阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

祇園は恋し 寝るときも

2019-04-29 09:54:15 | ちょこっと文学鑑賞

 タイトルの吉井勇の歌、以前NHKBS-3の祇園の番組でアナウンサーが「ねるときも」と読んでギョッとした。それはないだろうと思った。しかし本棚にあるはずの歌集(吉井勇歌集 岩波文庫)が見当たらずそれきり忘れていた。昨日やっと部屋でみつけてまずその歌をチェック、

 

  かにかくに祇園は戀し寝(ぬ)るときも枕の下(した)を水のながるる

 

とあって、ルーペで拡大してもルビは「ぬ」となっている。この文庫本にルビのルールは書かれていない。しかし吉井勇自選の歌集であるから間違いないのではないかと思う。それではなぜNHKは「ねるときも」と読んだのか。間違いならば仕方ないが、意図的、例えば聞いてわかりやすくするために、ならばやめてもらいたいものだ。一部だけ現代の活用に変えるというのはありえないと思う。

 今回書きたいのはこれだけ、しかしせっかく吉井勇歌集が見つかったのだからルビという点からもう一首紹介したい。

 

  白秋が生まれしところ柳河の蟹味噌(がにみそ)に似しからき恋する 

 

蟹味噌は「がにみそ」となっているが、白秋の詩「蟹味噌」は「がねみそ」とルビが振ってある。他の箇所のルビは長くなるので一部略した。

 

    蟹味噌 三首

   どうせ、泣かすなら、 
   ピリリとござれ、 
   酒は地の酒 
   蟹(がね)の味噌。 
  
   臼で蟹搗(がねつ)き、 
   南蠻辛子、 
   どうせ、蟹味噌(がねみそ)、 
   ぬしや辛(から)い。 
  
   酒の肴に、 
   蟹味噌嚙ませ、 
   泣(ね)えてくれんの、 
   死んでくれ。 

 

引用した本には「これも柳河語の歌謡である。蟹味噌は蟹を生きながら臼に入れて搗きつぶし、唐辛子につける、その味痛烈人を泣かす。」と注があり、数頁前に「私の郷里筑後の柳河は水郷である。」という注もあるからこれらは白秋の自注と思われる。蟹はシオマネキが使われるという。吉井勇には、

 

  白秋とともに泊りし天草の大江の宿は伴天連の宿

 

という歌もあり、また白秋の死をしらされた時には、

 

  紀の旅や筑紫の旅や亡き友のこと思ひ居(を)れば頭(かうべ)垂れ来(こ)し

 

白秋と九州、筑後を旅していて、蟹味噌を実際食したこともあったのかもしれないけれど、読みの記憶は不正確だったようだ。この蟹味噌には山田耕筰の曲がついていて、オペラ歌手の歌唱を聴いたことがある。しかし、どちらかといえばギターでぐちぐち歌いたいと思うのは偏見だろうか。


狂歌家の風(31) うなつき女夫

2019-04-26 09:27:06 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、今日は恋の部から一首、

 

      寄張抜恋

  張ぬきのうなつき女夫中のよさ牛と寅との一ツちかいて 


「一ツ」は縦書きだと一の右下にカタカナのツが小さく添えてある感じであるけれども、半角で入れてみたら読みづらかったので全角のカタカナとした。

張抜とは張り子のこと。狂歌棟上集から用例を一首、


  吹風か千里はしれとさそひてもかふりをふれる張ぬきの虎 (香鳥)


香鳥の歌は首を横に振っていて、貞国の歌は縦にうなずいている。「張り子の虎」といえば何を言ってもうなずいているイエスマンみたいな使い方もあるようだが、実際の虎の張り子は検索すると首を左右に振るものも出てくる。もっとも風が吹くと横に動くのが自然かもしれない。

広島大学文学部内海文化研究室編「内海文化研究紀要11号」には、この歌を貞国愛用の五段に分けた書式で書いた短冊の写真がのっている。ここでは女夫が「め夫」となっている。「めをと」はもちろん夫婦のことで、夫婦仲の良さを詠んだこの歌は短冊や色紙に書くには都合が良かったのだろう。

 

(短冊にこのような配置で書いてある。この一句ずつ五段に分けた書式は聖光寺狂歌碑など貞国の歌に多数見られる。)

つまりここでは恋の部に入っているけれど、賀の歌として十分通用する一首だろう。「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」には夫婦仲を詠んだ貞国の賀の歌が一首ある。


       祝

  幾千代もかはりなし地と祝いぬる ご夫婦仲もよし野塗師(うるし)や 


梨地は漆塗りの蒔絵技法。変わり無し、夫婦仲も良し、にかけて梨地と吉野塗師を持ち出している。「狂歌手毎の花」から梨地の用例をみておこう。


         山花   一粒亭萬倍

  又と外に類ひなし地の箱根山花の錦の高蒔絵かも


なし地、箱、錦、蒔絵という縁語になっている。

話を戻して、このような祝賀の歌を提供することは狂歌師の重要な役割だったと思われる。(もっとも専業の狂歌師というのは聞いたことがなく、貞柳ならば菓子屋、貞国は苫の商いとおのおの職業を持っているのだけれど) 広島尚古会編「尚古」参年第八号に入っている、倉田毎允著「栗本軒貞国の狂歌」にはそのような詞書を持った歌が二首入っている。少し長いが引用してみよう。


    貞国住居の裏合せの家に小国と云へるがあり正月 
    早々朋友數多集ひ謡或は碁なんもてあそび居ける 
    折ふし貞国を呼び来らんと人もて云ひ遣りなんぞ 
    祝してたべと述べければ、貞国旨酒に酔ひ臥して 
    ありけるにぞ、得参らざれど祝しは呈せんと、併 
    し數多の人々へ祝し上げんことは叶わざれば、こ 
    の寄り集ひ給へる人々の年齢を残さず算へ玉へと 
    ありけるにぞ、各々の年の数を算盤へ加へ計へ見 
    れば其數三百四十六と云ふ數を得たり、直ちに其 
    由を告げければ、いざ読み祝して上げんとて

  算ふれば三百四十六つ間敷皆春の日の長生喜(いき)の友

    皆人笑ひ且つ感じあへりとぞ 

 
正月の宴会に近所の貞国を呼んで一首もらおうと思ったら貞国は酔っぱらって行けないから歌だけ届けたようだ。ここでは「祝してたべ」と頼まれている。同じ尚古からもう一首、
 
 
    水主町の鎮守住吉神社の祭礼は毎年六月十四十五 
    日なり、此両日の賑いの為め見世物と称して町々 
    大なる物の形なん作りていとめつらかなる細工多 
    かる中に、円入寺と云へる寺の町へ瓢べを以て鯰 
    をおさへたる形を造りたるが、見物の諸人町々群 
    集の中誰れありて何物と云ふことを弁へず、看過 
    るもの評定区々なり、然るに之れを営みし人自ら 
    不出来なることを知れど、今更改むることもなら 
    ざれば、彼是れといと気色を損じ、貞国か元へ行 
    き云々の由を述べ、鯰なる事を諸人いひくれんこ 
    とを祝してよと乞ひければ、
   
  ひょうたんの軽口ちよつとすべらかす鯰のせなへ押付の讃 

    之れにて往き来の人々興じあへりとなり 


お祭りの見世物が不出来で微妙な雰囲気だったのを貞国の賛で丸くおさまったという構成になっている。こちらは「祝してよ」と乞われて詠んでいる。

狂歌といって多くの人が思い浮かべるのは日本史の教科書に出ていた政治風刺の歌だろう。しかし、上方、江戸どちらの狂歌集をみてもそのような風刺の歌は皆無である。柳門では落首はご法度であったし、江戸でも大田南畝が落首作者の嫌疑をかけられて作歌を辞めたという話もある。ほとんどの狂歌の本質はそれではなく、このような画賛や祝賀の歌にも大きなウエイトがあったと思われる。狂歌家の風の貞国の作風は、軽快に縁語を駆使した歌が多い。しかし今回の張抜の歌も柳門の情を受け継いでいて代表作と言って良いのではないかと思う。

廿日市市大野上更地 人丸神社

2019-04-22 19:17:26 | 寺社参拝

 今日、4月22日は旧暦の三月十八日、何度か書いたように人麻呂の命日とされる日だ。学生時代に熱中した梅原猛先生の「水底の歌」には正徹や柳田国男の著書を引いて、三月十八日が特別な日であったと何度も出てきた。正徹は、

「人丸の御忌日は秘する事也、去程に、をしなべて知りたる人は稀なり、三月十八日にてある也」

と言い、柳田国男は「三月十八日」で、

「わが国の伝説界においては、三月十八日は決して普通の日の一日ではなかった」

と述べている。また三月十八日は小野小町や和泉式部、そして法隆寺でもこの日を聖徳太子の御命日として聖霊会が行われるという。晩春の満月が欠け始める頃に何が、と書き始めたら長くなってしまうので先に進もう。

この、三十年以上前に読んだ三月十八日の記憶が蘇るような出来事があった。栗本軒貞国の狂歌を調べるうちに、旧大野村の大頭神社の宮司が記した「松原丹宮代扣書」によると、寛政二年三月十八日に貞国を師匠とする狂歌連「別鴉郷連中」が大野村更地の筆柿の元に人丸神社を勧請したという。このブログでもう三十回にわたって書いている「狂歌家の風」にも人丸社で詠んだ歌がある。神祇の部の歌は、住吉社、人丸社、大頭社厳島神社の順に並んでいる。柳門の狂歌誓約書では落首はご法度でこれを犯すと和歌三神の罰を蒙るという。その和歌三神の住吉、人丸と並んでいるから、摂津の住吉大社と明石の柿本神社をセットでお参りしたのだと思っていた。ところが貞国が人丸社を勧請したとなれば、狂歌家の風の歌も大頭神社と同じ大野村で良いことになる。そして、狂歌家の風の人丸社の歌はまさにこの寛政二年三月十八日のものかもしれない。さらに人麻呂ゆかりの筆柿のあった場所に神社を建てたということならば、活字本に出てくる「春の筆梯」という意味のわからない言葉は、やはり「春の筆柿」と読んで良いのではないか。一気に視界が開けた気分になった。しかし梯を柿とすることについては、原本のマイクロフィルムを見る機会を待つのが筋であろう。折しも梅原先生の訃報を聞いて、すぐにでもこの三月十八日について書きたいのだけど、やはりテキストを確認してからだ。梅原先生は怨霊史観とか言われたけれど、たとえば水底の歌の鴨嶋水没説であれば海底調査もされている。読める文献はすべて読んで、科学的な調査も行って、その先に哲学者たる梅原先生が真理の体系をなす仕事があった。近頃は自説に合うように脳内で歴史を生成する方がいらっしゃるようだが、ここで一気に書いてしまうとそうなってしまって先生のお怒りを蒙るかもしれない。都立中央図書館などにあるマイクロフィルムを見るまで待つことにしたい。

 前置きが長くなったが、今日は旧三月十八日ということで、その大野の人丸神社にお参りしようと思い立った。昼飯を片づけて12時40分の芸備線で出発、広島駅で山陽本線の岩国行に乗り換えた。車内には宮島観光の外国人が多数乗っていて、近くに座った英語圏の親子連れは握り寿司の折り箱を広げて食べている。小さい子も珍し気でもなく醤油をかけて口に運んでいるから母国でも寿司はよく食べているのかもしれない。しかし3両編成しかない車内は混んでいて気の毒だ。宮島観光の人が宮島口まで快適に過ごせる列車を走らせてほしいものだ。宮島口駅ではその観光客たちがフェリー乗り場に向かって直進するところを宮島街道を岩国方面に折れて更地分かれという交差点から北に向かって上り坂となった。もっと見た目の良い男であったならば、厳島の三柱の女神様にお尻を向けて別の神社にお参りしたとなれば嫉妬深い姫神様の怒りを買うかもしれないが、私の場合はまあ大丈夫だろう。しかし、宮島口駅から世界遺産に向かう多くの観光客と真逆の方向というのはいかにひねくれ者の私でも少し不思議な気分になる。神社に参拝するというのに神の山である弥山は常に背中なのだから。グーグル先生の経路では団地の中の細い道を突っ切るようになっていて、行きは迷うと新幹線をくぐる場所が狂ってたどり着けなくなる恐れがある。少し遠回りして交差点の名を確認しながら進んだ。

 30分近く歩いて、やっと団地を抜けて新幹線をくぐった。ここまでは間違ってはいない。問題は山へ分け入る道だ。幸い地図の通りの谷筋に山道が見つかってこの道だと確信したのだけれど、行き止まりにあったのは木造の民家、古いけれども布団が干してあってどうみても神社ではない。仕方なく新幹線まで引き返して、谷筋の両側の丘を探して右側の丘には登ってもみたけれども神社はない。人通りもない道で聞ける人もいない。子供は遊んでいるけれど、子供に道を尋ねたら声かけ事案で不審者リストにのってしまう。ここは冷静にもう一度プリントアウトしておいた地図を眺める。やはり最初の道のように思える。民家の奥に通じる道はなかったか、もう一度行ってみることにした。そしたら、民家の縁側に人影が見える。縁側で男性が読書をされているようだ。失礼ではあるけれども、私もここまで来たらお参りしたい。近づいて聞いてみることにした。いきなり変な男が現れて驚かれたと思うが、道は教えて下さった。やはり、民家の脇を抜ける細い道を見落としていた。ゲームで隠し通路が見つかったような気分で先に進むと、傷んだ石段の先に人丸神社が見えた。「古文書への招待」の挿絵と同じお社だった。

せっかく御命日にお参りするのだから、まずは人麻呂の辞世といわれる鴨山の歌、そして貞国が二百三十年前ここで詠んだ歌を詠じた。

 

  鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ


  此神の御手にもたれて ことの葉の道をこのめや春の筆柿

 
ここは春の筆柿でうたってしまった。フライングだっただろうか。しかし活字の本にある「筆梯」は読み方もわからない。今声に出すならば筆柿にするしかない。それはともかく、人麻呂と貞国の歌を神様にだけ聞いていただけたのは、この上なく幸せな時間だったと思う。
 
 
  鴨山の岩根し巻けるさにあらで木漏れ日やさし森の御社
  

  貞国が願主となりて奉りし歌聞きたまへ春の筆柿

 
 
 拝殿の額には神社の由来が書かれていて、当然勧請した貞国と別鴉郷連中の名前があった。そして新たな情報として、この地の門人であった伊藤繁蔵という人の名前、勧請に尽力した新田氏、そして「伊藤非?作翁誌」という文書名も見える。そして神様の名は「人丸さん」とお呼びするようだ。和歌文芸の他に防災、子孫繁栄とあるのは水底の歌にも出てきたように、火止まる、人生まる、に通じるからだろう。
 
 
 
 
もうひとつ知りたい筆柿についての情報は、平成四年に地元の短歌会が奉納された歌の中にあった。
 
 
 
筆柿が出てくる歌が二首あり、枯れた幹が祭壇の中とあるがよく見えない。また、若木が再び植えられたととれる歌もある。拝殿右側の額は本殿や御神体について書いてあるようだが読み取りにくい。御神体は柿本人麿木彫座像とあるがこれも確認できなかった。
 
 
お社の前には鹿のような動物が彫られた燈籠もあった。
 
 
 
帰りに奉納短歌にあった筆柿を探してみたが見つからない。民家の近くまでもどってきたところで、大野町教育委員会による「天然記念物 筆柿」という碑があった。筆柿らしき木は見当たらない。
 
 
これはかつて天然記念物であったということならば、記録があるかもしれない。探してみたい。新しく植えた若木も見つからなかった。しかし、奉納短歌のおかげでこの碑を見つけることができた。和歌の神様に感謝したい。筆柿がみつからなかったので、ご近所の柿の木の写真を一枚。旧三月十八日の柿の芽の参考にと撮ったのだけど、最近は温暖化だから貞国の時代の春の筆柿はこれよりももっと「このめ」な感じだったのだろう。
 
 
 帰りは厳島の女神様に背を向けることなく、弥山に向かって団地の坂を下りた。そういえば、唯一言葉を交わして道を教えて下さった民家の方も、私にとっては神様に違いない。ひょっとすると、あの方が人丸さんだったのかもしれない。
 

父と運転

2019-04-20 09:38:14 | 父の闘病

 85歳の父は現在、喉頭がんの放射線治療のため入院中、1日15分の治療だが安佐北区の自宅から南区宇品の県病院まで毎日通うのは大変だろうと入院になった。家族としては隣町の総合病院に転院してほしかったが本人は田舎の病院にあまり良い印象を持っておらず治療のモチベーションにもかかわることなので仕方がなかった。週末は外泊許可をもらって帰って来て今は外で畑を眺めている。父はまだ車の運転をしていて、最近は町内の医者と車で片道10分、隣町のスーパーまでしか運転してなかったのだけど、今回はがんの検査などのため宇品まで片道一時間を何度か往復した。私は左目の視力がなく自転車でもまっすぐ走れないから免許は取っていない。父は杖をついたりスーパーではカートを押せば少し歩ける。入院中は車は置けないから外泊の行き帰りは不動院でバスを乗り換える。自宅から最寄りのバス停まで私の足で徒歩3分、父は5分以上かかるのだけど、これが限度だ。私が一人で県病院に行くときはJR芸備線で広島駅まで出て、皆実高校の横を通るバス、これが一番早くて運賃もバスを乗り継ぐより安い。しかし私が徒歩7分のJRの駅はバリアフリーの工事を今しているけれど距離だけでも父には厳しい。広島駅でホームからバス乗り場までも父には厳しい道のりだ。戻って来る時は広島駅のバス降り場が福屋の裏でさらに問題外かな。父は外泊の度に家族がバスで一緒に送り迎えというのが不本意で、パスピー(広島地区の交通系ICカード)の使い方をしきりに私に尋ねるのだけど、85歳で足もおぼつかない父を一人でという訳にはいかない。そこは父に言っても中々わかってもらえないから、一人で帰さないように病棟の看護師さんにお願いしてある。幸いなことにPET検査で見つかった結腸のポリープは陰性で放射線治療が終わるGW明けに退院できる予定だ。

 昨日金曜日、父が病院から一時帰宅してテレビをつけたときにやっていたのが、87歳が運転する車に通行人がはねられ死傷者が出たという池袋の事故だった。これはもちろん他人事ではない。父にも起こり得ることだ。しかしながら、加害の可能性を考えると返納した方が良いと理屈ではわかっていても、うちも免許を返納ということにはなっていない。そろそろという話はするけれども、もし車をとりあげてしまったら、田舎での生活は厳しくなる。買い物には行けなくなり、通院もあまり行かなくなるだろう。若い人なら逆に良く歩くようになって健康に良いということもあるかもしれないが、85歳だとそうはいかない。行動範囲は自宅と庭だけになり、歩けなくなる時期を早めることになるだろう。話はしているけれども、あまり強くは言えない。寝たきりになれと命令しているようなものだから。

 父もあと一回更新できるかどうかという話はしている。事故を起こした87歳男性もやめるという話をしていたという。しかし実際は中々決断できない。ネットでは年齢制限という意見も見かけるが、私も更新を厳しくするか、年齢制限があった方がかえってありがたいと思う。決断できない人が多いのは間違いないところだから。厳しくするとなれば地方ではバリアフリーや公共交通機関が充実していないという批判は当然出てくるだろう。地方の衰退や景気という観点からもマイナスかもしれない。しかし、自主返納に頼っていては、池袋のような事故はこれからも起きるのではないかと思う。

 これを書いている間に父は運転して隣町のホームセンターで野菜苗を買い、菜園で作業している。畑仕事は腰を曲げたりしゃがんでいる時間が長く、あまり良い感じはしない。しかし散歩しろといっても杖をついてよろよろ歩くのも心配だ。子としては、父が自分の足で歩ける時間がもう少し続いてほしいと願っている。それにしても免許の事は頭が痛い問題だ。


味あわせたや

2019-04-15 10:37:38 | 栗本軒貞国

今日は明治41年「尚古」参年第八号、倉田毎允著「栗本軒貞国の狂歌」から一首、


     沼田郡古市村なる名物餅のことをよめる

  能因に味あわせたやあめならて古市に名の高き歌賃を 


タイトルの「味あわせたや」は現代のような仮名遣いになっている。後で論じたいが、結論を言うと現代において「味わう」の使役形「味わわせる」が言いにくさなどから「味あわせる」に変化する現象が、寛政から文化文政期に活躍した貞国の歌にも既に現れていたと考えられる。ただし、舌先の追記やちうとこうの回でも書いたように、尚古の貞国の歌は出典の記述がなく、テキストの信頼性に不安がない訳ではないことも最初に申し上げておきたい。しかしながら今は、この表記を一応信用して話を進めよう。

 まず、能因と歌賃(かちん)については、能因法師が雨乞いの歌を詠んで雨を降らせたと金葉和歌集にある。

 

範国朝臣にくして伊与国にまかりたりけるに、正月より三四月まていかにも雨のふらさりけれは、なはしろもせてよろつにいのりさはきけれとかなはさりけれは、守、能因歌よみて一宮にまいらせて雨いのれと申けれはまいりていのり申ける哥

                 能因法師

  天河苗代水にせきくたせ降ます神ならは神

神感ありて大雨ふりて三日三夜やますと家集にみえたり

 

天降ますと二文字で書いたテキストもあるが、このリンクは降(あまくだり)ますと一文字で読ませるようだ。このあと喜んだ里人が餅をついて能因にふるまい、それで餅のことを歌賃というようになった、という俗説(本来の語源は「かちいい(搗ち飯)」が有力らしい)が貞国の歌の下敷きとなっている。この伊予一宮の大山祇神社には「能因法師雨乞の楠」があり、説明に同じ歌が見える。8年前に訪れた時の写真を紹介しておこう。

この能因の雨乞いについては日蓮上人が、歌を詠んで雨を降らせた和泉式部や能因法師を引き合いに出して雨乞いに失敗した高僧などを罵倒しているのが面白い。ネットで検索しても「和泉式部と云いし色好み能因法師と申せし無戒の者」「いうにかいなき婬女・破戒の法師等」などの表現が出てきて、そのような者でも雨を降らせたのに、と続いている。話がそれた。

 次に、沼田郡古市村の名物餅、これは安古市町誌や古市町誌をみても出てこない。古市橋駅の由来となった石橋などが歌に詠まれているけれど、この名物餅がいかなるものであったのか、全くわからない。貞国は酒も餅も好きだったとみえて餅や団子の歌を多数残している。他にもそういう人はいたはずで、どこかに手掛かりはないものだろうか。

(武田山の麓、可部線古市橋駅と駅前にある古市橋の説明板)

 それでは本題の「味あわせたや」に移ろう。最初この歌を読んだ時には、味を合わせる、だと思った。能因飴か能因餅というものがあって、その味に合わせた、真似をした、という意味に見えた。しかし調べても能因の名前がついた餅や飴は出てこないし、古市の名物餅は能因餅に味を合わせたいもんだ、みたいな意味だと最後が「を」では意味が通らない。やはりここは、「あぢはふ」に使役の助動詞「す」の未然形がついた「あぢははせ」が変化して「あぢあはせ」になったと考えるのが合理的だろう。願望の「たし」の語幹と終助詞「や」を加えて、能因に賞味させたいものだ、という意味になる。

そのあとの「あめならで」は、飴じゃなくて餅、雨じゃなくても降るいち、そしてもちろん能因の雨乞いの故事もふまえている。餅好きの貞国らしい一首でこれも古市橋駅前に歌碑がほしいものだ。しかし、「古市に名の高き歌賃」というのに餅の名前が書かれていないのはちょっと気になるところだ。

現代語の「味わわせる」と「味あわせる」について、朝日新聞のことばマガジンでは、クイズで「味あわせる」を選択すると「残念」となる。文法的には「味わわせる」が正解というのは疑う余地がない。また、パソコンで「あじあう」を「味合う」と変換してしまうのも広まった一因ではないかと書いてある。

しかしこれがNHK放送文化研究所のページになると少しニュアンスが変わって来る。文法的には「味わわせる」としながらも、

ただし、「味あわせる」という形も、実際にはよく使われています。ウェブ上でおこなったアンケートでは、年代差や男女差はあるものの、全体としては「味わわせる」よりも「味あわせる」のほうを支持する意見のほうが、やや多くなっていました。」

「味あわせる」という形が出てくる背景には、一つには伝統形「味わわせる」に含まれている「~わわ~」という「同音の連続」を避けたいという意識があります。」

「アジワワセル」と声に出して言うと、確かに言いにくい。多分これまでに使ったことはないなという違和感さえ感じる。一方「味あわせる」はこれまで自分で使ったことがあるかどうかわからない、あるいは言ったかもしれない。声に出せば「味わわせる」より「味あわせる」の方が言いやすい。無意識に変換してしまうといえば言い過ぎだろうか。読むときはどうだろう。貞国の歌を最初に読んだ時、味を合わせると思ってしまったように、読む時には文法通りの方が意味が取りやすい。朝日の人には実は江戸時代からあるんだよと教えてあげたい気分ではあるけれど、新聞が時代遅れで融通がきかないと言っているのではない。読ませるための新聞と、聞かせるのが主体のNHKの立ち位置の違いなんだろう。私に言わせれば、このように言いにくい言葉が変化するのは自然なことではないかと思う。学生時代に京都に住んで、阪急の西院駅が「さいいん」と同音が連続しているのをちょっと不審に思った。そのあと嵐電に乗ったら西院の駅名標にはSAIの表記があってそういえば西院の河原とも書くなあと妙に納得したのを思い出した。今、阪急西院駅のウィキペディアを見たら西院村という自治体名が「さいいん」と決められ、そこからとられた由書いてあった。人々が長年言い続けた地名は「さい」と変化していた訳だ。もし、「味わわせ」が地名だったら、とっくに「味あわせ」に変化していたのではないかとも思う。「味わう」の使役というのはそう度々使う言葉ではない。あまり使わないことがNHKのデータのように今も綱引きが行われている原因のようにも思える。「人生の辛苦を味わわせてやる」なんて、間違っても口にしたくない言葉だ。それでは、「君に本当の幸せを味わわせてあげよう」これはもとより言うだけ無駄なセリフと思われる。


井尻又右衛門

2019-04-08 10:46:57 | 郷土史

 広島市安佐北区深川(ふかわ)にある我が家から一番近い戦国時代の山城といえば、今は亀崎中学校がある場所に亀崎城があったという。その他にも、尾和城、院内城、恵下山城、高松山城、と徒歩30分圏内に多数の城址があって、こんなに乱立していたら落ち着いて夜も眠れなかったのではないかと思ってしまう。その亀崎城は、50年近く前、私がまだ小学生の頃、山を削って学校にする時に広島県教育委員会による調査が行われている。ここに、井尻又兵衛和重という城主の名が見える。これは「郡中国郡志」に出てくる名前という。しかしネットで井尻又兵衛を検索すると、クレヨンしんちゃんの映画の登場人物ばかり出てきてこちらを探すのは困難を極める。また、探し方が悪いのかもしれないけれど、「郡中国郡志」がどこで読めるのかわからない。阿武山の蛇落地を調べた時に読んだ「黄鳥の笛」の参考文献にある「布川筋古城史」も所在の見当がつかない史料だ。井尻又兵衛についてはここで止まってしまっている。

 ところが今回、貞国の鳥喰の歌を調べるために厳島図会を読んだところ、厳島合戦の龍ヶ馬場の記述に、陰徳太平記からの引用として、井尻又右衛門の名前が出てきた。陰徳太平記では、龍ヶ馬場の条から巻をまたいだ二十八巻「陶全薑最後之事」に、

「同郎等モ主ト同道ニ成ント切テ回ケルヲ。吉川勢井尻又右衛門討テケリ」

とあり、又兵衛と似た名前の井尻又右衛門は吉川勢ということがわかる。また井尻又右衛門は、安北郡飯室(現安佐北区安佐町)の土井泉神社文書杉原次郎左衛門尉井尻又右衛門尉連署預ケ状」に名前が見える。これは天正十九年とあって先の厳島合戦からは36年後ということになる。吉川勢ということであれば、吉川氏の拠点は新庄の小倉山城で土井泉神社の飯室は近いが亀崎城との間には高松山城の熊谷氏など時代によっては敵対関係にあった豪族もはさまっている。亀崎城の井尻又兵衛は正確な年代がわからないことも話を難しくしているようだ。今のところ、井尻又兵衛と井尻又右衛門の関係については全く手掛かりがない。

残念ながら今回もここまでしか書くことがないようだ。最初に挙げたこのあたりの城跡からは阿武山が良く見える。中世末期の阿武山の観音信仰にもっと迫るためにも、各所から阿武山を眺めた人たちの心の内を知りたいものだ。しかし有効な情報を得るためには、もっと文献を探さないといけない。



中納言持豊

2019-04-06 09:17:25 | 栗本軒貞国

 鳥喰の歌を書くために調べた厳島図会の本社客人社の挿絵に、前権中納言持豊(芝山持豊)の歌があった。

 

  うな原やまたもたくひはなみのうへにみや居しめたるいつくしま哉

 

この芝山持豊が貞国に栗本軒の号を与えたと柳園井蛙によって書かれた狂歌家の風の序文にある。その部分を引用してみよう。

「爰に吾師貞国翁わかふより此道にさとく秀て先師桃翁の本に古今八雲人丸等の奥秘をつたへ終に正風幽玄のさかいに至り其名誉近きより遠きにおよひよみ歌久かたの雲の上まて聞へあけて恭くも芝山の卿よりおゝんいつくしみの尊詠猶御筆して栗の本てふ軒号をまてなしくだし給ひけること此道に遊ふ徒のめいほく栗の本の中興たるいさをしにそ侍りける」

そして序のあとに狂歌家の風の由来となった持豊の歌と五條持豊書と入った栗本軒の軒号額の写しを載せている。

 

自芝山卿賜吾師貞国翁 
尊詠并軒号額之写 

     福井貞国の狂歌の一巻を感吟して 持豊

  花も実もむへたくひなし家の風ふきつたへつゝよゝにさかへむ 

軒本栗

五條持豊書 

三尺三寸(注、横の長さ) 

一尺三寸(注、縦の長さ)   

額ハ大形 
なるゆへ 
其形を 
爰ニ写ス 


このように、狂歌家の風の序文では、先師桃縁斎貞佐とのかかわりよりも、芝山持豊から軒号を得たというところに重点が置かれている。貞国は貞佐の晩年の門弟であり、貞国の没年二説のうち門人の歌碑などにある八十歳とすると貞佐が没した時貞国は26歳、尚古などの87歳没としても33歳であって、先師貞佐に学んだ時間は短かったのかもしれない。あるいは貞佐との関りは狂歌書目集成にはあるが所在が確認できない狂歌集で語られていた可能性もある。貞国はのちに「柳門正統三世」と署名した貞の字の「ゆるしぶみ」を出すなど柳門ももちろん重要であったはずだが、この狂歌家の風においては、芝山卿から軒号を得たことが出版の動機であったようにも思える。

この芝山持豊とは、どのような人物だったのか。郷土史の書物で貞国について、京都狂歌の家元から栗本軒の号を得たとあるのは誤解で、持豊は狂歌ではなく堂上歌人と出てくる。本居宣長の学風にひかれ、尊皇派のはしりともいえる存在だったようだ。貞国との接点はわからないが、持豊は各地に歌道の弟子がいたことが知られていて地方ビジネスに熱心だったのか、それとも勤皇活動の一環だったのか。あるいは厳島に歌を奉納する時に、対岸の大野村で活動していた貞国またはその門人と関りがあったのかもしれない。

芝山持豊をネットで検索すると、その肩書のほとんどが最初の歌と同じ「前権中納言」となっている。しかし厳島図会には「中納言持豊」と書かれた歌が数首ある。持豊が権が付かない中納言であった記録はないが、この時代には正官はなく権官ばかりとネットに出てくるから同一人物で差し支えないようにも思える。しかしそれならなぜ前権中納言と書かなかったのか、これで問題ないのか、あるいは別人の可能性もあるのかどうか私にはよくわからない。この芝山卿については貞国を読み解く上で重要な要素であることは間違いなく、これからの課題ということにしたい。最後に厳島図会の「中納言持豊」の歌を書き出しておこう。神様と向き合った歌、巻三の島廻りの歌が多いが、実際に島廻りの舟に乗って生で御鳥喰式を見たということがあり得るのだろうか。それとも「はげしかるらん」と現在推量「らむ」が入っていることを考えても、やはり絵などを見て詠んだのだろうか。


  やはらくるひかりもたかき宮しまの神にあゆみをはこぶもろ人 (巻一

  いく夜をかすぎの浦かぜふく音も神さびにけるこの宮居かな (巻三、杦浦神社

  汐みてばなみもいはほをこし細の浦ふく風やはげしかるらん (同、腰細浦

  かけひたす木々のみとりも青海苔の浦の名しるき波のおもかな (同、青海苔浦

  なゝ浦の島めくりする舟の中のものゝ音あかす神やきくらん (同、島廻

  あふけなほ天くたりまたそのかみの御床のいはほうこきなきかけ (同、御床浦

 


寄食欲恋

2019-04-01 00:04:16 | エイプリルフール

花の真盛り、とはいえ春霞深く見通しが良いとはいえない世の中でございます。本日世間では元号がどうとか騒がしけれど私どもにはあまり縁のないこと。それよりも貴女には御体調よろしからずと聞き及び、これこそ重大事なれば一筆さし上げたく存じます。

聞けば食欲も落ちていらっしゃるとか。まことに失礼ながら、貴女の一番の魅力は、よく召し上がり、よくお話になることと存じ上げます。食欲のない貴女を想像するのは難しい。くれぐれもお大事になさってください。以前、貴女から聞いたお話に、一人でお食事中に隣の席のカップルの男性の方が貴女を何度もちらちら見て不快な思いをされたとありました。彼女の方を見ていればいいのにと。しかしながら、 私にはその男の気持ちが良くわかります。これもまた失礼を申し上げますが、貴女の丈夫な前歯や下アゴがひとたび動いて肉にかぶりつき、またタコヤキを勢いよくほおばる御姿は、それはそれは美しく人をひきつけるものがあるのです。その男はきっと貴女の素敵な食べっぷりに見とれていた、見ずにはいられなかったのだと思います。そして、最近はお会いする機会もございませんから、私はその男がとっても羨ましい。私も是非またご一緒させていただきたく、まずはご回復を心よりお祈り申し上げます。

さて、ここまで読んで下さったのならば私がこれから言わんとする事はすんなりとご理解いただけるのではないかと思います。ええ、しかしお待ちください。今は困ります。召し上がっていただくのはまだ半年先、もう少し仲良くなったあとでございます。大蟷螂上人の被食成仏偈にも、

 

   春朝隠狙桜花中   (春の朝隠れて狙う桜花の中)

   秋夕令雌食虫虫   (秋の夕雌をして食せしむムシムシと)

   雖滅身卵養分成   (身は滅ぶといえども卵の養分と成る)

   是我喜悦如舞宙   (是れ我が喜悦にして宙を舞うがごとし)

 

 とあります。近頃人間界では人材も使い捨てとか、会社や国のために命を削るのは遠慮申し上げますが、貴女に食べられるのなら話は別でございます。貴女の少し分厚いくちびるが私の・・・いや、今はやめておきましょう。ひたすら紅葉の頃を待ち遠しく思います。ただその前に、実り多き秋を迎えるために、お互い厳しい夏を乗り越えなければなりません。もうじきヒヨドリも活発になって我々を狙う時期が参ります。それに近頃の気候は亜熱帯にて酷暑豪雨も当然至極と聞くにつけ、これからが試練の季節、お体には十分御注意なさいませ。それでは、卯月のはじめの朝に満開の桜を眺めつつ、鎌切右大臣の歌三首を添えて御見舞い申上候。

 

   タコヤキにうどん牛丼みな食べてサッカー語る唇なつかし

 

  カマキリのように食べられても良いと今度会ったら言ってみようか

 

   幸せはまだ先にあり しかはあれど今日の桜を仰ぎてぞみる 

 

 

 (この手紙はフォロワーさんのツイートをモチーフにして綴りましたけれども、人間のフォロワーさんに宛てたものではありません。)