阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

転院調整

2021-04-28 20:04:13 | 父の闘病
(父の入院の続き、4月20,21日のできごとです)

20日は弟が病院に行き、その時間私は銀行の用事を済ませた。帰って来るなり母が大変だと言うから驚いたが、父の具合が急変した訳ではなかった。弟からの速報で、明日からは面会禁止(実は20日付で面会禁止のリリースが出たのだが、この日は許してもらったようだ)、父は尿が出ず管を膀胱まで通して尿を出す「導尿」を数時間おきに看護師さんにやってもらってること、そして先生から話がしたいと言われて面会したところ、急性期の治療は終わったから23日の採血の結果が良ければ退院となる。しかし、歩けないし尿も出ないからリハビリ病院に転院したらどうかという提案だった。弟は家族と相談すると答えて既に病院を出たとのことだった。

前にも書いたように、一週間ベッドから離れられない間に歩けなくなってしまう事、感染者が増えて来ていたから面会禁止になってしまうこと、この二つは予想できていた。また、急性期の治療が終わったから転院と言われることはチューブが抜けた時点であり得ると思っていたし、患者支援のMさんの話にも出てきた。しかしそれが一気に来た上に、導尿が必要という新しい問題も加わって、頭の整理がつかない。導尿をネットで検索すると自己導尿といって患者本人がやる場合もあるようだ。しかし87歳の父にできるのか、家族がやることは可能なのか。弟が行った時に病室に来た看護師さんは、2、3回見てもらえばできると言ったそうだ。もっともこれは県病院の看護師さんは優秀であるからであって、実際はそう簡単ではないことが後でわかってくる。

転院となると本人の意向を確認して納得してもらわないといけない。2年前の転院では、転院先の病院に耳鼻科がなく、主治医の呼吸器内科の先生は「耳鼻科のことはわからん」と気管切開のカニューレに触ろうともせず、父と折り合いが悪かった。今回もざっと調べたところリハビリ病院で泌尿器科があるところは近場には無いように思われる。そのあたりのことを父と話したい。しかし面会禁止で父とは会えない。2年前は病室にレンタルの家庭用吸引器を持ち込んで看護師さんから吸痰を習った。けれども今回は病室に入れないのだから導尿を看護師さんから習うことはできない。退院か転院かという二択は、今の父の状態からすると転院しかないのだろう。それなら転院に向けて、父の意向を確認するプロセスはまず重要である。また、転院後の見通し、すなわち排尿障害の治療はできるのか、改善しない場合にどう自宅退院につなげるのか、この二点についてはっきりさせたいというのが一晩考えた結論だった。

翌21日、起床してPCあけてメールをチェックする手が思わず止まる。がんで闘病中のS子さんからのメールの一行目、本人ではなく娘さんが書いたもので、続きを読まなくても悪い知らせだとわかった。S子さんとは二十年来のサッカー仲間で、私が試合の時に出す横断幕を何枚も作ってくれた。サポーターというのは応援する人だけど、そのサポーターである私の背中を何度も押してくれたのがS子さんだった。このブログにもサッカーの記事で何度かその活躍ぶりを書いたことがある。一年前にがんがわかって、その後の闘病の力になれなかったことが悔やまれてならない。五十歳になったと聞いたのは最近のことだったのに。私というのは、いざという時に役に立つ男とはいえないようだ。「母と仲よくしてくださり、ありがとうございました」というメールの末文を見て、しばらく動けなかった。

今日は一日中S子さんの事を考えていたいのだけど、父の転院の話も解決しないといけない。9時になるのを待って病棟に電話をかけた。まず無理を承知で、父の意向を確認させてほしいと頼んでみた。看護師さんの答えは、今は面会できないとしか言えないと、これはルールだから仕方ない。そうなると、ここはやはりMさんを頼りたいと思う。Mさんに相談したいから電話をもらうように頼んだ。

そしたらすぐに電話が鳴ったが、Mさんではなくて呼吸器内科の主治医の先生からだった。昨日弟に説明されたことをもう一度私にも話して下さった。排尿障害については前から飲んでいる前立腺肥大の薬を増量して様子を見ていること、膿胸は落ち着いて来たから抗生剤の点滴を飲み薬に切り替えるというのが新しい情報だった。そして父は何を言っても「おしっこが出ない」としか書かないと。そればかり気になるのか先生の言う事が聞こえてないのか、先生も困っていらっしゃる様子だった。そのあと私が知りたかった転院後の見通しの話があった。今は面会禁止で県病院の看護師が導尿を家族に指導することはできない。転院先ではそのチャンスがあるかもしれない。排尿障害が改善しない場合は、転院先から泌尿器科のある病院に通えるようにお願いしておく、とのことだった。その上で、転院調整を依頼しても良いかと聞かれた。今の時点では自宅退院という選択肢は無いのだから、お願いしますと答えた。先生はこの泌尿器科への通院について転院先にしっかり伝えて下さっていた。ありがたいことだった。これで2年前のようなトラブルは回避できそうだ。そうなると、あとは本人が転院に納得してくれるかどうかが重要だ。

Mさんからの電話はお昼ごろだった。まず父に会って話していたから電話が遅れたと言われた。そして、転院については本人もそれで良いと書いたそうだ。おしっこが出たら家に帰りたい、とも書いたそうだ。これで前に進める。Mさんにお願いしたのは正解だった。父に会って意向を確認してくれと頼むつもりであったが、頼む前にやって下さった。Mさんは「お父様は何でも自分で決めて来られたから」と言った。これは2年前の事がMさんのPCに残っていたのだろうが、ここがまさに重要なプロセスであって、さすがプロの仕事だった。Mさんは他にも、あまり食べようとしない理由とか、色々聞いてくださった。2年前のように鼻から栄養入れるかと聞いたら、父は嫌そうな顔をしたそうだ。

そしてMさんは今後の見通しについて、本人または家族が導尿をやるのは難しいのではないかと言われた。二、三回見ればできると弟が看護師さんから聞いて来たと言ったら笑っていた。尿道を傷つけたり、感染症のリスクがあるようで、慣れが必要だと言われた。排尿障害が改善されない場合はカテーテルを入れたままにする留置バルーンになるかもしれないと言われた。これは上記主治医の説明には出てこなかった用語だ。管がついたままの退院は父はもちろん嫌がるだろう。しかしこれまでも、Mさんから聞いた話はあとで生きてきた。前立腺肥大症の薬が効いて尿が出るようになるのが一番だけど、Mさんが泌尿器科の先生に聞いた話では、尿が出ない原因は不明だという。これも病院では泌尿器科の先生には会えなかったから貴重な情報だった。すると改善の見込みもあまり期待できないかもしれない。留置バルーンでの退院も頭に入れておかなければならないと思った。

転院となると、患者支援でも転院担当の方にお願いすることになって、Mさんにお世話になるのはここまでということになる。うちは父しか運転しない事をMさんご存知だから、バス1本で行けるO病院をあげて下さったのもありがたいことだった。Mさんは5月から外来に異動になるとおっしゃっていた。父の場合は難しい手術はもう無理だろうから県病院に入院はこれが最後かもしれないが、事情をよく分かって下さっているMさんが病棟にいらっしゃらないのは残念なことだ。2年前から三度の入院で大病院にもかかわらず細かい事まで道筋を示していただいて、しかも今回は面会禁止で思うように情報が得られない中で知りたいことを教えてくださったのは本当にありがたいことだった。電話では不十分だったから、また改めてお礼を言いたいと思った。

翌22日、転院担当のKさんから電話があって、O病院にお願いしてみて、またダメだったら他を考えるとのことだった。そして23日の午後、まず先生から電話があった。O病院に転院するにあたって、延命治療の方針について先方に伝えなければならないとのことだった。延命治療は望まないつもりであった。しかし話を聞いてみると、延命治療の定義が、私が考えていたのとは違っていた。延命治療というと、回復改善が期待できなくても生命だけを維持する治療だと思っていた。しかし今回の説明では、父のような高齢者で基礎疾患がある者が人工呼吸器を使うことが延命治療という文脈だった。転院先で容体が急変しても人工呼吸器は使わないという同意を求められた、と私は理解した。しかし、母は、父の様子がわからないことで精神状態が少し良くないこともあって、延命治療という言葉を受け付けず、首を縦に振らなかった。私も、父の容体が急変したら即延命治療というのは違和感があった。それで、回復の可能性があれば治療はしてほしいと伝えた上で、それだと転院に支障が出るのか聞いてみた。この問いは意外だったのか先生は転院担当に聞いてみると言われた。すぐに電話があって、その線で転院を進めると言われた。電話を切ったらすぐに転院担当Kさんから電話があって、転院は27日11時O病院着と伝えられた。延命治療について記入する欄があったのだろうぐらいにこの時は考えていた。しかし、O病院の先生から、27日再びこの話を聞くことになる。

O病院は昔は老人病院みたいな印象で近所の方でもO病院で息を引き取った知り合いは何人かいらっしゃる。しかし、最近はそうではないと聞いている。もちろん行ってみないとわからないが、とにかく転院が決まったのを前向きに捉えるしかない。




排尿障害

2021-04-28 20:02:37 | 父の闘病
(父の入院の続き、4月19日のできごとです)

19日は私が病院に行く番、前回から中二日ということになる。いつもと同じ11時過ぎに病棟に着いて父の病室に入るとちょうど看護師さんが来ていて、まずは熱のことを聞いたら、高熱ではないが上がったり下がったり、でもかなり落ち着いて来たとのことで、今日からリハビリをやってもらう。それから尿の出が悪いから今日泌尿器科を予約して受診することになっているとのことだった。熱が落ち着いてリハビリも始まると聞いて嬉しかった。そのせいもあって、おしっこの事はそんなに大変な事だとは思っていなかった。父は「苦しいのにリハビリしてどうするんじゃ」とボードに書いた。まだ、息苦しさや肋骨脇腹の傷みを感じるようだった。しかし、文句を言うようになっただけ回復していると考えることにしよう。ともかく自宅退院のためには、少しでも歩けるようになってほしい。最初はベッドの上での運動だからと看護師さんにも言われてた。

ひとつ父に言っておかなければならない事があって、それは広島でもコロナが増えて来たから、いつ面会禁止になってもおかしくない状況であること、近々会えなくなるかもしれんよと言っておいた。そしたら父は、「タオルがようけ要る」と前と全く同じ事を書いた。

父の足が入院中に弱って歩けなくなってしまうことは私にも予想がついていて、入院の翌日には患者支援のMさんに相談してある。面会禁止も頭の中にあり、実際翌20日付で面会禁止となった。しかしこの後、想定外の事が次々に起きて私の頭脳では対処できなくなってしまう。それは次回に譲るとして、ともかく今日の所は熱も下がって父が元気そうに見えたから、すっきりした気持ちで病院をあとにした。

今日は月曜で図書館はお休み、横川へ出て昼食はランメンギョウザセット。3日前は精神的に落ち込んでいてラーメンセットに苦戦したけれど、今日はいつものペースで腹におさまった。



ランメンはごらんのように黄色い麺で(麺を引っ張り出して写真を撮ったもので食べかけではありません)、ランメンは卵麺のことだと思われる。子供の頃は国道54号線沿いの祇園のあたりだろうか、新幹線の形をした店舗があって、食べたことは無かったが祖父の家に行く時など車内からいつも眺めていた。中学高校時代はバスセンターのお店に何度も行った。その頃は焼肉屋のわかめスープの中に黄色い麵が入ったような感じの塩ランメンが基本であった。胡椒をたくさんかけるとうまかった。麺は今より細かったかな。ランメンにまつわる高校時代の青春の思い出は、改めて書くことにしよう。

そのあと大学からの十年間を京都で過ごして再び広島に戻ってきたら、センター街のランメンは250円の低価格で餃子を頼んでもワンコイン、これもよくお世話になった。しかし味は十代の頃とは変わっていて、広島ではスタンダードなとんこつ醤油がベース。したがってランメンと厨房に通したら昔は塩ランメンだったのが醤油ランメンに変わっていた。麺は少し太くなったが、昔の黄色い感じは薄れたように記憶している。

このセンター街のお店は野球がマツダスタジアムに移る頃に閉めてしまって、そのあと西原にお店ができて何度か行った。しかしこれも閉店となって、ここ数年はランメンを食べられなかったが、今年になって横川の「餃子家 龍」という餃子居酒屋のランチメニューとして復活した。元々ランメンのお店は餃子の皮を作っている老舗食品会社の経営だ。今日は5年ぶりぐらいだろうか、久しぶりのランメンだった。スープは250円時代と同じとんこつ醤油、麺の黄色さは昔のように強くなったと感じた。麺とスープは変わってしまったけれど、私にとって青春の味であることに変わりはない。

話が大きくそれてしまった。とにかくこの日は、父の熱が落ち着いてリハビリも始まるとのことで、早期退院もあるかもしれないと希望を持って家路についた。翌日から難しい問題が次々出てくるのだけど、もちろんこの時は知るよしもなかった。


岩国の栗木軒貞国

2021-04-28 19:52:51 | 栗本軒貞国
コロナ禍につき鉄道バスを乗り継いで県立図書館に行くのは自粛していたのだけど、父が県病院に入院中に病院の帰りに二度ほど寄る機会があった。しかし閲覧室での滞在時間を短くとの注意書きもあり、じっくり調べ物という訳にもいかない。岩国の栗木軒貞国について、書籍検索で出てきた二つの書物を確認するに留めた。私が今まで調べて来た広島の貞国は栗本軒、一文字違いのそっくりさんの登場である。

貞国のことを書くのは久しぶりであるから、貞国の名前について簡単におさらいしておこう。広島の貞国は商売の屋号は苫屋弥三兵衛といい、広島城下の水主町で苫の商いをしていたという。狂歌においては桃縁斎芥河貞佐の門下で、貞佐晩年の一門の歌集には葵という名前で入集している。天明九年までには柳門の貞の字を許され福井貞国を名乗る。したがって貞国は狂歌における号であり「ていこく」と音読みすると思われる。本名はわからない。寛政期までは柳縁斎貞国、寛政八年までには堂上歌人の芝山持豊卿より軒号をたまわり栗本軒貞国となる。また掛軸等の印を読むと「福井道化」という号もあったことがわかっている。そして複数の史料から天保四年(1833)に没したと思われる。

これをふまえて、今度は岩国の栗木軒貞国について、「岩国郷土誌稿」から「岩国の狂歌」の一部を引用してみよう。

中にも栗木軒貞国はその優なる者で岩国地方の泰斗とまで称せられ同地方にては雅号に栗の字、貞の字を附するものゝ多いのはこの人の狂歌名の何れかを授つたものといわれる。
 その出身地は不明なれども愛宕牛野谷に住み同地で歿したと称せられる。この人単に狂歌ばかりではなく茶道、華道、築園何れにも達しわけて華道では雅号を松花斎福井である。道化と称し源氏流で天保の頃の人である。

狂歌の号も本が木になっただけの違いであるが、他にも福井、道化も共通している。これをどう考えるのか。広島の貞国の弟子とは考えにくいネーミングではある。広島の貞国は大野村の狂歌連中の師匠も務めていて、大野と岩国はそう遠くないから接点があったのかどうか、今のところ手がかりは見つけられない。引用箇所の前段には栗木軒貞風という明治の人も出てくる。また、引用のあとの記述で玖珂の栗陰軒貞六の「柳門第四世」を川柳が得意と書いてあるのは誤解で、狂歌で柳門といえば由縁斎貞柳の門下である。図書館の司書さんはまず通史を読みなさいとおっしゃるのだけれど、幅広く書いてあるので狂歌のようなマイナーな項目では誤りも散見される。これは仕方のないことだろう。それにしても、貞六は広島の貞国の後をつぐ柳門四世を名乗っていた訳で、岩国の貞国は普通に考えると目障りな存在だったはずだが、玖珂と岩国でトラブルにはならなかったのだろうか。

次に「由宇町史」から豊川屋敷の項目の冒頭を引用。

豊川屋敷
三国屋旅館に現存する庭園は、天保七年(一八三六)のころ、岩国の人で花道・茶道・狂歌の宗匠栗木軒貞国という者によって築造されたものと伝えられており、ついで藩主の旅舎に充てるため建てられた三重楼とともに、豊川氏の全盛時代を物語るもので、泉石・用材は善美を尽くしたものであったというが、建物は明治になって解体され、今は庭園ばかりがその名残をとどめている。

とあって、天保七年は広島の貞国の没後である。そして検索してもこの庭園はネットには出てこない。三国屋旅館は鈴木三重吉も滞在した宿のようだが、現存しないのだろうか。

どうやら岩国、玖珂、由宇に行って図書館や歴史資料館みたいな所を訪ねてみないと先には進めないようだ。まだ、どんな狂歌を詠んだのかもわからない。ワクチン接種を終えたら、一度行ってみたいものだ。来年のことかもしれないけれど。

膿胸

2021-04-17 10:41:53 | 父の闘病
(父の入院の話の続き、主に4月15日から16日のできごとです)

14日は弟が造影剤CT検査の同意書にサインして検査はその日のうちに行われると聞いてきた。翌15日は母が病院へ。母は昨日の検査の結果を聞くために先生に会いたいという。病棟の看護師さんに希望を伝えるように言ったのだが、ここで母が暴走、直接呼吸器科を訪ねて行ったそうだ。2年前は面会制限もなくて病室にいる時間が長く、先生に会うチャンスも割とあった。しかし今は15分の面会時間のうちに先生が回診にいらっしゃる確率は低い。母も今の病状がつかめなくて不安だったのだろう。しかし、そうだとしても母の行動はルール違反で当然門前払い、病棟で言ったら先生は救急対応していらっしゃって後で電話するとのことだった。病院では怒られなかったそうだから一応私から説教しておいたが、二度とやらないでほしいもんだ。

したがって、夕刻かかってきた先生からの電話の冒頭で母の行動をまずお詫びしなければならなかった。そして、先生からのお話は、造影剤CTの結果では見てわかる悪性腫瘍は認められなかった。来週結果が出る組織検査で悪性となれば肺またはその付近の癌ということになるが、出なかったとしても癌でないとは言い切れない。出なくても癌かもしれないと言われる。ということは胸水の原因として、がん性胸膜炎を一番に疑っていらっしゃるようだ。それから高熱の原因は膿胸(のうきょう)といって、肺の外に膿がたまっていることが考えられるとのことで、どういう種類の菌が悪さしているか調べて対処するとのことだった。また、胸水はここまでに2リットル出て、チューブで取れないところにまだ少したまっている、チューブは近々抜くかもしれないと言われた。それで明日胸水か膿かを注射器で抜く処置をするからまた同意書にサインしてほしいと言われた。理解できない言葉もあって、○○だったらリスクをさけて△△はやらない、と言われたのは意味がわからなかった。また、血流感染という言葉が出てきて、あとで調べても関連が理解できなかった。最後に先生が何か質問は、と言われてもわからない事が多すぎて質問できないパターン。肺炎ではないのか聞いてみたが、今のところ肺炎とは考えにくいとのことだった。

翌16日は私が病院に行く番だった。いつもと同じ11時過ぎに病棟に着いて面会申請書のあと同意書にサインした。あとで控えを読んでもよく理解できない処置だった。病室に行くと、父は口を開けて寝ていた。起こすのもアレだから持ってきたタオル等を納めて、窓から阿武山の写真を撮った。



そしたら看護師さん来て点滴を替える作業の途中で父はやっと目を覚ました。私に向けてまっすぐには起き上がれないというジェスチャーをする。一週間チューブがついたままで、足も弱っているだろうし柵をつかまないと体も起こせない。そして熱があって苦しそうに見える。どうも、よくない方向に向かってるのではないかという不安がよぎる。しかし先生はバイタル的には落ち着いていると言われるのだから今はそれを信じるしかない。昨日の先生の言葉、もうすぐチューブは抜けると父に伝える。しかし今日は金曜日だから、あと2日、月曜まで我慢と言っておいた。しかし実際には、この日の午後チューブを取ってもらったようだ。

父の経過が思わしくない上に、この日は残念ながらナースステーションにMさんの姿は見当たらず、どんよりモードの帰り道となった。何もしたくない気分ではあったが前回の関連であと一冊読んでおきたい本があり、今日も県立図書館まで歩いた。昼食は広電本社前電停近くの一味でラーメンセット。




美味しいラーメンであったが、今の私には多すぎた。父のこともあって、全然食欲がわいてこない。なんとか食べ切ったが、次からはラーメンだけにしよう。

図書館で借りようと思った本は予想以上に重く、関係箇所をコピーにとどめた。これで一本記事が書けるはずなので、次回久しぶりに貞国のジャンルで書いてみたい。外へ出て、前から気になっている天光堂という和菓子屋の前に店員さんが椅子を出して座っている。なんとなく入りにくい店だったので、この機会に寄ってみた。丁寧に説明していただいたのにバラで3つしか買わなくて申し訳なかった。水曜金曜の14時までやってますと聞いて、ここはお店ではなく工場であることに気づいた。曜日限定の工場直販だったようだ。普段は入りにくいはずだ。



そのあと、もう一つの事件。帰りの芸備線に乗っていたら携帯がブルブル震えた。家との連絡用に通話のみのガラケーを持ってはいるけれど、携帯から家にかける事がほとんどで、かかってくることはめったに無い。悪い知らせかもしれないと思って車内ではあるけれど通話ボタンを押した。そしたら病棟からであったが、若い看護師さんの「小林さんの携帯でよろしかったですかぁ」と呑気に語尾を上げた口調から、急変では無いとわかった。用件は、紙おむつを使いたいからプランに加入してくれというものだった。体を起こすのも難儀だから、ポータブル便器に座らせるのも大変ということだろうか。是非もないことで、明日申込書を書くと答えて電話を切った。チューブが近々抜けそうという以外はあまり良い話のなかった昨日今日であった。



小康状態

2021-04-17 10:30:45 | 父の闘病
(父の入院の話の続き、4月13日のできごとです)

前回から中三日、13日は私が県病院に行くことになった。父がしんどい時にできるだけ行きたいと母は言う。母も85歳であるからあまり無理をしてほしくないのだけれど、コロナの感染者数は広島でも徐々に増加していて、いつまで面会できるかわからない。母の希望をいれて、この三日間は母が二日、弟が一日様子を見に行った。前回私には父は相当弱っているように見えた。ところが母と弟は、そんなことは無い、結構元気だったと言う。兄貴は悲観的過ぎると弟は言い、母と弟は自分の見たいものしか見ていないと私は思う。これはまあ、足して2で割ったぐらいが正しいのかもしれない。

4日前と同じ時間のバスだったが、雨で大学病院入口のあたりから渋滞、次の出汐1丁目でたくさん降りた。歩ける人は大学病院まで歩いた方が早いということだろうか。県病院着は10分以上遅れた。

父は確かに4日前よりは元気そうに見えた。ボードに「食事を半分食べた」と書いた。4日前はちょっと手を付けただけだったから、食べられるようになったと伝えたかったのだろう。チューブから出た胸水も少なくなっていて、本人はもうすぐチューブが抜けて退院できると思っているのかもしれないが、そう簡単にはいかないだろう。いや、母や弟は違うと言うかもしれないが。退屈しているだろうと週刊誌を差し入れたが父はあまり興味を示さず、「タオルがようけ要る」と書いた。わかったと答える。前回は先生の説明、昼食、レントゲン撮影と行事が続いてけっこう長く病室にいたけれど、今日は何もないから15分程度と決まっている面会時間を守りたいと思う。そのことを父にも言って病室を離れた。

デイルームの横の、携帯電話はここでお使いくださいと書かれたボードのところで母に報告していたら、ナースステーションから患者支援のMさんが近づいてくるのが見えて慌てて電話を終わらせる。昨日、ケアマネさんに連絡を取っていただいたようだ。まずは父の食事の話で、家でもたんぱく質が取れないことを話す。父はミンチ料理とか豆腐みたいなものが嫌いで、肉や魚の原型を留めたものを食べていたが、嚙む力も衰えて難しくなってきた。卵料理もあまり好きではないし、処方されている栄養補助飲料にもたんぱく質は入っていない(入ったものは甘くて飲めないと父が嫌がった)。納豆は少し食べる。Mさんからは、今はたんぱく質の入った補助剤も出ている事、豆乳をうまく使う事などを提案してもらった。Mさんは母が胃ろうを嫌がっていることを覚えていた。あるいはMさんがいつも持ち歩いているノートPCにメモが残っていたのかもしれない。母の主張は多分にデマを含んでいると考えられるのでここには書けないが、とにかく胃ろうはいけないと2年前Mさんにも力説したようだ。

次に、前回相談した足が弱っていることについて。チューブがとれるまでベッドを離れられない状態だから、退院時には歩けなくなっていることも十分考えられる。転院してリハビリして帰ったらどうかという提案だった。2年前の転院には良い思い出が無いので父は嫌がるだろうと言っておいた。しかし、この時点でこういう話を聞けたのはありがたいことで、楽観論の母や弟にも頭の片隅に入れておいてほしい事だった。実際、10日後にはこの方向で動き出すことになる。

それから、ケアマネさんから父がまだ運転して通院していることを聞いて、Mさん「運転するなって言ったのに」と怒っていた。首を傾けて「運転」の二文字を忌まわしいことのように低いトーンで区切って言ってプンプン怒っている様子もまた素敵で・・・いや、これは私が言っても聞かないから、2年前の退院の日に私がMさんに頼んで運転しないように言ってもらったのだった。良い作戦だと思ったのだが、父は私のようにMさんにメロメロではないから効き目がなかった。父が退院してから2年の間にも大勢の患者さんを担当されてきたはずだが、他にこんなことを頼む人はいないのかMさんはっきりと覚えていた。それで私のことも覚えていて下さったのだから、あながち作戦失敗とはいえない。

またお話を聞いてもらったことのお礼をMさんに言って、「いいえ」と抑揚をつけた返事にまたドキドキしながら外へ出ると小雨模様。前回は苦しそうな父の様子にどんよりしながら帰ったのだけど、今日は父も少し元気そうだったし順番が病室のあとでMさんだったから気分が違う。雨だと花粉フリーでもあるし、図書館まで歩くことにした。途中、附属学校電停近くのつけ麺屋で昼食にした。病院に行くバスから眺めて気になっていたお店だ。広島つけ麺というのは私が子供の頃には無かったもので、実は一度も食べたことがなく、つけ麺というとハウスのつけ麺(袋ラーメン)しか知らない。一度食べてみることにした。小さなアクリル板で仕切られたカウンターに座って、定番つけ麺というのを頼んだ。辛さを選べと言われたが、見当がつかない。最初なら4にしときますかと店員さんに言われて、30段階の4番目、あまり辛くない方を選んだ。





正直にいえば、あまり旨味を感じなかった。もっと辛くするか、カツオつけ麺というのがあったからそちらにした方が良かったのか、ベストの選択ではなかったようだ。再チャレンジするかどうかは、気が向いたら、ということにしておこう。

そのあと歩いて御幸橋を渡る。お天気は悪いけれど、河口方向を一枚。




渡り切ったところにある原爆の説明板にあったのは教科書などで何度も見たことがある広島市民にはおなじみの写真だ。




県立図書館では閲覧室での滞在時間を短くするようにとの注意書きがあり、素早く一冊借りて帰った。これについては別の記事に書いてみたい。そのあと広電本社前電停から横川経由で帰宅した。

この日まで父は順調に回復しているように見えたのだけど、翌14日の朝、主治医である呼吸器内科の先生から電話があり、13日夕刻から38℃の熱が出て採血したら炎症の値が高く、抗生剤を点滴投与しているという。また、胸水を検査に出したところ、まだ確定ではないが癌細胞らしきものが見つかったとのことで、ついては造影剤CT検査をしたいから同意書にサインしてほしいと。先生は、父とは意思疎通がしにくいとおっしゃる。父は耳が遠くて声も出ないから、確かに会話には時間がかかる。しかしまだ判断力を無くしてはいないから時間をかければできると思うのだけど、今コロナ病棟のある病院の呼吸器の先生は大変だから、これは仕方ないのだろう。バイタル的には落ち着いていると言われたが、高熱はしばらく続いて、家族の緊張は再び高まった。13日まで、つかの間の小康状態であった。




胸腔ドレナージ

2021-04-14 19:11:39 | 父の闘病
前回の続き、父の入院二日目、4月9日のできごとです。

父の入院の翌日は私が荷物を持って行くことになった。面会時間は家族のみ1日1回2人まで、11時から13時または15時から20時のうちの15分以内ということになっている。昨夜の話では、肺の水を抜く処置はおそらく午前中に行われるから午後から来た方が経過がわかるのではないかということだった。しかし考えてみると、昨日は救急外来から即入院となったため、必要なものを何も持って行ってなくて甚平をレンタルして売店でティッシュを買っただけ。洗面用具や箸なども無い状態だから、ここは11時着で行くことにした。

今日は私一人であるから芸備線で広島駅まで出てからバスに乗る。二年前は一ヶ月の転院をはさんで合計半年間通った道だから目をつぶっていてもたどり着ける、と言いたいところだが、この二年の間にバス路線が変わってしまった。以前のコースは廃止になって、まちのわループという路線が新設された。広島駅南口のバス乗り場を出て大学病院、旭町を経由するから以前の皆実高校から広大附属を通るルートに比べて少し遠回りになるが、三つの大きな病院のあと繁華街の八丁堀を経由することもあって乗客は増えたような気がする。私が乗った10時40分発のバスは数分遅れて11時10分ごろ県病院前に着いた。

入り口で検温と手の消毒をしてからエレベーターで8階へ上がる。受付で面会の申請書、と思ったところで「小林さん」と声をかけられて、誰だか認識する前に「Mです」、えっ、びっくりした。患者支援のMさんは看護師の服を着ていらっしゃるけれど、仕事は違う。以前の髪型は看護師さんのようにまとめてなくて(女性の髪形を表現できなくてごめんなさい)、頭髪の規律が看護師さんよりも少し緩いのかもしれないと思っていた。だからシルエットでもすぐにMさんだとわかったのに、髪がショートになっていて近くで顔を見るまで全然気付かなかった。昨夜カウンターでお名前を見つけた時からお会い出来たら何の話をしようかと考えを巡らせて、作文は頭の中で完成している。まずは面会申請かきながらナースステーションの中をきょろきょろ探す段取りだったのに向こうから声をかけられたのは不意打ちで、しかもショートがとっても似合っていて・・・いや、私はMさんのお仕事をリスペクトしているのだから、かわいいとか口に出してはいけない、ここは我慢して・・・いや何を我慢するのかわからないが、とにかくクラッときた体勢を立て直して昨夜準備した本題に入ろうと思う。

その前に、前回の父の入院のことを簡単に書いておこう。2年前の春、85歳だった父は最初の声帯のがんを取り除くの手術の後、放射線治療を受けたところ腫れで気道が狭くなり気管切開となってしまった。のどに穴をあけてカニューレを装着して痰をとってもらいながら飲み込みのリハビリを続ける日々、Mさんが転院の話をもってきたのは5月の終わりごろだった。急性期の治療は終わったから回復期を受け持つ病院に移る、というのは理屈ではわかる。けれども初期の癌だから放射線で9割は治る、と言われて放射線治療をうけたのに、状況はどう見ても悪くなっている。癌の治療は終わったと言われても、転院は素直に受け入れられるものではなかった。したがって、Mさんとの出会いはあまり印象の良いものでは無かった。

しかし保険の都合もあったのだろう、入院90日目となった6月下旬に転院せざるを得ず、一ヶ月リハビリ等したあとで、気管切開閉鎖の準備として気道を広げる手術のために県病院に戻った。再入院の翌日が手術予定だった。またMさんがやってきて、介護認定や電動ベッドのレンタルの話をされたが、翌日の手術のことで頭がいっぱいで耳に入らなかった。ここでも、まだMさんのお仕事の重要性について理解しないままだった。

二度目の手術で新しい癌が見つかって、気管切開閉鎖は断念、その上で咽頭摘出の手術をすすめられた。手術によって気管と食道は分離され、声は出なくなる。本人、家族にとっても大きなショックであったけれど、ほかに手段が無いならお願いしますと父はボードに書いた。家族としても手術後は家に連れて帰って痰は自分たちで吸引することに決めた。その方針で前に進むしかない。ここからは全面的にMさんのお世話になった。介護認定、障害者手帳の申請、家庭用吸引器をレンタルして病室で練習、地域包括支援センターの訪問、退院前カンファレンスなど、手術から退院までの一ヶ月の間に、Mさんのおかげで確実に前に進めたと思う。

父の長い入院の間、4人部屋の他の患者さんに対するMさんの話が聞こえてくることがあった。耳の遠い高齢者が多いから、聞きたくなくても聞こえてくるのだ。やはり手術前日の入院が多くて、患者さんの反応は芳しくない。目の手術を翌日に控えた患者さんに、失明した場合にどこを頼るかと言っていて、聞きたくない話だ。でも色々な事態を想定して頭の片隅に置いておいた方が良いということ、今ならばわかる。いつまでも幸せに暮らしました、はあり得ないのだ。そんなこんなでMさんの仕事をリスペクトする気持ちは日に日に高まって、10月の退院の時には何度もお礼を言った。

話をMさんと再会した場面に戻す。今回相談しておきたいのは、父の足が弱って来ていて、特に夜中のトイレに行くときに方向転換で転倒することがある。もし歩けなくなったとしても、自宅で介護したいと考えているが、何が必要でどれぐらい大変なのか、聞きたかった。そしたら昨夜入院だったのに父の足のことは知っていて、誰かついてトイレに行った方がいいとスタッフも話しているとのことだった。往診してくれる先生の存在とか、何点か言われたけれど、やはり歩けなくなってから自宅で介護は大変みたいでまずはリハビリ等で寝たきりを回避するのが大切なようだ。また、最初に訪問看護指示書を出したのが県病院の先生で、今も訪問看護上の主治医は県病院になっているから、往診してくれる先生がいたら主治医を移行した方が訪問看護の看護師との関係がスムーズになるかもしれないとのことだった。とにかくケアマネさんに話を聞いた上で、またお話しましょうということになった。

そのあと、処置を終えた呼吸器内科の先生に病室で話を聞いた。タイトルにした胸腔ドレナージ、肺にチューブを差し込んで7日から10日ぐらいで胸水を抜くということだった。チューブは大きな機械につながれていて、これを持ってトイレに行く訳にはいかないから紙おむつで対応すると先生が言ったら、父は嫌そうな顔をした。出てきた胸水を検査に出して原因を調べてから必要な対処をすると言われた。チューブを抜いたら手袋をしてもらう、そしてもう一度痛い処置をしなければならないと先生は念を押した。

そのあと来た看護師は、紙おむつ付けなくてもポータブルの便器で大丈夫と言って、父は少し安心したようだった。しかしチューブを挿す時かなり痛かったそうで元気がなく、遅れて出された昼食にもほとんど手をつけなかった。チューブが外れないように、ベッドから体を起こしたらナースコールが鳴るセンサーが付けられていて、一週間以上ベッドから離れられない。さっきMさんに相談した事が、二週間後に現実となる可能性がかなり高まったように思われた。

昼食は病院近くの太閤うどんでとり天ぶっかけうどん。ここは、おじやうどんが名物なのだけど、わたしゃ猫舌なので鉄鍋で出てくるうどんはノーサンキューである。ここのうどんはうまいのだけど、寄るのは手術日とか気持ちが落ち着かない時が多い。気持ちが前向きであれば、食事は病院の食堂などでさっと済ませて移動しているはずだ。





Mさんに会えた嬉しさは一瞬で吹き飛んでしまった。そして二週間後の現実は、もっと厳しいものだった。




救急外来

2021-04-12 14:10:11 | 父の闘病
8日に父が急に入院となり、今はちょっとバタバタしていていつも読ませていただいているブログも全部は追えてないかもしれません。ごめんなさい。以下はその日のことを忘れないうちに。

数日前から父は食欲が落ちて、お粥を少し食べるだけになってしまった。おかずも食えといったら、ほんの舌の先に乗るぐらい食べる。胃がもたれる感じがすると言うから、胃腸が弱っているのだと思っていた。そして、8日の夕刻、近所のかかりつけ医で胃を診てもらうと自分から言い出した。父がそういう事を言うのは珍しくよほど悪いのだと思った。

近所の内科医はまずお腹をエコーで見て、食べたものは消化できていて胃腸は問題なさそう、しかし次にレントゲンで胸部をみて、右の肺に水がたまっていると言う。そして、救急車を呼ぶ程ではないが、今日中に診てもらった方が良いだろうと一昨年父が入院していた県病院に連絡してもらって救急外来に行くことになった。父は自分で運転して行くと言ったが入院になるかもしれないからと何とか説得した。しかしこの時点ではどれぐらい深刻なのかわかっておらず、必ずしも入院になるとは思ってなかった。

タクシー呼んで県病院といったらいつも父が運転する女学院前から的場というルートではなく、福田から高速道路を勧められた。右手に黄金山、正面に似島、左手にマツダ本社や海も見えて宇品まで確かに早く着いた。障害者割引とタクシー券1枚使って現金での支払いは六千円(高速料金込み)だった。思っていたより安かった。時間外入り口からはいって車いす借りて救急外来に着いて時計を見たら18時だった。ここまで慌てて来たこともあってその前かかりつけ医の受診やタクシーを呼んだ時間は確認していない。

救急外来の3つあるうちの2診に入ると女性医師がいらっしゃって、名札をみて後で調べたら糖尿病が専門のお医者さんだった。紹介状わたして状況を説明して、レントゲンとCTをとりにいってまた救急外来に戻って採血と点滴、というところで呼吸器内科の当直の先生がいらっしゃった。水は相当たまっていて、入院して明日水を抜く処置をする、出てきた水を検査に出して原因を調べる。考えられるのは癌とか感染症とかだけど原因がわからない場合もある。入院の目安は2週間と言われた。あっという間に入院と明日の処置が決まったということは、こういう場合のお決まりのコースなのだろう。処置の同意書等を書いて渡したところで、明日からは他の先生に担当が変わること、入院の準備ができるまで救急外来の待合室で待つように言われた。夕食の時間を過ぎると病棟の看護師さんが一気に減るのは2年前に経験済みなので、気長に待つことにした。ここでひとつ失敗したのは今の呼吸器内科の先生の名札を見ていなかったこと。意識しないでおくと女性の名前しか覚えようとしないのは私の悪い癖だ。

病棟に呼ばれたのは19時半過ぎだった。今回は2年前の耳鼻科とは違い呼吸器内科での入院なのだけど、病棟は同じだった。一般用エレベーターに乗ると蓋がしてあってボタンが押せない階があり、そこがコロナ病棟なのだろうか。エレベーターを降りると2年前は使ってなかった西病棟のナースステーションにも明りがついていた。これもコロナ病棟を作った影響で移って来たのかもしれない。広島の感染者数は少し落ち着いているけれど、病院はまだまだ大変そうに見えた。面会は家族のみ1日1回15分以内と書いてあって、これは守らないといけない。

父は看護師さんが車いすを押してすぐに病室へ、私と母は面会申請書を書いた後もう一人の看護師さんと少しお話、さっき待合室で書いた問診票のようなものを見ながらあれこれ聞かれた。母は2年前の看護師さんは残っているか聞いていたが、最近は短いスパンで異動があるとのことだった。カウンターに掲示してある責任者の名前を確認すると、確かに婦長さん(今は男性もいるから婦長さんとは言わないが覚えにくい役職名だった)と薬剤師は2年前とは違う方だったけど、患者支援のMさんの名前は残っていた。これは嬉しかった。2年前は介護認定や障がい者手帳の申請や吸引器のレンタルなどでMさんに大変お世話になり、退院後もMさんに聞いた話があちこち役に立った。お会い出来たら、お礼を言いたいと思う。

病室に案内されたら、まだ看護師さんの説明が続いていた。このIさんという男性看護師は2年前もいらっしゃったが、真面目な性格の方で一から丁寧に説明されていたようだ。急な入院で何も用意していない。とりあえず甚平をレンタルして、売店でティッシュと飲み物とパン、面会室でテレビカードとイヤホンを買って病室にもどった。前回は転院をはさんで半年以上ここにいたから何がどこにあるかはわかっている。売店は前回の入院の終わりごろローソンからポプラに移行してポプラが仮店舗で営業している時期があった。それが最近多くのポプラはローソン・ポプラに移行というニュースが伝えられて、この病院のポプラもまさに移行中で今度はローソンが仮店舗で営業していた。前回も仮店舗の時期にいたものだから、仮店舗と聞いても場所はすぐにわかった。

買い物を終えて病室に戻ったらチャイムが鳴って20時で面会時間は終了と言っている。まだレンタルの甚平が届かなくて父は来た時のままの服装なのだけど、前にも書いたようにこの時間の看護師さんにあれこれ注文を付けるのは避けたい。私と母はそろそろ引き上げることにした。

帰りはバスを不動院で乗り換え、しかし自宅から徒歩3分のバス停に着く路線は夜間は本数が少なくて30分以上の待ち時間があり、徒歩8分のJR駅前に着くバスに乗ることにした。田舎の真っ暗な道で母の足だと15分ぐらいかかった。夕食は簡単にスパゲッティを茹でた。この時点ではまだ、翌日からの展望ができていなかった。肺の水をじゃーと抜いて終わりぐらいに思っていた。明日は私一人で荷物を届けに行く。もしMさんに会ってもドキドキしないように何を話すか頭の中で作文しながら眠りについた。今考えると、我ながら全くもって愚かな事であった。






不動院前から

2021-04-05 20:48:20 | 寺社参拝
お彼岸の3月22日に不動院をお参りした時のことを書いてみたい。しかし、この日の本来の目的は墓参りであり、途中バスの乗り換えのついでにお参りしたもので、短い時間で写真もあまり撮っていない。そのためタイトルは不動院前からとしたが、今調べたら不動院前はアストラムラインの駅でバス停は不動院だった。ややこしいことだ。



(広島地区の交通系カードPASPYの履歴)


高齢の両親のことを考えると、墓参りは春秋のお彼岸に一緒にお参りして、猛暑が予想されるお盆は私一人という予定でいた。しかし近頃の朝晩の気温差で両親とも体調が悪く、特に父は食欲もなくて墓参りは難しそうだ。そこで私だけということになったのだが、金曜ぐらいからアレルギー性喘息のような症状が出て、彼岸の中日を過ぎた月曜日にやっと落ち着いて午後から出かけることにした。このあたりのお年寄りは皆、墓参りは午前中に済ませるものだと言われる。いや、スーパーも町医者も午前中が混んでいるから御用はすべて午前中というのが当地の高齢者の常識なのかもしれない。数年前、中国山地の小さな町にある親戚のお墓の場所がわからず道行く爺さんに尋ねたら昼過ぎて墓参りとは何事かと笑われたことがある。しかし、平日の午前中に済ませるとなると行きが通勤ラッシュと重なってバスが混んでいるだろう。今は密を避けるという大義名分があるのだから、堂々と昼から出かけることにした。

お参りするのは、東白島町にある父方の墓と二葉の里にある母方の墓の二か所で、あとは母のリクエスト、むさしの俵むすびを買って帰ることになっている。まずは、バスを不動院で乗り継いで東白島町を目指すことにした。一昨年、父が宇品の県病院に入院していた半年間は何度か不動院で乗り替えた。私が一人で行くときは芸備線からバスに乗り継いだ方が断然早く、手術や説明会など母と一緒に行くときは徒歩が少ない不動院乗り換えを選択した。バス停に着く手前で家の間からちらりと不動院のお寺が見えて、いつもバスの中から父の病気平癒をお薬師様にお願いしていたのだけれど、お参りはできなかった。母があまり歩けないから、というよりは心の余裕が無かったと思う。今日は一人でもあり、二か所分のお花を抱えて甚だ不格好ではあるけれども寄ってみることにした。

バス停裏の階段を下りて左を見るとすぐに参道の入り口が見えて、山門までは徒歩1分だろうか、五十年近く前、小学生の時に遠足か何かでお参りして以来ということになる。




山門の手前には境内の案内図があった。




今日は墓参りもあって時間はかけられない。とりあえず金堂の前で父が無事に過ごせていることのお礼を申し上げた。しかし、広島市唯一の国宝である金堂全景を撮らなかったのは相変わらず間抜けなことであった。いずれ薬師様開帳の折にゆっくりお参りしたいものだ。





金堂の裏に回ると、「牛の守護佛 法起菩薩」という立札があって、そこにいらっしゃったのはあまり見かけない菩薩様、





ネットで検索すると農耕の守護神と出てくるのだけど、有名寺院の御姿とは随分違っていて、これは何をモデルに作られたのか私の知識ではさっぱりわからない。持っていらっしゃるのは農具だろうか?

不動院は被爆建物ということでも知られていて、それを記した説明板もあった。




父の一家は原爆の爆風で西白島町の家が倒壊し戸坂の知り合いの家まで逃げる途中この不動院の傍らを徒歩で行き過ぎたはずだ。その時のことは法事のたびに叔母から聞かされてきたのだけれど、白島から牛田へ工兵橋を渡るところが眼目なので工兵橋の写真を撮ってから書いてみたいと思っている。

安国寺恵瓊のお墓は次回という事にしてバス停にもどった。ここからは仁保沖町行きのバス、その前の深川線に比べると本数が多い。すぐに降りるから前の方に座ろうとしたら、前の広島交通のバスで座った運転手の真後ろの席は、こちらの広島電鉄のバスでは使用禁止になっている。郊外線と市街地を走るバスとでは温度差があるのだろう。座れてもそこは避けた方がいいのかな。バスは神田橋を渡り子供の頃よくお参りした碇神社の前を過ぎてほどなく白島町のバス停に着いた。ここから父方の墓までは徒歩1分、中日を過ぎた平日ということもあって他にお参りする人もいない。ゆっくりお参りする間に、北側を走っている山陽本線の電車をバックに写真を撮ってみようと思い立った。しかし、通り過ぎたのは貨物列車で、しかも防音壁に隠れてほとんど写っていない。これは失敗であった。うちの墓の前ではなく、もっと離れたところからカラフルな電車が来たタイミングで撮るべきだった。




しかしながら怪我の功名、いや恥の上塗りかもしれないが、この失敗写真はエイプリルフールの記事のモチーフとなった(記事の順序が逆になって彼岸の事を今頃書いていること、おわび申し上げます)。私は、ほら吹き爺さんになりたいと常々考えていて、このイベントにはできれば参加したいと思っている。読んでいただいた皆様には迷惑に違いないのだけれど何卒ご容赦願いたい。そしてもうひとつ、やはり外に出て歩き回らなければアイデアは出てこないという教訓をもらったような気がする。うちは両親が高リスクと考えられるので、両親のワクチン接種まではあれこれ我慢しようと思っている。しかしずっと引きこもっていたのでは視野も狭くなってしまう。散歩の回数だけでも増やしたいけれど、最近は自身の疲労感もあって難しい。

父方の墓から母方の墓までは徒歩10分ぐらい。途中常葉橋の桜は白島側はほとんど咲いてなくて、橋を渡り終えた二葉の里側は結構咲いていた。白島と二葉の里は同じ学区で、白島に住んでいた小学生時代はこの橋を渡って二葉の里の友達の家に遊びに行ったものだ。









道中では、鶴羽根神社前の桜が一番よく咲いていた。彼岸の墓参りに桜を眺めながら歩くというのは過去に記憶がないことだ。




母方の墓は誰かがお参りした形跡はなく、タンポポがぎっしり生えていて抜くのに苦労した。あとから考えると、中日を過ぎても誰もお参りしていないのだから、体裁を気にしてタンポポ抜かなくても良かっただろうか。とにかく草抜きでくたびれた。

帰りは広島駅まで歩いて買い物をしてから芸備線で帰った。考えてみると芸備線も5か月ぶりぐらい、我ながらよく引きこもったものだ。久しぶりに芸備線から阿武山を一枚、と思ったけれど、ねらい目の安芸矢口駅では日よけが下ろされていて撮れなかった。ボックスに私だけになったのはラストのひと区間だけ、やっと一枚カメラにおさめて、今日のお墓参りを締めくくることにした。




赤ちょうちん

2021-04-01 01:30:29 | エイプリルフール
それは突然のことでございました。ある朝、工事の人たちがやってきて住処をすっかり壊されてしまったのでございます。我が家は京橋川にかかる常葉橋のたもと清正公の祠の近くにありました。二葉山の眺望はもう五十年ちかく前に新幹線の高架によって遮られてしまった上に、新幹線の下を走る山陽本線とともにガタガタ騒音を発して決して良い住環境とは言えませんでした。また、並びと比べても一番小さな家でした。しかしそれでも住み慣れた家があっという間に更地にされてしまったのはむごい事でした。今は狭い所におし込められ、縁の者も訪ねて来ることはありません。

いえ、若い人たちに恨みを言っているのではありません。むしろ、今のコロナ禍においては、若者や子供たちに不自由な思いをさせて気の毒な限りだと思っております。遠い昔、私どもにも青春というものがございましたが、若い頃の時間は、今よりもずっと貴重であったと思います。もちろん失敗や後悔も多いのが青春ではありますけれど、間違いなくかけがえのない時を経て今に至っていると言えるでしょう。とにかくその貴重な若者たちの時間を、すでに一年以上にわたって色々と制限を加えているのでございます。そして、高齢者など高リスクの人にうつさないために若者も自制してほしいという理由付けがなされていることを、我々はいつも心に留めておく必要があります。いつまでマスクをしなければならないかと当たり散らすのは見苦しい限りでございます。私としてはワクチンは高齢者より先に若者に接種をお願いして自由に行動できるようになっていただきたいと願っております。

だいたい我々の世代と申しますと、原発の核のゴミは次の世代に先送り、干潟も里山も壊してプラスチックごみを海洋に流出させて、ウナギやマグロは食い尽し、 温暖化に歯止めがかからず豪雨災害が多発、バブルの借金残して少子高齢化対策は不十分で、政治は与野党ともに知恵が無く、官僚も企業も旧態依然で国際競争もおぼつかない、後世の日本史の本にはおそらくダメダメな時代として記述されることでしょう。しかしながら、だからといって卑屈になることはありません。上皇陛下も仰せのごとく、若者を戦地に送り出すことが無かったのは大事なことでございます。ここは若者に一歩譲る心を持ちながら堂々と過ごしたいと存じます。人出が増えているとニュースで聞いたら、その分我々がバランスをとって少し我慢するぐらいの心持ちはいかがでしょうか。公園で元気よく遊ぶ子供たちにクレームを入れる高齢者というのはいただけない事でございますが、お元気であるならば引きこもることはなく、今般のルールをしっかり守って用心しながら出かけて行けば良いと思うのです。ですから今回のことも、時代の流れなのでしょう。

清和の候、あるいは花紅柳緑の好時節と称される四月のはじめの日に、何でじめじめとくだらない話を続けているのかいい加減にしろという声が先程から聞こえてくるような気がします。おっしゃる通りでございます。今のパンデミックも旅行や外食自体が悪いのでなく、多くはおしゃべりでうつるのだと聞いております。まさに口は禍のもとでございます。しかし私も、風柔らかに一入長閑に御座候とはいかなかった、いえ、そろそろ終わりに致します。近ごろは大声で歌うのも要注意ではあるのですが、最後にちょっとだけ、私がまだ生きていた頃の、それこそ青春時代の歌の一節を聞いていただきたく存じます。赤ちょうちんという歌です。曰く、


   貨物列車が通ると揺れた

   ふたりに似合いの墓でした


ああ昭和は懐かしい。もう一度夜の巷に繰り出したい。しかし今、ここはいかにも狭苦しいのです。化けて出るにも赤ちょうちんとはいかなくて、人魂も秋田の竿灯のごとく串刺し鈴なりなのでございます。 合掌。