阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

狂歌家の風(5) しやうさいこ

2018-10-31 09:38:33 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は恋の部から一首

 

     寄薬方恋 

 せんやくのわしをふり捨又外にしやうさいこまてなした悪性


題は薬方に寄する恋。「せんやく」は先約と煎薬というのはすぐにわかった。それに対して、下の句「しやうさいこまてなした悪性」はかなり難敵のように思われた。しかしながら、薬の名前という正攻法で今回はあっさり見つかった。小柴胡湯(しょうさいことう)という漢方薬だった。小柴胡湯の出典とされる中国古典の「傷寒論」は製薬会社等のページに各条ごとに分けて載っていてざっと見たところ小柴胡湯、柴胡湯という記述は度々あったものの、「小柴胡」だけで湯がつかない箇所は見つからなかった。近代の用例もほとんど柴胡、柴胡剤、そして小柴胡湯に限られるが、明治12年「経方弁」に「柴胡亦汗解之剤非和解之謂」とあり、「小柴胡」という用例もあった。ただ、これは見出しであって文中はすべて小柴胡湯だった。歌に戻ると、この薬の名前と、最後までなした悪性、という趣向になっている。


狂歌家の風には悪性(あくしやう)を詠んだ歌がもう一首ある、紹介しておこう。


     間夫非一 

 恋風を引込病ひの悪性はいくつもかさねてきるさよ衣 


これも題からみて相手の女性の悪性だろうか。「きやうか圓」には、


   悪性非一といふことを        左闌

 窓よりもちよと手をにぎる性わるの此人にしてこひの病あり


という歌があり、これは性別不明だが手を握られたということであれば女性の悪性のようにも思われる。恋愛相手の悪性を嘆くのは狂歌のモチーフのようだ。もっとも、江戸文学全体で言えば、酒色にふける悪性の代表選手は放蕩息子かな、おそらく男の方が圧倒的に多いだろう。数えてはいないけれど・・・

 

【追記】 「狂歌辰の市」に悪性の歌、


       悪性非一          峯女

  さためなくあちこち恋をしくれ月かみさまのないぬれ男つら


時雨月は陰暦10月の異称、これは女性が詠んだ男の悪性だろうか。悪性非一は狂歌では普遍的なテーマだったようだ。


狂歌家の風(4) ふとし

2018-10-30 11:37:43 | 栗本軒貞国

 栗本軒貞国詠「狂歌家の風」今日は春の部から一首、

 

     滝霞 

 真白な霞のきぬは山の腰の女滝男滝の脚布かふとしか

 

 最後の「脚布かふとしか」は何だろう。脚布(きゃふ)は女性の腰巻のことで、ネットで検索すると「おのれが姉は脚布せず味噌買ひに行く」と、ちょっとドキドキする用例がのっている。脚布が女滝の下着ということは、男滝には・・・「ふとし」は「ふどし」ふんどしのことだった。

 これだけのことなのだけど、狂歌家の風には華厳の滝を詠んだ歌もある、紹介しておこう。


     日光山にもふてける時花厳か瀧にて 

 万法の水上なりと汲てしる華厳か瀧のうつゝたかひのは


 話を戻して、最初の歌の女滝男滝は何処の滝だろうか。この名前の滝は全国各地にあって、検索すると一番出てくるのは南木曽、ついで浜松、東北にもあって、庭園のも含めるとかなり多数になりそうだ。貞国が行ったとなると、つい先日行った廿日市市大野の大頭神社に妹背の滝があり、『はつかいち』 ぶらり というこの地区をかなり歩いていらっしゃる方のブログに貞国の歌が出てくる。

 

 めをと滝 そのみなもとは かわれども すえはひとつに やはりおほのぢゃ


この歌はこのブログ以外では確認できず、今のところ出典不明だ(追記:この歌は「大野町誌」からの引用のようだ。しかし、大野町誌がどこから引用したかは依然として不明である)。しかし狂歌家の風には大頭神社の鳥喰祭の歌(この歌はこのシリーズを書いている最大のモチベーションなので、もうちょっと調べてから書いてみたい)があり、当時の大頭神社は同じ大野村の別の場所にあったそうだがついでに滝を訪れていても不思議ではない。ただ、この妹背の滝のあたりには雄滝と雌滝を同時に眺めて脚布かふどしか、と詠めるような場所はなかった。二つの滝を見るポイントは徒歩2分ぐらいだったかもしれないが、間は木が茂った道で見通しは良くなくて、川の反対側に両方見える場所があったとしても、向きが違うからふり返らないといけない感じだった。まあ、狂歌にとってそれは大したことではないかもしれない。

雄滝

 

雌滝

 

よくわからない話になってしまった。最後にもう一度今回の結論、「ふとし」は褌であったと書いておこう・・・

 

【追記】 厳島図会に大野の瀧の挿絵があり、女瀧男瀧の文字も入っている。また、貞国は大野村で別鴉郷連中という狂歌連の師匠として活動していて大野に有力な門人もいたと大野町誌にみえる。したがって最初の歌の女滝男滝はやはり大野の妹背の滝が有力だと思う。


10月28日、大頭神社例大祭

2018-10-29 11:03:25 | 寺社参拝

昨日午後から大頭神社に行ってきた。滝や本殿の写真はツイッターにはのせたのだけど、こちらはメモということでごめんなさい。JR山陽本線大野浦駅から徒歩20分ぐらい、露店が並んでにぎやかな秋祭りだった。大頭神社についての石板に四鳥の別れと烏喰祭の記述があった。

 

「依て大野町大古より別鴉の郷とも云い傳えられ社前の橋を別鴉橋と云ふ」とあり、たしかに朱塗りの橋にそう書いてあった。

御朱印は例大祭仕様のあらかじめ用意された紙だった。しかし私にとっては四羽の神烏がデザインされた御朱印と説明文はかえってありがたいものであった。

ここまでで、大頭神社の御烏喰式は厳島神社とは違ってカラスの字が使われていることが確認できたが、この説明文によると、「四鳥の別れ」はトリの字だが、最後の「四烏(しがらす)しあわす」はカラスと、図書館で鳥か烏か目が痛くなった悪夢がよみがえる展開。しかしよく考えたら最後の四烏はカラスでないと困る文脈だからあまり神経質にならないでおこう。また、これによると四鳥の別れは例大祭の日に行われるとある。しかし、うろうろしてもこの日に行われるという掲示物や痕跡はなかった。やはり最近はやってないのだろうか。

本殿の奥にあった妹背の滝の説明版。

 

  妹背の滝

     京都下加茂社家 永恭

雄滝

 たちよりてしばしむすばむひまもなし

 はげしく散りて落つる滝つ瀬

雌滝

 山姫のたぐる糸とはこれならむ

 峯よりかけておつる白糸

 

ネットで検索するとこの妹背の滝を詠んだ栗本軒貞国の歌が出てくるのだけど、出典がわからない。ただ、狂歌家の風に鳥喰祭の歌があり、貞国が大頭神社に来ていたことは間違いなく、その時の歌かもしれない。

ついでに、大野浦駅前にあった歌碑。

 

「今川貞世(号了俊)が九州探題として任地に下るとき應安四年(一三七一年)九月二十一日當地で詠んだ歌

 おおのうらを

  これかととえば

   やまなしの

 かたえのもみじ

  色にいでつつ

大野浦の駅名はこの歌からとったものです」

 

これで、あとはもう一回二回図書館に行けば、狂歌家の風の鳥喰祭を詠んだ歌について書けるかもしれない。お祭りらしい写真が一枚もなかったこと、おわびいたします。


狂歌家の風(3) おまむき

2018-10-26 10:12:50 | 栗本軒貞国

 栗本軒貞国詠「狂歌家の風」より、今日は恋の部の歌を一首、

 

    寄仏恋 

 雑行の神はいのらし一向にくとくのもわしやおまむきにして 


 「仏に寄する恋」という題で、雑行、一向、功徳、御真向、と読みこんで恋の歌に仕上げている。雑行は正行の対で念仏以外の修行をすることのようだ。「おまむき」は御真向と書いて、浄土真宗において阿弥陀様を真正面から書いた絵のこと。ネットで検索すると「信徒がお仏壇を焼失いたしましたので、 御真向様を下附して頂きますようお願いいたします。」と下附願の様式が出てくる。仏壇に飾るもののようだ。しかしまあ真正面から女性を口説くと言うのに阿弥陀様の絵を持ち出すとは、狂歌の面目躍如といったところだろうか。

 貞国の墓は広島の天神町、教念寺にあったという記述が廣島縣内諸家名家墓所一覧に見える。天神町は戦前までの繁華街で今の平和公園のあたり、教念寺は戦後少し南に移転している。お墓が残っているかどうか確認していないが、爆心地に近くあまり楽観的にはなれない。貞国の師、貞佐の墓は仏護寺(今の本願寺広島別院)、これも今はないそうだ。貞佐の辞世、

死て行所はをかし仏護寺の犬の小便する垣のもと

はよく知られている。「垣のもと」は柿の本、すなわち和歌の家の墓、とも考えられる。狂歌師が柿の本という言葉を使う時、いかなる感情に基づいているのか、それはさまざまだと思うけれど、もう少し時間をかけて用例を集めてみたいと思う。このときの貞佐の心情は今の私にはよくわからない。徒然の友に仏護寺を詠んだ貞佐の歌がある、引用してみよう。

 

    ○佛護寺といふこと    芥川貞佐

佛護寺といふ寺ありけるがいつのころにやありけん借金いたく嵩みければその支拂方に檀家の人々心配しけるときよめる

 護佛寺は借銭山のお釈迦かな阿難かしやんなもうくれん尊者

 

釈迦、阿難、目連と入って、あな貸しやんな、もうくれん損じゃ、という趣向で金を出すなと言ってるようにみえる。護仏寺となっているのは御仏事だろうか。「かしやんな」のところは迦旃延(かせんねん)という尊者がいてサンスクリット語だと「カッチャーナ」あるいは「カッチャヤーナ」、でもちょっと苦しいような。

広島の浄土真宗はこの仏護寺を中心に西本願寺派、貞佐も貞国も安芸門徒だったということになる。一方、貞佐の師の貞柳は大阪の人で東本願寺でおかみそりを受けた歌が残っている。また、お盆の魂祭の歌はちょっと面白い。

 

    隣家魂祭あると聞て我等は東本願寺門徒なれは

 御宗旨はたふとけれともとてもなら盆に一度は戻りたいもの

 

真宗はお盆に先祖の霊の迎え送りをしない。その宗旨は尊いことだけれど、死んだあと盆に一度は戻りたいと隣家のお盆を羨ましがってるような歌になっている。なお、貞佐や貞国の安芸門徒は盆灯籠などお盆の行事もあり、また戒名に院号が付いたり浄土真宗の常識と違う所がある。この時代からそうであったかどうか、狂歌には手掛かりがみつからない。

 柳門が貞国のあと周防の栗陰軒によって引き継がれた系譜を詳しく書いた「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」によると、貞国の碑は広島市東区二葉の里の聖光寺にあるという。これは曹洞宗のお寺で、弟子の都合だろうか、一度訪ねてみたいものだ。


狂歌家の風(2) かんなへ

2018-10-25 09:42:25 | 栗本軒貞国

 栗本軒貞国詠「狂歌家の風」より、今日は秋の部から重陽の節句の歌を二首

 

     重陽 

 仙術は学ひ得ねともかんなへのつるに乗してくむ菊の酒 


     おなし日菊合の席にて

 みな人もけふは重陽花よとて弟草の愛にひかるゝ

 

 最初の歌、「かんなへのつる」とあるからつる植物かと思ったが、かんなへという植物はないようだ。もちろん若者言葉の「ガン萎え」でもないだろう。ネットで検索しても、どうも重陽は伝聞情報が多い。重陽は五節句のなかで一つだけ廃れてしまったと大正期の書物にあるから、明治の間に流行らなくなってしまったのだろう。私も重陽というと雨月物語の菊花の約ぐらいしか思い浮かばない。

 というわけで難航したけれど、突破口はウィキの日本酒の項、菊酒は日本酒の燗のつけ始めとあるのを見つけた。すると、かんなへは燗鍋だろうか。燗鍋は自在鈎につるして囲炉裏で直接酒を温める酒器で、つぎ口がついていて鍋というよりやかんに近い形だ。囲炉裏にかけたまま柄杓で酒をつぎ足して飲み続けたようだ。そうわかって調べてみると、茶事では今も重陽の節句に燗鍋で菊酒が出されることもあるという。もっとも茶事では古風な茶器と同じような感覚で燗鍋が用いられて、囲炉裏にかけた状態ではなく燗鍋と杯が運ばれてくるようだ。そしてこれは、燗のつけ始めということから、重陽に燗鍋はおっと思わせる季節の趣向なのだろう。貞国の時代も重陽と燗鍋は当たり前の組み合わせだったのかもしれない。他の用例を探してみたい。

 燗鍋がわかったところで、一首目で残る問題は仙術だけど、重陽で仙術が出てくるお話は二つある。一つは「菊慈童伝説 」と言われるもので、周王の慈童が枕をまたいでしまった罪により流罪となったが、王より授かった経文を忘れないように菊の葉に書いたところ、その菊の葉が落ちた雨露が不老不死の薬になった。それから八百年を経て、魏の文帝の時、慈童は仙術を文帝に授け文帝はこれを菊花の杯として後世に伝えたという。もう一つは、桓景という人が、費長房という仙人の教えに従って九月九日に村人を山に登らせ茱萸の葉を体につけさせて菊酒を飲ませて疫病神を回避したというお話。貞国の歌はどちらを念頭に置いたものか、「つるに乗して」とあるから高所に登り菊酒を飲んだ後者のように思える。しかし、柳門の祖、貞柳の重陽の歌を見ると、


 のむからに千年のよはひうくるそと今日もてはやすきくの盃


 せんさいと祝うせつくの翁草さあらばすゝのさけをまいらしよ


 きのふこそ祇園のほこの菊水をせつくは千代のためしにそひく


と、千年の長寿というモチーフの歌が出てくる。重陽は本家中国では厄除け、日本では不老不死という指摘もある。すると前者の菊慈童伝説だろうか。こちらは能の素材にもなっている。あるいは、「つるに乗して」は鶴に乗った別の仙人の話なのかもしれない。いずれにしても仙術と下の句がすっきりつながらず、この歌の心情にはまだ近づけていないようだ。

 二首目を見てみよう。「弟草」は菊の別名で、春に先駆けて咲く梅を兄、菊を弟とした。「おととぐさ」と読むようだが、それでは一文字足りなくなる。問題は下の句、「弟草の愛にひかるゝ 」とはどういうことか。思い当たるのは最初に書いた雨月物語の菊花の約、雨月物語は狂歌家の風より二十余年前の刊でそれを念頭にということはあるかもしれないけれど、ここは一般的な義兄弟みたいなことなのか、もうひとつピンと来ない。しかし、菊花を楽しむ菊合の席でそのような歌を詠むだろうか、とも思う。狂歌だからあるかもしれないとは思うけれど、雨月物語からの先入観だったかもしれない。なお、狂歌家の風には梅を兄とした歌が二首ある。参考までに引いておこう。

 

     神垣梅

 まつ先にすゝんてとしのかしらめく梅は諸木のこのかみの庭

 

     男色 

 わしや梅の花の兄貴と呼れたいアノ児桜に枝をつらねて 


二首目のインパクトも先入観の原因かな。これを外して考えるならば、みなさんの菊花に対する愛情には感服いたしましたという意味になるのだろうか。愛(あい)と読んだら古来煩悩の一種だけれど、ここでは既に今と同じような意味で使われていたことがわかる。

 暦が秋のうちに菊の歌をと思ったけれど、まだまだ勉強不足だったようだ。

 

【追記1】重陽ではないが燗鍋の用例、五十鈴川狂歌車より、

「冬は雪のふりたるはいふへきにもあらす霜なんとのいとしろく又さらてもいとさむき火なんといそきおこして間鍋徳利もてわたるもいとつきつきし」

次は好色一代男より、

「所ならいとて、禿(かふろ)もなく、女郎の手つから、間鍋(かんなへ)の取(とり)まはし、見付ぬうちは笑(おか)しく、床にいれなとゝ申して」

さらに貞柳の歌

  鴨河に風のかけたる間鍋はなかれもあへぬすゝみ床かな

涼み床が燗鍋というのは私にはちょっとイメージしにくい。もうひとつ明治の本であるけれども、日本の裁縫と女礼より

「間鍋でお酌を致しますのは此通り右の手を弦の上から掛けまして、」

間鍋と銚子は右手で持って左手を添える、徳利は略式だと右手だけで持つが、礼式は左手で持って右手を添えるとある。

 

【追記2】守貞謾稿に燗鍋の絵がある。しかし、

「中古迠ハ酒ノ燗ニ此燗鍋ヲ用 銅制ニテ火上ニ掛テ燗メシ也」

とあり、近世ではチロリあるいは京阪でタンポと呼ばれて形状は燗鍋に似ているが湯燗にして銚子に移す、さらに江戸では陶器製の燗徳利で温めたとある。しかし、上記のように近世でも燗鍋の例もあり、中古までということではないと思うのだが。

 

【追記3】「狂歌友かゝみ」(序に明和三年とある)に重陽に燗鍋の歌があった。作者は園果亭義栗、栗派の門人と思われる。

 

  節句とて竹杖はなれ翁草けふかん鍋の手にそひかるゝ

 

 

燗鍋に菊が挿してある貴重な挿絵だろう。そして「ひかるゝ」が貞国の歌とかぶっている。縁語なのか、単なる偶然か、二首だけではわからない。ここまで重陽と燗鍋の取り合わせは意外と少ない。やはり江戸では燗鍋は時代遅れだったのだろうか。

 

【追記3】 「もぢり狂歌さあござれ」に燗鍋の歌と挿絵があった。

 

  もち上てちよろちよろ出るをのべかみでふいてさし出すかんなべの口

 

これは解説しにくいので燗鍋の絵だけ見ていただきたい。

 

【追記4】 「狂歌肱枕」にチロリの用例があった。

 

       虫    韓果亭栗嶝

  秋の野て酒のかんする松むしかちんちろりとそなく声かして

 

松虫がちんちろりと酒の燗をしていると詠んでいる。明和年間までに上方でもチロリが広まっていたようだ。

 

【追記5】 「狂歌軒の松」の燗鍋の歌、

 

      重陽     義栗

  間鍋のつるに匂ひて老をせく菊はとさんの酒やした水

 

つるに匂う、とは追記3のように挿してあったと考えてよさそうだ。すると貞国の「つるに乗してくむ」は、つるに挿した菊を見て「鶴に乗る」を掛けたのだろうか。ここはまだ確信が持てない。


狂歌家の風(1) はゝてう

2018-10-24 15:31:56 | 栗本軒貞国

 前に書いた爺様の掛け軸、それがきっかけで広島の狂歌師、栗本軒貞国について調べるようになり、この「狂歌家の風」享和元年(1801)出版、を読んだ。これが収められている近世上方狂歌叢書は本文のみで歌の解説はなく、狂歌初心者の私にはわからない事も多いのだけれど、少し歌を紹介してみたい。一応意味がとれたものの中から順不同で、今日は冬の部から一首

 

     枯木雪

 はゝてうと落た枯木に真黒なからすのうらをみする白雪

 

 「はゝてう」はオノマトペだと思った。それだと枯木から落ちた雪がカラスの裏を見せる、ってどういうことか、すっきりしなかった。しかし一応調べてみようと検索したら、「はゝてう」はなんと叭叭鳥(ははちょう)という鳥の名で、今はハッカチョウというそうだ。外来種で、ムクドリ科の黒い鳥だが翼に白い斑点があり、飛ぶときにその白色が目立つとある。また、日本でも江戸時代に飼う習慣が広まり、若冲の絵などで知られている・・・この絵を知らなかったのがアレだったわけだ。

 そういうことならば、枯木から雪が落ちてカラスが驚いて飛び立って、その飛翔と雪が重なって叭叭鳥という連想だろうか。これでかなりすっきりした。

 あと疑問点が二つ。題が枯木の雪であるから、枯木に積もった雪が落ちたと考えたけれど、歌だけだと枯れ枝ごと落ちたようにも読める。これは大したことではないか。もう一つ、オノマトペは関係なかったのだろうか。はゝてうと落た、というからには落ちる描写だと思うが、どんなニュアンスなのか、ここはもう少し他を探してみないといけない。


10月18日広島県立図書館「芸藩通志 巻3」など

2018-10-19 09:29:08 | 図書館

 昨日は県立図書館へ。まずは芸藩通志の巻3を出してもらって高田郡と高宮郡の条を読んだ。まずは、「死・葬送・墓制をめぐる民俗学的研究」の表にあった友広神社に関する芸藩通志の記述、

八幡宮 中島村、友廣にあり、村内、田中に、小林あり當社、祭日に供物を此地に置けば、神烏一隻来て、これを喰ふ、他の諸鳥は啄まずといふ、俗に鳥喰森(とりくひのもり)と呼ぶ、

 中島の友広神社はうちから徒歩圏内で広島市指定天然記念物のイチョウの木があり銀杏を拾いに行ったことはあるが(天然記念物の巨木はオスの木)森という感じではなかった。高田郡吉田村の祇園社(清神社)にも似たような記述があった。

祇園社 吉田村、古城山の麓にあり、(中略)本社階下に神木あり、社林に神烏あり、歳首ごとに、烏喰祭といふを行ふ

 清神社は昔サンフレッチェの必勝祈願で訪れたことがあり、毛利時代に植えられたという杉の木はたっぷり花粉を蓄えていてひどい目にあった記憶がある。いやそれはともかく、ここで注目すべきは鳥喰、烏喰と表記が分かれているところだ。興味を持った発端は前回借りて帰った「狂歌家の風」の詞書に大野大頭社の鳥喰祭というのが出てきて、狂歌に「とくひ」と出てくることから鳥喰で「とぐい」だと思っていた。しかし改めて調べてみると大頭神社公式サイトには烏喰になっていて、厳島神社はカラスで記述した書物も多いが公式サイトには御鳥喰式(おとぐいしき)とある。いずれの場所でも、主役はカラスであまり気にすることではないのかもしれない。次回巻2の佐伯郡を読んだ上で狂歌について語ってみたいと思う。しかしネットでも紙の本でも、鳥と烏の活字は紛らわしく老眼が始まっている私にとっては厳しくて目が痛くなった。活字の細かいところを気にしなければいけない作業は目が健康なうちにやっておいた方が良いと若い同志の方に申し上げておきたい。

 芸藩通志では川の名前にも注目しているのだけれど、根谷川については町屋を境に上を根ノ谷川、下を可部川と記述があった。しかし今の三篠川については高宮郡の条ではすべて三田川であった。高田郡の条では長田川、長田は今の向原にあった村名だ。すると明治の地誌にみられる深川川は比較的新しい呼び名なのかもしれない。川の名は各所に出てくるものだから、これは結論を急がず読んでいきたい。

 芸藩通志を読み終えたあと、狂歌の本を3冊、「近世上方狂歌叢書三」「近世上方狂歌の研究」「狂歌逍遙第2巻」を借りて帰った。叢書収録の「狂歌秋の花」を読むと、確かに芸州広島、竹尊舎貞国の歌が確認できる。しかしこの秋の花は延享三年(1746)出版となっていて、「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」にあった栗本軒貞国の生没年、宝暦四年(1754)~天保四年(1833)から外れてしまっている。没年の天保四年については、「広島縣内諸家名家墓所一覧」にも記述がある。ところが、「近世上方狂歌の研究」の西島孜哉氏は、貞国の家の風(1801)は弟子による序文跋文の内容から貞国の遺稿集であるとして上記生没年より前の時代の人と考えていて、したがって竹尊舎貞国は栗本軒貞国と同一人物で問題ないということになる。家の風では序文跋文で貞国を師、序文と本文詞書で貞佐を先師と呼び貞国の弟子の記述という体裁であることは間違いないが、遺稿であるという根拠はよくわからない。これはこの手の狂歌集における序文跋文の知識、理解力が私には不足しているせいかもしれない。また柳井の本は貞国から柳門を引き継いだ周防の栗陰軒の資料から、例えば賀の歌などから生年を割り出している可能性もあり、宝暦四年の根拠を知りたいところだ。

「狂歌逍遙第2巻」はブログの内容をそのまま印刷したもので、歌がひっついていて読みにくかった。しかし、紙の本にしておく値打ちのある仕事なのは間違いないところだ。

 次回は芸藩通志の巻2を読んでみたい。借りて帰る本はじっくり考えたい。


腑に落ちぬ話

2018-10-11 18:40:26 | 日本語

 以前、ほっこりについて「ほっこりしない話」というのを書いた。今回も全くもって代わり映えのしない動機付けであるけれどもしばらく付き合っていただきたい。

 ここのところ、ツイッターなどで「腑に落ちた」と言われると私には違和感がある。自分では、腑に落ちないと否定形でしか使ったことがない。そこで少し調べてみることにした。近くの図書館の蔵書検索で「腑に」を入力するとわずか3件のヒット、その中に、「知っておきたい慣用句2」というのがあり、見出しに「腑に落ちない」が入っている。これはまあそうなるところだろう。問題は「腑に落ちる」「腑に落ちた」の用例がどれぐらいあるか。次は国立国会図書館デジタルコレクションで「腑に」を検索してみると、763件がヒット、全部はちょっと面倒なので、このうち比較的古い時代が多い図書33件について見てみると、否定形が26件、「腑に落ちる」が2件、後は「五臓六腑に」など関係ないものであった。その一方で電子書籍の国の機関36件を調べてみると10件が肯定で使われていた。この36件はいずれも発行が2000年以降であった。

 なお、図書にみられた肯定形2例は、一例が”腑に落ちる”と引用符で囲って慣用句とは違うことを意識した書き方、もう一例も「腑に落ちるまで説明」とあり、書き手の感想として腑に落ちる、腑に落ちたという用例は見られなかった。

 逆に「腑に落ちる」で検索すると90件がヒット、図書は1件だけでほとんどが論文などpdfファイルのものだった。出版年でみると、1999年以前が6件、2000年以降が84件という内訳だった。「腑に落ちた」では、46件中2000年以降が45件、不明が1件で図書はゼロだった。最後にツイッターで「腑に」でツイート検索してみた。同じことを連呼するbotがあったり愛媛県知事が「腑に落ちない」と発言したことがニュースになっていたりして数えるのが難しかったがこれらを除外すると、肯定形が3割強は出てくる印象だった。

 これらをどう考えるか。元々、否定で使うのが慣用句だったのは間違いないところだ。また、それをあえてひっくり返して「腑に落ちる」と書いた古い用例もあり、これを間違いとは言えないだろう。しかし、上記の検索結果を見る限り、積極的に肯定形で使うようになったのはせいぜい二十数年前からと思われる。特に「腑に落ちた」は、何か小説か漫画か、有名な所で使われて一般化したような匂いもある。私には見当がつかないが、もし何がきっかけなのか思い当たる方がいらっしゃったら教えていただきたい。

 前のほっこりと同様に、誤用とは言えないようだ。だがしかし、私にとって気持ち悪い表現であることに変わりはない。自分ではこれからも否定形しか使わないと思う。


沼高郡

2018-10-05 11:03:01 | 郷土史

 

 タイトルの沼高郡というのは明治三十一年(1898)、沼田郡と高宮郡が合併した地域の新しい郡名として政府提出の法律案に記載された名称であった。沼田郡というのは今の安佐南区に加えて、明治三十一年の時点では楠木町や三篠町なども含まれ、明治十一年に広島区ができるまでは広島デルタの大半も沼田郡であった。一方の高宮郡は今の安佐北区から白木を除き、福木を加えた地域だった。

 さてこの明治三十一年の法案は修正案が出されて沼高郡は実現しない。衆議院委員会会議録. 第12回帝国議会を見てみよう。

 

「広島県下郡廃置法律案(政府提出)委員会会議録

(中略)

委員佐々木君 左ノ意見ヲ述フ

 広島県備後国三次郡及三谿郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ三次郡ヲ置クトアリ此

 ノ三次郡ヲ改メテ双三郡ト称セムコトヲ望ム蓋シ双三郡ト名クルハ両郡ノ

 名称ヲ併存シ郡内住民ノ意思ニ適スルヲ以テナリ

委員山蔭君 左ノ意見ヲ述フ

 広島県安芸国沼田郡及高宮郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ沼高郡ヲ置クトアリ此

 ノ沼高郡ヲ改メテ安佐郡ト称センコトヲ望ム

 (後略)」

(旧字体は改めました)

 

 この修正案は起立者多数で可決され、新たに双三郡と安佐郡が誕生することになり、沼高郡は幻に終わった。ここで、双三郡については理由が簡単に書いてある。三次郡に決まったのでは三谿郡の住民が面白くないということだろうか。これは合併の時にはよくある話かもしれない。一方の安佐郡については理由が書いてない。地元のことでもあるし、少し考えてみよう。

 風土記撰進の詔によって安芸の国には八郡、すなわち安芸、佐伯、山県、高田、高宮、沼田(ぬた)、賀茂、豊田が置かれた。当時の佐伯郡は太田川の西側、今の安佐南区から大竹市までかなり広い範囲だったようだ。それで鎌倉時代までに佐伯郡は佐西郡と佐東郡に分割され、安芸郡も安北郡と安南郡に分かれた。その一方で、高宮郡と沼田郡は廃されてそれぞれ高田郡と豊田郡に併合されて八郡というのは変わってなかったようだ。

 それが江戸時代の寛文四年(1664)、郡名復古の動きが出て、風土記の時代の八郡の名前に戻される。佐西郡は佐伯郡、安南郡は安芸郡に戻ったが、佐東郡、安北郡には廃止されていた沼田郡、高宮郡があてられた。沼田は読みを変えてヌマタとなったけれど、古代は別の場所に存在した郡名に置き換えられた訳だ。もし私がその時代に生きていたら、あまり面白いことではなかったような気がするが、当時の人の感想を見つけることはできなかった。

時代は安佐郡誕生後に下るが、小鷹狩元凱著「広島蒙求」にはこの郡名復古について批判的な記述があり

「土地の入替りたるは其頃の有司深くかうかへざる誤りにて、」

とある。安芸国の郡名の変遷表を拝借しておこう。

このようないきさつから、借りてきた郡名から一字ずつというのは面白いことではなくて、その前の佐東郡、安北郡から一字ずつというのが地元の意見だったのではないかと想像できる。元は安芸の安と佐伯の佐ということだけど。

これで沼田と高宮という郡名は消えてしまったが、沼田の方は昭和の大合併で沼田町として復活する。これも対等合併時の綱引きの結果昔の郡名を引っ張り出して来たものだろうか。一つ前の佐東郡も佐東町として復活している。一方の高宮郡は、高田郡に昔からの高宮という地名があることから消滅した高宮郡内に復活することはなかったけれど、私が住んでいる高陽地区の高陽とは高宮郡の南部という意味のネーミングで、一文字だけ痕跡を残している。

ここまで書いてきて一つ残念なのは寛文四年の郡名復古は何を見れば書いてあるのか、元は誰の意向なのかよくわからないことだ。広島県立公文書館の年表には、

「この年,広島藩,幕命により,領内の郡名を佐西→佐伯・佐東→沼田・安南→安芸・安北→ 高宮・三吉→三次と古に復す〔玄徳公済美録 35〕」

とある。しかしこの史料は閲覧不可のようだ。幕府側の史料はないものか、ご存知の方がいらっしゃったら教えていただきたい。地元の地名については、あと二つ三つ書いておきたい。お役所仕事で地名が揺れたケースは他にも多いようだ。

 

 

 


阿武山(あぶさん)を語る(補1) 弘化二年の土石流

2018-10-03 18:48:53 | 阿武山

 狂歌関連で己斐村で検索して色々調べていたら、江戸時代の土石流についてまとめてある記述を見つけた。

広島安佐南区・八木地区の災害伝説と大正15年(1926)災害

 「こうした斜面災害は、藩政時代の記録に「山抜け」(佐伯郡己斐村国郡志書出帳)、「蛇抜け」(佐伯郡古江村国郡志書出帳)、「山津江」(賀茂郡広村弘化二年(1845)御注進控帳)、「山潮(汐)」(三原志稿,巻七(1804)他)、「づゑぬけ」(小方村弘化二年往古過去帳)と記されており、古くから恐れられていました。「山津波」という用語が使われ始めたのは、大正15年(1926)に安芸郡西部で土砂災害が発生してからです(山本村,1922,川口,1933など)。 」

これによると、阿武山山頂の観音様が地上に降ろされたとされる弘化四年(1847)の2年前に賀茂郡広村と佐伯郡小方村で土石流の記述があったようだ。広島県立文書館の広島県史年表(近世2)リンクはpdf の弘化二年の記述の中に、

「この年,洪水,佐伯郡大竹村一帯の被害甚大〔小方・和田家文書〕。 」

とあって、小方村の土石流は弘化二年であったことがわかる。広村については引き続き調べてみたい。

 今回書き記しておきたいことは以上なのだけど、どうしてこの年の災害に注目するのかもう一度まとめておこう。

 八木の伝承に出てくる蛇落地(じゃらくじ)について、陰徳太平記の大蛇伝説の天文元年、あるいはその前の土石流と関連付けるのは現時点では難しいと書いてきた。その理由を書いておくと、

○元和5年(1619)に八木の地に浄楽寺が開基していて、その後、字上楽寺(1762)そして上楽地へと変わっていく過程に地名としての蛇落地が入り込むのは難しいと考えられる。

○陰徳太平記にはそのものズバリの地名であるはずの蛇落地の記述はなく、執筆者の先祖の香川氏が関ヶ原後に広島を離れてから浄楽寺開基までの十年余りの間に蛇落地が存在した可能性も低そうだ。

○八木の伝承の蛇落地には災害地名として忌み嫌うイメージは入っていなくて、蛇王池のまわりの集落として人が住み続けている。

○蛇の属性は水であり、風水が重視された戦国時代に土石流を蛇を考えたかどうか。また、ヤマタノオロチやアンドロメダのお話では定期的ないけにえ、というところから河川氾濫が神格化されたと考えられた。蛇はまず水害と考えるのが普通で、蛇抜けのような表現はあるが蛇伝説と土石流との関連は慎重に探っていかなければならない。

○太古ならともかく、江戸時代初期に百年前の災害を魔物に変換して記述できるものだろうか。そうした場合、伝承に別の要素が入っていそうなものだが、陰徳太平記の記述を否定する要素を伝承に見出すのは難しい。

○蛇落地というネーミングが中世ぽくなくて、やはり浄楽寺が先にあったと考える方が自然である。(なお、蛇楽地(じゃらくじ)、上楽地(じょうらくじ)、蛇王池(じゃおうじ)など、地も池も「じ」が地元の古い読み方のようだ。)ただし、蛇落池、最初は池を指す言葉だった可能性は残っている。

 以上のような理由から、蛇落地は上楽地よりも後に出てきたと考える方が合理的だと思う。そして、「佐東町史」にある、阿武山山頂から麓に降ろされた観音様の名前が「蛇落地観世音菩薩」であることから、「蛇落地」はこの観音様と関係が深いネーミングではないかとも考えられる。そう考えると、弘化四年に観音様が麓に降ろされた時に上楽地をもじって、また大蛇伝説をふまえて蛇落地と名付けられたのかもしれない。観音様が降り立つ山を補陀落という。中世の人々は阿武山の山頂を補陀落と考え、そこに観音様の姿を見たと思われる。山頂が補陀落で降ろした先が蛇落地というネーミングだった可能性もある。現時点では、天文元年よりも弘化四年の方が有力と私は考えている。

 ただ、ここで一つ大きな疑問がある。山頂で信仰されてきた観音様をどうして麓に降ろしたのだろうか。邪推すれば、蛇落地はいらん事をしたという皮肉をこめたネーミングのようにも思える。弘化四年に何があったのか。可能性の一つとしては災害だろうか。そういう観点から今回の弘化二年の件を頭に入れておきたい。別に土石流を探す必要はなく、観音様が地上に降ろされたというだけで上記のネーミングは成立するとは思うのだけど、この理由は気になるところだ。冷静に調べていくと、土石流とはすぐには結び付かない。しかし私は、四年前の災害直後に、阿武山の谷筋に土砂がたまって、蛇が落ちてくるという蛇落地そのままの光景を見た。それは実際にこの目で見たものであるから、土石流の三文字をそう簡単に心の中から消すことはできない。

(安佐南区中筋、安佐南区図書館から見た権現山と阿武山)