阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

爺様の掛け軸 改訂版

2021-01-24 12:24:18 | 栗本軒貞国
二年半前に書いた爺様の掛け軸についての記事は私にとって狂歌研究の出発点であって、以来このブログに栗本軒貞国の「狂歌家の風」を中心に書いてきた。しかし、今読み返してみると狂歌や江戸時代について無知であった頃の記事であり、追記で訂正を繰り返して訳がわからなくなっている。もう一度整理して書いてみたい。

爺様の掛け軸は母方の家に伝わったもので、祖父の生前に聞いた話では、母方のご先祖様は四百年前に浅野公について紀州から広島にやってきたという。広島藩では家老も務めてそれはそれは大きなお屋敷と土地を持っていたと聞いたけれど広島藩重役の名簿にそれらしい名前は見つからず、ここは祖父が大げさに盛った話かもしれない。維新後は日清戦争で広島が臨時首都になった折には高祖父が大本営にお仕えしたそうだが、その後大正期に屋敷と土地を失ったと聞いている。問題の掛け軸は子供のいなかった大叔父(祖父の兄)の形見で、大叔父は正月にこの掛軸を飾っていたという。もう一度見てみよう。




まずは字を読んでみる。


     栗のもとの貞国

あたまから
  かくれたるより
    あらはるゝ
   おきてをしめす
     福の神わさ



 


「栗のもとの貞国」は寛政から化政期に活躍して天保四年(1833)に亡くなった栗本軒貞国(りっぽんけんていこく)という広島の狂歌師である。屋号は苫屋弥三兵衛といって当時の広島デルタの先端に近い水主町に住んで、水主が編んだ苫を商って裕福な商家であったという。栗本軒の号は歌人の芝山持豊卿からいただいたと狂歌家の風の序文にあり、栗本軒の初出は私が見ることができる文献では寛政八年(1796)であるから、この掛軸はそれ以降に書かれたものということになる。また、栗本軒を「栗のもと」と和風に書いたのはこの掛軸以外では、文化年間に貞国が加計の吉水園を訪れた際の歌を収録した「山県郡史の研究」に「栗の本の貞国」の表記がある。貞国の生涯については若い頃が良くわからないのだけど一応年表にまとめてみたので見ていただきたい。

歌を見てみよう。一、三、五句で墨つぎをするのは貞国の書の特徴ではあるけれども、文政年間までに確立したと思われる一句ずつ五段に分けた貞国得意の書式はとっておらず、寛政期の懐紙などにみられる縦五行となっている。これを貞国の真筆とするならば、上記の栗のもとの表記の考察とあわせて、寛政末期から文化年間の前半ぐらいまでに書かれたものと考えられる。

次に歌の内容を考えてみる。漢字を入れて書き直してみると、


  頭から隠れたるよりあらはるゝ掟を示す福の神業


上の句は中庸の「莫見乎隠莫顕乎微」(隠れたるより見(あら)はるるはなく、微なるより顕なるはなし)の本説取りと思われる。隠れているものほど、本性が良く見えるものだということだろうか。この歌に当てはめると、頭を隠していることで何者であるか逆にはっきりとわかる。それが「福の神わさ」であると言っている。問題の絵を見てみよう。




この絵については、もう四年前になるけれど「みんなで翻刻」の質問のページに出したところ、「祝福芸ではないか」とのご指摘をいただいた。その線でも調べてみたのだけどよくわからない。その後、江戸時代の狂歌を読み進めたところ、この時代の狂歌で「福の神」と出て来たら、ほぼ七福神と考えて良いという事がわかった。すると、七福神で頭を隠す必要があるのは、福禄寿という答えが出てくる。そう言われてみると、長い頭が透けているようにも見える。寿老人も元々は福禄寿と同じ仙人がモデルということで頭が長く描かれ、持ち物で区別すると書いたものがある。この絵では手を後ろに回していて持ち物はわからないけれど、狂歌を読む限りでは、頭が長い事を題材にされるのは断然福禄寿の方だ。例歌をあげておこう。


         福禄寿のかたに
  
  つくづくと見るほど長きあたまかないく千代かけてかくはのびけん (狂歌醉竹集 

           新吉原ふしみ町の茶屋玉屋がもとにてふくろく寿のゑを見侍りて

  御存(ごぞんじ)のあたま勿論このやどはしりの長いもふくの神なり (万載狂歌集


実はこの絵については長い間悩んで来たのだけれど、福禄寿ということで一応決着としたい。しかしながら、目元をみると、中国の仙人のようには見えない。近所にいらっしゃる爺さんのような眼だ。中庸からの引用があり、この掛軸が武家へのプレゼントだったと考えると、その武士の顔だったのかもしれない。私のご先祖様が直接貞国からもらったという保証はなく、明治以降に手に入れたものかもしれないけれど、私としてはご先祖様のお顔と考えておくことにしよう。広島藩では節目節目の祝詞の発声は当番が決まっていたように読める記述もあるから、以前に指摘していただいた祝福芸の線も絵に関しては残っていると思う。

「福の神わさ」については、貞国の師匠、桃縁斎貞佐の一門による狂歌集「狂歌桃のなかれ」に用例がある。


     職人頭巾           廿日市 梅翁

  槌を持鍛冶屋もくゝり頭巾着てさすか吹革をふくの神わさ


くくり頭巾ということから、この福の神は大黒天とわかる。同門の歌に「福の神わさ」が出てくるということは、門人の集まりで七福神をすべて詠んだうちの一首かとも考えてみたけれど、貞国の歌は絵とセットでないと理解しにくい。絵だけでも何の絵かわからないから絵と歌と同時と考えるのが合理的だろう。しかし「福の神わさ」は他では中々見つからず、貞佐門下で流行の題材だったのかもしれない。

印については、ほとんど読めていない。五日市町誌に貞国が涼風亭貞格にあたえた「ゆるしふみ」(文政七年)の写真があり、下に並べたうちの2番目の印と似た印が「柳門正統第三世 栗本軒貞国」の署名の横に押してあるのが確認できる。 しかし、五日市町誌で「福井道化」と読める三文字目が掛け軸の印では違っているように見える。なお、「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」に「道化」は貞国の別号とある。絵の印も読めず、絵の作者もわからない。絵と歌とセットで作られた可能性を考えると貞国画の線も残っている。前回同様に、印を並べておいて、わかる方に読んでいただきたい。










前回書いた時に比べると少しは分かって来たと自分では思うのだけど、まだまだこれからな部分も残っている。貞国関連の古文書と見比べてみたいけれど、どこにお願いすれば良いのかもわかっていない。それに、実現したとしてもそれはコロナ終息後だろう。それまでは、出来る範囲で手がかりを探していきたいものだ。なお、どうでも良いことなので最後に書いておくけれど、最近ヤフオクなどを見る限りでは、この手の狂歌の掛け軸の値打ちはせいぜい一万円、高くても二、三万ぐらいのようだ。

笹かたけゆく

2021-01-10 13:04:00 | 家づと
鯛屋貞柳「家づと」(1729年刊)より、十日戎の歌を一首、


       十日戎参りの人を見て

  商人(アキント)の欲に心や乱るらん戎参りの笹かたけゆく


詞書と歌とでページをまたいでいるので画像は2枚




(ブログ主蔵「家つと」4丁ウー6丁オ)


「笹かたけゆく」は関西の人にはおなじみだろう。福笹に吉兆と呼ばれる鯛や小判などの縁起物を結んで、それを「担げる」のは貞柳の時代から続く十日えびすならではの光景だったようだ。当世流行歌(明治42年)には、

     ○十日戎子
十日戎子の賣ものは、はぜ袋に取鉢銭がます、小判に金箱立ゑぼし、ゆでばすさい槌束ねのし、おさゝをかたげて千鳥足。 

とあって、笹に結ぶ吉兆の種類が謡われていてここにも「おさゝをかたげて」とある。貞柳の狂歌は俗謡、浄瑠璃などからの引用の多さが指摘されていて、この歌謡が下敷きにあったのかもしれない。今宮戎神社の公式ページには、

「十日戎を象徴するのが、神社から授与される小宝です。小宝は別に「吉兆」(きっちょう   若しくは きっきょう)と呼ばれ、銭叺(ぜにかます)・銭袋・末広・小判・丁銀・烏帽子・臼・小槌・米俵・鯛等の縁起物を束ねたもので、「野の幸」・「山の幸」・「海の幸」を象徴したものです。 」

とある。貞柳には「絵本御伽品鏡」の中に笹を担げる歌がもう一首ある。この本は長谷川光信の画に貞柳の狂歌が入っていて当時の上方の風俗を描いた貴重な一冊だ。その歌は、


         今宮戎   

  十日ゑひす心は物に狂はねと子を思ふ道に篠かたけゆく


ここは商人の欲ではなく子供にせがまれて笹担げゆくということのようだ。挿絵からも吉兆をつけた笹を担げている様子が伺える。貞国のえびす講の回でも書いたように、歴史的仮名遣いでは「えびす」が正しいのだけれど、恵比寿など「恵」の字を当て字に使ったことから、その崩しである「ゑびす」の表記も多く見られ、京都にはゑびす神社がある。

さて問題は、「絵本御伽品鏡」の次の歌。


         西宮

  にしのみやを出てさふらふ戎橋(ゑひすはし)渡り兼(かね)ぬる人を守らん


これは、西宮神社のお札を戎橋で授けていたということらしく、挿絵で小屋にえびす様の掛け軸が飾られているのがそれに当たるようだ。この絵は戎橋のたもとに、前の歌の今宮戎にお参りした人と西宮神社の札所が見開きで描かれていて、それで少しややこしくなっている。「渡り兼ねる」とはどういうことだろうか。戎橋を渡れない人がいたのか。貞柳翁狂歌全集類題には似たような歌がある。


     西宮戎の札を道頓堀戎橋辺へもちきたりて
     披露しけるに

  わたりかぬる人を助けむ為にとて西の宮よりきた戎はし




(ブログ主蔵「貞柳翁狂歌全集類題」7丁ウ・8丁オ)

前の笹かたけゆくと同じように似た歌があるということは、「絵本御伽品鏡」に入れる時に同じ趣で自作を改めたのかもしれない。二首をふまえて「渡り兼ねる」について考えてみると、これは「世を渡りかねる」だろうか。困っている人、やりくりが難しい人を守る、助けるえびす様、今宮戎にお参りして笹を担げるよりもお金をかけずにということのように思える。世を渡りかねている人が、経済的な理由もあって今宮戎への戎橋を渡りかねる、今はそう解しておこう。私の経済力の無さが解釈に影響しているのかもしれないけれど。

ウィキペディアの戎橋の項を見ると、戎橋という名前の由来について、


「戎橋」の名前の由来には、
  1. 今宮戎神社にお参りする参道であったことから。
  2. 西宮神社の社札が配られたことから。
という2つの説があるが、通常は1つ目の説が有力視されている。


とある。「絵本御伽品鏡」の挿絵と貞柳の狂歌はこの二つが混在していて私は中々理解が進まなかったのだけど、貞柳はそこに面白さを感じたのかもしれない。二説あるということは、まだまだわからない事が多いのだろう。






令和三辛丑年 歳旦

2021-01-01 14:03:52 | 狂歌鑑賞
 当地は昨夜も少し積雪して、また今も粉雪が舞う寒い正月だ。朝十時頃少し晴れ間が出て、この隙にと外へ出て2021年最初の写真は爺様の松。



原爆で尾長町の家を焼かれた祖父が、祖母や母が一足早く疎開していた親せき宅の近くに終戦後土地を買ったのがこの場所で、今の家は二十五年前に父が建て替えたものだ。前の家に母の姉妹も含めて三世代住んでいた頃は、正月には冷蔵庫に入らない程の大きなブリを一匹買って土間にトロ箱のまま置いていても腐らなかった。今はそうはいかないし八分の一でも余ってしまう。この松の木は、祖父が家を建てた時に門松として山採りの成木を植えたそうで、植えたのは七十年前だがこの木が山で芽を出したのはもっと前ということになる。子供の頃、五十年は前の話だが、祖父に怒られて夜にこの松の木にロープで縛りつけられたことがある。近くでアオバズクがホッホッ鳴いて怖かった。松の木の根元を見るとその時の事を思い出す。





  悪さして松にくくられ鳴き居れば月夜にほうとふくろうの鳴く


土手に上がると、空は晴れていたが西の阿武山には雲がかかっていた。低い雲は雪雲だろうか。




右手を流れるのは三篠川、去年はこの川について書いてみたいと思ったのだけど、コロナで資料集めがままならずまだ一行も書けていない。今年は少しでも書き進めたいと思う。この写真を撮ったあとまた曇り空となり、今はちらちら雪が舞っている。

さて、今年最初の記事であるから、お正月の狂歌を紹介しておこう。今年も書くことに困ったら狂歌になりそうだ。貞柳撰「五十人一首」から高政の歌、


  初夢に
  かねひろふ
  ともよしや
  たゞ
  人もかしこひ
  をとすまい物


確かにお金を落とす人がいなければ拾うことはできない。そんな新年早々虫の良い話はないということだろうか。初夢は正月二日の未明に見る夢ということになっていて、今晩枕元に宝船とか並べて・・・しかしこれは大晦日の夜は寝ないで年神様をお迎えする前提で二日未明が初夢となっているのであって、昨夜ぐっすり寝て夢も見たという人はそれが初夢で構わないのではないかと思う。

今年もこんな調子のブログですが、よろしくお願いします。