阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

2月16日 広島県立図書館「山県郡史の研究」など

2019-02-16 20:18:21 | 図書館

 今日は午前中に父の退院の荷物持ちで県病院に行って一度安佐北区の自宅に戻って午後からまた県立図書館という効率の悪い移動になってしまった。父の入院中もチャンスがあるだろうと借りた2冊は持ち歩いていたのだけど、心に余裕がなくてちょっと図書館という気分になれなかった。したがって、いつものようにはどの本を読むか準備ができていなかった。

 それでまずは、書籍検索でヒットしたうちまだ読めていなかった「山県郡史の研究」と祝福芸の台本がのっている「大衆芸能資料集成第1巻」の2冊を書庫から出していただいた。山県郡史の研究の方は、予想通り加計町史や日本庭園史大系と同じ吉水亭での貞国の歌二首、しかし詞書に続いた作者名が「栗の本の貞国」とあった。うちの爺様の掛け軸にある「栗のもとの貞国」は他の文献に中々出てこなかったが、ここで初めて同様の表記が確認できたことになる。もっとも同じ歌を載せている加計町史や日本庭園史大系にこの記述はなく、そこは気になるところだ。そして、帰って書籍検索をもう一度したら狂歌の指導云々とこの二首とは違う場面の記述になっていて、そこは見落としてしまったようだ。もう一度この本を当たってみないといけない。

 大衆芸能資料集成の方は貞国の歌の語句から「毘沙門の鎧兜」で書籍検索したところ越前萬歳の七福神という歌謡が引っかかったもので、これは七福神がおめでたいというよりは、かなり下ネタ的な笑いを取る内容になっていた。爺様の掛け軸の絵が祝福芸ではないかという指摘もあり、この本は借りて帰ることにした。

 次にラーメンの語源の回で出てきたワンタン屋台の話に興味を引かれて、「日本めん食文化の一三〇〇年」を書架から手に取ってみた。ラーメンの語源は大正十二年の札幌と断言してあり、しかしそこからラーメンという言葉が広まったという根拠は書いてないように思えた。ここで気になったのはワンタンの屋台が大流行したのは関東大震災の後という記述で、震災の影響が少なからずあったようだ。これもソースが書かれていなくて調べてみる必要があるけれど、ありそうな話のように思える。また、チャーシューワンタンの話が出てくる太宰治の「葉」の解説が載っている「太宰治研究16」も借りて帰った。しかし解説を読んでも「葉」はとっても難解である。

 いつものように上方狂歌と江戸狂歌を一冊ずつ、計四冊借りて帰った。祝福芸が量があって三週間で読めるかどうか。それから芸備先哲伝を読むのをまた忘れてしまった。次回はまずこれを読もう


狂歌家の風(27) ぬり池

2019-02-09 15:46:35 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は冬の部から一首、

 

        池氷 

  ひゐとろの徳利とみりや薄氷あれあれ金魚もうこくぬり池

 

ひゐとろの徳利とぬり池の関係がよくわからない。金魚がいて、あまり大きくない池だろうか。狂歌家の風にはぬり池が出てくる歌がもう一首ある。

 

        塗池蛙 

  うるしにはあらねと是もぬり池のもやうと見ゆる青かいるかな

 

漆ではないけれど、青蛙が塗池の模様に見えると詠んでいる。しかし、塗池とはいかなるものか、想像しにくい。漆で塗って模様があるのか、漆はぬり池の縁語に過ぎないのか、不明のままだ。「狂歌桃のなかれ」にも塗池の歌が一首ある。

 

       塗池朧月        竹習

  春の夜をぬくひうるしか朧なる月も宿かるぬり池の内

 

ここにも漆が入っているが、ひうるしは緋漆か火漆か、そして塗池がどんなものかはっきりとはつかめない。ここまで読んだ他の狂歌には出てこなくて、貞国とその門人の歌のみ。狂歌以外で探してみると、高浜虚子「発行所の庭木」に、

又た植木屋が云ふには、これは此処にある塗池が破損してゐて水が漏る為めに松が痛むのである、この池を潰してしまったならば助かるかも知れないと。私は又た容易に植木屋の言葉を信じて、その池を潰してしまった。

とあるけれど、あまり塗池の参考にはならない。それに虚子といえば伊予の人、西日本のこのあたりでだけ流行った題材という可能性もあるのだろうか。この発行所がホトトギス発行所だとすると、虚子が手掛けるようになったのは拠点が松山から東京に移ってからということになる。この他では、「ほととぎす」第12巻に塗池に金魚を入れているような文章が書籍検索で引っかかるのだけど、まだ紙の本にあたることができていない。これも伊予人による記述なのかどうか、早く見てみたいものだ。

という訳で、縁語ではなくて本当に漆が塗ってあるのかどうかなど、まだまだ探してみないといけないようだ。しかし、寛政期から明治にかけての庭池にあったもので、貞国とその門人たちにとっては狂歌の素材だったのは間違いない。都会では、すでに流行を外れていたということもあったのだろうか。今回わからないことだらけで申し訳ないが、氷が張るような寒さがあるうちに一度書いておきたいということでご理解いただきたい。


栗本軒貞国 参考文献(2)

2019-02-04 20:39:38 | 栗本軒貞国

今回は狂歌は載っていないが貞国についての記述があるもの。郷土史の通史で引用のみのものは省いた。

 

「廣島縣内諸家名家墓所一覽」

 貞国について天保四年八十七歳で没、墓は天神町教念寺とある。出版年不明だが明治27年ぐらいまでの没年が確認できる。


「尚古」 広島尚古会 編 参年第四号 「名家墳墓」 倉田毎允 著

 教念寺の墓は先祖の命日のみ刻してあるといいながら、貞国の戒名、命日も記してあり、過去帳などからの引用かもしれない。 八十七歳没説はここまでの二つの文献が根拠と思われる。また、郷土史の文献に多数見られる京都狂歌の家元から号を得たという誤解を含む記述も今のところ尚古が一番古いようだ。


「大頭神社 御遷座百年記念誌」 大頭神社御遷座百年記念誌編纂委員会 編

 「大頭神社縁起書」「松原丹宮代扣書」という神社に伝わる二つの古文書について解説があり、後者の寛政二年三月十八日の条に貞国が大野村更地の筆柿の元に人丸社を勧請したとある。また、寛政元年に狂歌家の風の詞書にあるような雨乞いの鳥喰祭を行ったという記述もある。


「古文書への招待 松原丹宮代扣書」 大野町 編

 大頭神社の記念誌と同内容であるが、貞国が出てくる条に筆柿の記述がない。記念誌によると、この本を訂正補筆して記念誌に転載したとある。


「千代田町史 通史編上」 千代田町役場 編

 花田植で有名な千代田町壬生にはかつて壬生連中という狂歌連があり、貞国も一時期指導をしていたという記述がある。しかし、文化年間には衰退したとの記述もあり、貞国が関わったのは寛政年間までのようにも読める。また、千代田町域から狂歌集への入集者の一覧表があり、貞国撰では「両節唫」(天明9年)などいずれも歳旦集のような年次の刷り物と思われる狂歌集がいくつか載っている。

 


狂歌家の風(26) せつふんの鬼

2019-02-03 10:42:49 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は冬の部から二首、

 

        節分 

  来年の事を聞して笑れな早くおひ出せせつふんの鬼


  ふみ出しの豆にもいたくこまるらんはたして逃る節分の鬼

 

一首目は鬼に来年の話をして笑われなと言いつつ早く追い出せと詠んでいる。「笑れな」の緩い命令の終助詞「な」はこの時代の上方狂歌にはあまり用例がないが、狂歌家の風にはもう一首ある。

 

        角力場蚤


  ふんとしに取ついてそりやひねられな角力芝居に飛入の蚤 

 

この終助詞「な」は私の父や祖父の世代の広島人はあまり使わない表現のように思う。私は年寄りからあまり言われた記憶がない。だから私が良く見に行くサッカーチームのコーチが「ゆっくり走って来な」とか言ってると少し違和感がある。二百年前はまた違ったのだろうか。少なくとも貞国が好んだ表現のようだ。

二首目の「ふみ出しの豆」とはどういう事だろうか。「尚古」は同じ歌の初句が違っている。

 

        節分

  わらんずの豆にもいたく困るらんはだしでにぐる節分の鬼 


「わらんずの豆」となっていて、草鞋の豆とはやはりよくわからない。しかし、まいた豆を踏んでも痛いという意味ではないかと想像できる。どちらが先かわからないのだけど、草鞋で豆を踏んで痛くて裸足で逃げるというのは少し変な感じもするから「ふみ出し」に変えたと一応考えておこう。

「廣島雑多集」に武家ではあるが江戸時代の広島の節分の記述がある。

「麻上下着せる年男は薄暮より焙烙といふ土鍋へ大豆の外に眞の形式までに柊の二三葉を交ぜたるを入れて之を炒り、更に三寶に載せたる一升の桝に盛り替へ、左手には其三寶を堤げ、右手には炒豆を撮みて、家の間毎間毎より倉庫物置等まで残る所なく、恵方に向かいては福は内と三唱し、鬼門に向かいては鬼は外と三叫して之を撒き散せば、家の男女は大騒ぎして争い摭う」

とあり、福は内は恵方に向かって、鬼は外は鬼門に向かって三唱とある。最近は恵方巻が話題だが、これはここ三十年の風習であって、もちろん江戸時代の文献には登場しない。しかし、お正月の恵方詣など、節季に恵方は大切な要素だったように思われる。恵方巻は何かと悪者にされがちであるけれど、恵方詣が初詣に変わったのは鉄道会社のキャンペーンがきっかけだったとか。他にも土用の鰻、七五三の千歳飴、バレンタインのチョコレートなど商売のために誰かが仕掛けてそれが長く続いているという例は数えればたくさんあるのだろう。恵方巻だけを責めても仕方がない。

狂歌から話がそれてしまったので、最後に貞柳翁狂歌全集類題から節分の歌を、


       歳暮

  節分の鬼はおちれと掛乞は柊いはしさはらてそ来る


年末の借金取りには柊も鰯も効き目がないと詠んでいる。さらに貞柳の歌二首

 

      節分

  たとへは絵にかける小町をかふてなり晩は年こしいさふたりねん

  福はうちと打大豆ぬくし外て聞鬼のおもはん事も恥かし


二首目の大豆は「まめ」と読むのだろうか。「鬼のおもはん事」は何なのか、私には難解な歌だ。

 

【追記1】 明治29年「明治新撰近体婦女用文. 上」に、「恵方参に誘ふ文」という例文があった。

「今もじは天気よく候まゝ恵方に心ざし住吉詣いたし度ぞんじ候あなた様にも御子達御つれましなされ御参なされまじく候や思召おはし候はゝ手前方も子供打つれ御とも申上べく候まづは御誘まで文して申あげ参らせ候めでたくかしこ」

「恵方に心ざし住吉詣」とある。恵方参は別にお正月に限らなかったようだ。ついでに初詣も見ておこう。明治27年「近体婦女文章」から、「初詣に人を誘ふ文」

「文して申進じ参らせ候明日は初卯に候まゝ住吉神社へ参詣いたしたく車にて参り候も道の面の興おはさずと存候へばゆるゆる歩行にて罷越茅の軒端に休らひ候も一入ならめとぞんじ候あなた様さしたる御用もおはさず候はゞ御ともいたし申たく御容子御伺まであらあらかしこ」

とあって、これも初卯とか初天神とか、広島ならば毘沙門さんの初寅だろうか、初詣といっても三が日とかは関係ないようだ。


【追記2】 「狂歌辰の市」の節分の歌、


       節分             梅鳥

  倹約をしたいものしやかふえてくる今宵の豆の数はへされす


年の数だけというのも江戸時代からあったようだ。


【追記3】 年の数だけではなく、年の数より一つ多く、が正解のようだ。「狂歌手毎の花」に、


      家内打よりて年とる夜に    湖南 乙立

  喰そめをせぬ一つ子は節分に母の乳豆もふたつ祝へよ


とあり、まだ食い初めをしていない一歳児は母の乳豆を二つと詠んでいる。