阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

狂歌家の風(37) あとの月

2020-10-29 21:01:20 | 栗本軒貞国
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、 今日は秋の部から一首、



          十三夜

  あとの月に引たる駒のまくさともならて嬉しきけふのさや豆



月夜に駒を引く、といえば十五夜の望月かと思ってしまうがここは十三夜、馬を出して来たのは「秣ともならで嬉しき」と豆名月のさや豆に結び付けるためだったようだ。

今夜は十三夜、しかし我が家では何もしない。子供の頃から、十三夜に何かしたという記憶はない。十三夜を知ったのはもう十代後半だったと思うがテレビのニュースで天皇陛下が十三夜のお月見をなさったというのを見た時だった。狂歌でも歌の数としては十五夜の方が断然多く、それに十三夜の方は並べるとやや単調に見える。上方狂歌からざっと引用してみよう。


雨さへふりてかみなりさはく名月は豆一口に喰ふはかりかな(家づと・貞柳)

つくつくと見れはとこやら三日月のおさなかほある十三夜哉(狂歌かゝみやま・栗山)

糸数の十三の夜の月を見てことちに落る雁かねもあろ(同・千樹)

いもよりも豆ある岸へわたし船さすや今宵の十さうの月(同・花鈴)

一すちの雲の帯にそ照りくもるこや脇指のさや豆のつき(同・朝三)

風の手か雲のさやをははしきのけそらはさなから青まめのつき(同・木端)

きせ綿のやうなる雲のあひへ出て今日をさかりの菊の名月(同・木端)

めつるともむさと老とはならしかしいつもまめにて見る後の月(狂歌手毎の花・詞海斎輪田鷹)

との雲の底にあるそと暮る間を待かねそする味噌豆の月(狂歌つのくみ草・栗好)

秋の夜のつき歩のこまの十三夜今宵のこの字に頓てなり金(狂歌溪の月・杜陵)

米のめしはいつものことゝ豆くふてあかすは後の月夜也けり(狂歌千種園・繁雅)

豆くふてけふ見る月は年越に老となるてふえにしあれはや(同・茂喬)


並べてみると、やはり豆にからめた歌が多い。その他では二首目は三日月の童顔を残しているとか(活字のテキストは「十三夜或」となっていたが意味が取れないので改めた)、三首目は琴の十三弦、四首目は十三の渡舟、七首目は菊の名月、十首目は将棋の駒、この歌は貞国の歌と同じように駒から十三夜となっている。私が知らない十三夜に駒を引くお話があるのかもしれない。そして歩の「なり金」が「この字」になっているのは誤写だろうか。調べてみると「今」を崩した字であったと書かれた物もあり、「この字」で良いのかもしれない。これで悩んでいたらせっかくの十三夜の月が沈んでしまうので、あとは将棋の好きな方にお任せしたい。

このように十三夜といえばまずは豆の名月、貞国もありふれた歌にならないように、まぐさを持ち出してひとひねりしたのかもしれない。

十三夜で検索すると「片見月」あるいは「片月見」という言葉が出てくる。十五夜と十三夜を片方しか見ないと縁起が悪いという意味のようだ。樋口一葉の「十三夜」にも出てくる言葉で、吉原の遊女が両方の月見に来てくれと客に言ったのが起源という説がある。「吉原狂歌本三種」から関連の歌を抜き出してみよう。


うらに来る客をよろこぶ仲の町もてはやすらん後の夜の月(狂歌吉原形四季細見・市住)

片月見させしとこよひ腕つくに鬼のすたける羅生門河岸(狂歌作者細見・吉路)

かならすと廓の月見に客人を招く禿のすゝきかんさし(同・研安)


三首目のように、必ず来てくれと月見に招いていたのは事実のようだ。そして二首目の羅生門河岸は吉原の一角ながら客引きがいて片腕つかんで引き込むことから羅生門の名がついたとある。「片月見させじ」とは随分勝手な理屈だけれど、このあたりが片月見の起源なのかもしれない。「片月見」はこの一首しか見つからなかったが、吉原起源は十分あり得る話かもしれない。羅生門で鬼女の片腕を切り落としたという伝説から、羅生門河岸と片腕がセットになった歌も二首あった。月見と関係ないが引用しておこう。


片腕とたのみかひなし今宵しも月のかたふく羅生門河岸(同・福成)

片腕とたのみし連をみはくりて引揚らるゝ羅生門河岸(同・水鳥堂)


片月見について守貞謾稿 には、

江戸ノ俗、今日モシ他ニ行キテ酒食ヲ饗サルヽカ、或ハ宿スコトアレバ、必ラズ九月十三日ニモ再行テ今日ノ如ク宿スカ或ハ酒食ヲ饗サルヽ事トスル人アリ、之ヲ為サザルヲ片月見ト云テ忌ム事トス

とあって、十五夜に他所に宴会に行ったり泊まったりしたら、十三夜にも同じことをしないと片月見になるとある。これも吉原の理屈だと十三夜も私の所に来てねということになるのかもしれない。一葉の十三夜でも、十三夜に作った団子を持たせて差し上げようと思ったけれど、「十五夜にあげなんだから片月見になつても悪し 」とある。十五夜と十三夜と同じように振舞わないと片月見になるということだろうか。一葉は吉原の近くに住んで「たけくらべ」の中で遊女になる運命であった少女美登利を書いた。この片月見の考え方も、吉原の風習を踏襲したものかもしれない。もっとも、十五夜と十三夜は一ヶ月も離れていない。十五夜と十三夜で違う女性と過ごすというのは、縁起が悪い以前の問題と思うが、どうだろうか。

こがれて胸を焼芋の

2020-10-25 10:57:35 | 狂歌碧葉集
三世久鳳舎桐丸詠「狂歌碧葉集」1930年刊、今日は恋の部から一首、


         寄芋戀

  夜もすがらこがれて胸を焼芋のほつこりとして待つ身侘しも


「ほつこり」については二年以上前だけれども「ほっこりしない話」に書いた。簡単におさらいしておくと、江戸時代には物理的に加熱して暖かいという場合に「ほつこり」が使われて、特に湯気、蒸気が重要な要素であり、上方の蒸し芋売りは「ほつこりほつこり」と売り歩いた。温泉でほつこりという用例もあった。明治以降はあまり使われなくなって国語辞典からも姿を消したが、平成になってから誰が流行らせたのかわからないが再び使われるようになり、特に「心温まる」という意味での用例は平成に入ってからの特徴である。これとは別に、京ことばでは疲労感を表す「ほっこり」という言葉もあったようだ。

であるから現代ではこがれた胸をほっこりとは表現しない。また、古くは蒸し芋がほっこりであったはずだがここでは焼芋がほっこりになっている。芋売りの「ほつこり」あるいは「ほこほこ」は上方狂歌にも時々出てくる表現であった。「ほっこりしない話」に引用した狂歌をもう一度あげておこう。


琉球のいもにはあらぬ里いもの名月ゆへかほつこりとせぬ (華産) 

さかほこかいやほこほこのさつまいも荷をさしおろしうる淡路町  (紫笛)

風あらく吹たつる夜は芋売のほこほこといふ声も寒けき  (栗洞 )


それで知識として「焼芋のほつこり」と続けたのか、それとも桐丸の頃にはまだ「ほつこりほつこり」の芋売りの声が残っていたのだろうか。古い表現を引っ張り出したのか、それとも、ほっこりはまだ使われていたのか、書籍検索しても現代の心温まる用例ばかり出てきて、大正や昭和の「ほっこり」を探すのはむずかしい。ひとつ、「水都大阪の民俗誌」に、

薩摩芋売り「ほつこりほつこり、ぬくいのあがらんかいな、ヤアほつこりじやアほつこりじやア」 

というのが出てくるのだけど、検索画面だけだといつ頃の話なのかわからない。

という訳で、「こがれた胸を焼芋のほつこりとして」は古い言葉を引っ張り出してこがれた胸とつなげたのか、それとも当時の人にはすんなり納得できる表現だったのか、そこがわからないとこの歌の評価は難しい。もし後者だとすると、京ことばの「ほっこり」と少し接点があるような気もする。とにかく桐丸の時代の用例を紙の本で探すしかないようだ。もし見つけた方がいらっしゃいましたら、コメントでご教示ください。

狂歌碧葉集

2020-10-22 20:04:55 | 狂歌碧葉集
先日ヤフオクに玉雲斎貞右の本が出品されていたのだけれど、落札できたのは貞右の丸派の流れをくむ都鳥社の三世久鳳舎桐丸の狂歌碧葉集、昭和5年の出版である。三世桐丸は明治11年(1878)大阪市の生まれ、没年がわかっていないことから、国会図書館デジタルコレクションの同じ本は著作権保護期間(作者没から70年)の確認中となっている。長命であればまだまだ保護期間が残っている可能性もある。活字の本の中に十首余は絵入のくずし字で面白いものも多いのだけど、著作権が残っているかわからないということなので、ここに載せない方が良いのだろう。歌だけをぼちぼち引用していきたい。

まず、作者の三世桐丸の三世というのを調べてみた。初代は明治18年に都鳥社が創設された時の主要メンバーであった久鳳舎桐丸、三世桐丸の師の都柳軒桐丸が二世ということのようだ。三世桐丸を名乗る前は都草庵秋丸という名で野崎左文の「狂歌仕入帳」やこの碧葉集の序も書いている都花園御代丸の「狂歌獨稽古」に名前が見える。碧葉集はもちろん大阪がホームながら、東京の地名が出てくる歌も入っている。今日は、雑の部から一首、


        空中旅行

  やすやすと無事につくしへ飛行機でつかれも知らぬひがへりの旅


調べてみると昭和4年7月というからこの歌集の出版直前に東京ー大阪ー福岡の定期便が就航したようだ。その前には大阪別府間にはあったようだが、大阪福岡は確認できなかった。実際に日帰りの旅に桐丸が行ったのか、広告か記事を見て詠んだのか、この歌だけではわからない。前に左文の飛行郵便の歌を紹介したが、東京大阪間の郵便試験飛行が行われたのは大正10年、それから十年の間に大阪博多間で日帰り旅行という時代になったようだ。乗り心地はどうであったろうか。私は幼少の頃、広島松山間を飛んでいたヘロンという小型のプロペラ機に乗ったらガタガタ揺れて大泣きした記憶がある。上記の定期便に使われたスーパーユニバーサルという飛行機はウィキペディアに乗客6名とある。やはりそんなに快適だったとは思えない。大阪市勢要覧昭和6年版によると大阪福岡間は3時間、料金は35円とある。昭和6年の小学生教員の初任給が45円から55円というレファレンスがあり片道35円は今の10万円前後の感覚だろうか。どうも「やすやすと」という感じではなさそうだ。

歌としては「無事につくし」ぐらいしか狂歌らしいところがないのだけれど、こんな感じで目新しい歌を紹介していきたいと思う。



濱松の音はざゞんざ

2020-10-09 13:25:07 | 家づと
鯛屋貞柳「家づと」(1729年刊)、今日は神祇の部より一首。 


        住吉にて

  濱松の音はざゞんざ住吉の岸より遠(ヲチ)のあわち嶋臺




(ブログ主蔵「家つと」10丁ウ・11丁オ)


まず、この歌は神祇の部に入っているけれど、住吉社参拝とは書いてなく、貞柳翁狂歌全集類題では雑の部となっている。また、貞柳翁狂歌全集類題では「あはちしま」となっているが、このテキストでは次の歌とも「あわち嶋」と読める。



(ブログ主蔵「貞柳翁狂歌全集類題」52丁ウ・53丁オ)


歌の内容は、「ざざんざ」という松風の音を聞きながら住吉の浜から淡路島を遠望している。この「家づと」を読むにあたって立てた仮説、貞柳の歌は浄瑠璃や俗謡など多様なリズムを取り入れていて、そのために、五七五七七を一定の調子で読もうとする我々には難しく感じられるのではないか。この歌も最初の「濱松の音はざゞんざ」は狂言などに出てくる小唄であって、それを歌っておいて淡路島が遠くに見えると詠んでいる。さらに言えば謡曲「住吉詣」の一節「住吉の浦より遠の淡路島」も取り入れていて、二つをつなげただけの歌のようにも思える。しかしこのスタイルで貞柳は多くの門人を獲得して上方狂歌の一時代を築いたともいえる。当ブログでは、貞柳のリズムを探るという我が実力からすると少々無謀かもしれない目標を立てている以上、出典がわかったものは取り上げていきたいと思う。実際、これは間違いなく流行歌の類だろうと思っても何なのか見つからないものも多い。この歌は幸いにして狂言に多く出てくることから実際の節回しを動画で確認することができた。あとで引用したい。

さてこの「浜松の音はざざんざ」は検索してみても、

  ざざんざ 浜松の音はざざんざ

これ以上の長さでは出てこない。狂言でも、お酌や一杯飲んだあとにこの一節だけ、また検索してその演目に入っているとあっても和泉流などの本には記述が無い場合もあり、アドリブ的に挿入されてきた小歌のようだ。普通に考えるともう少し長い歌謡があってそれを狂言が切り取ったと推測したいところだけれど、この前後を見つけることはできなかった。

この「浜松」は普通名詞で、「浜松の音」は、浜の松風の音ということになる。実際淡路島を見ているのだから、地名の浜松ではない。一方、静岡県浜松市には、足利将軍義教が富士見下向の折にこの歌を謡ったとか(曳馬捨遺 )、家康の酒宴の場で歌われたという説もある。浜松市のざざんざの松は歌枕となり、ざざんざ織という織物もあって、ざざんざの由来となる伝承が残っている。

それでは、実際どのように歌われたか、動画を見てみよう。

【狂言】どうしても酒が飲みたい二人の工夫|棒縛り  
(6分10秒ごろから「ざざんざぁ 浜松の音はざざんざぁ」そのあと笑い)


日本舞踊 第三回「茶壷」藤間勘十郎  
(4分45秒ごろから「ざざんざぁ 浜松の音はざざんざぁ」)


狂言では、やはりお酒にからめて謡われて、そのあと笑い声が入って陽気に酒宴が盛り上がるという場面が多いようだ。この節回しについては知識がなくて解説できないけれど、とりあえず貞柳の歌もこの調子で歌ってみていただきたい。今のところは貞柳の色々な歌についてリズムを取って歌ってみる、これを心がけていきたいと思う。

さてもそのゝち

2020-10-02 09:46:13 | 家づと
鯛屋貞柳「家づと」(1729年刊)、今日は哀傷の部より一首。


        近松門左衛門一周忌

  さつするに今は安楽国姓爺(コクセンヤ)扨も其後便宜(ビンギ)なけれは


(ブログ主蔵「家つと」16丁ウ・17丁オ)


近松の命日は享保九年の十一月二十二日、これは新暦に直すと正月になるため、西暦表記では翌年の1725年没と書いてある。ややこしいことだ。したがってこの一周忌は享保十年の冬の歌ということになる。安楽国(極楽浄土)の国に続けて近松の国性爺合戦を詠み込んでいる。近松の時代は曾根崎心中などの世話物よりも、国性爺合戦など時代物の方が大当たりとなったようだ。便宜(びんぎ)は手紙、便りのことで、その後何も言ってよこさないから極楽で楽しくやっているのだろう、ぐらいの意味だろうか。「扨も其後」は浄瑠璃で場面が変わる時に使われる言葉で、近松の辞世からの引用と思われる。


       もし辞世はと問人あらは

  それそ辞世去ほとに扨もそのゝちに残る桜か花しにほはゝ
          
                (近松門左衛門画像辞世文


この歌も文献によっては「それぞ」が「それ」になっていたり、「さる程に」の「に」が抜けていたり「桜が」が「桜の」になっていたりするようだが、この画像辞世文は自筆ということなので、一応これが決定版と考えられる。このテキストだとネットで出てくるような辞世などどうでも良いという解釈にはならないのかもしれない。

前回、家づとのテキストを購入した時の回で、貞柳はリズムの取れない歌があって難解と書いた。我々は三十一文字を五七五七七のリズムで読もうとするけれども、貞柳の歌の中には我々のリズムにはまってくれないものも多い。この近松の辞世も二句目の「さるほどにさても」が何とかならないかと思ってしまう。ところが今回は近松の歌であるから、ここは義太夫節調で読んでみたら、わりとすんなりやり過ごせた。そう読むのが正しいという訳ではないが、貞柳の歌のリズムを探る上でもひとつのヒントにはなるのではないかと思う。文楽は私にとって苦手な分野ではあるけれども、貞柳には浄瑠璃芝居を見て詠んだ歌もあり、少し読んでみないといけないのだろう。

そういえば、栗本軒貞国の浄瑠璃の仏の回で引用した人倫狂歌集の歌に、


  鶯より田舎生まれの竹本はふしになまりの抜けぬ浄るり  季澄


というのがあり、他にも浄瑠璃かたりに対して好意的でない歌が目立つ。江戸っ子にとって上方の義太夫節は受け入れにくい所があったのだろう。江戸狂歌人が貞柳を毛嫌いしているのも根は同じなのかもしれない。

「狂歌手なれの鏡」には貞柳の歌をふまえて詠んだ木端の歌がのっている。


     柳翁の近松門左衛門一周忌に察するに今は安楽
     国姓爺扨も其後便宜なけれはと読るを賞吟して

  とふらひの哥はたい屋の貞しりう嘸や満足ちかまつるらん



(ブログ主蔵「狂歌手なれの鏡」9丁ウ・10丁オ)


賞吟とか言いながら、木端師はダジャレを言いたかっただけのような気もする。さぞや満足した近松も、この歌を見て一転激怒だったかもしれない・・・