阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

山々うれし

2022-03-25 20:25:33 | 手紙
前に貞国の「狂歌家の風」から「花」と題した二首について書いた時に、タイトルの「山々うれし」が入った歌があったのだけど、もう一首の「花のまさかり」に重点を置いたため中途半端に終わってしまった。新しい用例を見つけた事でもあるし、少し書いてみたい。まずは、貞国の歌、



         花

  きかゝりもなくて山々うれしとは花見にかきる言葉なるらん



気がかりも無く「山々うれし」と言えるのは花見に限るといっている。前回書いた時は落語「文違い」から「山々うれし」の用例を紹介した。もう一度あげておくと、

「あらいやだ、女の手紙だよ、まァいやだねえ、こんな手紙(もの)を持ってるんだよ・・・締麗な筆跡(て)だねえ、まァ・・・ェェひと筆しめしまいらせ候、先夜はゆるゆるおん目もじいたし、やまやまうれしく存じまいらせ・・・あらいやだ、こんな女と逢ってるんだねエ。だから男ってものは油断ができないよ」 

生き生きとしたセリフが面白いところだが、ここでは後朝の手紙の中で「山々うれし」とあった。そして最近手紙文のお手本のような本をいくつか読んでみたところ、恋文を集めた二つの本に「山々うれし」が出てきた。次に紹介する画像は二冊の別々の本であるが、残念ながら二冊とも表紙が痛んでいて書名を読み取ることはできていない。






最初の画像は「末を契る文」と題して、

「此間はゆるゆる御目もじ致しつもる御話致し山々うれしく」

とあり、二つ目は「あふて後に遣はす文」に、

「ゆふしはよき折から御ゆるゆると御けんいたしやまやまうれしく」

とあって、上の落語の例と同じように後朝の手紙の中で「山々うれし」が使われている。「ゆふし」は「ゆふじ」だろうか。前回書いた時には用例ひとつだけであったが、こうしてみると男女が会った後の文に「山々うれし」は決まり文句のように使われていたようだ。すると貞国の歌は、恋愛だったら山々うれしと書いても全く気がかり無しとはいかないけれど花見ならば、ということだろうか。「あひみての後の心にくらぶれば」の歌と似たような趣向かもしれない。ここであとひとつ残る問題としては、貞国の時代の人は桜が咲いた山を見上げて「山々うれし」と言っていたのかどうか、次はこちらを見つけないといけない。

今回のお話は一応これでおしまい。しかし、お気づきのように、手紙文の上段に細かい字で何やら良からぬことが書いてある。せっかくだから少し紹介してみたい。以下は閲覧注意と申し上げておきます。





まずは、最初の画像の上段には体位みたいなことが書いてあって、これを書き出すのもアレなので別の個所の画像、



ここには秘伝の薬「緑鶯膏」の調合が書いてあって、そのあとに、

「○此くらいの丸薬となし女のゆだんを見すましふゐに玉門へ二三りうおしこむべし其とき女きもをつぶし又ははらをたつをしつかりだいてゐていろいろとくどくべしふいの事なればはじめは不承知なれど玉中のあたゝかみにて丸やくとけて薬力まはると」

これはもちろん現代では犯罪だけど、しかし女性がちょっと油断したぐらいではとても実現不可能だろう。江戸時代だとこういう事もあったのだろうか。

二つ目の手紙の上段は「夫婦和合の事」という題で、ラスト2行に、「こゝをもつて女はずい分よがるべきこと肝要(なるべし)」とある。これはこの「夫婦和合の事」で繰り返し説かれていて、最初の部分を見てみると、




「それ夫婦和合の道は人間第一の根元家内繁昌の基なり是閨中の一儀にのみ和合の道そなはれり譬(たとへ)女見にくききりやうにもせよ交合のときよくなきよがりて女のかたより口をすひ大あせをながしもてなすときは男喜悦しそれよりはきりようにかまはずいかに顔かたちうつくしきとても肝心の一儀間ぬけにて石仏をいだき寝たるやうなるは興さめて男ふたゝびしたふ事なしさるにより人の女房たるものはおとこの気に入るやうに一儀のときことによがるべき事肝要なり」

とある。この本には所有者の書き込み「N県K村○○○○女」とあって娘さんに持たせたのだろうか。これが江戸時代の一般常識かどうかはわからないし、当方あまり元気がないのでこの手の本をもっと調べてみようとは考えていない。この本に書いてあっただけかもしれないということ、ご理解いただきたい。

豊島嘉兵衛編「狂歌集」

2022-03-22 21:06:15 | 栗本軒貞国
 国会図書館デジタルコレクションで狂歌の本を読み進めるうちに、タイトルの狂歌集に、「徒然の友」に載っている貞国の贈答歌と似た歌があった。引用してみよう。


   来て見れば名も廣嶋にひろひろと
    七ツなからにねておられけり

   はつかしやいなか木綿のおりわるふ
    おまへにめをはあけてもろふた


この狂歌集の編者、徳山村の豊島嘉兵衛氏は明治初年の山口県においては屈指の豪商であったという。ウィキペディアの徳山藩の項に名前があるから幕末の生まれなのかもしれない。狂歌とのかかわりについてはわからないのだけど、この狂歌集は作者名の入った歌は一つもなくて、題や詞書は数首に入っている。この二首もこれだけでは状況がわかりにくい。次に徒然の友の「貞国のはなし」を引用してみる。


    ○貞国のはなし
廣島に貞國(ていこく)とて狂歌(きようか)の名人ありしが或日の夕方一人の狂歌師尋ね来りけるに折節(をりふし)貞國うゝた寝(ね)してありければ

 貞國と名は廣島にはたばりて七つ半(なから)でねてをられけり

とよみたりしかば貞國目をさまして返しに

 はづかしやいなかもめんのをりわるふ目をばそなたにあけて貰(もら)ふた


ここでは、最初の歌の「はたばりて」という言葉に着目して貞国は織物の縁語を畳みかけて返している。徒然の友には出典の記載はなく、この歌が本当に貞国作かどうかは確信が持てないのだけど、軽快に縁語を駆使する貞国初期の作風に似ているとは言えるだろう。

一方、豊島氏編の狂歌集では、はたばりても貞国も出てこないが、広島という地名は入っている。また、二首目も伝言ゲームのように語句や語順が異なっている。これだけではどちらが先とか決められないのだけど、狂歌集の方には他にも私が知っている歌に似ているけど微妙に違う歌が入っている。例えば、

   
   達磨とのちとこちむきやれ世の中は
    月雪花に酒と三味線

   世の中に酒とおんなはかたきなり
    とふそかたきにめくりあひたし


など、南畝の歌と少し違ってるような気もする。これをどう考えるか。また、この狂歌集には南畝の他、貞徳、貞柳、貞佐、一休道歌などが確認できるが、この本が出版された徳山など周防を詠んだ歌もある。


   とく山の富はうとんかそうめんか
    ひへたともいふのひたともいふ

   そろはんの橋は二一天さくか
    人けんわさとは誰か岩國


「二一天作の五」といって、旧式のそろばんの割り算の九九のようなものらしい。昔は掛け算だけでなく割り算も覚えなければならなかったようだ。算盤橋といえばもちろん錦帯橋のことだ。この他、フグを詠んだ歌など、周防の人が作った狂歌も多数入っていると思われる。貞国の周防の弟子と編者の豊島氏の間に何らかの接点があって、貞国のエピソードを伝える歌が入ったとも考えられる。もう一度、周防の柳門の系譜が書いてある栗陰軒の本を当たってみないといけない。

はんなりと派手な小袖で

2022-03-10 21:10:26 | 歌謡端唄小唄など
貞柳の狂歌は流行歌謡などからの引用が多いと考えられるのだけれど、上方の歌謡を見つけるのは中々難しい。最近ヤフオクで「冠附化粧紙」(かさづけけせうがみ、文政九年)という本を買ったのだけど、残念ながら今回も貞柳につながる歌謡は見つけられなかった。冠付とは最初の五文字を題として出してそれに続ける雑俳とあって、これは流行歌謡ではなくて創作だったのかもしれない。勉強不足だった。しかしながら、せっかく手に入れた本であるから紹介してみたい。まずは狂歌でも書いた「はんなり」から。

       
      はんなりと

  派手な小袖て賀振舞(かふるまひ)
  春の気をもつ冬の梅
  萩の亭(ちん)からのぞむ月



(ブログ主蔵「冠附化粧紙」13丁ウ、14丁オ)

読みにくくなるのでフリガナは一部省略した。冠付であるから題からつなげて読んでいただきたい。

さて、狂歌ではんなりについて書いた回で論じたように、上方狂歌において「はんなり」はお茶を入れた時の色香のはっとするような鮮やかな明るさを表現していて、語源の「花あり」は出花、入花の花とするのが有力と考えられる。京都では鮮やかな色彩の着物などに使われることも多くて、狂歌での煎茶の色など、黄色系の明るさをはんなりと表現するケースが目につく。したがって、最近のテレビ番組などにみられる、ぼんやりおぼろに霞がかかったような情景をはんなりというのは、ほんのりなどとの混同と考えられる。この記事に出てくる、はんなりイコール派手に違和感がある方はそちらに引っ張られていらっしゃるようだ。

今回の冠付も、「はんなりと派手な小袖で賀振舞」となっていて、鮮やかな色彩の小袖と思われる。また、「春の気をもつ冬の梅」「萩の亭からのぞむ月」も「はんなりと」がかかっている。おそらくは一行ずつ題に続けて読むのではないかと思われる。これらも狂歌の回で論じたように「はんなり」特有の暗から明への心情の動きがよく表れている。

もうひとつ私が持っている蓼派の小唄の本にも、はんなりで始まる一節がある。引用してみよう。


      はんなりとした

  はんなりとした染浴衣 同行二人でふだ
  らくや岸打波の裾模様これや廻礼
  歌念佛さゝよいよいよいよいよいやさ



(ブログ主蔵「小唄集(蓼派)」15ウ、16オ)

こちらでは「はんなりとした染浴衣」となっていて、どのような色彩なのかはわからない。「ふだらくや岸打つ波」は西国観音の一番札所の御詠歌で、巡礼だとするとそんなに派手な浴衣ではないような気もする。ところが、「はんなりとした」を書籍検索にかけると、別の小唄集「小唄うた沢端唄全集 」にも同じ小唄が出てきて、歌詞が少し違っている。


      はんなりとした 

  はんなりとしたはですがた、同行二人補陀落や、岸うつ波の裾もやう、これもじゆんれい歌念佛(うたねぶつ)、サヽよいよいよいよいよいやさソレ


ここでは、「はんなりとした派手姿」となっていて、頭注にも「はんなり ぱつとした派手なこと 」とある。ここまでは問題ないのだが、「歌念仏」の頭注に「賣色比丘尼の一種」とある。この小唄はそういう歌なのだろうか。ネットでざっと調べてみたところでは、歌念仏自体に売春の匂いはしないのだけど、歌比丘尼という僧形の女性は歌念仏も歌って売春もするようになったとある。こちらの小唄では、歌比丘尼を念頭にはんなりとしたと歌っているようだ。京都の番組でなんでもかんでもはんなりと言いたがる御仁は、派手ないでたちの春をひさぐ女性もはんなりと表現できることを知っておいた方が良いと思う。すると上の蓼派の方はこういうどぎついイメージを薄めるために染浴衣に改めたのかもしれない。話が思わぬ方向に行ってしまったが、小唄などの性格を考えると仕方ないのかもしれない。

未知の領域というか、藪から蛇が出た感じもあるけれども、「冠附化粧紙」からは、もうひとつ紹介したい冠付がある。次もお付き合い願いたい。

阿武山(あぶさん)を語る(補7) 広島城天守から

2022-03-07 21:25:08 | 阿武山
この阿武山のカテゴリーの8回目で、広島城築城の際に阿武山を四神相応の玄武に設定したという説を紹介した。それで一度広島城の天守閣から阿武山を眺めてみたいと考えていたが、前にも書いた通りそのあたりに行くと中央図書館で時間の許す限りの読書になってしまって中々実現しなかった。

チャンスが訪れたのは去年の十月二十九日、午前中に父が入院していた本川町の広島記念病院で中心静脈栄養の点滴の講習を受けた。父は瘦せすぎたために血管が十二指腸を圧迫して食事がとれなくなっていた。もう長くないことはわかっていたけれど、退院したいという父の希望を叶えるために先生や看護師さんが頑張って下さっていた。コロナで面会禁止だったが、この日は父の病室に入ることを許されて点滴の交換を習った。退院後は再び介護中心の生活になり、自由な時間は少なくなるだろう。そこで、このあと広島城へ行ってみることにした。父は意識がはっきりしない時間もあったけれど、帰り際には手を上げて応えてくれた。次は、退院前カンファレンスで来院する予定だった。

病院を出て紙屋町まで歩いてきたらちょうど正午前、昔よく碁会所に通った千代田生命ビルとは今は言わないのだけど今のビル名は憶えてない、とにかくそのビルの地下街よっちゃんで肉玉うどん食ってから再び地上を歩いて広島城へ。広島城の公園部分に来たのは九年ぶりだ。九年前は早朝に広島ビッグアーチで待機列の場所取りをしたあと、がんで赤十字病院に入院していた友人の見舞いに行くまでの時間調整で広島城の桜を眺めた。なんとなく状況は似ているかもしれない。天守閣に登るとなると、おそらくは小学生の時以来、五十年ぶりではないかと思う。



天守の中は、中学生の団体がいて賑やかだった。途中の展示をゆっくり眺める気分でもなかったが、古文書の類は中学生たちが集まってないこともあって時間をかけて読んだ。私が調べてる狂歌は貞佐を紹介してあった。お目当ての第五層に登って、中学生がいない隙に北側の写真を撮る。






広島城からみて玄武は何かと聞かれたら、まあ阿武山と答えるしかないだろう。他の候補はない。確かに北側中央に阿武山が居座っている。前に書いた時は理解が十分ではなかったけれど、天守の位置を決めるために阿武山が使われた訳ではない。天守の位置が決まった後で、阿武山と天守を結んだラインを延長してデルタ内の道を作ったということのようだ。

以前、基町クレドから眺めた時は、お堀のラインの延長は阿武山山頂から少し東にずれているように見えた。天守から眺めたのでは、そのあたりの事は全然わからない。基町高校校舎の南北のラインはむしろ阿武山山頂をぴったり向いているように見えた。西側の中央公園ではサッカースタジアムの建設予定地から被爆遺構が発掘されたとかで、大きなブルーシートで覆われていた。それが気になって、あとの三神の写真を撮るのを忘れてしまった。また行かないといけない。

実はこの十月二十九日の夜、病院から電話があり、父の血圧が急に下がったからすぐに来てくれとのことで急きょタクシーを呼んで再び病院へ。個室での付き添いを許可されて病室で七泊、八日目の十一月五日の夕刻、父は旅立った。広島デルタから眺める阿武山の姿に父の最後の八日間の思い出が加わった訳だが、小さい頃から眺めてきた阿武山というのは私にとってそういう役回りの山なのだろう。あれから四ヶ月、今日はやっと十月二十九日を振り返ることができた。自分は果たして死ぬ何日前まで阿武山を眺めることができるのか、それはまあ考えても仕方のないことだ。