阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

1月5日 二葉の里 歴史の散歩道 (下)

2020-01-06 12:59:03 | 寺社参拝
(前回のつづきです)

 去年は時間いっぱい狂歌碑を眺めていたのだけれど、今回はせめて東照宮の福禄寿までは行きたい。聖光寺をあとにして次は国前寺。日蓮宗のお寺で、門前には日像上人が船をつないだという松の木があった。といっても木の大きさからして何代目かだろう。枝に隠されて字が読めなかったのが残念だった。


妖怪退治の稲生武太夫にもゆかりのあるお寺で、七日には稲生祭があると予告があった。ばけもの槌とはいかなるものだろうか。いつもお世話になっている「広島ぶらり散歩」の稲生祭の記述によると撮影禁止だったとのことで、いつか見に行ってみたいものだ。



本堂のあと七福神の大黒様にお参りしたところで、小銭入れがすっからかんになってしまった。このコースを歩かれる方は、小銭は十分にご用意ください。いや、あとから考えると御守りでも買えば良かったのだけど。



次は尾長天満宮。ここは19才の正月、浪人していた時に大須賀町の予備校の自習室を抜け出して二人でお参りしたことがある。私の人生の中で、浪人時代は飛び抜けてモテた時期であった。理由は簡単で、古文の成績が良かったから。その予備校の広島校は開校2、3年しかたっていなくて、英語や数学は名古屋の本家から実績のある先生が出張して来ていた。しかし国語はこの辺で調達していて実力がどうもアレだった。はっきり言って私に聞いた方がましだったのだ。そんな訳で昔のことだから記憶が定かではないが、おとなりの東照宮には日を改めて別の女性とお参りしたような気がする。その人とは帰り道が同方向、といっても彼女は早稲田で私は白島、私が遠回りして饒津神社から川沿いを歩いた。手を振って別れた場所が二又橋という名前なのは最近になって知ったことだ。

話が大きくそれてしまった。しかし、尾長天満宮の寿老人と東照宮の福禄寿で悩まなければならないのは、その時の報いかもしれない。

話を尾長天満宮に戻そう。問題の寿老人はそんなに頭が長い感じではなかった。これについては福禄寿も見てから考えよう。




そろそろ疲労感が出てきて、このあたりからあまり写真を撮っていない。私にはウオーキングのブログは無理のようだ。唯一これ以外で撮ったのは撫で牛の写真だった。



次は広島東照宮。聖光寺からこちら、初詣に七福神めぐりする方は結構いらっしゃって、多くの人とすれ違った。しかし東照宮は別格で、車も列をなしていて露店もあって、ここだけお参りする方が多い印象だった。参拝も行列で、先に福禄寿といっても中々見つからない。そういえば父は子供の頃西白島に住んでいて、東照宮の裏にあった椎の木のどんぐりを取っていたら有刺鉄線が頭にささったという話を何度も聞かされたなあと本殿の裏手に回ったら、椎の木はわからなかったが福禄寿様はいらっしゃった。まずはその横の亥の子石から。ひもを結ぶチェーンもついている。





そして問題の福禄寿。





長い頭が日陰になって、帽子をかぶったように隠れている。直感的にはこれで決まり、という訳にもいかない。ちょっと考えてみよう。この二葉山山麓七福神めぐりには御詠歌のような歌がついていて、マップの裏に一覧があった。




これによると、福禄寿の歌に「その御頭(みかしら)の長きこと」とあり、一方の寿老人はそんなに頭が長く描かれていない。しかし、江戸時代という事で見ると、頭が長いと詠んだ歌は両方にあり、江戸狂歌の第一人者、大田南畝には寿老人の頭の長さを詠んだ歌が複数あるという(まだ見つけていないけれど)。

ここで、爺様の掛け軸の絵をもう一度、



歌ももう一度、

                    栗のもとの貞国

 あたまからかくれたるよりあらはるゝおきてをしめす福の神わさ


この歌の下敷きにあるのは中庸の、

 莫見乎隠 、莫顕乎微 

 隠れたるより見(あら)はるるはなく、微なるより顕なるはなし

であって、隠れてる物の方がかえって良く見えているものであるという。それに歌を見ると隠れているのは頭である。つまり、

  頭を隠しとる、ゆうとるんじゃけえ、それでもう分かるじゃろ

と貞国は詠んでいる。しかし、私はまだ確定できないでいる。七福神のうち、あとの五神に比べて、福禄寿と寿老人はあまり話題にならない。かなり人気薄である。解決するためには、貞国と同時代の広島において、頭が長いのはどちらであったか探すしか今は方法が見つからない。気長に探してみたい。



さらに西に歩いて、二葉あき子の歌碑までたどり着いた。ここから山手に入ったところに、掛け軸を伝えた母方のお墓がある。お供えもお花も持っていないが、お参りに寄った。奥都城と入った神道のお墓なのだけど、いつも気になることがある。じーさんのじーさん、ひい爺さんの次に、元治元年という没年が入っている。



曾祖父が日清戦争の折、広島に設置された大本営にお仕えした前後に神道に改宗したのではないかと想像しているのだけど、その時に前のお墓に先々代からの遺骨を納めたのだろうか。この墓は祖父が建てたと刻んである。この元治元年没のご先祖様は、ひょっとすると晩年の貞国と関わりがあったのかもしれない。

次は鶴羽根神社の弁天様。残念ながらここでタイムリミットとなり、広島駅に引き上げた。七福神はあと二つ、次回いつになるかわからないが、逆に不動院から広島駅を目指してみたいと思う。二又橋の話はその時に書けば良かった。新年早々、くだらない話になってしまったこと、おわび申し上げます。







1月5日 二葉の里 歴史の散歩道 (上)

2020-01-06 09:55:27 | 寺社参拝
初詣という感じでもないけれど、一年の最初は貞国の狂歌碑がある聖光寺にお参りしたい。それで今日は午後、矢賀駅から二葉の里を目指して歩いてみた。しかしタイトルの散歩道みたいな記事になるかどうか。書くことはいつもと変わり映えがしないのではないかということ、書く前にお断りしておきます。

昼飯を早めに片づけて、12時41分下深川発の芸備線で出発、いつもの日曜のサッカー観戦に出かける時よりも混んでいた。今日は東区役所のページに載っていた二葉の里、歴史の散歩道のコースを参考に歩いてみたい。




貞国の狂歌碑がある聖光寺には必ずたどり着きたいから、スタートはマップで東の起点となっている芸備線矢賀駅とした。いつもはここから踏切を渡って東のグランドにサッカーを見に行くことが多いのだけど、今日は矢賀小の北から西に向かって、13時過ぎに歩き始めた。



最初の目的地は才蔵寺、出かける前に地図で確認したところ、広電ゴルフの裏をぐるりと回れば着けるはずだ。しかし、そこは丘の上で、坂道登ってあさっての方向に行ってしまったら新年早々近くの火葬場ということになってしまう。私はスマホも地図も持っていない。ここはリスクを負わずできるだけ平地を通って聖光寺に近づいてから考えることにして、矢賀小の北を折れて旧道のような一本道を西に進んだ。すると太い道に出て散歩道の案内板が見える。これは助かったと読んでみたら、昔は岬の突端であった岩鼻跡という場所だった。



この図は矢賀駅が起点ではなくて、矢賀新町バス停付近で見たことがある矢賀一里塚から線が引かれていて西国街道のルートのようだ。ともかくこれで現在位置がわかって、才蔵寺めざして北へ歩き始める。矢賀駅からみるとV字型に遠回りしてしまったが仕方がない。しかし、この道もどんどん坂を登って車もたくさん通っている、大丈夫だろうか。一度不安になると火葬場へ着く気しかしない。門松は冥途の旅の一里塚、ってこないだ一休さんを読んだばかりではないか。いやここは冷静にと立ち止まって周りをみると、北からしっぽのように細長い丘がさっきの岩鼻という岬の突端まで伸びている。今の道は丘の東側を登っているけれど、西を見ると丘の上のマンションの向こうは崖のようにみえて下に尾長の住宅地が広がっている。そしてちょうどマンションとマンションの間の公園のようなところから、下に降りる道が見える。ここは再び安全策をとって西側の地上に降りることにした。あとで地図を見たら元の道で間違ってはいなかった。しかし、火葬場に近づいていたのも確かで、不吉な予感も当たっていた。才蔵寺と火葬場は直線距離でせいぜい500メートル、頭の中の地図はその位置関係があやふやであった。

平地を北に向かって少し歩いて、また東に戻るように坂を登って、たまたまラッキーかもしれないが才蔵寺を見つけることができた。元日は川土手から阿武山の観音様に手を合わせたけれど、初詣はこのお寺のミソ地蔵尊ということになった。



福島正則に従って広島に来た可児才蔵という武将ゆかりのお寺で、なんでもお地蔵さんの頭に味噌を乗せてお願いすると頭が良くなるらしい。このお地蔵さんもユニークだが、注意書きが一々石に彫ってあるのも特徴的だった。




参拝を終わって案内板を眺めると、ここのは矢賀駅起点になっていて、ここまで才蔵峠を越えて900メートルとある。3倍は歩いた感じだがちゃんと着けたのだから文句は言うまい。方違えみたいなもんだ。



ここからは仏舎利塔も見えているし迷ってもしれている。落ち着いて聖光寺を指して歩いた。しかし瀬戸内高校が見えたところでそちらへ折れてしまったため、西国街道沿いの史跡を逃してしまったのはミステイクだった。矢賀駅から1時間かけて、2時ちょうどに聖光寺に着いた。まずは一年ぶりの貞国の辞世狂歌碑。




もう一度書いておこう。


        辞世               貞国

  花は散るな月はかたふくな雪は消なとおしむ人さへも残らぬものを 


尚古だと「人さへも」の「も」が無いのだけど、何度見ても「も」はあるように見える。あと12年で阿武山の大蛇の五百年忌、その翌年が貞国の二百年忌なのだけど、私は生きていれば70歳ということになる。その日にこの場所でこの歌を声に出して詠じてみたいものだ。今年も何度か歌ったあとで、次は学問所と貞国の兼ね合いで名前を出させていただいた金子霜山のお墓をお参りした。



去年、墓石が無くなっていると書いてしまったのは私の大間違いで、霜山の墓は土饅頭型の儒式とのことだった。霜山は幕末江戸番の時に他藩の武士にも講義をして、維新に功績があったとして没後に正五位を贈られた。右の碑はそのことが書いてあるようだ。広島藩学問所を詠んだと思われる歌二首を取り上げた「ものよみの窓」の回でも書いたが、当時広島城三の丸にあった学問所(学館)の窓を貞国はどこから見ていたのか。お堀を越えた城外遠くから眺めた歌ではないような気もする。日本教育史資料2によると旧広島藩では、

平民ノ子弟教育方法 藩立学校ヘ入学ヲ許サス然レ𪜈学事ニ従事スルヲ禁セス

とあって、学事に従事とはどんな事なのか、貞国と学問所はどのような関わりだったのか、これからの課題である。

そのあと去年お世話になった丘の上の聖光観音をお参りして、十一面観音がいらっしゃる本堂から前回はスルーしてしまった内蔵助親子の遺髪を納めた供養塔にもお参りした。そして二葉山山麓七福神めぐりの布袋様、今回はこの七福神にも注目してみたいと思う。



母方の家に伝わった爺様の掛け軸の中の絵は、以前に神様の絵ではなく祝福芸ではないかとの指摘もいただいたのだけど、この一年間読んできた限りでは、江戸時代の狂歌において福の神といえば100パーセントに近い確率で七福神のどれかを指しているようだ。そして、掛け軸の歌は、


  あたまからかくれたるよりあらはるゝおきてをしめす福の神わさ


となっていて、絵のじいさんは烏帽子をかぶって頭を隠している。そして、長い頭が透けて見えるような感じもする書き方だ。すると、七福神の中で頭が長いのは福禄寿か寿老人ということになる。しかしこの二人は、中国では同一人物だったようで、七福神の絵でも持ち物と連れている動物でしか区別できないようだ。掛け軸の絵は両手を後ろに回して持ち物も隠していてどちらか判別できない。今回二葉山麓の七福神めぐりでは、寿老人は尾長天満宮、福禄寿は東照宮にある。何か手掛かりはないものか、注意して見てみたい。




今回は一気に書く必要も無いようなお話なので、後半は次回に。