阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

米粉

2022-09-17 16:37:33 | 狂歌鑑賞
今回は、由縁斎貞柳詠「続家つと」(1731刊)、夏の部より一首。


     瑞龍寺雪巣和尚へ暑気御見廻申ける折
     ふし黄檗山より米粉まいりけるを相伴仕りて

  切麦やうとんげよりも珍しきべいふんたりけ空にじゃくする



詞書と歌でページをまたぐので画像は二枚だが、私が持っているのは手書きの写本で、元の木版本には米粉(ヘイフン)、空(クウ)とルビがふってある。




(ブログ主蔵「(写本)続家土産」)


この米粉は切麦やうどんと比べていることから、今のビーフンのような麺であったと思われる。ビーフンの由来については正確に書いてあるものが見つからない。レシピのサイトなどによると、鎌倉時代に日本に伝わったが禅寺の精進料理などに限られ、1960年にケンミンが焼きビーフンを発売するまでは一部の人だけが知っているマイナーな存在だったようだ。ここでも貞柳が珍しきと詠んでいて、禅寺であっても本山の万福寺からもらわないと食べられないものだったようだ。どのような料理であったか、これも現代の禅寺のレシピだと精進の具で炒めたものが出てくるのだけど、ここでは暑気見舞いとあり、暑い時分であるから素麺のように食べたのではないかと想像しておこう。

「珍しき」のあとは、「べいふんたりけ」これは米粉と分陀利華(ふんだりけ)をつなげている。分陀利華は親鸞の正信偈に出てくる言葉で、元は極楽浄土に咲く白蓮、転じてすぐれた念仏行者を指すという。貞柳は東本願寺門徒で、そちらではおなじみの言葉だったかもしれないが、黄檗宗との関連は調べても出てこなかった。そのあとの「空にじゃくする」は、黄檗宗の開祖隠元の遺偈「一切空寂 万法無相」を「 空に寂する」と七文字におさめたのではないかと思われる。上の句のうどんを優曇華としたのも、もちろん仏教の縁語である。

ここで貞柳は「珍しき」だけで味の感想は言っていない。もしかすると、素麺の方が良かった、おいしくなかったということで、下の句は仏教用語で埋めたのかもしれない。

貞柳の「続家つと」には、雑の部にもう一首黄檗宗の歌がある。ついでに紹介しよう。


         東山にて

  南無おみは黄檗のみと思ひしに南禅寺にもとうふ有けり




(同上)

これも元の木版本には、黄檗(ワウバク)、禅(ゼン)とルビがある。

黄檗宗では「南無阿弥陀仏」を唐音で「なむおみとーふー」と唱えるそうで、それで「南禅寺にも豆腐ありけり」という落ちになった。万福寺といえば普茶料理が有名であるが、二首とも黄檗と食べ物を絡めた仕上がりになっている。







なんぼほど

2022-09-10 14:05:32 | 狂歌鑑賞
一本亭芙蓉花撰、由縁斎貞柳詠「狂歌拾遺家土産」(1758刊)、春の部から一首。


         春のはしめのうた

  なんほほと愚かなる身も楽しみをたのしみとしるけさの初春




(ブログ主蔵、「狂歌拾遺家土産 巻上」乙ウ・1丁オ)

立春に紹介した一茶の還暦の句「春立や愚の上にまた愚にかへる 」と同じような趣向ながら、「なんぼほど」という口語が効いていて「楽しみを楽しみと知る」と続ける貞柳一流の味わいのある一首に仕上がっている。

さて今回はこの「なんぼほど」について考えてみたいのだが、まずネットで引くと、「万一其身にもしもの事が有たらば、跡に残ったててごの身では、なんぼ程悲しからふぞ」 という浄瑠璃・夏祭浪花鑑の用例が出てくる。そして、ツイッターのツイート検索でも、

「なんぼほど煙草吸うんや」
「村上選手なんぼほど打つんや」
「なんぼほど走らすんや」
「なんぼほどゲッツーしますねん 」

などと現代でも使われている。しかし見比べてみると、現代の用例は回数・量をカウントできるものが多く、江戸時代の「愚かなり」「悲し」のような程度の甚だしさにはあまり使わないようだ。

さらに書籍検索で昭和の用例を調べてみると、

「手数料の話だすけど、あんたは、なんぼほど取ってはりますねん」 
「オーバーてなんぼ程するのやろか 」
「なんぼほどか聞いとこかい 」
「前にはなんぼほど持っていたのや?」 

などと、ハウマッチと尋ねる場面が圧倒的に多い。今の若者が使っているような回数が甚だしいというのは無いことはなく、

「お母はん、あんた、なんぼほど飲みなはるねん」 

などと出てくるが、ハウマッチに比べるとわずかと言っていいだろう。逆に今は、ハウマッチの場面では「なんぼほど」とは中々言わないようだ。

そして興味深いのは、ヤフー知恵袋で、「なんぼほど」は昔は言わなかった、最近出てきた言葉ではないか、という質問があった。これは以前書いた「ほっこり」でも同じような指摘があった。確かに、私が関西に住んだ40年前に「なんぼほど」は聞いたことがなかった。回数・量が甚だしいという意味での「なんぼほど」の用例は今世紀に集中していて、昭和には少ない。今の使われ方は、最近のものと言って良いのかもしれない。

「ほっこり」は、江戸時代の用例は物理的に加熱した場合、特に蒸気湯気を伴う暖かさであったのに対し、今世紀の用例は心あたたまるがほとんどである。そして、京ことばに意味の違う「ほっこり」はあったものの昭和の頃はほとんど用例がなく、私の国語辞典にはのっていない。

「なんぼほど」も上述のように江戸時代の用例は程度の甚だしさであったのに現代の若者は回数、量の甚だしさと少し使い方が違うようだ。そして、昭和の「なんぼほど」はハウマッチがほどんどであった。ということは、江戸時代の意味を掘り起こしたというよりは、昭和の「なんぼほど」に違うニュアンスが加わったと評価すべきだろうか。古い用例をもう少し探してみたいものだ。

可部に耳あり

2022-08-25 22:37:45 | 狂歌鑑賞
可部の町は私の家からは徒歩圏内で、安佐北区では一番の賑わいのある場所である。広島から出雲に抜ける街道の途中にあり、太田川の水運の拠点でもあった。また、戦国時代には鋳物造りが始まって今に続いている。それから私事ながら、愛飲している旭鳳酒造は可部の地酒である。今回はその可部にまつわる狂歌を、まずは元文二年(1737)「狂歌戎の鯛」という歌集から、福王寺の寺宝、さざれ石を題材にした歌を引用してみよう。


    加部町福王寺碝石物語を見れは
    いにしへ千里の浜にあり業平卿
    もて遊ひ給しと也

                  同国正佐

  かべに耳あれはこそ聞碝石千里の浜も爰にありはら


正佐は貞佐の門人と思われる。「碝石(さざれいし)物語」という書物は見当たらないが、この狂歌集から五十年ばかり後の時代の「雲根志」という本に福王寺の碝石の条がある。一部引用してみよう。

                碝石(さゞれいし)

安藝国加部庄金龜山福王寺の什貲也むかし清和天皇貞観五年の春紀伊国千里(ちり)の濱に夜々光明をはなつ浦人其所をたづぬれは一ツの碝石あり

ここには千里(ちり)とルビがあるのだけれど、伊勢物語、枕草子にも出てくる紀州の千里の浜は「ちさと」現代では「せんり」とも読むのが一般的で、枕草子の木版本には「ちさと」とルビが入っているものが多いようだ。一方、北村季吟「伊勢物語拾穂抄」には「ちり」とルビがあり、雲根志はそこからの引用かもしれない。このあと、右大臣良相から子の常行の手にわたり、その常行が山科の禅師の親王に奉る場面は伊勢物語七十八段から引用している。その中に「きのくにの千里のはまにありけるいとおもしろきいし奉れりき」とあり、この伊勢物語の話と関連付けるために千里の浜の産としたようだ。この伊勢物語の中では「このいしきゝしよりは見るはまされり」聞いていたよりはましな石だったとあり、後に昼夜鳴動や洪水の大事になるような石ではなさそうだ。それに、伊勢物語にはさざれ石とは書いてない。その後この石は二条の后にわたり、後醍醐天皇の時に中納言公忠が賜ったと続く。そしてその公忠が安芸に左遷された時に武田氏に渡ったというのが次のくだりである。

勅勘によつて安藝国に左迁せられける安藝の守護武田伊豆守氏信しきりにのぞむによつて伊豆守に傳ふ 氏信よろこびて城中におさめければひかりものして昼夜鳴動やまず故に福王寺におさめける其後又大江輝元城中へ入けるに雷のことく鳴動す一夜とめて福王寺へかへす持行時は人夫八人にて漸運ぶかへる時は一人してかろしと也 又福嶋正則此寺に来り石を一見して奇特をあらはせと扇を以てたゝきければにはかに雨車軸をなして大洪水してげる今に當寺に在て珍宝とす 

武田氏信、毛利輝元、福島正則いずれも碝石を御することはできなかったという。福王寺の公式サイトによると、昭和52年の落雷で他の文化財とともに、さざれ石も焼けたとある。「さざれ石」の由来と地質学的考察(リンクはpdf)という論文によると、 「1977年に落雷による火災の際に,無数の破片となっ てしまって,元の面影は全く認められなくなってしまった」とある。これは大変残念なことだ。このあとの地質学的考察のくだりで、さざれ石の破片は紀州千里の浜産ではなかったとのことであるが、これは伊勢物語七十八段と関連付けて由緒書を構成したとの推測を裏付けるものだろう。

なお、雲根志では公忠から武田氏に渡ったとあったが、寺伝では京都から直接賜ったとあり、あるいは温品氏が京都から盗んできたとか異説もある。秀吉がこの石と対面したというお話もあるようだ。

一首目が思ったより長くなってしまったが、「可部町史」にもう一首、可部に耳ありの狂歌がある。天保の頃、可部の嘯月樓貞川の歌集「鶯哇集」の冒頭に、可部の狂歌連の師匠だった梅縁斎貞風の歌がある。



         遣医師音信

  流行はとく聞こへけり町の名のかべに耳ある世に御繁昌


ここで町の名とあるが、広島藩において正式な町は、広島城下、宮島、尾道の三か所だけであったという。ところが可部には町奉行が置かれていて、実質的には町に準ずる機能を持っていた。広島藩の儒学者、頼春水が編纂した芸備孝義伝にも、「可部町饂飩屋清兵衛」という記述があり、公的にも可部町と書いて差し支えなかったことが伺われる。貞風の歌は、可部で繁盛している医者を詠んでいるが、可部町史によるとこの鶯哇集の貞川は商人とある。可部に評判の医者がいたのだろうか。

以上のように私が見つけた可部の狂歌二首はどちらも壁に耳ありだった。もうひとひねり欲しい気もするが、まずはそう詠むところかもしれない。ついでにもう一つ、狂歌ではないが、小鷹狩元凱著「広島雑多集」にある「可部に往く」という方言の記述を紹介してみよう。

廣島地方に於て寝(ね)に就くを「可部に往く」という方言あり、可部は広島を距る四里餘りの川上にあり、人々多くは可部を距る又一里許り、吉田に至る道に根の谷という地あるをもて、此方言を生ぜしならんと思えリ、

根の谷から寝るとは、根の谷川をよく渡っているけど考えもしなかった。さらにもう一説は歌林良材を引いて、

「かべ」夢をいふ、夢はぬるにみるによりてなり、壁もぬる物なるによつてなり

とある。せっかく隣町に住んでいるのだから、「可部に往く」も使ってみたいものだ。関連して、柳田国男によると(定本柳田国男集15巻「廣島へ煙草買ひに」)、「広島に煙草を買いに行く」あるいは、広島に茶を買いに行く、広島に米を買いに行く、というのは死を意味する隠語だという。宮島では島内にお墓を作れないから、広島に行くとは死ぬことと聞いたことがあるが、これは宮島だけの話ではなくて四国九州などもっと広い範囲で言われている隠語だと柳田国男は言う。そして、毛利輝元公がこの隠語をご存じだったなら、広島とは命名しなかったかもしれないとも書いている。しかし、広島に煙草を買いに行くが広島城築城以前から言われていたという証拠を見つけるのは難しい。どうしてそういう結論になったかもうちょっと書いてほしかった。

最後はいつものように話がそれてしまったが、今回は可部に耳ありの話でした・・・





二葉山

2022-08-21 13:43:14 | 狂歌鑑賞
「ひろしまWEB博物館 学芸員のひとこと」というページに、「二葉って地名と二葉あき子」(2014.5.15 )という記事があった。その冒頭部分に、

 広島市内で「二葉」というと、仏舎利塔のある「二葉山」を思い浮かべる人が多いかもしれませんね。でも、この山、広島城築城の頃は明星院山と呼ばれていました。では「二葉」の名称はいつごろからあるのでしょう?
 天保5年(1834)、新しく作られた饒津神社の名前に、昔の和歌に出てくる縁起のいい「二葉の松」にあやかって「二葉山神社」を社名・山号とし、あわせて明星院山が「二葉山」になったところから始まります。また、神社付近が「二葉公園」と呼ばれ、戦前には広島名所の一つとして絵葉書が出回っていました。そして近くの町名も「二葉の里」になりました。 

とある。この記事だけのリンクができないので少し長めに引用させていただいた。これを読んであれっと思ったのは、天保五年よりも古い、安永六年(1777)撰の「狂歌寝さめの花」に、二葉山が出てくるからだ。引用してみよう。

     
          葵            桟道

  二葉山神の守りの千とせ猶めでたき御代にあふひ草かも


この「狂歌寝さめの花」は芥河貞佐とその門人の歌集で、貞佐が広島移住後に獲得した弟子たちの歌が多数入っている。この歌の作者の桟道は初出の歌に備後庄原の人とある。貞佐没後に出版された「狂歌桃のなかれ」を読むと庄原の連雲斎貞桟が貞佐の重要な門人であったことがわかるが、この桟道は貞桟が貞の字を許される前の号であった可能性もある。歌をみてみると、二葉山、神の守り、あふひ草、で連想ゲームとなると答えは広島東照宮と広島人なら思い浮かぶのではないだろうか。広島東照宮は広島城下の東北、鬼門の守りとして家康33年忌の慶安元年(1648 )に造営され、徳川家の葵の紋を神紋として葵餅という縁起物も配布されている。

ここまで書いてきて、上の歌とぴったりはまっているから、東照宮の山はもっと古くから二葉山と呼ばれていたと結論づけても良さそうだが、実はそうとも言えなかった。書籍検索で、「加茂の葵の二葉山」という語句が出てきて、その説明として、

加茂の葵祭のことをいふとて葵の二葉山とつづけたりあふひはふた葉なるものゆゑ加茂やまをふたば山ともいへり

「加茂の葵の二葉山」は「愛護稚名歌勝鬨」の道行の一節と前のページにあるのだけれど、原本は未確認である。もうひとつ、夫木集の、

  神垣にかくるあふひの二葉山いくとせ袖の露はらふらん

という例も出てくる。こちらも書籍検索で読んだだけで原本を確認していないが、とにかく、葵祭の加茂山を二葉山と呼んでいたことがわかった。上記の桟道の歌は広島の山ではなくて、こちらの線で詠まれたのかもしれない。ただ、天保の命名は葵ではなくて二葉の松とあり、「加茂の葵の二葉山」は注釈が必要であってそれほど有名な語句ではなかったようにも思われる。それに、桟道の歌が葵祭の歌と言われても、ピンと来ない部分がある。まだ、結論を出すのは早いような気もするが、どうだろうか。





かしやんな

2022-08-18 15:17:16 | 狂歌鑑賞
ツイッターでフォローしている妖怪・霊獣・異形の神仏というアカウントのツイートに、

<禍(わざわい、か)> わざわいをもたらすという、巨大な猪や牛のような姿の妖怪。鉄を食べる。 1.『釈迦八相倭文庫』「わざわい」 #妖怪 

と出てきた。「釈迦八相倭文庫 」の挿絵をみると、天竺の話なのに男女とも江戸の人のようないでたちで、妖怪ワザハヒは日本刀を食っている。そしてこの中に、迦旃延 (かしゃうゑん)という尊者が描かれている。この名前は以前に徒然の友に入っている貞佐の狂歌を紹介した時に出てきた。もう一度引用してみよう。


    ○佛護寺といふこと    芥川貞佐
佛護寺といふ寺ありけるがいつのころにやありけん借金いたく嵩みければその支拂方に檀家の人々心配しけるときよめる

 護佛寺は借銭山のお釈迦かな阿難かしやんなもうくれん尊者


仏護寺は今の本願寺広島別院、浄土真宗本願寺派のお寺であって、原爆以前は貞佐の墓が残っていたという。貞佐の歌をみると、護仏寺とひっくり返してあるのは御仏事にかけてあるのだろうか。釈迦、阿難、目連と尊者の名前をつらねて、「あな貸しやんな、もう呉れん、損じゃ」と面白くまとめている。

ここではもう一人、「かしやんな」のところはカッチャーナという尊者がいて、最初に出てきた迦旃延(かせんねん)と同じ人である。問題は貞佐が果たして「カッチャーナ」というサンスクリット語の読みを知っていたのか、これは明治29年に出版されたこの本の作者の作り話ではないのか。貞佐といえば

  死んでいく所はをかし仏護寺の犬が小便する垣のもと

という辞世が知られていて、それで貞佐と仏護寺を結びつけたのではないか、という疑念は疑り深い性格の私でなくても出てくるはずだ。今回のツイートを見て、改めて少し探してみた。国会図書館デジタルコレクションで「梵語」で検索したところ「多羅要鈔」(文政五年)というのが唯一出てきて、「か」の項に迦旃延はあったがカッチャーナは無かった。しかし、出典として信行梵語集という書物の記載があり、こういう本を上方での修行時代に貞佐が見ていた可能性はあるのかもしれない。結論を出すにはまだまだ読書量も知識も足りないが、一応ここまでを書いておきたい。


狂歌とは

2022-07-28 13:25:23 | 狂歌鑑賞
 普段からツイッターでは「狂歌」のツイート検索をすぐに見られるようにしている。といっても、狂歌についてつぶやく人はそんなに多くないから、一日分を遡るのにそんなに時間はかからなかった。

 ところがである。先日、朝日川柳に国葬などを批判する川柳が掲載されたことをきっかけに、狂歌とつぶやく人が何十倍にも増えた。そして、わかっていたことではあるが、狂歌に対する誤解が多数見られた。川柳じゃなくて狂歌を詠め、文字通り狂っているのだから、というツイートもあった。

 以前にこのブログでも、狂歌師に求められるのは祝賀や画賛の歌が多く、教科書にのっているような政治風刺の歌は狂歌集には皆無であると書いた。柳門では批判や中傷などを含む歌は落首と呼ばれ、これを詠むと和歌三神の罰を蒙るとされて入門時の誓約書で禁止されていた。ぶんぶというて夜も寝られず、の歌を詠んだと喧伝された大田南畝は公儀の取り調べを受けた。ということは、政治風刺の歌は大っぴらに詠むわけにはいかなくて、もちろん狂歌集にはのっていない。狂歌全体のごく一部と言っていいだろう。

狂歌の定義は色々あるだろうが、伝統的な和歌のルールから逸脱したものが狂歌、ぐらいに考えておけば良いのではないかと思う。これだと正岡子規や俵万智も狂歌ということになるかもしれない。今回、狂歌を愛する人の反論も勿論なされていて、政治風刺は落首であって狂歌ではないとの主張もあった。しかし、柳門で禁止事項にしていることからも、落首も狂歌の一部と考えるべきなのかもしれない。また狂歌の定義については、吉岡生夫先生は、三十一音節の定型詩のうち口語詩に近いものが狂歌と言われていた。これはかなり本質に近いような気がする。

今回は川柳であったが、川柳、狂歌、風刺画など、新聞での権力批判は明治の時代からずっと続いてきたことだ。たしかにここ数年は何かの力が働いているのか、下火だったのかもしれない。私から見ると、今回掲載された国葬などを批判する川柳は別にどうってことはないと思う。もちろん編集者の思想は顕著に出ているけれど。それよりむしろ、政権批判を許さない空気こそ危ういと思う。首相経験者の暗殺は二・二六事件以来だという。そのあとの歴史を繰り返してはならない。

今回の件で私が最も閉口したのは問題が起きてからしばらくの間、狂歌のツイート検索では、左右両派による、悪意にみちた罵詈雑言に近い「狂歌」「川柳」合戦をたくさん読まされる羽目になったことだ。批判精神は結構だが、言葉の使い方が非常に醜いと思った。お前のかあちゃんデベソを連呼した方がはるかにましである。そして、政権批判側の方に申し上げたいのは、少し戦術を考えた方が良いと思う。まずは外堀を埋める、すなわち当該カルト教団の危険性に絞って共通理解を得るというところをしっかりやらないと、あっちもこっちも批判していたのでは森加計桜と同様にまた逃げられてしまうだろう。政治家の名前は後回しが良いと思う。分断統治という言葉がある。その術中から抜け出す知恵が必要なのだ。SNSなどで堂々と論陣を張っても、相手は動員されたカルト信者をあてがわれているだけかもしれない。先方には電通やらカルトやらついているのだから、こちらも知恵を結集しないと百万回選挙をやっても結果は同じだろう。話がそれてしまった。(この段落へのコメントは辞退します。あしからず。)

話を狂歌に戻したい。87歳の母はクイズ番組が好きで毎週何本も見ているが、その中に東大生が多数出演している番組があって、知識の量、ひらめき、頭の切れ、どれをとっても抜群である。思い出すのは天明時代、江戸の狂歌ブームをけん引したのも、このような頭脳を持った人たちだったのだろう。天明狂歌の筆頭、大田南畝は幕臣中でも漢籍の知識も抜群で、漢籍の知識がないと理解できない狂歌も多い。しかし、南畝で好きなのは、もう何回も引用しているが、


  やよ達磨ちとこちら向け世の中は月雪花と酒とさみせん


雪月花と酒と音楽、そして酔っぱらって達磨禅師にちとこちら向けと説教する、それも含めて狂歌(人生)なのだ。

そして私が主に読んでいる上方狂歌はというと、貞柳は御堂の前で菓子屋を営む浪花の商人であって、上方狂歌は天明江戸狂歌のような快活なエネルギーやひらめきの部分では劣るけれど、人情であったり、遊び心であったり、十分対抗できるものを持っていた。今回の件は私に言わせればすべて広島弁で言うところの「かばち」(文句、屁理屈、雑言)であった。「カバチタレ」のかばちである。そこでこちらからは以前も取り上げた貞国のかばちの歌を引用しよう。


  一文もなけれはちんともならぬ也銭てかはちをたゝく風鈴


貞国の時代、江戸では風鈴は「ふうりん」が多数だったけど、上方や地方では古い読みの「ふうれい」が残っていて、ここも「尚古」の同じ歌の読みに従って「ふうれい」としておく。「ちんとも」は「ちんともかんとも」で「うんともすんとも」と同じ意になる。「一文もなければ」は、青銅製の風鈴の舌には一文銭を用いたことによる。「かばち」は今の広島ではほとんど「たれる」というけれど、昔の「かばち」は言葉ではなくて、言葉を出す器官、ほほの骨のあたりを指したようだ。それで、「かばちを叩く」という表現になる。広島では「たれる」が強すぎて「叩く」は出てこないが、ネットで検索すると山口、島根、鳥取では「かばちを叩く」という表現が残っているようだ。「銭でかばちを叩く風鈴」と貞国は風鈴を風流で心地よい音とは表現していない、そこが狂歌の面白いところだろう。なお、当時は今よりも広い範囲で「かばちを叩く」は使われていて、貞国に方言という意識があったかどうかはもっと調べてみないといけない。

今回の件では、「かばち」にも色々あって、中には悪意100パーセントで近寄ってはならない「かばち」もあることを学んだ。他山の石としたいものだ。


ホトトギス初音

2022-05-30 17:07:36 | 狂歌鑑賞
 60日投稿がないと出るようになったが、最近は頭痛に悩まされていて読書も進んでおらず書くこともない。しばらく放置は仕方ないと思っていたところ、昨夜四時ごろ目が覚めた時に聞いたホトトギスの初音、これについて書いてみたい。

 その年初めてホトトギスを聞いたら、とりあえずツイッターに書いておくことにしている。この10年で二度ばかり昼間ということがあったが、それ以外は夜中だ。日付を並べてみると、

 2011年 5月29日
 2012年 記載なし
 2013年 6月16日
 2014年 6月1日
 2015年 5月19日
 2016年 6月2日
 2017年 5月20日
 2018年 5月11日
 2019年 5月27日
 2020年 5月21日
 2021年 5月22日
 2022年 5月30日

これはもちろん、私の耳に届いた日であって、夜中にサッカー見ていたら聞こえたという年もあれば、庭の柿の木で激しく鳴いて起こされたという年もあった。近くで鳴くときは庭の柿毛虫が発生していることが多い。今年が遅いのはホトトギスの都合ではなくて私があまり夜更かししてないから、かもしれない。今日は雨ということもあって昼間から薄暗く、午後は何度かホトトギスが鳴いている。近くに来ているようで、やはり私が寝ていて聞いてないだけのようだ。

これだけではしまりがつかないので、「五十人一首」から山崎宗鑑の狂歌を紹介しておこう。


   かしましや
   山里過よ
   ほとゝ
   きす

   みやこのうつけ
   いかに待らん


たしかに、近くでけたたましく鳴いて起こされたら、「かしましや」という感想になるのも当然だろうか。

令和三辛丑年 歳旦

2021-01-01 14:03:52 | 狂歌鑑賞
 当地は昨夜も少し積雪して、また今も粉雪が舞う寒い正月だ。朝十時頃少し晴れ間が出て、この隙にと外へ出て2021年最初の写真は爺様の松。



原爆で尾長町の家を焼かれた祖父が、祖母や母が一足早く疎開していた親せき宅の近くに終戦後土地を買ったのがこの場所で、今の家は二十五年前に父が建て替えたものだ。前の家に母の姉妹も含めて三世代住んでいた頃は、正月には冷蔵庫に入らない程の大きなブリを一匹買って土間にトロ箱のまま置いていても腐らなかった。今はそうはいかないし八分の一でも余ってしまう。この松の木は、祖父が家を建てた時に門松として山採りの成木を植えたそうで、植えたのは七十年前だがこの木が山で芽を出したのはもっと前ということになる。子供の頃、五十年は前の話だが、祖父に怒られて夜にこの松の木にロープで縛りつけられたことがある。近くでアオバズクがホッホッ鳴いて怖かった。松の木の根元を見るとその時の事を思い出す。





  悪さして松にくくられ鳴き居れば月夜にほうとふくろうの鳴く


土手に上がると、空は晴れていたが西の阿武山には雲がかかっていた。低い雲は雪雲だろうか。




右手を流れるのは三篠川、去年はこの川について書いてみたいと思ったのだけど、コロナで資料集めがままならずまだ一行も書けていない。今年は少しでも書き進めたいと思う。この写真を撮ったあとまた曇り空となり、今はちらちら雪が舞っている。

さて、今年最初の記事であるから、お正月の狂歌を紹介しておこう。今年も書くことに困ったら狂歌になりそうだ。貞柳撰「五十人一首」から高政の歌、


  初夢に
  かねひろふ
  ともよしや
  たゞ
  人もかしこひ
  をとすまい物


確かにお金を落とす人がいなければ拾うことはできない。そんな新年早々虫の良い話はないということだろうか。初夢は正月二日の未明に見る夢ということになっていて、今晩枕元に宝船とか並べて・・・しかしこれは大晦日の夜は寝ないで年神様をお迎えする前提で二日未明が初夢となっているのであって、昨夜ぐっすり寝て夢も見たという人はそれが初夢で構わないのではないかと思う。

今年もこんな調子のブログですが、よろしくお願いします。



はなしむなき売

2020-03-15 20:54:20 | 狂歌鑑賞
 今回も人倫狂歌集から、はなしむなき賣と題した四首を読んでみよう。四首目の最後は読みがよくわからないが、とにかく書いてみよう。


        はなしむなき賣

  仏店にてや往生なすならんうりあまりたるはなしむなきも

  両国の大きな長いはしにうるはなしむなきはちさしみしかし

  蒲焼の難をのかれてあきうとゝともにむなきの命つなきつ 

  からき世をわたるはし辺にもとてさへほそきむなきをあきなうてゐる


放し鰻とは、供養のために鰻を買って川に放すこと、と出てくる。放生会という仏教起源の儀式が元になっていて、放すのは鰻だけでなく雀や亀も行われたようだ。歌を見ていこう。

一首目の「仏店」は、上野山下仏店(ほとけだな)にあった大和屋という鰻屋のことで江戸で蒲焼の元祖を名乗っていた店だという。岡田村雄著「紫草」(大正五年)には、「大和屋のうなぎ」という項に、

「佛店といふは上野山下の中今は上野停車場の邊ををいへる里俗の稱なり」

とあり、仏店は住所の地名では無かったようだ。そして、

「大和屋は文化文政頃盛に行はれし店にて其頃出板の江戸見立番附の二段目に載せあるを見ても名高かりしこと知るべし」

さらに次頁の商標には、

「私儀数年此所にてぬらりくらりとうなぎしやうはい仕候」 

と読める。ぬらりくらりは江戸の昔からうなぎの決まり文句だったようだ。また、江戸買物独案内(文政七年)の商標にも「元祖」「元禄年中ヨリ連綿」と見える。年代については、「江戸の食と娯楽」に「世のすがた」(天保四年)からの引用として、

「うなぎ蒲焼は、天明のはじめ、上野山下仏店の大和屋といへるもの、初て売出す」

とあり、元禄からあったかどうかはわからない。

しかしとにかく仏店といえば蒲焼の名店であって、一首目は放し鰻で売れ残って逃がしてもらえなかった鰻は仏店で往生とある。蒲焼の名店は他にもあったが往生の縁語として仏店を選択したようだ。

二首目は両国橋の大きな長い橋のたもとで打っている放し鰻は小さく短かったと。青空文庫で読める岡本綺堂「放し鰻」(大正十二年)には、

「かれは両国の橋番の小屋へ駈け込んで、かねて見識り越(ご)しの橋番のおやじを呼んで、水を一杯くれと言った。  (中略) 番小屋の店のまえに置いてある盤台風の浅い小桶には、泥鰌(どじょう)かと間違えられそうなめそっこ鰻が二、三十匹かさなり合ってのたくっていた。これは橋番が内職にしている放しうなぎで、後生(ごしょう)をねがう人たちは幾らかの銭を払ってその幾匹かを買取って、眼のまえを流れる大川へ放してやるのであった。 」

とあって、両国の橋番が内職で放し鰻を売っていたとある。「めそっこ」とはアナゴやウナギの若魚で、アナゴについては、江戸っ子は20センチ前後のメソッコを最上としたとも言われているが、ウナギの小さいのは蒲焼には向かなかったようだ。一首目のように、売れ残ってもすぐに蒲焼にするという訳にはいかなかったのではないかと思われる。両国橋は浮世絵にも出てくる大きな橋で飲食店が並び下に屋形船も浮かんで夜でも昼のような賑わいだったという。それを「ちさしみじかし」の七文字で締めたところがこの歌の面白さだろうか。

三首目は「むなぎ」と「つなぎ」が韻を踏んでいる。商人と共にウナギの命をつないだと言うが、現代人の目から見ると鰻を人質?に取られてるみたいでスッキリしない。

四首目のラストの字を「里」と読んでしまうと字数が足りないし意味がとれない。また「わたる」の「わ」も「王」とはちょっと違う気がするのだけれど、意味をとって上記のように読んでみた。正しい読みが分かった方コメントいただきたい。

人倫狂歌集の放し鰻売りの次には「はなし鳥うり」と題する歌がある。一首引いてみよう。

  のりなめし雀もありやねたんをもしたからきつてうるはなし鳥

他も舌切り雀を題材とした歌が多いようだ。実際の放し鰻、放し鳥は後生を願う信仰心からの行動であって、狂歌で読むのとは少しニュアンスが違っているのかもしれない。









水をむけては

2020-03-08 17:27:52 | 狂歌鑑賞
今回は、「人倫狂歌集」から口よせと題した歌を紹介しよう。最後の挿絵の歌は、上の句の読みに自信がないのだけど、とにかく引用してみよう。


(二十七丁表)

          口よせ

  しにうせし人はしらねとわかむねのうかんたまゝにしやへる口よせ

  弓とつる遠まはしにもその人のまつ口うらをひくあつさみこ

  なき夫に水をむけてはあつさよりこちらのかみをおろすきになる 

(二十七丁裏) 挿絵

  るりこはく水晶のすゝのくりことに世になきたまをよする口よせ


ここで目を引くのは口寄せをしている女性の挿絵



ぱっと見、幽霊みたいな涼しさを感じる絵だ。色々道具が描かれている。「カラー図解付き 江戸がわかる用語事典 」の巫女(いちこ)の項には、

「梓の木で作った弓の弦をたたきながら口よせをするので梓巫女(あずさみこ)とも呼んだ。梓弓を入れた箱を風呂敷で包み、黒帯に白足袋をつけていた。」

とあり、二首目の「あつさみこ」はこの口寄せ(職業)の別名とわかった。そしてここにも絵がついていて、



イラストによって随分印象が違う。そして道具も少し違うようだ。もう一例、東海道中膝栗毛の日坂宿で弥次さんが巫女(いちこ)に死別した妻を口寄せしてもらう場面、

「いち女れいのはこを出してなをすこと、さしこゝろへてやどの女、水をくみ来る、彌次郎すぎさりし女房のことを思ひだして、しきみのはに水をむけると、いち子は先神おろしをはじめる」

弥次さんがシキミの葉に水を向けて、巫女の神おろしが始まったとある。ここにも挿絵がついていて、



死別した妻の霊に責められて泣く弥次さんとそれを見て笑う喜多さんが描かれている。昭和2年の本では少し違っていて、



この老婆は霊なのか、それともあとから登場する・・・いや、そうだとするとネタバレになるので触れないでおこう。そして巫女の前の茶碗にシキミの葉らしきものが描き加えてある。人倫狂歌集の挿絵でも、茶碗の中に葉が描いてある。今も使う「水を向ける」という表現はこの口寄せが語源で、依頼人が水を向けて、然る後に巫女が口寄せを始めるという段取りだったようだ。このあと巫女が神おろしの向上を述べたあとで、「なつかしやなつかしや、よく水をむけて下さつた」と弥次さんに語り始める。神おろしのお終いには、巫女が、

「アヽ名残おしや、かたりたいことといたいこと、数かぎりはつきせねど、冥途の使しげければ、弥陀の浄土へ」トうつむきていちこはあずさの弓をしまふ

昭和の本では最後が「弓を鳴らす」になっている。このあと巫女の部屋に夜這いという展開になって最後に狂歌があるのだけど、昭和の本は活字なので、是非読んでいただきたい。

ここまでを踏まえて、人倫狂歌集の歌をみてみよう。恐山の口寄せの体験談を読むと、イタコは結構一方的に話し続けるらしい。「我が胸の浮かんだままにしゃべる」はそういう光景と思われる。

二首目は口裏(占)を引くという言葉が出てくる。ネットで引くと「相手の心中を察して話をもちかける 」「本心を言わせるように誘いをかける 」と出てきて、巫女の側が探りを入れている状態だろうか。

三首目は「水を向ける」が出てきて、しかし下の句の「かみをおろす」にどうつながるのか。これは梓巫女が「神を降ろす」と未亡人が「髪を下ろす」が掛けてあると思われ、巫女の話を聞いているうちにそういう心情になるということと解しておこう。

挿絵の歌は一応、瑠璃、琥珀、水晶の鈴と読んでみたけれど、そのような道具は出てこない。間違っているのかもしれない。「世に無き魂を寄する口寄せ」と、怖い下の句に呼応する上の句が、私の力不足でよくわからないのは残念なことだ。

絵についても、人倫狂歌集のは独特で、積み上げられた米粒のようなものが何なのか、これもわからない。梓の弓はアイヌのムックリと関連があるという指摘も読んだけれど、アイヌは口寄せはしないそうだ。わからない事だらけで、スピリチュアル系に強い方がいらっしゃったら、ご教示いただきたい。