阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

「がんす」の用例

2022-08-09 19:42:53 | 日本語
前の記事でちょっと触れた地元テレビ番組の「うまいでがんす」であるが、用例を改めて調べたところ、やはり正しい広島弁とは言えない。間違った言葉をタグにしたくないので、最初に結論を書いておこう。分類するのに形容動詞なんて言葉を使うのは久しぶりなので調べてみたところ、大きなヒントになる説明があった。形容詞との違いについて、「静かである」と~であるをつけて大丈夫なのが形容動詞とあった。「うまいでがんす」は、「うまいである」と同じ間違いと言えるだろう。

今回、手近な三冊から用例を探した。いずれも民話である。方言の本は単語を集めたものが多く、今回は不向きであった。用例を列記してみよう。

出典

安 安芸町誌
ひ ひろしまの民話 中国放送編
日 日本の民話22 安芸・備後の民話1


用例

A形容詞の連用形(ウ音便)✙がんす 7例
安 ようがんす
安 さびしゅうがんす
安 ありがとうがんした
ひ ようがんす
日 お経を唱えて暮らすがようがんすど
日 さびしゅうがんす
日 ありがとうがんした

B助動詞「たい」の連用形(ウ音便)✙がんす 2例
安 力になりとうがんした
日 お上人さまの力になりとうがんすが

C「ようがんす」がつづまった形 1例
ひ よがんす

D形容動詞の連用形✙がんす 1例
ひ きれいにがんすのう

E動詞「がんす」 2例
ひ うそじゃあがんせん
ひ 換ぁこうしょうじゃあがんせんかあぃ

F体言+でがんす 25例
安 なんぎでがんしょうのう
安 きかせてもろうとるんでがんす
安 いとわん身でがんすがの
安 ようせんのでがんす
安 不思議なことでがんすのう
安 流れとるんでがんす
ひ もどったんでがんすよ
ひ ほんまでがんす
ひ おったんでがんすよ
ひ 売らんのでがんす
ひ ご苦労でがんした
ひ 法事でがんす
日 なんぎでがんしょうのう
日 果報もんでがんすよの
日 百姓の利平ゆうもんでがんす
日 本当の乞食でがんす
日 ここにうずくまっておったんでがんす
日 楽しみでがんした
日 ありがとう聞かせてもろうとるんでがんす
日 雪や霜でもいとわん身でがんすがの
日 ようせんのでがんす
日 お上人さまのおかげでがんす
日 不思議なことでがんすのう
日 流れとるんでがんす
日 下男でがんす

G体言の省略+でがんす 1例
ひ 言うてでがんすけえ


この通り、用例の三分の二が「~でがんす」となっていて、「うまいでがんす」を決まり文句としたテレビ局の人はこれが一般的な形と思ったのかもしれないが、形容詞、形容動詞はすべて連用形についている。AB形容詞型は例外なくウ音便、Cの「よがんす」は父がよく使っていたが、時に「えがんす」とも言っていた。D形容動詞が「きれいにがんす」となっていて、「きれいでがんす」ではないのが気になるところだが、ここはもうちょっと用例が欲しいところだ。E「換ぁこうしょうじゃあがんせんかあぃ」(かえっこしようではありませんか)をうまく読むのは難しい。そして、Fの名詞プラス「でがんす」が最もよく使われている形だ。Gをどう理解するか、言ってることでございますから、と体言を補ったものと言えるだろうか。もし、敢えて「かばちをたれる」ならば、Gのように、「うまいのでがんす」「うまいんでがんす」の体言が抜けたと主張できるかもしれない。しかし、これらは食べたその場で言う言葉ではない。リアルタイムにうまいと言うなら、やはり「うもうがんす」となる。番組で定着してしまっている言葉であるから今更やめられないかもしれないが、せめて、「正しい広島弁ではありません」とテロップを出すぐらいはしてほしいものだ。



剣呑

2019-12-04 15:46:47 | 日本語
学生時代の事であるから三十年以上前のことだけれども、その頃読んだ漫画で男がナイフを取り出して、隣の男が「剣呑剣呑」と言う一コマがあった。自分の感覚では剣呑は dangerous ではなくて risky ではないかと思っていて、目の前のナイフが危ないという時には使わないのではないかと思った。しかしその時は調べてみようとは思わずそのまま忘れてしまっていた。昔と違って今は検索とかも色々手立てがあることだから、ちょっと調べてみた。まだまだ用例が足りないが上記の英単語で説明しようとしたのは全くの見当はずれであったようだ。


まずは徳富蘆花「不如帰」(明治32年)から引用してみよう。

「宜しい。分(わかい)ました。畢竟(つまり)浪が病気が剣呑ぢやから、引取つて呉れと、仰有(おつしや)るのぢやな。宜しい、分いました。」

浪子さんは肺結核のために義母の意向で軍人であった夫の不在中に離縁させられてしまう。離縁を遠回しに伝えようとする使者に対して浪子の父が言い返したのが引用の部分である。

次は国会国立図書館デジタルコレクションで「剣呑」で検索して出てきた三件、遠藤柳雨 「土窟の侠賊 : 侠骨小説 」(明治41年)の四十一章の題に、

  「上野の土窟が剣呑だ」

とあり、本文中には「上野に曲者の根拠地があるに相違ない」とあってそれが剣呑なのだろう。扇谷亮 「娘問題」(明治45年)の十三章の題には、

  「剣呑なのは男の誘惑です」

とあり、本文中には「一番危険なのは男からの誘惑で厶いますが(中略)まあまあ理解を説て其男を遠ざける覚悟が無くてはいけません」とある。野華散人 「水戸三郎丸 : 武士道精華 」(大正2年)のやはり章題に、

  「眉毛に唾を附けなくつちやァ剣呑だ」

とあり、本文には「不意に二十両と云ふ大枚の金をくれる・・・此奴は可笑しい、眉毛に唾を附けなくつちやァ剣飲だ」とある。

ここまで見た限りでは、明治大正期の剣呑は危険と言っても回避すべき、遠ざけるべき、忌み嫌うべき困難、不安というようなニュアンスに思える。リスクを負って乗り越えるという感じではない。ところが夏目漱石「坊っちゃん」(明治39年)では、


「君が来たんで生徒も大いに喜んで居るから、奮発してやつて呉れ給へ」と今度は釣には丸で縁故もない事を云ひ出した。「あんまり喜んでも居ないでせう」「いや、御世辞ぢやない。全く喜んで居るんです、ね、吉川君」「喜んでる所ぢやない。大騒ぎです」と野だはにやにやと笑つた。こいつの云ふ事は一一癪に障るから妙だ。「然し君注意しないと、剣呑ですよ」と赤シヤツが云ふから「どうせ剣呑です、かうなりや剣呑は覚悟です」と云つてやつた。実際おれは免職になるか、寄宿生を悉くあやまらせるか、どつちか一つにする了見で居た。

とあって、「どうせ剣呑です、かうなりや剣呑は覚悟です」とこれまでの用例とは違う雰囲気がある。しかし坊っちゃんの冒頭といえば「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりして居る。」であって、これは坊っちゃんの性格から出てくる常識外れなセリフという可能性もある。坊っちゃんの用例をどう扱うかはまだまだ探してみないと結論を出せないようだ。また昭和の時代小説には出てくる剣呑な表情の男に女が恋をして、みたいな話は上記の用例からすれば明治大正期には無さそうに思える。これも探してみたい。そして最初に戻ってナイフの件、ここまで見た剣呑は抽象的な漠然とした危険、困難であって、「あの人アレだから」みたいな感覚に近いかもしれない。具体的に目の前のナイフの危険を剣呑と言わないように思えるのだけど、これもまだ断定はできない。もっと調べてから書けと言われるのはもっともなことだ。しかし、ここまでを書いておかないと、そのうちすっかり忘れて・・・いや、次の展開の有難みが薄れるということにしておこう。

「しあわせる」の用例

2019-09-21 14:28:38 | 日本語
狂歌家の風の鳥喰の歌の参考として書いた大頭神社の烏喰祭の回で、大頭神社例大祭でいただいた御朱印の説明文中の「四烏(しがらす)しあわす」という語呂合わせを紹介した。古語の「仕合はす」にあたる現代語は「仕合わせる」であり、話題になった山口の方言「幸せます」はこの「仕合わせる」に「ます」がついたものだ。そして、大頭神社のある廿日市市大野は山口県境寄りであることから、四烏(しあわす)は「幸せます」につながる「仕合わす」の古い用例の可能性もあると考えた。しかし、この語呂合わせが考えられた時代もはっきりせず、これだけで関連を言うのは少し無理があるかもしれない。

今回、「ひろしまの民話」を読んでいたら「しあわせる」が出てきた。これは少し前に書いた「ころげとって」の用例を探すために、そのまま話し言葉で採録された広島の民話を読んでいたらたまたま仕合せるの方が見つかったものだ。一話ごとに語り手の名前が書かれていて、方言の色合いは様々だ。引用するのは山県郡芸北町(当時)の高田金十さんのお話で、丁寧に標準語で話そうとされている中に、所々「こりゃあ、やれん」などの方言がちらちらはさまっている。


「採訪記録 ひろしまの民話(昔話編)」中国放送編集(昭和56年出版)より 「日蓮上人の半生旅日記」
女は日蓮上人の顔をジイッと見つめておりましたが、
「お泊め申しあげるわけにはまいりません。実は、泊まっていただくのはかまいませんけれど、さしあげるものがございませんので」
と申します。
「それなら、拙僧は修行の身じゃ、今日(こんにち)も少々托鉢ぅちょうだいしたので、おかゆなりともたいてもらやあ、しあわせる」
「それなら、お泊りください」


これは、山口の「幸せます」と同じ文脈で使われている。もし山口の使い方を知らなければ、何のこっちゃと悩んだかもしれない。最近同じ山県郡の安芸太田町で「しわいマラソン」が行われ、つらい、ナンギなというこの地方特有の意味を持った「しわい」が報道などでクローズアップされた。広島市周辺では「しあわせる」や上記の意味での「しわい」は聞いたことがない。今でも山県郡で「しあわせる」を使っているかどうか興味があるところだ。

まだ一例だけであるが、ここに書いておいて他にもあれば追記したい。



なので(接続詞)

2019-09-17 13:48:22 | 日本語
 父の入院も長期に及んで、4人部屋の他の患者さんは次々に入れ替わる。そのほとんどが高齢者であるから耳が遠い人も多く、主治医や看護師さんの話は聞きたくなくても聞こえてくる。そこで若い看護師さんがしきりに使うのがタイトルの「なので」だ。「血糖が高い値でした。なので、昼食前にインシュリンをうちます。」のように使っている。看護師さん全体からみると多数派ではないけれど、使う人はひっきりなしに「なので」を使う。

 (現状の説明) 「なので」 (処置の説明)

という感じで、たしかに看護師さんにとっては便利な用法かもしれない。そして後半を聞いてもらうために、「なので」の語勢は結構強くなっている。だからカーテン越しに「なので」ばっかり言っているように聞こえてくる。一度気になりだしたらあちこちで気になる。NHKテレビでも、さすがにアナウンサーにはいないが料理や趣味の番組の出演者に似たような話し方をする人がいるようだ。

言葉は日々変化していくものだから、良いとか悪いとか言っても仕方ない。私の興味は、何によって変化したか、そこを知りたい。ドラマなのか、アニメなのか、あるいは有名人の口ぐせか。そして何年ぐらいで間違いと指摘されるぐらい広まって、そして気にならなくなっていくのか。そのあたりのプロセスが気になるのだけど、実際に追跡するのは簡単ではない。ネットで検索しても、何年前から使われ出したか特定するのは困難を極める。

しかし今回は、「文頭「なので」に違和感 接続詞で話し始める人たち」という2年前の記事に言及があった。勝間和代さん について、

「彼女がさっそうと世に出た10年ほど前。「女子力」なんて言葉がまだ一般的ではなかった時代の女性たちを大いに勇気づけた功労者の1人とも言える勝間さんは「文頭・なので」という接続詞の使い方を定着させた「功労者」でもあった。彼女の典型的な語り口は、たとえばこんな感じだ。

「やればできる!なので、やりましょう!」

「理由・結論をポンと最初に語る。直後の接続詞『なので』で行動を呼びかける」というダイナミックでテンポのよい話し方は新鮮だった。しかし、あらためて読んだ著作には「文頭・なので」は皆無だ。頭のよい勝間さんは話し言葉と文章の「けじめ」を付けていたらしい。」

とある。勝間さんが使い始めたという訳ではないようだが、この勝間さんの語り口が定着のきっかけとすれば、十年間で違和感、というところまで来ていることになる。この接続詞の「なので」の使い勝手が良いのは話し言葉だろうから、引用の後半部は当然のことと思われる。また、記事の後半部で

「ちなみに改定前(14年以前)の三省堂国語辞典でも、普通に『文頭・なので』はありますよ」 

とあり、「準備万端調えた。なので心配していない 」という例文も載っている。やはり出発点を見つけるのは難しい。叩かれるほど流行ったのが勝間さん以降ということだろうか。

読売新聞の発言小町『なので』 接続詞に様々な投稿があるが、3年前ということもあるのだろうか、否定的な意見が目立つ。その中に「そういことなので」と言い換えたらみたいなのがあって、それなら「そういうことなので」のつづまった形ということにしたら・・・いや、正しいとか間違っているとかいう議論には参加しないのだった。

これぐらいで終わりにしたいが、他にも気になっている表現はある。一つに、「キンキンに冷えたビール」これも昔は聞いたことがなかった。きっかけはコマーシャルかグルメ番組かそれともビールじゃない別の物なのか、御存じの方がいらっしゃいましたら教えていただきたい。


労をねぎらう

2019-05-08 09:57:44 | 日本語

 昨日、ツイッターで「天皇陛下お疲れ様」の是非が論じられていた。この時代、お疲れ様は昔よりずっと頻度が高く使われていて、今どう考えるかは議論があるところかもしれない。しかし一連のツイートを読むと「謎ルール」という言葉も見えて、労をねぎらうには一定のルールがあったことも忘れられつつあるようだ。

 私の記憶をたどると、大学生の時だから三十五年ぐらい前、国文学の講義で教官から敬語に関連して目上の人に「お疲れ様」「ご苦労様」とは言わない、という話があった。下から上に向かって労をねぎらうというのはありえない。日本の敬語の考え方では、自分にとっては難儀な仕事であっても目上の人は疲れたり苦労しないのであって、それを言うのは失礼にあたる。一緒に仕事した後で上司に言うとしたら、ありがとうございました、勉強になりました、ぐらいのものだという趣旨だった。しかし、わざわざこの話を持ち出すということは、三十五年前すでに目上の人にお疲れ様と言う人は結構いたのではないかと思う。

 この時言われたことでもう一つ覚えているのが、目上の人に出す手紙には句読点、濁点など注釈にあたる記号はつけてはならないということだった。さすがにこれは三十五年前でも過去の話であって、その後ためしにそういう手紙を友人に擬古文調で出してみたところ大変不評であった。

話がそれたついでにもう一つ。最近、目上の人に「了解しました」と言って良いかどうか話題になった。了解、あるいは諒解は明治以降の文献にしばしば出てくるけれど、相手の話を受けてその場で了解しましたというのはほとんどここ四十年ぐらいの用例であって、それ以前は会話での用例を見つけるのは難しい。古い了解の使い方を書籍検索からいくつか抜き出しておこう。

「人は余を了解するに及ばない、余は又人に了解せられんことを欲はない」(内村鑑三全集

「今日の英國の大臣演説をもよく了解し得るのである」(現代教育学の根本思想

「米國に於ても能く了解すべきであるし、又了解して居ると思ふ」(三田評論

私が子供の頃ウルトラマンかウルトラセブンだったかウルトラ警備隊のパイロットが無線での命令に対して「了解」と答えていた。今考えると「ラジャー」を「了解」と翻訳したのかもしれない。会話で了解しましたを使うようになったのは、このようなパイロットの返答がきっかけのようにも思える。もしそうだとすると、目上の人に使えるかどうかというのは、考えてもあまり意味がない。ウルトラ警備隊は上司の命令に了解と言っていた。それを誤用とするならば、半世紀以上前の用例に戻らなければならない。

 話をお疲れ様に戻そう。ネットで調べてみると、お疲れ様は目上の人に言っても良いがご苦労様はいけない、と解説したものもある。これはいかなる根拠なのか良くわからない。しかしいくら論じてみたところで、正誤を確定させることは難しい。言葉は日々変化していて、使う人の価値観も変わって行く。ただ、昨日のツイートの中には、若者にお疲れ様と言われたくない、というのもあった。不快に思う人もいるということは知っておきたいものだ。私は最近中学生にお疲れ様でしたと言われることもあるのだけれど、全然嫌ではない。むしろ声をかけてもらえるとうれしい。それにどう見てもこちらの方がくたびれている。ただ、昔のルールを習ったせいだろうか、天皇陛下にお疲れ様はかなり違和感がある。


ラーメン

2018-12-10 09:46:20 | 日本語

 日本語の「ラーメン」の語源はネットで検索したらいくつかの説が書いてあるけれども、ラーメン好きの方の興味は言葉よりもラーメンの中身であって、もっともそれは自然なことだと思われるが、「ラーメン」という言葉が入ったメニューの初出はどこなのかという探求はあまりみかけない。それで3年前だったか少し調べてみた。結論を言えば、戦前の文献にはラーメンはほとんど登場しない。戦後も、昭和33年のチキンラーメン以前にラーメンを見つけるのは難しい。写真とか挿絵のようなものにメニューが描かれていないかとも思うけれど、私にはラーメンに対する愛情が足りないのか、今のところそれを探してみる情熱を持ち合わせていない。以下少し調べた過程で気になったことを書いてみよう。

 日本で最初にラーメンを食べたのは黄門様というのはクイズ番組などでよく耳にする。もちろん、ラーメンという名前ではなかったし、今調べてみると異説もあり室町時代に中華麺を食べた人がいるとか。しかしラーメンという言葉と関係ないので今回はスルーしよう。一般人が普通に食するということになると明治になってから、東京でまず流行ったのはワンタン屋の屋台のようだ。これは横浜華僑が源だろうか。そして、ワンタン屋の屋台のメニューの中に中華麺があったと思われる。大正15年「裸一貫生活法 : 生活戦話によると、

「東京では露店の立つ場所に、支那そば、ワンタン屋の屋台の出てゐない處は殆どない。」

「十円の保証金を問屋に納めさへすれば、屋台から材料一切を貸してくれて、要領を教へてくれる。」

と後半は何やらフランチャイズ詐欺みたいなことが書いてあるが、そういう元締めの問屋が複数書いてある。また、大正十四年「食行脚. 東京の巻には、柳麺に「らあめん」とルビを振ったメニューが出てくる。これは数ページ前を見ると、支那料理五百数十種の中から、日本人向きの数十種を選んだとあり、問題の箇所は雲呑麺の一種として柳麺(たけのこいりそば)に「らあめん」とルビが振ってある。注目すべきは、その2つ前にある麺類ではなく、雲呑麺の中にこれが入っていることだ。チャーシュー麺も雲呑麺の項に入っている。逆に麺類のメニューは今のラーメンからは遠いもののようだ。これは今の焼豚やメンマが入ったラーメンがワンタン屋台から分かれた名残のように思われる。しかしながら、ラーメンという言葉にこだわった時に、当時は支那そばという呼称が圧倒的であって、この「らあめん」を他で見つけるのは困難であった。内容的にはこの柳麺はラーメンの原型としてかなり有力であるけれども、言葉としてのラーメンの語源とは言いにくい。戦後のラーメンに言葉としてつながっていないからだ。

 同様に、札幌の中国人店員がラーと返事をしたからラーメンになったというのは大変魅力的な説ではあるけれど、それをきっかけとしてラーメンという言葉が札幌から広まったという形跡は発見できない。戦前において、ラーメンという言葉を見つけるのはとにかく難しい。戦前にラーメンと言ってもわかる人はほとんどいなかったのではないかと思われる。

 すると方法論としては、チキンラーメンから遡ればよい、それも終戦からのせいぜい十数年の間に手掛かりがあるはず、ということになる。40年前、私が子供の頃はラーメンと頼むと店主が「うちは中華そばじゃ」と嫌な顔をされることがあった。地方においてはチキンラーメン以前にラーメンという言葉を聞いた人は少なかったと思われる。インスタントの匂いがするラーメンという言葉を嫌がったのだろう。それではチキンラーメンという商品名は、どのラーメンから持ってきたのか。戦後の大阪でどれぐらいラーメンという言葉が広まっていたのか。大陸からの引揚者の中に「拉麺」を持ち帰った人がいたのかいないのか。しかしここも文献から調べるのは難しかった。あるいは今ドラマでやってることだし百福さんのストーリーを読めば出ているのかもしれないが、なぜかそういう本には手が伸びないのだから仕方がない。ラーメンの語源を特定するには戦後の大阪がキーポイントではないかと書くに留めて、他の方の考察を待つことにしたい。

 私が小学生高学年で食べ盛りに入った昭和40年代後半には、すでに出前一丁やサッポロ一番など鍋で作るタイプのインスタントラーメンが出ていて、チキンラーメンを食べたことはなかった。存在を知ったのは巨人の星のアニメで星一徹が丼に湯をかけてラーメン食ってるのを見てあれは何だと興味を持ったのを覚えている。カップヌードルの登場もオバQの漫画で知った。漫画家がインスタントラーメンの普及に貢献したということはあるかもしれないが、ラーメンの語源を漫画で見つけるのは難しいかな。あるいは誰か背景にメニューを書いてないものだろうか。だらだら書いても仕方ないからそろそろ終わりにしよう。現時点ではラーメンの語源はチキンラーメンと書いても半分は当たってるような気がしているのだけれど、どうだろうか。

 

【追記1】ワンタンのレシピを探してみたところ、明治の本には中々見つからず、大正十五年「手軽に出来る珍味支那料理法でやっと見つけた。上に引用した二つの本と同時期であり、この少し前にワンタンの屋台が全盛期を迎えていたのではないかと推測できる。そして、驚くべきことに、このワンタンにはメンマとチャーシューが入っていて、ネギと胡椒をかけて完成となっている。大正期の屋台でワンタンは独自の進化を遂げていて、それがラーメンの具に影響を与えた可能性もある。この時代のワンタンと中華麺は同じ具や薬味で供されて雲呑麺として同居することもあり、極めて近い関係だったとも言えるだろう。

 

【追記2】ウィキペディアのワンタンの項によると、ワンタン(雲呑)は広東語で、中国の標準語では餛飩(húntunとある。この餛飩はもちろん日本に伝わって饂飩(うんどん→うどん)になったと思われるが、「拉麺」のふるさとの中国西北部、陝西省の西安語では餛飩「ホエトエ」という発音で甲斐の「ほうとう」のルーツかもしれないという指摘がある。すると、戦前の東京の屋台の支那そばというのは上記のようにワンタンと密接な関係にあったことから、この中華麺は香港系の華僑が関わって横浜あたりから伝わったと考えるのが自然だろうか。そして戦前の屋台については、「拉麺」の二文字とは関連が薄いように思われる。もっとも、ラーメンの語源ということについては、別に中国西北部の麺打ちの技術やレシピが伝わっている必要はない。ラーメンという呼び方を誰かが伝え聞いてこちらのメニューに取り入れて、それがチキンラーメンにつながっていれば良いわけで、また戦後に語源がある可能性も大いにあることから、まだ拉麺語源説を捨てる必要はない。

 

【追記3】 「日本めん食文化の一三〇〇年」に、大正末期の支那そば、ワンタン屋台の隆盛は関東大震災の影響が大きかったとあった。ソースは書かれていないが、十分考えられる話だ。江戸の夜鳴きそばからの伝統かと思っていたら江戸時代とは違う理由で屋台が流行り、その主役が支那そばとワンタンであったということだろうか。

 

【追記4】  太宰治「葉」に、外国人の花売りの少女とワンタン屋台のあるじのエピソードがあり、チャーシューワンタンが出てくる。

 

 女の子は、間もなく帰り仕度をはじめた。花束をゆすぶつて見た。花屋から屑花を払ひさげてもらつて、かうして売りに出てから、もう三日もも経つてゐるのであるから花はいい加減にしをれてゐた。重さうにうなだれた花が、ゆすぶられる度毎に、みんなあたまを顫はせた。
 それをそつと小わきにかかへ、ちかくの支那蕎麦の屋台へ、寒さうに肩をすぼめながらはいつて行つた。
 三晩つづけてここで雲呑(わんたん)を食べるのである。そこのあるじは、支那のひとであつて、女の子を一人並の客として取扱つた。彼女にはそれが嬉しかつたのである。
 あるじは、雲呑(わんたん)の皮を巻きながら尋ねた。
「売レマシタカ。」
 眼をまるくして答へた。
「イイエ。・・・・・・カヘリマス。」
 この言葉が、あるじの胸を打つた。帰国するのだ。きつとさうだ、と美しく禿げた頭を二三度かるく振つた。自分のふるさとを思ひつつ釜から雲呑の実を掬つてゐた。
「コレ、チガヒマス。」
 あるじから受け取つた雲呑の黄色い鉢を覗いて、女の子が当惑さうに呟いた。
「カマヒマセン。チヤシユウワンタン。ワタシノゴチサウデス。」
 あるじは固くなつて言つた。
 雲呑は十銭であるが、叉焼雲呑(ちやしゆうわんたん)は二十銭なのである。

 

ここまでの流れで注目すべきはラストの一行であるが、私は太宰も少しファンなので長めに引用させてもらった。もっとも「葉」は私には難解で、この断章も引用部分とその前の部分がどうつながっているのか、よく理解できていない。


おおすっとん

2018-11-09 10:45:27 | 日本語

 「おおすっとん」これは私より上の世代の、しかも方言だろうか。最近あまり聞かなくなった言葉だ。耳で聞いたのはもう何年も前、福山出身の叔父が地元出身のレフェリーの判定について「おおすっとんバァやっとる」と怒っていた。バァは「~ばかり」という備後弁で、もちろん「おおすっとん」はあまり良い意味ではない。「すっとんきょう」の後ろがとれた形だろうか、意味も「頓狂」に近いと思われる。備後だけではなく、広島でも昔はよく聞いていた言葉だった。語源が頓狂だとすると、

頓狂→すっとんきょう→すっとん→おおすっとん

となったはずで、「すっとん」の用例を捕まえたいと思っていた。すると最近読んでいる上方狂歌に「すつとん」が出てきた。「狂歌かゝみやま」から引用してみよう。

 

     花の歌の中に               紫笛

 すつとんと腰を抜かした手まり桜さそふ嵐におとすなおとすな

 

これは腰を抜かした時、また鞠を落とす表現として「すつとんと」と詠んでいる。ということは現代だと「ストンと」だろうか。ストンと落ちる落差を表現したという可能性もあるかもしれないが、「おおすっとん」とは遠いかな、残念ながら外れだったようだ。でも、ここまでを書いておいて、有効な用例を追記できる日を待つことにしよう。


「きおんほ」と「しはんほ」

2018-11-06 09:44:07 | 日本語

 タイトルの「きおんほ」としたのは祇園坊、広島地方由来の渋柿の品種で、うちの庭にも一本植えてある。干し柿にして一週間、中心の渋がちょっと残ったぐらいのレアな状態で食するのが我が家の秋のごちそうだったけれど、温暖化で干し柿は年々難しくなり、最近は熟柿(ずくし)で食べることが多くなった。地元自慢を三つと言われたら私は、阿武山、祇園坊、広島菜、だろうか。安佐南区祇園の安神社が発祥の地と言われていて由来の説明板があったけれど、柿の木は平成になって植えられたものでまだ若い木だった。

 この説明にあるように、安芸国郡志には祇園坊とあるのに、江戸後期の芸藩通志には沼田郡の名産は正傳坊柿と名前が変わっていて、また今は祇園坊と呼ばれている。

 広島には魚の祇園坊もいたようで、小鷹狩元凱著「自慢白島年中行事」には、

「亦これ寸にも足らぬ小さき魚の、姿の沙魚(はぜ)に似たるもの、黒山なして泝る、方言之を祇園坊といふ、祇園祭りの気節の故なるか、」

とある。白島あたりの川を夏に遡上する小魚、私は魚に詳しくなくてこれが何なのかわからない。

話を祇園坊柿に戻そう。子規の歌に祇園坊が出てくるものがある。


 鄙にてはぎをんぼといふ都にて蜂屋ともいふ柿の王はこれ 



 あぢはひを何にたとへん形さへ濃き紅の玉の如き柿


蜂屋と祇園坊は別の品種だ。おそらく子規は地元の伊予で祇園坊を、東京で蜂屋を食べたのだろう。するとこの二首は蜂屋ということになる。子規の柿好きは相当なもので、


  世の人はさかしらをすと酒飲みぬあれは柿くひて猿にかも似る


ということは、法隆寺の句も、上品に楊枝で柿をカリッといただいていたのではなく、好物の柿をむしゃむしゃ一心不乱に食っていたらゴーンと鐘が鳴ってはっと我に帰ってやれやれ柿に夢中になってるうちに日が暮れてしまったわ、と解釈できないだろうか。話がそれた。柿好きの子規をもってしても蜂屋と祇園坊は同じ柿に見えた、ということは祇園坊は東京までは送られていなかったということだろうか。

さて、このあたりで後半の「しはんほ」に移ろう。前回「はんなり」でも引用した狂歌栗下草という狂歌集の中に、柿の歌があって、祇園坊のせいでちょっとつまずいてしまった。

 

     落葉                      華産

 はらりはらりまきちらしけりしはんほの柿の葉もまたわうようにつれ

 

「しはんほ」は「ぎおんぼ」のように柿の種類かなあと。しかし、調べてもそのような品種は出てこない。「わうよう」は黄葉だろうか、「しはんほ」に関係するような別の意味はないだろうか、思案しても進まず、しばらく停滞してしまった。そのうちに、貞柳の歌にこの両方が出ているのを見つけた。

 

     分限なる人のもとよりきおんほうをもらひて

 有あまる黄なる物をはくれすしてきおんほう社しはんほうなれ

 

私に言わせれば熟した祇園坊は「黄なる物」より値打ちがあると思うがそれは置いておいて、「祇園坊こそしはんほうなれ」とはいかなる意味か。やはり、しはんほうは柿の品種ではないようだ。しはん坊で検索すると、上方いろはの「しはん坊の柿のさね」が出てきた。これを知らなかったのが敗因だった。しはん坊は「吝ん坊(しわんぼう)」、けちん坊のことだった。けちん坊は柿の種も捨てずにとっておく、という意味だという。「い」と書いて「しわい」と読む、これを知っていればわかったかもしれない。わかってみると増々「祇園坊こそ吝ん坊なれ」は面白くないがこれは貞柳一流の読みっぷりだから仕方がない。大阪には祇園坊柿があったことの証拠であると共に貞柳の時代の大阪では芸藩通志の正傳坊ではなく祇園坊だったことがわかる。すると華産の歌は、けちん坊の家の柿の木も葉をまき散らしている、という意味なのだろうか。

これでかなりすっきりしたけれど、一つ気になることがある。柿の品種は千とも書いてあった。そしたら柿とセットになった歌も複数あるのだから、「吝ん坊」とつけた品種はないと言い切れるだろうか。そういう品種が上方に存在していたら、歌の意味も少し変わってくる。いやでも、そんな名前じゃ売れないか。間違いの上塗りにならないように、この辺でやめておこう。

 

【追記1】「狂歌かゝみやま」に蜂屋の歌があった。詞書には蜂谷柿とあり、作者は木端。


 味ひは蜜のやうなるはちや柿さし下されて痛みこそいれ


、蜂、刺し、痛み、という縁語になっている。木端の時代には上方に蜂屋柿があったことがわかる。


【追記2】明治36年「百物叢談」に、

「是れを釣柿(つるしがき)といふ特に美濃の蜂屋柿を上品とす芸州のぎをん坊是れに次ぐ西條柿も甚だ佳なり」

とあり、この頃には東京でも蜂屋と祇園坊は区別されていたようだ。


【追記3】 手柄岡持「我おもしろ」(寛政元年自序)に、西条柿と思われる歌がある。


    八十年以前の一枚絵を見せられけるに今の絵
    にくらふれはそのたかひたとふるにものなし

  八十とせをへたなる絵師の渋ぬけて今さいしやうのころかきにけり


へた、渋、西条、ころ柿と縁語が入っている。広島でよく食べられている西条柿と同じものかどうか、これだけではわからない。


【追記4】 寛文三年「芸備国郡志」にある西條柿と祇園坊の記述を引用しておこう。

「西條柿 賀茂郡に在り。秋初に之を取りて、皮を剥ぎ陰乾して白柿と為す。冬の初に到りて外皮霜浮、内肉味熟すときは、則ち佳菓の第一味と為す。大和の生柿、美濃の熟柿の及ぶ所に非ざるなり。」

「祇園坊が柿 佐東郡祇園の社僧柿枝を接ぎて以て繁栄に至る。其の実の大きさ恰も小瓜子の如し。其の味苦渋にして生にて用ゆべからず。秋初之を採り、其の皮を剥取り、糸を以て蔕を繋ぎ、高く屋櫓の内に懸け、陰乾す。其の熟するに及びて之を食ときは即ち蔗糖・蜂蜜と雖も及ぶ所に非ず。近世柿の名を称せず。直ちに呼びて祇園坊と曰う。其の柿形、社僧の円頂と偶合す。是に知りぬ其の名の妄誕ならざることを。聊か胡慮を発するに堪えたり。」

御所柿や蜂屋柿より西條柿が上だと持ち上げている。祇園坊の名前の由来については、坊さんの頭の形を持ち出さなくても祇園社発祥だけで良さそうな気もするのだが。


【追記5】 「狂歌軒の松」に気になる類歌があった。


      七夕供果   泉 加楽

  年ことに一夜をちきる七夕へしはん坊なる柿を手向ん


これはひょっとするとしはん坊という品種、いや単なる洒落だろうか。


はんなり

2018-11-05 16:31:03 | 日本語

 京都を題材とした番組などでは、はんなりという言葉はかなりの確率で登場する。私は十年間京都に住んでいたけれども、そんなに度々聞く言葉ではなかったように思う。はんなりとは無縁な人生だったからかもしれないが、私は非常に疑り深い性格のせいか、京都だからはんなりと言っておけばいいだろうみたいに誤魔化されてるのではないかと思ってしまう。だから、テレビではんなりと言われると、以前書いたほっこりと同様に疑念の目を向けていた。最近、上方狂歌を読むようになって、「狂歌栗下草」(寛政四年刊)という狂歌集をみていたら、立て続けに「はんなり」が登場した。書き出してみよう。

 

     岫雲亭の主を花見に誘に来られさりしまたの
     あした一枝の花にそへて異号を洗耳といへば 栗阿亭

 せんし茶のせんしなければはんなりのこと葉の色香出も社せね

     かへし                  華産

 出し茶やらせんしなけれとことの葉のはなかはんなり目をさまします

 

     五月雨喫茶といふこゝろを       華産

 けふいく日はれまもなみの五月雨にはんなりあさひ嬉しのゝお茶

 

最初の贈答歌、岫雲亭は華産のことで、この狂歌集は岫雲亭華産の撰になるものだ。華産の異号が洗耳(せんじ)であることから、花見に誘ったけど来なかった華産に対して、煎じ茶を煎じなければはんなりとした茶葉の色香が出ない、華産が来ないと狂歌の言葉もはんなりとした色香が出ないと詠んでいる。返しの歌の「出し茶」は煎じてないお茶のようだが今のどういうお茶なのか知識が足りなくて的確に言うことはできない。出し茶は煎じてないけれど、私がいなくても言葉の花がはんなり目を覚まします、と返している。

三首目は梅雨で晴れ間のない時に嬉野茶ではんなり、という歌ではんなりはお茶のスッキリした味わいと共に心情的な表現だろうか。三首ともお茶が題材だけど、贈答歌の方は桜の花や狂歌の語句もはんなりの対象だろう。はんなりを辞書で引くと華やか、明るい、気が晴れる、などが出てくる。一首目は否定形でわかりにくいが、二首目、三首目を見ると、ぱっと明るくなる、ぱっと気が晴れる、というような暗から明への心情の動きがあるように思える。月はおぼろに東山、みたいな情景とは違ってわりと鮮明な明るさのような印象も受ける。語源は「花あり」ではないかとあった。花を見つけた時の感情だろうか。まだ3例だけではアレなので引き続き探してみたい。しかし、テレビ番組がいい加減にはんなりを使ったらブーイングする準備はしておこう。

 

【追記1】「狂歌かゝみやま」のはんなりの用例

 

                   明石 霞城亭朝三

 一年のはんかのはてにはんなりと又いれはなの春は来にけり

 

入花は湯をさしたばかりの煎茶で、でばなと同義。驚いたことに、またお茶がらみの用例だ。さらに、辞書で「いればな」を引いたらそこに載っていたのは近松の今宮心中の、

 「跡へはんなり入花の茶びんご橋はこちこちと」

だった。これは備後橋を導くために茶瓶を持ち出しその前「はんなり入花」はお茶の縁語として語調を整えている。お茶、特に煎茶に湯を注いだ瞬間の色香を「はんなり」と言うのはごく一般的な表現だったようだ。しかしこれだけ揃ってくると、はんなりの語源といわれる「花あり」の花とは出花、入花の花なのか、いやまだ5例もうちょっと探してみよう。

 

【追記2】最近テレビで京都の方が明るい黄色の着物(知識が無くて正確に表現できなくて申し訳ない)を手に取って「はんなりしてはって」と口にされた場面を見た。なるほどこれは上記の暗から明の心情からみてもしっくりくる。その一方で、料理家のD先生が「ぼんやりした味」を「はんなり」と言い換えられた場面も見た。D先生は関西のはずだが、これはどうなのか。ぼんやり霞がかかったような情景をはんなりというのは京都のイメージに引っ張られた誤用の可能性もある。しかしまだそう断定できるだけの用例を集めていない。もっと探してみたい。

 

【追記3】1949年「評釈炭俵」

 

     はんなりと細工に染る紅うこん   桃隣

はんなりは華やかに色彩の美しきなり。ほんのりはほのかなるにて、はんなりと音近けれども大に異なり、混ずべからず。

 

とあった。なるほど、ほんのりとの混同も考えられるわけだ。ぼんやりおぼろに霞がかかったようなさまをはんなりというのは誤用の疑いがますます強くなってきた。また、はんなりといった時の色についても、追記2で見た着物、煎茶、朝日、そして紅鬱金と黄色系統が多いようだ。あをによし奈良の都の「にほふ」が赤く輝くイメージなのに対して、京のはんなりは黄色だろうか。こちらはもっと集めてみたい。

 

【追記4】 「狂歌栗葉集」にはんなりが出て来た。

 

       月前喫茶           雲故亭関窓

  出はなからのんて月見をしからき茶扨はんなりと目もさめにけり

 

またもやお茶の出ばなにはんなり、そして、はんなりと目が覚めたと詠んでいる。狂歌の用例は今のところ栗派ばかりで木端の口癖、いや上記の近松の例もある。それにしてもお茶がらみが多い。お茶の出花入花にはんなりはよく使う表現だったのは間違いない。問題は語源もお茶に関わってくるのかどうか、木端より前の時代の用例を探してみたい。

 


腑に落ちぬ話

2018-10-11 18:40:26 | 日本語

 以前、ほっこりについて「ほっこりしない話」というのを書いた。今回も全くもって代わり映えのしない動機付けであるけれどもしばらく付き合っていただきたい。

 ここのところ、ツイッターなどで「腑に落ちた」と言われると私には違和感がある。自分では、腑に落ちないと否定形でしか使ったことがない。そこで少し調べてみることにした。近くの図書館の蔵書検索で「腑に」を入力するとわずか3件のヒット、その中に、「知っておきたい慣用句2」というのがあり、見出しに「腑に落ちない」が入っている。これはまあそうなるところだろう。問題は「腑に落ちる」「腑に落ちた」の用例がどれぐらいあるか。次は国立国会図書館デジタルコレクションで「腑に」を検索してみると、763件がヒット、全部はちょっと面倒なので、このうち比較的古い時代が多い図書33件について見てみると、否定形が26件、「腑に落ちる」が2件、後は「五臓六腑に」など関係ないものであった。その一方で電子書籍の国の機関36件を調べてみると10件が肯定で使われていた。この36件はいずれも発行が2000年以降であった。

 なお、図書にみられた肯定形2例は、一例が”腑に落ちる”と引用符で囲って慣用句とは違うことを意識した書き方、もう一例も「腑に落ちるまで説明」とあり、書き手の感想として腑に落ちる、腑に落ちたという用例は見られなかった。

 逆に「腑に落ちる」で検索すると90件がヒット、図書は1件だけでほとんどが論文などpdfファイルのものだった。出版年でみると、1999年以前が6件、2000年以降が84件という内訳だった。「腑に落ちた」では、46件中2000年以降が45件、不明が1件で図書はゼロだった。最後にツイッターで「腑に」でツイート検索してみた。同じことを連呼するbotがあったり愛媛県知事が「腑に落ちない」と発言したことがニュースになっていたりして数えるのが難しかったがこれらを除外すると、肯定形が3割強は出てくる印象だった。

 これらをどう考えるか。元々、否定で使うのが慣用句だったのは間違いないところだ。また、それをあえてひっくり返して「腑に落ちる」と書いた古い用例もあり、これを間違いとは言えないだろう。しかし、上記の検索結果を見る限り、積極的に肯定形で使うようになったのはせいぜい二十数年前からと思われる。特に「腑に落ちた」は、何か小説か漫画か、有名な所で使われて一般化したような匂いもある。私には見当がつかないが、もし何がきっかけなのか思い当たる方がいらっしゃったら教えていただきたい。

 前のほっこりと同様に、誤用とは言えないようだ。だがしかし、私にとって気持ち悪い表現であることに変わりはない。自分ではこれからも否定形しか使わないと思う。