準語では餛飩(húntunとある。この餛飩はもちろん日本に伝わって饂飩(うんどん→うどん)になったと思われるが、「拉麺」のふるさとの中国西北部、陝西省の西安語では餛飩「ホエトエ」という発音で甲斐の「ほうとう」のルーツかもしれないという指摘がある。すると、戦前の東京の屋台の支那そばというのは上記のようにワンタンと密接な関係にあったことから、この中華麺は香港系の華僑が関わって横浜あたりから伝わったと考えるのが自然だろうか。そして戦前の屋台については、「拉麺」の二文字とは関連が薄いように思われる。もっとも、ラーメンの語源ということについては、別に中国西北部の麺打ちの技術やレシピが伝わっている必要はない。ラーメンという呼び方を誰かが伝え聞いてこちらのメニューに取り入れて、それがチキンラーメンにつながっていれば良いわけで、また戦後に語源がある可能性も大いにあることから、まだ拉麺語源説を捨てる必要はない。

 

【追記3】 「日本めん食文化の一三〇〇年」に、大正末期の支那そば、ワンタン屋台の隆盛は関東大震災の影響が大きかったとあった。ソースは書かれていないが、十分考えられる話だ。江戸の夜鳴きそばからの伝統かと思っていたら江戸時代とは違う理由で屋台が流行り、その主役が支那そばとワンタンであったということだろうか。

 

【追記4】  太宰治「葉」に、外国人の花売りの少女とワンタン屋台のあるじのエピソードがあり、チャーシューワンタンが出てくる。

 

 女の子は、間もなく帰り仕度をはじめた。花束をゆすぶつて見た。花屋から屑花を払ひさげてもらつて、かうして売りに出てから、もう三日もも経つてゐるのであるから花はいい加減にしをれてゐた。重さうにうなだれた花が、ゆすぶられる度毎に、みんなあたまを顫はせた。
 それをそつと小わきにかかへ、ちかくの支那蕎麦の屋台へ、寒さうに肩をすぼめながらはいつて行つた。
 三晩つづけてここで雲呑(わんたん)を食べるのである。そこのあるじは、支那のひとであつて、女の子を一人並の客として取扱つた。彼女にはそれが嬉しかつたのである。
 あるじは、雲呑(わんたん)の皮を巻きながら尋ねた。
「売レマシタカ。」
 眼をまるくして答へた。
「イイエ。・・・・・・カヘリマス。」
 この言葉が、あるじの胸を打つた。帰国するのだ。きつとさうだ、と美しく禿げた頭を二三度かるく振つた。自分のふるさとを思ひつつ釜から雲呑の実を掬つてゐた。
「コレ、チガヒマス。」
 あるじから受け取つた雲呑の黄色い鉢を覗いて、女の子が当惑さうに呟いた。
「カマヒマセン。チヤシユウワンタン。ワタシノゴチサウデス。」
 あるじは固くなつて言つた。
 雲呑は十銭であるが、叉焼雲呑(ちやしゆうわんたん)は二十銭なのである。

 

ここまでの流れで注目すべきはラストの一行であるが、私は太宰も少しファンなので長めに引用させてもらった。もっとも「葉」は私には難解で、この断章も引用部分とその前の部分がどうつながっているのか、よく理解できていない。