阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

2020-12-30 10:44:43 | 日記
今日から大雪の予報もあって、正月の買い物は昨日までにおおかた済ませた。といっても父の食欲が無くて、ブリやカズノコは例年に比べて半分以下の量を買った。父は最近ほっといたらおかゆと漬物しか食べない。特にたんぱく質がとれなくて、毎日のメニューを考えるのが苦行である。豆腐や卵料理は元々好きではなく、その上肉や魚をあまり食べなくなって難しい。そういう状況であるから、正月だからといってたくさんご馳走を買い込むという気分ではない。雑煮も餅を小さく切って一度だけになりそうだ。それでも、今年の正月に紹介した一休作と伝えられる狂歌


  餅つかずしめかざりせず松たてずかかる家にも正月はきつ 


これで十分ではないか。きっと正月はやってくる。

うちは両親とも高齢で、特に父は去年の咽頭摘出の手術のあとは医者からも肺炎のリスクを避けるように度々言われてきた。それで必然的に今年の私の行動はあちこち自粛ということになった。ふらふら歩き回って父にうつしてしまったら、父を病院から連れて帰るためにあれこれやった去年の努力が無駄になってしまうように思われて、動けないのも仕方のない事だろう。コロナは大したことない、わが国ではそれほど流行らない、コロナで死んだら運が悪いとツイッターで言ってくる友人がいて、どうも仕事上の立場からそう言ってるようだった。しかし統計上は大したことなくても父が高リスクなのは事実であって、議論しても仕方ないので昔からの友人ではあったけれどもブロックした。どちらが悪いではなく、関わらないのがお互いのためだと思った。人様の行動についてとやかく言うつもりはないが、私としてはリスクを避ける方を選ぶしかない。

それで、今年の漢字となると「籠」で決まりだろう。これまでは今年の漢字とか言われても中々決められなくて書いたことも無かったけれど、今年はすんなりこれで決まりである。私の場合は、「密」は一番遠ざけてきた漢字と言えるかもしれない。




なにしろ、今年はサッカー観戦で二度広島市外に出ただけ、それもお隣の府中町と熊野町であってほとんど安佐北区から出ることがなかった。今年行った東西南北の一番遠い所を書き出してみると、


東 ゼロバランスサッカーフィールド(熊野町、27.6) 
西 広島県総合グランド(西区観音本町、17.9)
南 県立広島病院(南区宇品神田、18.9) 
北 可部庚申神社(安佐北区可部、6.4) 

(自宅からのキロ数はグーグル先生調べ)

三方が広島市内という結果になった。外食は1月新年会、2月に府中町でラーメンと緑井で割子蕎麦、そしてお盆前の墓掃除でくたびれてモスで休憩した時の四度だけ、コロナがひどくなる前もあまり外食はしてなかったから、私が自粛してる分は経済にはほとんど関係ないはずである。経済を回すのは健康なお金持ちにお願いしたいもんだ。

籠るという題材では、少し前に冬籠りの狂歌について、春ごろには古今集の歌を紹介した。古今集の歌をもう一度、


  たれこめて春のゆくへもしらぬまにまちし桜もうつろひにけり 


この分だと、二度目の桜も「うつろひにけり」となってしまうかもしれない。しかし、二度で済めばうまく行った方と考えるべきだろう。今年は図書館に行けない分、ネットで和本を買って新しい発見もあった。これが私の日常、もはや「新しい」はつかない日常を、それなりに楽しみながら新年を迎えたいと思う。一年間ありがとうございました。皆様もよいお年を。




はつなつの雲

2020-12-24 20:39:19 | ちょこっと文学鑑賞
 コロナが流行る前はサッカー観戦、特に育成年代の中学生、高校生の試合をよく見に行っていた。かつて5月の連休に行われていたプレミアカップという中学生の全国大会は堺市のJ-GREEN堺が会場で、南海電車を堺駅で降りて西口からバスに乗る、そのバス乗り場の近くに堺出身である与謝野晶子の像が建っている。





下に歌が刻まれていて、




   ふるさとの潮の遠音のわか胸にひひくをおほゆ初夏の雲
                       晶子のうた


歌集「舞姫」明治39年(1906)刊、に入っている一首である。これは後述する晶子の筆跡とは違っていて、おそらく現代の書家によるものだと思う。それはともかく、J-GREENに行く時はいつもこの像にご挨拶してからバスに乗るのが恒例であった。私が中学生年代の応援を始めたのは2011年、その翌年から2年続けて5月3、4日にJ-GREENに行ったけれども、私が応援しているサンフレッチェのジュニアユースは2年とも4日で敗退してしまって、5日の決勝には進めなかった。5日が立夏であったから、堺駅あるいはJ-Greenで「はつなつの雲」を見ることはできなかった。これは残念なことであった。

翌2014年、私は春先から帯状疱疹を患って、5月3日にJ-GREENに行くことはできなかった。まだ背中の痛みが残っていて、応援の太鼓を叩いたりフラッグを振るのも少し不安であった。選手たちには、決勝に出たら行くよと言っておいた。一試合ぐらい何とかなるだろうという思いもあったが、今年は行けないと言う代わりに軽い気持ちで言ったと思う。

ところが、いい加減に発した言葉は自分に跳ね返ってくるもので、選手たちが頑張ってチームは5日の決勝戦に進出、私も言った手前行かなければならない。中学生の選手たちに嘘は良くない。応援は父兄に任せておとなしく観戦することにして、5日朝の新幹線で出発、いつもの新今宮から南海電車のコースで堺駅西口の晶子さんに挨拶してから会場入りした。あいにくの小雨模様に加えて風も強く、はつなつの雲という感じではなかった。J-GREENには15面以上のサッカーのピッチがあって、S1から順番に番号がついている。メインのS1ピッチのスタンドに入って昨日まで応援の中心だった父兄からタイコを受け取ってみると、やはり決勝戦を応援したいという気持ちが強くなって、タイコを叩くことにした。そのあとは応援に集中して、はつなつの雲のことは忘れていた。そして試合後は頑張った選手たちにおめでとうを言う事ができた。後日、選手が輪になって優勝を喜び合っている写真を父兄からいただいた折に、はつなつを使って賛を入れてみた。





はつなつのJ-GREENのS1のピッチにでっかい紫の花


そのあと何度かJ-GREENに通ううちに、新大阪からだと地下鉄を大国町で乗り替えて住之江公園からバスの方が楽ということに気づいたのだけど、やはり晶子さんは避けて通れない。片道は南海電車を利用することにしている。

ここまで読んでいただいた皆様には大変申し訳ないのだけど、実はここからが本題である。コロナ禍で図書館に行けず、ヤフオクを見始めた8月ごろだっただろうか、明星抄という本の上巻が出品されていた。これは晶子自選自筆の歌を百首、木版刷りにした和綴じの本で大正七年(1918)刊、当時の価格は5円と書いたものがある。大正五年と十年ではかなり物価の変動があって今のどのぐらいとは決めにくいが高価な本であったことは間違いないようだ。そして目を引いたのは紹介の画像の一つに、堺駅西口と同じ歌がのっていた。私にとっては上記のごとく思い出深い歌である。これは手に入れたいと思った。しかし、この時はまだヤフオクで何も買ったことが無くて、右も左もわからない。しばらく様子見をしていたら、1人の方が入札されていたけれど、その後は動きが無い。そしたら数日後、終了期日を待たずに終了となってしまった。事情はわからないが、出品を取りやめたと思われる。参加したいと思っていただけに、残念だった。ヤフオクではもちろん狂歌関係の本を手に入れるのが第一の目的だけど、明星抄も検索ワードに加えて次の機会を待つことにした。

そしたら今月中旬になって、ふたたび明星抄の上巻が出品された。やはり、はつなつの雲の歌が紹介されていて、同じ出品者ではないかと思った。今度は私が先手を打って入札して、最終日に値が上がって一万円を超えたけれど、何とか落札することができた。送料をプラスして一万三千円の出費、私の本代の予算は月五千円程度なので、これは私にしては頑張ったと思う。しばらく本買えないけれど。そして昨日、無事に手元に届いた。まずは、はつなつの歌。





 ふるさとの潮の遠音のわが胸にひゞくをおぼゆ初夏の雲


届いてみて初めてわかったことがある。どうしてこのページを紹介画像に選んだのか。実は、このページにシミがありますよと教えてくれている。こういう本の傷みはしっかり示しておかないと後でクレームの原因になるのだろう。思い出の歌を見せて私に買えと言っているのかと思ったが、そんなはずはなかった。出品中毎日のように画像を眺めておきながら全くそのことに思い至らなかったのは愚かなことであった。

気を取り直して歌をみていくと、「おぼゆ」の「ほ」の書き方が私が普段読んでいる狂歌の本とは違っていて、ちょっと不安になったので他の歌で「ほ」の字が出てくるものを挙げておこう。



  蝶ひとつ土ぼこりよりあらはれてまへにまふとき君をおもひぬ




  獅子王に君はほまれをひとしくすよろこぶときもかなしむ時も


この二例は今まで見たことがある「ほ」に似ている。「おぼゆ」の「ほ」は少し書き損じたのかもしれない。そしてこの二つの歌の下絵は雲母刷り(きらずり)、光が反射している部分でわかっていただけるだろうか。装丁は日本画家で歌人でもあった平福百穂によるもので、さらに調べてみるとこの明星抄には、50丁全部が雲母刷りの本と、最初と最後の10丁が雲母刷りのものがあると書いてあった。上のはつなつの歌のページは雲母刷りではないから、うちに来たのは後者のようだ。これも、よく調べもしないで何も知らずに入札していたかと思うと冷や汗である。ついでに表紙と中表紙ものせておこう。







つまり私は、この本の装丁の眼目である雲母刷りではない部分の、しかもシミがあるページを見て欲しいと思った訳だ。自分の見たいものしか見ないような人間がアンティークの類に手を出すべきではないという教訓は残った。しかし考えてみると、はつなつの雲のページにシミがなかったならば画像で紹介されることもなく、この本を買うことも無かったのだから、何かの縁と思ってしっかり読んでみたい。みだれ髪からも入っていて、他には鎌倉や御仏なれどの歌もある。このあたりを代表作と言われるのを晶子は嫌がっていたことを考えると、自選といいながら読者へのサービスもあったのだろう。そのあたりも考えながら読んでみようと思う。

狂歌家の風(38) すみに目を持つ

2020-12-07 13:31:16 | 栗本軒貞国
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、今日は冬の部より一首、


        碁打冬籠

  かこむ碁をみな打やめて寒き日はすみに目を持冬籠かな



この歌のポイントはタイトルにもした「隅に目を持つ」だろう。囲碁では地(陣地)を囲う時、碁盤の端は石を置かなくて良いから中央に四角い地を作ろうと思ったら四辺全部かかるのに隅だと二辺で良い、したがって隅に地を作るのが効率的で、対局が始まったらまず隅から打ち始めるのが普通の進行だ。「四隅取られて碁を打つな」という格言もある。また「目を持つ」という表現は、最小限度の生きを確保している、こじんまりと生きているという意味になる。もっともこの歌では碁を打ちやめてと言っているのだから、囲碁を離れてもう一つの意味があるはずで、そこが難航して放置していた。やっと見つけたのは意外にも本棚の岩波古語辞典の「隅」の項に、「隅に目を持つ」がのっていた。何十年も前のこと、辞書の用例をあげたら国文学の先生に自分で探せと怒られた記憶があるのだけど、他に見つからないのでここは引用ご容赦願いたい。

《囲碁から出た語》一隅にちゃんと存在している。一定の地盤を確保している。「白黒のすみに目を持つ五徳かな」<俳・沙金袋六> 「酒に及んで、くすみたるをば、隅に目を持つと言ふべきを、[遊里語デ]すまめんと言ひ」<評判・吉原失墜>

とある。しかし、貞国の歌は、ちゃんと存在している、地盤を確保しているというニュアンスでは無いように思われる。むしろ二つの用例にヒントがあるようだ。最初の俳句の「五徳」は炭火に鍋を据えるための台のことで、冬ごもりに必要なアイテムといえる。貞国の歌も部屋の隅で火にあたっている「炭」の意識があるのだろうか。二つ目の用例では「くすみたる」が大きなヒントだろう。部屋の隅っこで陰気に黙ってじっとしている、貞国の歌もそういうニュアンスだとしっくりくるのではないか。用例がこれだけではあるが、一応そう解しておこう。

冬ごもりというと、万葉の昔は、冬こもり今を春辺と、冬こもり春さりくれば、など冬自体が隠れる、そして春にかかる枕詞だった。現代においては、雪国を除いては冬ごもりというと熊などの動物に使うことが多いのではないだろうか。「狂歌桃の流れ」の貞国の歌に出てくる冬ごもりの用例を見ておこう。


        社頭冬籠

  水鳥の名にあふ加茂の宮居とておしの集る冬籠かな


水鳥の名に通じる加茂の宮に鴛が集まって冬籠という趣向だろうか。俳諧では、冬籠の句は多数あるようだ。目についたものを挙げておくと、

  ひとりごとの端聞きとられ冬ごもり  加藤楸邨 
  
  難波津や田螺の蓋も冬ごもり 芭蕉 

  冬籠こもり兼たる日ぞ多き  加舎白雄 

  無駄な日と思ふ日もあり冬籠  虚子

冬ごもりでじっとしている様子は同じでも、さすがに俳句は表現が多彩である。

以下は余談である。隅に目を持つのもう一つの意味がわからず放置していたこの歌であったが、今回記事に書けたのは、いつも日本棋院からプロ棋士の対局の様子を発信して下さっている黒衣子さんの四日前のツイートがきっかけだった。

 「今日はみんな三々に入る日だなあ 寒いからかな? 」

これを見て、貞国の隅に目を持つ歌を思い出した。「三々(さんさん)に入る」とは、上述の如く最初に隅に打ってある相手の石が星の位置(四の四)だった場合に、三の三に打って隅で生きてしまう手のことだ。寒いから三々に入るとは、黒衣子さんに聞いてみないとわからないが、相手に包囲されながらも隅で生きていることから布団にもぐりこむようなイメージだろうか。とにかくこれは、貞国の歌の「寒き日は隅に目を持つ冬籠」に非常に近いイメージであって、もう一度調べてみようという気になって、幸いにも辞書の用例を見つけることができた。ありがたいことだった。狂歌だけを読んでいてはいけないということなんだろう。