阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

59

2022-08-14 17:36:32 | 父の闘病
59歳最後の一日である。前にも書いたが、還暦のお祝いはスルーとさせていただきたいので、今日のうちに一年前のことを少し書いておきたい。

去年の8月15日は日曜日であった。この日はサッカーのクラブユースU-15の全国大会の初日であって、私が応援しているサンフレッチェ広島ジュニアユースの経過を追うのが毎年の楽しみであった。それに加えて、瀬戸内高校のインターハイ、夜は愛媛FCのタクムの試合もあって、自宅で父の介護をしながらチェックする予定だった。

ところが、前日の夜中に父は食べたものをもどして、朝食もまたもどした。コーヒー色で、素人目には血ではないかと思った。訪問看護ステーションの時間外の番号に電話をかけて説明したら、しばらくして担当の看護師さんから電話があった。日曜ということで策は限られるのだけど、当番医に行くよりも、前に入院していた県病院に救急車で行くことを勧められた。父は県病院で咽頭摘出の手術、胸水のドレナージ、尿が出なくなった時も入院中であったから、新しく別の病院に行くより話が早いだろうと、すでに県病院に電話をかけてあるとのことだった。父は自分のことは自分で決めると常々言っているからそのまま伝えたら、苦しい表情をしながらうなずいた。

119番に電話して説明したら、「県病院に連絡済みなんですね」と念を押された。コロナもあるから、ここが重要なんだろう。そのあと今から救急車に乗るとツイートした時刻は9時半過ぎだった。私と母も救急車に乗って、5分ぐらいあれこれ聞かれたあと出発、県道に出るまでサイレンは鳴らさなかった。動き出したあとも、これまでの経過とか色々聞かれた。県病院までは道がすいていれば最短45分ぐらいのところを30分で着いた。乗り心地は良いとは言えなかったがこれは仕方がない。コロナ以前に父が喉頭がんで入院した時には毎日のように県病院に通っていたが、救急車が着いたところは見覚えのない建物の裏の入り口、お礼を言ってあわただしく父を追って建物の中に入って保険証と原爆手帳渡して、あちらでお待ちくださいと扉をくぐったら胸水の時に来た救急外来の待合室だった。救急外来の裏に救急車が着いたとこの時理解した。

しばらくして救急外来の当番の若い先生がいらっしゃって、MRI検査と、おそらくは入院になるからPCR検査をする。結果が出てから入院になるので2時間ぐらいかかると言われた。私も母も朝から何も食べていない、時間のある時にと院内のコンビニでおむすび買って食べ終わった頃だっただろうか、内視鏡内科のベテランの先生がいらっしゃって説明があった。

診断は、上腸間膜動脈症候群という聞きなれない病名だった。父は痩せ過ぎてしまって脂肪がなくなったせいで、十二指腸が血管にはさまれて圧迫されて食べ物が通らなくなっているという。肥えたら治る、と言われたが88歳の父にとってそれはかなり難しいミッション、点滴のみで生きることになるかもしれないと言われた。

次に看護師さんが来て、入院申請書とレンタル用品の記入。もう何回も県病院に入院しているからこれは慣れたものだけど、私の年齢はこの日が誕生日だから59と書いた。誕生日当日に新しい年齢をまず入院申請書というのは、できれば避けたかったものだ。

PCR陰性確定を待って、父がいる救急外来の部屋に通された。チューブを鼻から入れて、胃の中にたまっている液体を出すようにしてあって、コーヒー色がたくさんたまっていた。そこにいらした先生によると、血ではないと言われた。父は普通に筆談できていて少し安心した。

入院は今までと違って南病棟だった。看護師さんとこれまでのことなどをお話ししたが、日曜ということもあって先生のお話は明日以降ということになった。ベッドに移る時に留置バルーンから激しく尿漏れがあったみたいですぐに交換したと言われた。もちろんコロナで病室には入れず、母と私はここで病院をあとにした。経過を弟に電話で説明したときに、大雨で芸備線は止まっているからバスで帰れと言われた。そのようなことを考える余裕もなかった。母もここでやっと落ち着いたのか、私の誕生日だから何か買って帰ろうと言った。それでバスだと不動院で乗り換えるところをその前に一度八丁堀で降りて次のバスまでの12分の間に、むさしで私と弟には若鶏むすび、母は俵むすび、モーツァルトでショートケーキを買った。誕生日を祝うという心境ではなかったが、つらい一日であったから少し気晴らしにはなった。

家に帰ってツイートしたのが17時半、今まで緊急入院した時よりも早く帰れたのは病室に入れなかったからであろう。夜は愛媛FCのタクムの試合をDAZNで楽しんで、ジュニアユースの結果をチェックしたら2点取って勝っている。毎年書いている私の誕生日の得点者を、いつも通りツイートした。プロになった人だけフルネームにして、ここにものせておこう。


2012  ケイタ河3、山根永遠、タケ
2013 ヨシト
2014 藤原悠汰、トモ、川井歩、オオイシ、リクト
2015 (トモ3、カンジ2)この年は日程変更で試合がなく、ミニ国体を観戦)
2016 ダイスケ2、ハヤテ2、シロミズ
2017 棚田遼
2018 棚田遼
2019 リョウガN
2020
2021 アラシ、ゆいと


応援している選手たちのがんばりで、夜はひといきつくことができた。

そのあとは、父の担当になった内視鏡内科の先生は体の向きを変えるとか色々やって下さって退院の日も決まったのだけど、退院は二度キャンセルとなり、転院先の広島記念病院でも中心静脈栄養のポートを作って、また在宅専門の先生にお願いするなど退院の準備して下さったがやはり退院の日に悪くなって、父が家に帰ってきたのは11月5日、心臓が止まったあとのことだった。喉頭がんから3年余りの間、医療の現場の方々にはコロナで大変な中、本当にお世話になった。現状は、経済重視で感染者増加はやむなしという方針に見えるのだけど、医療現場の事を考えると、感染者抑制のためにできることはやりたいと思う。何度か書いているように、若い人には存分に行動力を発揮していただきたい。その分、我々が少し考えないといけないと思う。

話がそれてしまったが、この59歳の誕生日の、入院申請書の年齢欄に初めて59を書いた瞬間は忘れがたいものになった。父が最後に固形物を食べたのもこの日だった。明日はまず仏壇に、ご飯をお供えしたいと思う。

四十九日

2021-12-22 09:43:36 | 父の闘病
お久しぶりです。先週の土曜日に父の四十九日の法要と納骨が終わって、行事は一段落したところです。法事の説教でお寺さんは、いつまでも悲しんではいられない、四十九日は元の生活に戻るための一つの区切りとおっしゃったけれど、そう簡単に気持ちを切り替えられるものではありませんでした。親の介護というものは途中で色々あっても行きつく終点は同じところと覚悟はしていました。それに戦前の教育を受けた父とは考え方が合わないことが多く、またの趣味も理解してはくれなくて、父が死んでもドライに切り替えられるのではないかと思っていました。ところが実際は五十日たっても深い悲しみを取り去ることはできない。これは意外なことでした。

と、ここまで書いてきて、陰気な文章を長々と続けても迷惑なことだと思いました。一昨日はメガネ屋に行って遠近両用を頼んできました。来週受け取ったら読書を再開したいと思います。それからキーボードが調子も良くないので、ここにまとまった文章が書きたくなったらPCも新調したいと思っています。そしたらまたお付き合いお願いします。なお、今回コメントは辞退させてください。申し訳ありません。

ラストの八日間、個室での付き添いの許可をいただいて、父のそばで過ごすことができました。そこで、寝たきりでもう長くない父がたくさんのスタッフの方々に助けていただいているのを目のあたりにしました。父は家に帰りたいという希望をいつも筆談で書いていましたが、退院予定の前にいつも悪化して四度キャンセルとなり、父の希望をかなえることはできませんでした。臨終の五日前、くもとさんという看護師さんが、退院予定を早めて家に帰れるように、点滴のポンプの手配など努力して下さいました。くもとさんは翌日帰れるようにと考えて行動してくださいましたが、在宅の先生の都合で二日伸びた間に父は危篤となり退院は実現しませんでした。しかし、くもとさんの顔と名前はしっかり覚えておこうと思っています。今はコロナも落ち着いているようですが、また増えて来た時には、父を助けて下さった病院の先生やスタッフの方々の顔を思い出しながら行動を考えなければならないと思っています。



転院当日

2021-05-04 09:27:03 | 父の闘病
(父の入院のつづき、主に4月27日のできごとです)

今回の父の入院では面会できていた時期も11時からで、朝の通勤通学ラッシュは避けることができた。しかし転院の日は9時半から10時ぐらいまでの間に病棟に来てくださいとのことで、少し心配である。面会禁止だから荷物を少し持って帰っておくということもできなくて、県病院の荷物を全部持って、着替えを家から持って行って、もちろん父の移動もケアしなければならない。私と弟が行けば良さそうなものだが、転院先も面会できるかどうかわからない。母はどうしても父に会っておきたいという。それで私と母が行くことになった。叔母(父の妹)も応援に来てくれるという。

転院の前日の月曜日、バスイットでバスの運行状況をモニターしたところ、当地を8時過ぎのバスは最寄りのバス停で既に10分遅れ、不動院には約20分遅れて着いて、それだと不動院を49分のバスに乗り継げて9時35分ごろ県病院前に着いていた。月曜の朝は通院の人も多く渋滞するから、明日の火曜日はこれで大丈夫だろうという結論になった。

翌27日、バスは2分遅れでやってきて、口田や小田も混んでいなくて順調に不動院に着いた。予定より1本前のバスに乗れるが、こちらは市役所経由で通勤客が多いから間に合ったとしてもベンチに座ってやり過ごすつもりであった。しかし、母は気が急くのか乗ると言う。少し通勤ラッシュからは外れていて幸い母は座れた。渋滞もなく、9時15分ごろ県病院前についた。

病棟のトイレは使えないから下でゆっくり済ませてエレベーターに乗ろうとしたらロビーに座っている叔母を母が見つけた。面会禁止の折、病棟に大人数で上がらない方が良いから一階で待っいると叔母は行ったが母が行こうと言って3人でエレベーターに乗った。叔母は父とは一回り違う酉年、昭和20年の6月生まれで生後2か月の時、原爆の爆風で飛ばされたが外れたふすまの角に引っかかって助かったという強運の持ち主。うちの家族にはモチベーターがいないので2年前から随分父を励ましてくれてありがたい存在だ。

病棟の受付の前に座って書類を受け取りながらナースステーションの中をみると、患者支援はMさんではなくて別の方がいらっしゃる。5月からと聞いていたが今週からだったようだ。21日は引継ぎの忙しい時にお電話してしまったかもしれない。Mさんに会えなかったのは大ショックだけど、今日は父を転院先に連れて行かなければならない。ここは落ち込んでいる訳にはいかない。またいつかご挨拶できる日もあるだろう。

まだしばらく時間がかかるとのことで待っていたら、同級生先生が通りかかった。この先生とは私が小学5年の時に転校してから小、中、高と8年間同じ学校だった。早くにお父さんを亡くされて学費貸与の制度がある医大に進学したところまでは知っていたが、その後会う機会はなかった。それが2年前に栄養の回診で父の病室に来て40年ぶりに再会した。感染症が専門で、おそらく大変な日々ではないかと思う。しかしここで話すべきはコロナ病棟ではなく父の事、あらましを話したら、転院先のO病院は良い先生がいらっしゃるから大丈夫と同級生は言った。感染症が専門だから膿胸のことを聞けばよかったと後で思ったがそこまで頭が回らなかった。母同士も友達だったから母にも声をかけてもらった。そしたら母が「O病院は昔は評判が悪かったんですよ」と、いらん事を言うから私が手でやめとけと合図したら先生も「うん、ゆうたらいけん」と笑っていた。

先に荷物が出てきて、予想通り大荷物だ。病室には入れないから看護師さんがワゴンに載せて持って来て下さった。洗濯物と、転院先では持ち込み禁止の紙おむつは別にして、それ以外を何とかまとめた。叔母にも持ってもらうことにした。

父は10時過ぎに車いすで出てきた。10時に導尿を済ませたと転院先あての手紙に既に記載したと看護師さんは言っていた。痩せてはいるが、そんなにやつれた様子ではなく少し安心した。担当看護師のAさんがタクシー乗り場まで車いすを押して下さった。叔母は別のタクシーでO病院に向かう。父が運転していた的場から女学院ではなく、紙屋町から広島城を通った。

O病院の正面のドアは閉じていてすぐ横の夜間入口から入った。消毒検温を一人ずつ行うため一度に大勢来ないようにしてあるようだ。父はやはり一人では歩けない感じで私につかまって入口まで来たところで受付の方が車いすを持って来て下さった。チェックシートを記入して先に進んだ。1階は外来があって診察を待っている人が結構いた。ここも面会禁止のため病室までは行けないということで、ワゴンに荷物を載せる。病室は5階、地域包括ケア病棟といって在宅復帰へ向けて60日以内という条件があるようだ。その5階に我々も上がって先生と看護師の話を聞く段取りだったが叔母とはここでお別れ、荷物も持っていただいてありがたい事だった。

5階のナースステーションの中で主治医の呼吸器内科の先生の話を聞いた。ここの看護師さんは白衣ではなくて、看護師さんが目の前に座ったのかと思ったら女性の先生だった。膿胸は落ち着いていて、おしっこの様子を見ながら歩くリハビリをする。県病院の泌尿器科の先生の手紙が間に合わなかったそうで、それが届いてから考えるが、薬で改善しない場合は留置バルーンで退院と、Mさんから聞いたコースの話だった。母は尿が出ない場合でも退院できると聞いて安心したようだが、父は先生の声が聞こえてないのか反応がなかった。しかし、管がついたままの退院は間違いなく嫌がるだろう。また、どれぐらい歩ければ良いか聞かれたのでトイレに行けたら十分と言っておいた。

このあと先生が家族にだけ話があると言って父は病室へ、また当分会えないことを言っておいた。先生からの話は、転院前にも聞いた延命治療についてだった。膿胸の多くは誤嚥が原因の嫌気性細菌によるもので、一度なった人はまた肺炎になるリスクがある。その場合に人工呼吸器を使った延命治療を行うかどうかという主旨で、県病院で聞いたのと同じような話だった。高熱が続いた時に県病院の先生は肺炎ではないと言われた事、父は咽頭摘出の手術によって食道と気管は完全に分離していて誤嚥は起きないのではないか、この二点が疑問であったが枝葉の部分なので言わなかった。延命治療についても、回復の望みがなくて心臓が動いていても体を動かすこともできないとなれば、もう結構ですと言えるが、肺炎になったら延命治療と言われるのにはやはり違和感がある。父のように高齢で基礎疾患がある者が肺炎になったら回復の望みはないとイコールなのか、どうもすっきりしない。しかし、転院で父をここまで連れてくるのにエネルギー使っていて先生に反論する元気も無いし、得策だとは思えない。回復の望みがあるなら、治療はしていただきたいと言うに留めた。先生からは、ここは大病院ではないから、と言われた。それでこの話は一応終わりになった。県病院でも同じような話だったから、この先生の持論という訳ではなくて元になるガイドラインがあるのだろう。呼吸器内科ではそれが常識なのか、それとも現在の医療リソースや医療費の問題なのか、どうもよくわからない。

そのあとの看護師さんとの話、なにしろ父に会うのは一週間ぶりで今日も一時間ちょっとの再会だったので、現在の状況は家族にもよくわかっていない。それでタオルなどのレンタルの話など、事務的な話が多かった。県病院と違って着替えなどを届けるのは可能で、前日に来院の予約をとって13時から15時までの間に持って来るということだった。今日は転院の大荷物なので家から持って来た着替えは二日分だけだった。さっそく明日下着を持って来る予約をした。

話が終わって病院を出たのは11時40分ごろ、家に帰るバスは50分待たねばならない。学生が下校する時間までは1時間に1本しかない。私だけなら芸備線で帰るところだが、母には徒歩10分の上り坂は無理だ。近くのスーパーで買い物を終えたら、母はもうバス停までの短い上り坂も難しいと言う。仕方なくスーパー近くのバス停から朝乗った県病院行きのバスに乗って不動院で逆向きのバス停に回って予定の12時半に間に合った。母が通えるように家からバス1本のO病院にしたのだけど、坂道が入ると中々厳しいようだ。もっとも、ここも面会禁止だから母が来ることは当分なさそうではある。とにかく、今日のところは無事転院できてほっとした。しかし先の事は、全く予想ができていなかった。



転院調整

2021-04-28 20:04:13 | 父の闘病
(父の入院の続き、4月20,21日のできごとです)

20日は弟が病院に行き、その時間私は銀行の用事を済ませた。帰って来るなり母が大変だと言うから驚いたが、父の具合が急変した訳ではなかった。弟からの速報で、明日からは面会禁止(実は20日付で面会禁止のリリースが出たのだが、この日は許してもらったようだ)、父は尿が出ず管を膀胱まで通して尿を出す「導尿」を数時間おきに看護師さんにやってもらってること、そして先生から話がしたいと言われて面会したところ、急性期の治療は終わったから23日の採血の結果が良ければ退院となる。しかし、歩けないし尿も出ないからリハビリ病院に転院したらどうかという提案だった。弟は家族と相談すると答えて既に病院を出たとのことだった。

前にも書いたように、一週間ベッドから離れられない間に歩けなくなってしまう事、感染者が増えて来ていたから面会禁止になってしまうこと、この二つは予想できていた。また、急性期の治療が終わったから転院と言われることはチューブが抜けた時点であり得ると思っていたし、患者支援のMさんの話にも出てきた。しかしそれが一気に来た上に、導尿が必要という新しい問題も加わって、頭の整理がつかない。導尿をネットで検索すると自己導尿といって患者本人がやる場合もあるようだ。しかし87歳の父にできるのか、家族がやることは可能なのか。弟が行った時に病室に来た看護師さんは、2、3回見てもらえばできると言ったそうだ。もっともこれは県病院の看護師さんは優秀であるからであって、実際はそう簡単ではないことが後でわかってくる。

転院となると本人の意向を確認して納得してもらわないといけない。2年前の転院では、転院先の病院に耳鼻科がなく、主治医の呼吸器内科の先生は「耳鼻科のことはわからん」と気管切開のカニューレに触ろうともせず、父と折り合いが悪かった。今回もざっと調べたところリハビリ病院で泌尿器科があるところは近場には無いように思われる。そのあたりのことを父と話したい。しかし面会禁止で父とは会えない。2年前は病室にレンタルの家庭用吸引器を持ち込んで看護師さんから吸痰を習った。けれども今回は病室に入れないのだから導尿を看護師さんから習うことはできない。退院か転院かという二択は、今の父の状態からすると転院しかないのだろう。それなら転院に向けて、父の意向を確認するプロセスはまず重要である。また、転院後の見通し、すなわち排尿障害の治療はできるのか、改善しない場合にどう自宅退院につなげるのか、この二点についてはっきりさせたいというのが一晩考えた結論だった。

翌21日、起床してPCあけてメールをチェックする手が思わず止まる。がんで闘病中のS子さんからのメールの一行目、本人ではなく娘さんが書いたもので、続きを読まなくても悪い知らせだとわかった。S子さんとは二十年来のサッカー仲間で、私が試合の時に出す横断幕を何枚も作ってくれた。サポーターというのは応援する人だけど、そのサポーターである私の背中を何度も押してくれたのがS子さんだった。このブログにもサッカーの記事で何度かその活躍ぶりを書いたことがある。一年前にがんがわかって、その後の闘病の力になれなかったことが悔やまれてならない。五十歳になったと聞いたのは最近のことだったのに。私というのは、いざという時に役に立つ男とはいえないようだ。「母と仲よくしてくださり、ありがとうございました」というメールの末文を見て、しばらく動けなかった。

今日は一日中S子さんの事を考えていたいのだけど、父の転院の話も解決しないといけない。9時になるのを待って病棟に電話をかけた。まず無理を承知で、父の意向を確認させてほしいと頼んでみた。看護師さんの答えは、今は面会できないとしか言えないと、これはルールだから仕方ない。そうなると、ここはやはりMさんを頼りたいと思う。Mさんに相談したいから電話をもらうように頼んだ。

そしたらすぐに電話が鳴ったが、Mさんではなくて呼吸器内科の主治医の先生からだった。昨日弟に説明されたことをもう一度私にも話して下さった。排尿障害については前から飲んでいる前立腺肥大の薬を増量して様子を見ていること、膿胸は落ち着いて来たから抗生剤の点滴を飲み薬に切り替えるというのが新しい情報だった。そして父は何を言っても「おしっこが出ない」としか書かないと。そればかり気になるのか先生の言う事が聞こえてないのか、先生も困っていらっしゃる様子だった。そのあと私が知りたかった転院後の見通しの話があった。今は面会禁止で県病院の看護師が導尿を家族に指導することはできない。転院先ではそのチャンスがあるかもしれない。排尿障害が改善しない場合は、転院先から泌尿器科のある病院に通えるようにお願いしておく、とのことだった。その上で、転院調整を依頼しても良いかと聞かれた。今の時点では自宅退院という選択肢は無いのだから、お願いしますと答えた。先生はこの泌尿器科への通院について転院先にしっかり伝えて下さっていた。ありがたいことだった。これで2年前のようなトラブルは回避できそうだ。そうなると、あとは本人が転院に納得してくれるかどうかが重要だ。

Mさんからの電話はお昼ごろだった。まず父に会って話していたから電話が遅れたと言われた。そして、転院については本人もそれで良いと書いたそうだ。おしっこが出たら家に帰りたい、とも書いたそうだ。これで前に進める。Mさんにお願いしたのは正解だった。父に会って意向を確認してくれと頼むつもりであったが、頼む前にやって下さった。Mさんは「お父様は何でも自分で決めて来られたから」と言った。これは2年前の事がMさんのPCに残っていたのだろうが、ここがまさに重要なプロセスであって、さすがプロの仕事だった。Mさんは他にも、あまり食べようとしない理由とか、色々聞いてくださった。2年前のように鼻から栄養入れるかと聞いたら、父は嫌そうな顔をしたそうだ。

そしてMさんは今後の見通しについて、本人または家族が導尿をやるのは難しいのではないかと言われた。二、三回見ればできると弟が看護師さんから聞いて来たと言ったら笑っていた。尿道を傷つけたり、感染症のリスクがあるようで、慣れが必要だと言われた。排尿障害が改善されない場合はカテーテルを入れたままにする留置バルーンになるかもしれないと言われた。これは上記主治医の説明には出てこなかった用語だ。管がついたままの退院は父はもちろん嫌がるだろう。しかしこれまでも、Mさんから聞いた話はあとで生きてきた。前立腺肥大症の薬が効いて尿が出るようになるのが一番だけど、Mさんが泌尿器科の先生に聞いた話では、尿が出ない原因は不明だという。これも病院では泌尿器科の先生には会えなかったから貴重な情報だった。すると改善の見込みもあまり期待できないかもしれない。留置バルーンでの退院も頭に入れておかなければならないと思った。

転院となると、患者支援でも転院担当の方にお願いすることになって、Mさんにお世話になるのはここまでということになる。うちは父しか運転しない事をMさんご存知だから、バス1本で行けるO病院をあげて下さったのもありがたいことだった。Mさんは5月から外来に異動になるとおっしゃっていた。父の場合は難しい手術はもう無理だろうから県病院に入院はこれが最後かもしれないが、事情をよく分かって下さっているMさんが病棟にいらっしゃらないのは残念なことだ。2年前から三度の入院で大病院にもかかわらず細かい事まで道筋を示していただいて、しかも今回は面会禁止で思うように情報が得られない中で知りたいことを教えてくださったのは本当にありがたいことだった。電話では不十分だったから、また改めてお礼を言いたいと思った。

翌22日、転院担当のKさんから電話があって、O病院にお願いしてみて、またダメだったら他を考えるとのことだった。そして23日の午後、まず先生から電話があった。O病院に転院するにあたって、延命治療の方針について先方に伝えなければならないとのことだった。延命治療は望まないつもりであった。しかし話を聞いてみると、延命治療の定義が、私が考えていたのとは違っていた。延命治療というと、回復改善が期待できなくても生命だけを維持する治療だと思っていた。しかし今回の説明では、父のような高齢者で基礎疾患がある者が人工呼吸器を使うことが延命治療という文脈だった。転院先で容体が急変しても人工呼吸器は使わないという同意を求められた、と私は理解した。しかし、母は、父の様子がわからないことで精神状態が少し良くないこともあって、延命治療という言葉を受け付けず、首を縦に振らなかった。私も、父の容体が急変したら即延命治療というのは違和感があった。それで、回復の可能性があれば治療はしてほしいと伝えた上で、それだと転院に支障が出るのか聞いてみた。この問いは意外だったのか先生は転院担当に聞いてみると言われた。すぐに電話があって、その線で転院を進めると言われた。電話を切ったらすぐに転院担当Kさんから電話があって、転院は27日11時O病院着と伝えられた。延命治療について記入する欄があったのだろうぐらいにこの時は考えていた。しかし、O病院の先生から、27日再びこの話を聞くことになる。

O病院は昔は老人病院みたいな印象で近所の方でもO病院で息を引き取った知り合いは何人かいらっしゃる。しかし、最近はそうではないと聞いている。もちろん行ってみないとわからないが、とにかく転院が決まったのを前向きに捉えるしかない。




排尿障害

2021-04-28 20:02:37 | 父の闘病
(父の入院の続き、4月19日のできごとです)

19日は私が病院に行く番、前回から中二日ということになる。いつもと同じ11時過ぎに病棟に着いて父の病室に入るとちょうど看護師さんが来ていて、まずは熱のことを聞いたら、高熱ではないが上がったり下がったり、でもかなり落ち着いて来たとのことで、今日からリハビリをやってもらう。それから尿の出が悪いから今日泌尿器科を予約して受診することになっているとのことだった。熱が落ち着いてリハビリも始まると聞いて嬉しかった。そのせいもあって、おしっこの事はそんなに大変な事だとは思っていなかった。父は「苦しいのにリハビリしてどうするんじゃ」とボードに書いた。まだ、息苦しさや肋骨脇腹の傷みを感じるようだった。しかし、文句を言うようになっただけ回復していると考えることにしよう。ともかく自宅退院のためには、少しでも歩けるようになってほしい。最初はベッドの上での運動だからと看護師さんにも言われてた。

ひとつ父に言っておかなければならない事があって、それは広島でもコロナが増えて来たから、いつ面会禁止になってもおかしくない状況であること、近々会えなくなるかもしれんよと言っておいた。そしたら父は、「タオルがようけ要る」と前と全く同じ事を書いた。

父の足が入院中に弱って歩けなくなってしまうことは私にも予想がついていて、入院の翌日には患者支援のMさんに相談してある。面会禁止も頭の中にあり、実際翌20日付で面会禁止となった。しかしこの後、想定外の事が次々に起きて私の頭脳では対処できなくなってしまう。それは次回に譲るとして、ともかく今日の所は熱も下がって父が元気そうに見えたから、すっきりした気持ちで病院をあとにした。

今日は月曜で図書館はお休み、横川へ出て昼食はランメンギョウザセット。3日前は精神的に落ち込んでいてラーメンセットに苦戦したけれど、今日はいつものペースで腹におさまった。



ランメンはごらんのように黄色い麺で(麺を引っ張り出して写真を撮ったもので食べかけではありません)、ランメンは卵麺のことだと思われる。子供の頃は国道54号線沿いの祇園のあたりだろうか、新幹線の形をした店舗があって、食べたことは無かったが祖父の家に行く時など車内からいつも眺めていた。中学高校時代はバスセンターのお店に何度も行った。その頃は焼肉屋のわかめスープの中に黄色い麵が入ったような感じの塩ランメンが基本であった。胡椒をたくさんかけるとうまかった。麺は今より細かったかな。ランメンにまつわる高校時代の青春の思い出は、改めて書くことにしよう。

そのあと大学からの十年間を京都で過ごして再び広島に戻ってきたら、センター街のランメンは250円の低価格で餃子を頼んでもワンコイン、これもよくお世話になった。しかし味は十代の頃とは変わっていて、広島ではスタンダードなとんこつ醤油がベース。したがってランメンと厨房に通したら昔は塩ランメンだったのが醤油ランメンに変わっていた。麺は少し太くなったが、昔の黄色い感じは薄れたように記憶している。

このセンター街のお店は野球がマツダスタジアムに移る頃に閉めてしまって、そのあと西原にお店ができて何度か行った。しかしこれも閉店となって、ここ数年はランメンを食べられなかったが、今年になって横川の「餃子家 龍」という餃子居酒屋のランチメニューとして復活した。元々ランメンのお店は餃子の皮を作っている老舗食品会社の経営だ。今日は5年ぶりぐらいだろうか、久しぶりのランメンだった。スープは250円時代と同じとんこつ醤油、麺の黄色さは昔のように強くなったと感じた。麺とスープは変わってしまったけれど、私にとって青春の味であることに変わりはない。

話が大きくそれてしまった。とにかくこの日は、父の熱が落ち着いてリハビリも始まるとのことで、早期退院もあるかもしれないと希望を持って家路についた。翌日から難しい問題が次々出てくるのだけど、もちろんこの時は知るよしもなかった。


膿胸

2021-04-17 10:41:53 | 父の闘病
(父の入院の話の続き、主に4月15日から16日のできごとです)

14日は弟が造影剤CT検査の同意書にサインして検査はその日のうちに行われると聞いてきた。翌15日は母が病院へ。母は昨日の検査の結果を聞くために先生に会いたいという。病棟の看護師さんに希望を伝えるように言ったのだが、ここで母が暴走、直接呼吸器科を訪ねて行ったそうだ。2年前は面会制限もなくて病室にいる時間が長く、先生に会うチャンスも割とあった。しかし今は15分の面会時間のうちに先生が回診にいらっしゃる確率は低い。母も今の病状がつかめなくて不安だったのだろう。しかし、そうだとしても母の行動はルール違反で当然門前払い、病棟で言ったら先生は救急対応していらっしゃって後で電話するとのことだった。病院では怒られなかったそうだから一応私から説教しておいたが、二度とやらないでほしいもんだ。

したがって、夕刻かかってきた先生からの電話の冒頭で母の行動をまずお詫びしなければならなかった。そして、先生からのお話は、造影剤CTの結果では見てわかる悪性腫瘍は認められなかった。来週結果が出る組織検査で悪性となれば肺またはその付近の癌ということになるが、出なかったとしても癌でないとは言い切れない。出なくても癌かもしれないと言われる。ということは胸水の原因として、がん性胸膜炎を一番に疑っていらっしゃるようだ。それから高熱の原因は膿胸(のうきょう)といって、肺の外に膿がたまっていることが考えられるとのことで、どういう種類の菌が悪さしているか調べて対処するとのことだった。また、胸水はここまでに2リットル出て、チューブで取れないところにまだ少したまっている、チューブは近々抜くかもしれないと言われた。それで明日胸水か膿かを注射器で抜く処置をするからまた同意書にサインしてほしいと言われた。理解できない言葉もあって、○○だったらリスクをさけて△△はやらない、と言われたのは意味がわからなかった。また、血流感染という言葉が出てきて、あとで調べても関連が理解できなかった。最後に先生が何か質問は、と言われてもわからない事が多すぎて質問できないパターン。肺炎ではないのか聞いてみたが、今のところ肺炎とは考えにくいとのことだった。

翌16日は私が病院に行く番だった。いつもと同じ11時過ぎに病棟に着いて面会申請書のあと同意書にサインした。あとで控えを読んでもよく理解できない処置だった。病室に行くと、父は口を開けて寝ていた。起こすのもアレだから持ってきたタオル等を納めて、窓から阿武山の写真を撮った。



そしたら看護師さん来て点滴を替える作業の途中で父はやっと目を覚ました。私に向けてまっすぐには起き上がれないというジェスチャーをする。一週間チューブがついたままで、足も弱っているだろうし柵をつかまないと体も起こせない。そして熱があって苦しそうに見える。どうも、よくない方向に向かってるのではないかという不安がよぎる。しかし先生はバイタル的には落ち着いていると言われるのだから今はそれを信じるしかない。昨日の先生の言葉、もうすぐチューブは抜けると父に伝える。しかし今日は金曜日だから、あと2日、月曜まで我慢と言っておいた。しかし実際には、この日の午後チューブを取ってもらったようだ。

父の経過が思わしくない上に、この日は残念ながらナースステーションにMさんの姿は見当たらず、どんよりモードの帰り道となった。何もしたくない気分ではあったが前回の関連であと一冊読んでおきたい本があり、今日も県立図書館まで歩いた。昼食は広電本社前電停近くの一味でラーメンセット。




美味しいラーメンであったが、今の私には多すぎた。父のこともあって、全然食欲がわいてこない。なんとか食べ切ったが、次からはラーメンだけにしよう。

図書館で借りようと思った本は予想以上に重く、関係箇所をコピーにとどめた。これで一本記事が書けるはずなので、次回久しぶりに貞国のジャンルで書いてみたい。外へ出て、前から気になっている天光堂という和菓子屋の前に店員さんが椅子を出して座っている。なんとなく入りにくい店だったので、この機会に寄ってみた。丁寧に説明していただいたのにバラで3つしか買わなくて申し訳なかった。水曜金曜の14時までやってますと聞いて、ここはお店ではなく工場であることに気づいた。曜日限定の工場直販だったようだ。普段は入りにくいはずだ。



そのあと、もう一つの事件。帰りの芸備線に乗っていたら携帯がブルブル震えた。家との連絡用に通話のみのガラケーを持ってはいるけれど、携帯から家にかける事がほとんどで、かかってくることはめったに無い。悪い知らせかもしれないと思って車内ではあるけれど通話ボタンを押した。そしたら病棟からであったが、若い看護師さんの「小林さんの携帯でよろしかったですかぁ」と呑気に語尾を上げた口調から、急変では無いとわかった。用件は、紙おむつを使いたいからプランに加入してくれというものだった。体を起こすのも難儀だから、ポータブル便器に座らせるのも大変ということだろうか。是非もないことで、明日申込書を書くと答えて電話を切った。チューブが近々抜けそうという以外はあまり良い話のなかった昨日今日であった。



小康状態

2021-04-17 10:30:45 | 父の闘病
(父の入院の話の続き、4月13日のできごとです)

前回から中三日、13日は私が県病院に行くことになった。父がしんどい時にできるだけ行きたいと母は言う。母も85歳であるからあまり無理をしてほしくないのだけれど、コロナの感染者数は広島でも徐々に増加していて、いつまで面会できるかわからない。母の希望をいれて、この三日間は母が二日、弟が一日様子を見に行った。前回私には父は相当弱っているように見えた。ところが母と弟は、そんなことは無い、結構元気だったと言う。兄貴は悲観的過ぎると弟は言い、母と弟は自分の見たいものしか見ていないと私は思う。これはまあ、足して2で割ったぐらいが正しいのかもしれない。

4日前と同じ時間のバスだったが、雨で大学病院入口のあたりから渋滞、次の出汐1丁目でたくさん降りた。歩ける人は大学病院まで歩いた方が早いということだろうか。県病院着は10分以上遅れた。

父は確かに4日前よりは元気そうに見えた。ボードに「食事を半分食べた」と書いた。4日前はちょっと手を付けただけだったから、食べられるようになったと伝えたかったのだろう。チューブから出た胸水も少なくなっていて、本人はもうすぐチューブが抜けて退院できると思っているのかもしれないが、そう簡単にはいかないだろう。いや、母や弟は違うと言うかもしれないが。退屈しているだろうと週刊誌を差し入れたが父はあまり興味を示さず、「タオルがようけ要る」と書いた。わかったと答える。前回は先生の説明、昼食、レントゲン撮影と行事が続いてけっこう長く病室にいたけれど、今日は何もないから15分程度と決まっている面会時間を守りたいと思う。そのことを父にも言って病室を離れた。

デイルームの横の、携帯電話はここでお使いくださいと書かれたボードのところで母に報告していたら、ナースステーションから患者支援のMさんが近づいてくるのが見えて慌てて電話を終わらせる。昨日、ケアマネさんに連絡を取っていただいたようだ。まずは父の食事の話で、家でもたんぱく質が取れないことを話す。父はミンチ料理とか豆腐みたいなものが嫌いで、肉や魚の原型を留めたものを食べていたが、嚙む力も衰えて難しくなってきた。卵料理もあまり好きではないし、処方されている栄養補助飲料にもたんぱく質は入っていない(入ったものは甘くて飲めないと父が嫌がった)。納豆は少し食べる。Mさんからは、今はたんぱく質の入った補助剤も出ている事、豆乳をうまく使う事などを提案してもらった。Mさんは母が胃ろうを嫌がっていることを覚えていた。あるいはMさんがいつも持ち歩いているノートPCにメモが残っていたのかもしれない。母の主張は多分にデマを含んでいると考えられるのでここには書けないが、とにかく胃ろうはいけないと2年前Mさんにも力説したようだ。

次に、前回相談した足が弱っていることについて。チューブがとれるまでベッドを離れられない状態だから、退院時には歩けなくなっていることも十分考えられる。転院してリハビリして帰ったらどうかという提案だった。2年前の転院には良い思い出が無いので父は嫌がるだろうと言っておいた。しかし、この時点でこういう話を聞けたのはありがたいことで、楽観論の母や弟にも頭の片隅に入れておいてほしい事だった。実際、10日後にはこの方向で動き出すことになる。

それから、ケアマネさんから父がまだ運転して通院していることを聞いて、Mさん「運転するなって言ったのに」と怒っていた。首を傾けて「運転」の二文字を忌まわしいことのように低いトーンで区切って言ってプンプン怒っている様子もまた素敵で・・・いや、これは私が言っても聞かないから、2年前の退院の日に私がMさんに頼んで運転しないように言ってもらったのだった。良い作戦だと思ったのだが、父は私のようにMさんにメロメロではないから効き目がなかった。父が退院してから2年の間にも大勢の患者さんを担当されてきたはずだが、他にこんなことを頼む人はいないのかMさんはっきりと覚えていた。それで私のことも覚えていて下さったのだから、あながち作戦失敗とはいえない。

またお話を聞いてもらったことのお礼をMさんに言って、「いいえ」と抑揚をつけた返事にまたドキドキしながら外へ出ると小雨模様。前回は苦しそうな父の様子にどんよりしながら帰ったのだけど、今日は父も少し元気そうだったし順番が病室のあとでMさんだったから気分が違う。雨だと花粉フリーでもあるし、図書館まで歩くことにした。途中、附属学校電停近くのつけ麺屋で昼食にした。病院に行くバスから眺めて気になっていたお店だ。広島つけ麺というのは私が子供の頃には無かったもので、実は一度も食べたことがなく、つけ麺というとハウスのつけ麺(袋ラーメン)しか知らない。一度食べてみることにした。小さなアクリル板で仕切られたカウンターに座って、定番つけ麺というのを頼んだ。辛さを選べと言われたが、見当がつかない。最初なら4にしときますかと店員さんに言われて、30段階の4番目、あまり辛くない方を選んだ。





正直にいえば、あまり旨味を感じなかった。もっと辛くするか、カツオつけ麺というのがあったからそちらにした方が良かったのか、ベストの選択ではなかったようだ。再チャレンジするかどうかは、気が向いたら、ということにしておこう。

そのあと歩いて御幸橋を渡る。お天気は悪いけれど、河口方向を一枚。




渡り切ったところにある原爆の説明板にあったのは教科書などで何度も見たことがある広島市民にはおなじみの写真だ。




県立図書館では閲覧室での滞在時間を短くするようにとの注意書きがあり、素早く一冊借りて帰った。これについては別の記事に書いてみたい。そのあと広電本社前電停から横川経由で帰宅した。

この日まで父は順調に回復しているように見えたのだけど、翌14日の朝、主治医である呼吸器内科の先生から電話があり、13日夕刻から38℃の熱が出て採血したら炎症の値が高く、抗生剤を点滴投与しているという。また、胸水を検査に出したところ、まだ確定ではないが癌細胞らしきものが見つかったとのことで、ついては造影剤CT検査をしたいから同意書にサインしてほしいと。先生は、父とは意思疎通がしにくいとおっしゃる。父は耳が遠くて声も出ないから、確かに会話には時間がかかる。しかしまだ判断力を無くしてはいないから時間をかければできると思うのだけど、今コロナ病棟のある病院の呼吸器の先生は大変だから、これは仕方ないのだろう。バイタル的には落ち着いていると言われたが、高熱はしばらく続いて、家族の緊張は再び高まった。13日まで、つかの間の小康状態であった。




胸腔ドレナージ

2021-04-14 19:11:39 | 父の闘病
前回の続き、父の入院二日目、4月9日のできごとです。

父の入院の翌日は私が荷物を持って行くことになった。面会時間は家族のみ1日1回2人まで、11時から13時または15時から20時のうちの15分以内ということになっている。昨夜の話では、肺の水を抜く処置はおそらく午前中に行われるから午後から来た方が経過がわかるのではないかということだった。しかし考えてみると、昨日は救急外来から即入院となったため、必要なものを何も持って行ってなくて甚平をレンタルして売店でティッシュを買っただけ。洗面用具や箸なども無い状態だから、ここは11時着で行くことにした。

今日は私一人であるから芸備線で広島駅まで出てからバスに乗る。二年前は一ヶ月の転院をはさんで合計半年間通った道だから目をつぶっていてもたどり着ける、と言いたいところだが、この二年の間にバス路線が変わってしまった。以前のコースは廃止になって、まちのわループという路線が新設された。広島駅南口のバス乗り場を出て大学病院、旭町を経由するから以前の皆実高校から広大附属を通るルートに比べて少し遠回りになるが、三つの大きな病院のあと繁華街の八丁堀を経由することもあって乗客は増えたような気がする。私が乗った10時40分発のバスは数分遅れて11時10分ごろ県病院前に着いた。

入り口で検温と手の消毒をしてからエレベーターで8階へ上がる。受付で面会の申請書、と思ったところで「小林さん」と声をかけられて、誰だか認識する前に「Mです」、えっ、びっくりした。患者支援のMさんは看護師の服を着ていらっしゃるけれど、仕事は違う。以前の髪型は看護師さんのようにまとめてなくて(女性の髪形を表現できなくてごめんなさい)、頭髪の規律が看護師さんよりも少し緩いのかもしれないと思っていた。だからシルエットでもすぐにMさんだとわかったのに、髪がショートになっていて近くで顔を見るまで全然気付かなかった。昨夜カウンターでお名前を見つけた時からお会い出来たら何の話をしようかと考えを巡らせて、作文は頭の中で完成している。まずは面会申請かきながらナースステーションの中をきょろきょろ探す段取りだったのに向こうから声をかけられたのは不意打ちで、しかもショートがとっても似合っていて・・・いや、私はMさんのお仕事をリスペクトしているのだから、かわいいとか口に出してはいけない、ここは我慢して・・・いや何を我慢するのかわからないが、とにかくクラッときた体勢を立て直して昨夜準備した本題に入ろうと思う。

その前に、前回の父の入院のことを簡単に書いておこう。2年前の春、85歳だった父は最初の声帯のがんを取り除くの手術の後、放射線治療を受けたところ腫れで気道が狭くなり気管切開となってしまった。のどに穴をあけてカニューレを装着して痰をとってもらいながら飲み込みのリハビリを続ける日々、Mさんが転院の話をもってきたのは5月の終わりごろだった。急性期の治療は終わったから回復期を受け持つ病院に移る、というのは理屈ではわかる。けれども初期の癌だから放射線で9割は治る、と言われて放射線治療をうけたのに、状況はどう見ても悪くなっている。癌の治療は終わったと言われても、転院は素直に受け入れられるものではなかった。したがって、Mさんとの出会いはあまり印象の良いものでは無かった。

しかし保険の都合もあったのだろう、入院90日目となった6月下旬に転院せざるを得ず、一ヶ月リハビリ等したあとで、気管切開閉鎖の準備として気道を広げる手術のために県病院に戻った。再入院の翌日が手術予定だった。またMさんがやってきて、介護認定や電動ベッドのレンタルの話をされたが、翌日の手術のことで頭がいっぱいで耳に入らなかった。ここでも、まだMさんのお仕事の重要性について理解しないままだった。

二度目の手術で新しい癌が見つかって、気管切開閉鎖は断念、その上で咽頭摘出の手術をすすめられた。手術によって気管と食道は分離され、声は出なくなる。本人、家族にとっても大きなショックであったけれど、ほかに手段が無いならお願いしますと父はボードに書いた。家族としても手術後は家に連れて帰って痰は自分たちで吸引することに決めた。その方針で前に進むしかない。ここからは全面的にMさんのお世話になった。介護認定、障害者手帳の申請、家庭用吸引器をレンタルして病室で練習、地域包括支援センターの訪問、退院前カンファレンスなど、手術から退院までの一ヶ月の間に、Mさんのおかげで確実に前に進めたと思う。

父の長い入院の間、4人部屋の他の患者さんに対するMさんの話が聞こえてくることがあった。耳の遠い高齢者が多いから、聞きたくなくても聞こえてくるのだ。やはり手術前日の入院が多くて、患者さんの反応は芳しくない。目の手術を翌日に控えた患者さんに、失明した場合にどこを頼るかと言っていて、聞きたくない話だ。でも色々な事態を想定して頭の片隅に置いておいた方が良いということ、今ならばわかる。いつまでも幸せに暮らしました、はあり得ないのだ。そんなこんなでMさんの仕事をリスペクトする気持ちは日に日に高まって、10月の退院の時には何度もお礼を言った。

話をMさんと再会した場面に戻す。今回相談しておきたいのは、父の足が弱って来ていて、特に夜中のトイレに行くときに方向転換で転倒することがある。もし歩けなくなったとしても、自宅で介護したいと考えているが、何が必要でどれぐらい大変なのか、聞きたかった。そしたら昨夜入院だったのに父の足のことは知っていて、誰かついてトイレに行った方がいいとスタッフも話しているとのことだった。往診してくれる先生の存在とか、何点か言われたけれど、やはり歩けなくなってから自宅で介護は大変みたいでまずはリハビリ等で寝たきりを回避するのが大切なようだ。また、最初に訪問看護指示書を出したのが県病院の先生で、今も訪問看護上の主治医は県病院になっているから、往診してくれる先生がいたら主治医を移行した方が訪問看護の看護師との関係がスムーズになるかもしれないとのことだった。とにかくケアマネさんに話を聞いた上で、またお話しましょうということになった。

そのあと、処置を終えた呼吸器内科の先生に病室で話を聞いた。タイトルにした胸腔ドレナージ、肺にチューブを差し込んで7日から10日ぐらいで胸水を抜くということだった。チューブは大きな機械につながれていて、これを持ってトイレに行く訳にはいかないから紙おむつで対応すると先生が言ったら、父は嫌そうな顔をした。出てきた胸水を検査に出して原因を調べてから必要な対処をすると言われた。チューブを抜いたら手袋をしてもらう、そしてもう一度痛い処置をしなければならないと先生は念を押した。

そのあと来た看護師は、紙おむつ付けなくてもポータブルの便器で大丈夫と言って、父は少し安心したようだった。しかしチューブを挿す時かなり痛かったそうで元気がなく、遅れて出された昼食にもほとんど手をつけなかった。チューブが外れないように、ベッドから体を起こしたらナースコールが鳴るセンサーが付けられていて、一週間以上ベッドから離れられない。さっきMさんに相談した事が、二週間後に現実となる可能性がかなり高まったように思われた。

昼食は病院近くの太閤うどんでとり天ぶっかけうどん。ここは、おじやうどんが名物なのだけど、わたしゃ猫舌なので鉄鍋で出てくるうどんはノーサンキューである。ここのうどんはうまいのだけど、寄るのは手術日とか気持ちが落ち着かない時が多い。気持ちが前向きであれば、食事は病院の食堂などでさっと済ませて移動しているはずだ。





Mさんに会えた嬉しさは一瞬で吹き飛んでしまった。そして二週間後の現実は、もっと厳しいものだった。




救急外来

2021-04-12 14:10:11 | 父の闘病
8日に父が急に入院となり、今はちょっとバタバタしていていつも読ませていただいているブログも全部は追えてないかもしれません。ごめんなさい。以下はその日のことを忘れないうちに。

数日前から父は食欲が落ちて、お粥を少し食べるだけになってしまった。おかずも食えといったら、ほんの舌の先に乗るぐらい食べる。胃がもたれる感じがすると言うから、胃腸が弱っているのだと思っていた。そして、8日の夕刻、近所のかかりつけ医で胃を診てもらうと自分から言い出した。父がそういう事を言うのは珍しくよほど悪いのだと思った。

近所の内科医はまずお腹をエコーで見て、食べたものは消化できていて胃腸は問題なさそう、しかし次にレントゲンで胸部をみて、右の肺に水がたまっていると言う。そして、救急車を呼ぶ程ではないが、今日中に診てもらった方が良いだろうと一昨年父が入院していた県病院に連絡してもらって救急外来に行くことになった。父は自分で運転して行くと言ったが入院になるかもしれないからと何とか説得した。しかしこの時点ではどれぐらい深刻なのかわかっておらず、必ずしも入院になるとは思ってなかった。

タクシー呼んで県病院といったらいつも父が運転する女学院前から的場というルートではなく、福田から高速道路を勧められた。右手に黄金山、正面に似島、左手にマツダ本社や海も見えて宇品まで確かに早く着いた。障害者割引とタクシー券1枚使って現金での支払いは六千円(高速料金込み)だった。思っていたより安かった。時間外入り口からはいって車いす借りて救急外来に着いて時計を見たら18時だった。ここまで慌てて来たこともあってその前かかりつけ医の受診やタクシーを呼んだ時間は確認していない。

救急外来の3つあるうちの2診に入ると女性医師がいらっしゃって、名札をみて後で調べたら糖尿病が専門のお医者さんだった。紹介状わたして状況を説明して、レントゲンとCTをとりにいってまた救急外来に戻って採血と点滴、というところで呼吸器内科の当直の先生がいらっしゃった。水は相当たまっていて、入院して明日水を抜く処置をする、出てきた水を検査に出して原因を調べる。考えられるのは癌とか感染症とかだけど原因がわからない場合もある。入院の目安は2週間と言われた。あっという間に入院と明日の処置が決まったということは、こういう場合のお決まりのコースなのだろう。処置の同意書等を書いて渡したところで、明日からは他の先生に担当が変わること、入院の準備ができるまで救急外来の待合室で待つように言われた。夕食の時間を過ぎると病棟の看護師さんが一気に減るのは2年前に経験済みなので、気長に待つことにした。ここでひとつ失敗したのは今の呼吸器内科の先生の名札を見ていなかったこと。意識しないでおくと女性の名前しか覚えようとしないのは私の悪い癖だ。

病棟に呼ばれたのは19時半過ぎだった。今回は2年前の耳鼻科とは違い呼吸器内科での入院なのだけど、病棟は同じだった。一般用エレベーターに乗ると蓋がしてあってボタンが押せない階があり、そこがコロナ病棟なのだろうか。エレベーターを降りると2年前は使ってなかった西病棟のナースステーションにも明りがついていた。これもコロナ病棟を作った影響で移って来たのかもしれない。広島の感染者数は少し落ち着いているけれど、病院はまだまだ大変そうに見えた。面会は家族のみ1日1回15分以内と書いてあって、これは守らないといけない。

父は看護師さんが車いすを押してすぐに病室へ、私と母は面会申請書を書いた後もう一人の看護師さんと少しお話、さっき待合室で書いた問診票のようなものを見ながらあれこれ聞かれた。母は2年前の看護師さんは残っているか聞いていたが、最近は短いスパンで異動があるとのことだった。カウンターに掲示してある責任者の名前を確認すると、確かに婦長さん(今は男性もいるから婦長さんとは言わないが覚えにくい役職名だった)と薬剤師は2年前とは違う方だったけど、患者支援のMさんの名前は残っていた。これは嬉しかった。2年前は介護認定や障がい者手帳の申請や吸引器のレンタルなどでMさんに大変お世話になり、退院後もMさんに聞いた話があちこち役に立った。お会い出来たら、お礼を言いたいと思う。

病室に案内されたら、まだ看護師さんの説明が続いていた。このIさんという男性看護師は2年前もいらっしゃったが、真面目な性格の方で一から丁寧に説明されていたようだ。急な入院で何も用意していない。とりあえず甚平をレンタルして、売店でティッシュと飲み物とパン、面会室でテレビカードとイヤホンを買って病室にもどった。前回は転院をはさんで半年以上ここにいたから何がどこにあるかはわかっている。売店は前回の入院の終わりごろローソンからポプラに移行してポプラが仮店舗で営業している時期があった。それが最近多くのポプラはローソン・ポプラに移行というニュースが伝えられて、この病院のポプラもまさに移行中で今度はローソンが仮店舗で営業していた。前回も仮店舗の時期にいたものだから、仮店舗と聞いても場所はすぐにわかった。

買い物を終えて病室に戻ったらチャイムが鳴って20時で面会時間は終了と言っている。まだレンタルの甚平が届かなくて父は来た時のままの服装なのだけど、前にも書いたようにこの時間の看護師さんにあれこれ注文を付けるのは避けたい。私と母はそろそろ引き上げることにした。

帰りはバスを不動院で乗り換え、しかし自宅から徒歩3分のバス停に着く路線は夜間は本数が少なくて30分以上の待ち時間があり、徒歩8分のJR駅前に着くバスに乗ることにした。田舎の真っ暗な道で母の足だと15分ぐらいかかった。夕食は簡単にスパゲッティを茹でた。この時点ではまだ、翌日からの展望ができていなかった。肺の水をじゃーと抜いて終わりぐらいに思っていた。明日は私一人で荷物を届けに行く。もしMさんに会ってもドキドキしないように何を話すか頭の中で作文しながら眠りについた。今考えると、我ながら全くもって愚かな事であった。






転院のころ

2019-12-30 21:02:25 | 父の闘病
今年一年をふり返るとなると、やはり半年以上に及んだ父の入院を外すことはできない。その間、大勢の方々にお世話になったのは言うまでもないが、今回は6、7月に民間病院に転院していた時のことを書いてみたい。

父は2月の最初の入院で声帯のポリープを切除、しかし組織検査の結果がんが見つかって、3月に放射線治療とPET検査でがんの可能性が出た大腸のポリープ検査のために再入院した。大腸は陰性であったけれど、放射線治療の合併症で声帯に癒着が生じ、窒息の危険があるということで5月上旬気管切開の手術を受けた。食事が再開になってまずプリンを食べたところ、その一部はのどに装着されたカニューレから出てきてしまった。食事は再び中断されて鼻から栄養剤を入れることになった。胃ろうを勧められたが父は断った。そして嚥下のチームに入ってもらってゼリーひと口から飲み込みのリハビリが始まった。転院の話があったのはその頃だった。嚥下のリハビリを続けてある程度体力を回復してから気管切開を閉鎖ということになれば、入院は90日以上になってしまう。一度転院して1ヶ月後に戻って癒着切除の手術をして、経過が良ければ気管切開の閉鎖ができるかもしれないという提案だった。当院は急性疾患の治療はするけれど慢性的な疾患は他院でと、また婦長さんからはかんの治療は終わったとも言われた。

しかし当時は正直言って、そう言われても・・・という心境だった。何事もなければ放射線でがんの治療は終わって退院できるはずであった。それが喉に穴があいてカニューレがついてどうみても治ったというより悪くなっている。がんの治療は放射線治療をもって終了したから移ってくれと言われても、すんなりとは受け入れられなかった。そうは言っても、どうも90日以上は置いてもらえない雰囲気で、こちらからは2つの事をお願いした。その頃父は嚥下のリハビリを頑張っていて、好きではないゼリーを苦労しながら飲み込んでいた。このリハビリは家族にとっても大きな希望だった。嚥下のリハビリを続けられる所をお願いしたいというのが一つ目、もう一つは母も足が悪くてバリアフリーではない芸備線での移動は難しく、母がバスを乗り継いで行ける所にしてほしい、この二つだった。この条件で病院の患者総合支援センターの方に探してもらった結果、安佐南区の民間病院への転院が決まった。転院担当の方によると「専門ではないけれど、気管切開の患者さんを多数受け入れている」とのことだった。この時は「専門ではない」をそんなに深刻には受け止めていなかった。

そして6月下旬の月曜日、ちょうど入院90日目となる日に転院となった。ここでの主治医は呼吸器内科の先生で、転院先の病院には耳鼻科は無かった。しかし、気管切開は呼吸器で問題なく診てもらえると思っていた。ところが、この先生「耳鼻科のことはわからん」と言ってカニューレに触ろうともしない。そういうものなのかどうか、素人の私にはわからない。熱を計って肺炎をケアしつつ、眠れないと言えば安定剤などを処方、そういう治療だった。一方、リハビリの方は嚥下、上半身、下半身と3人の担当者が毎日来て充実していた。栄養士も毎日のように昼食時に来て何が食べられるかチェックされていた。実はこの病院、地元在住の叔母に聞いても、またサッカーの知り合いに聞いても評判はかなり悪かった。父が入院しているのは2階であったが、3階の6人部屋に入れられると生きて出てくるのは難しいという噂であった。しかし、看護師さんのモチベーションも高くて吸痰も問題なく、耳鼻科がないことを除けば居心地は悪くなかった。このまま無事に一ヶ月過ぎてくれたら何の問題もなかった。

ところが転院から10日が過ぎた金曜日、午前の検温の看護師さんから、吸痰の時にカテーテルが入りにくくなって一回り細いチューブを使っていると言われた。看護師さんがライトをつけてカニューレの中をのぞくと、やはり痰がこびりついて狭くなっているところがあるということだった。先生を呼んでもらって、看護師さんに促されて先生も初めてカニューレをのぞいて確認していた。こういう時前の病院では吸入器(ネブライザー)を使って痰を柔らかくしていたと言ってみたのだけど、呼吸器内科ではネブライザーはそういう使い方はしないのだろう、先生は効果に懐疑的であった。一度前の病院で診てもらった方が良いということで月曜日に耳鼻科外来を受診することになった。細いチューブとはいえ吸痰できているし、この時は今の永久気管孔とは違って一時的な気管切開で口も少しは息が通っていた。まあ大丈夫だろうということで私は夕刻帰宅した。

しかしそのあと夜になってから、父は不安になったようだ。月曜までもたないかもしれないと言い出したそうだ。父の不安には伏線があって、前の病院でもある土曜日の夜に突然吸引カテーテルが入らなくなったことがあった。看護師さんが先生に連絡して来てもらってカニューレを外して掃除して元通り吸痰できるようになった。それだけの話で、その時はあまり気にもかけなかった。ところが翌週、火曜日に嚥下のチームの回診があって、いつもの看護師さんだけでなくて内科や歯科の先生もいらっしゃったそうだ。その時にどの先生かわからないが、「あんたぁ危なかったそうじゃの」と言われたそうだ。これは土曜日の事をカルテなどで見て言われたのだろうが、冗談なのか、本当に危なかったのか、素人にはわからない。しかしこの一言は本人にとってはかなりのダメージで、この時は死にかけたと思ったようだ。そして、大きな病院だったから土曜の夜でも先生がやってきて処置してもらったけれど、今の病院ではそれは望めないだろう。それに主治医の先生が耳鼻科のことはわからんと言うたびに、父のストレスはたまって来ていたようだ。それで私が帰ったあとでぶつぶつ言い出して看護師さんを困らせたようだ。

ところがである。夜勤の看護師さんのうちベテランの看護師さんが、これぐらい何とかしますと言ってまずネブライザーを使い、そのあとピンセットのようなもので3人がかりでカニューレの中の痰を取り除いて、翌朝母が行った時には普通に吸痰できるようになっていた。民間病院の底力だろうか、これは本当にありがたいことだった。

その後も父は神経質にあれこれ言っていたけれど、何とか再転院の日を迎えることができた。朝の担当になる事が多かったTさんは准看護師で父がこれから帰る病院に週1回研修に行っていると明かしてくれて、マスクを取ってみせた。あちらで見かけたら声をかけてくれということだろうか。准看護師ということはこの日まで知らなくて、ベテランの看護師さんに比べると少し頼りないかなと思っていたけれど、Tさんの向上心は初めて見た素顔を通じて伝わって来た。その顔をしっかり覚えておこうと思った。

最後にひとつ、転院の時に耳鼻科のある病院という条件も私が言わなければならなかったのだろうか。それとも転院担当の方か先生か・・・いや、誰が悪いのでもなく、通らなけばならない道だったと思うことにしよう。そして残念ながら、今でも通院の度にキョロキョロしているのだけど、Tさんには会えないでいる。