阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

柳縁斎貞卯

2020-01-29 13:40:32 | 栗本軒貞国
昨日、広島市立中央図書館で見た「スクラップブック 文学」にあった記事に出ていた柳縁斎貞卯について書いてみたい。以前、柳縁斎貞国という記事を書いたが、今回は一文字違う貞卯のお話だ。

まずはスクラップ帳にあった記事を追って行こう。申込書に書いて記事の写真は撮影したけれど、これはメモ代わりという条件であってここに載せることはできない。短冊の所有者と発見者の住所氏名以外のところを書き出してみよう。このスクラップブックは誰が集めた記事かわからないが、広島の文学関係の記事が多数入っている。問題の記事は、紙名不明だが記事の上の余白に、61.3.29と日付のスタンプが押してある。

まず、主見出しは、

江戸末期の狂歌知る史料発見 

そして脇見出し、

広島の子孫宅 柳縁斎貞卯の短冊など300点 

とある。号は通常音読みであるから、貞卯は「ていぼう」だろうか。結構長い記事でまずはリードの部分を引用してみよう。

【呉】江戸末期から明治中期にかけて広島市で活躍した柳縁斎貞卯(一八三一~一八九九)が詠んだ狂歌の短冊、軸など約三百点が、子孫宅で見つかった。広島地方における江戸末期の狂歌の状況がほとんどわかっていなかっただけに、今回の史料発見で、広島地方だけでなく、狂歌の本場大阪とのつながりが、解明できるものとして期待される。

狂歌の本場大阪、というのは江戸狂歌の人が聞いたら怒るだろうけど、柳門という立場から見れば発祥の地は貞柳の大坂で良いのだろう。短冊の所有者である貞卯の子孫の住所は広島市内だが、冒頭に呉とあるのは、阿賀郷土資料研究会の会長さんが見つけたということで、呉発の記事になっている。その次の部分から本文を引用してみよう。

 貞卯は本名を渡辺彦助といい、薬問屋「竹野屋」を営むかたわら、和歌、俳かいをたしなみ、とくに狂歌に秀でていた。今回見つかった短冊は貞卯のものばかりでなく、芸州における狂歌の草分け芥川貞佐(一六九九~一七七九)の流れをくむ栗本軒貞国(一七四七~一八三三)のものも多数含まれていた。
 広島市が編さんした新修広島市史によると、町人文芸の一つ、狂歌は比較的早くから広島でもてはやされた。芥川貞佐が広めたもので、狂歌を志す人は貞佐の影響を受け、その高弟に栗本軒貞国がいる、と記述されているだけで、全ぼうはほとんどわかっていない。
 栗本軒貞国は初め柳縁斎を名乗っており、のち京都の家元から栗本軒をもらい、貞卯に柳縁斎の号を譲ったものとみられ、貞卯は貞国の高弟であった、と推定される。貞卯はのち、歌友社を結成、狂歌を広めた、と書いた文書もあった。

貞国の生没年は八十七歳説を採用している。貞国の短冊が多数というのはうれしい情報であるけれど、三つ目の段落はかなりいい加減なことが書いてある。まずは何回も出てくる京都の家元。貞国は柳門正統三世を名乗っていて自分自身が家元という認識であり、上方で柳門正統を名乗る栗派などから号をもらうということはあり得ないと考えられる。狂歌家の風の序文によると、貞国に栗本軒の軒号額を与えたのは堂上歌人の芝山持豊卿となっている。この京都狂歌の家元云々は、尚古を引用した芸備先哲伝を広島市史などの通史が引用したため多数の文献に書かれていて、その都度訂正していくしかない。

そして、貞卯が1831年生まれということであれば、33年没の貞国の高弟ということもまた、あり得ない。貞国と貞卯をつなぐ人物がいたはずだが、広島で柳門四世を名乗った梅縁斎貞風がいつまで活動したのか、私にはよくわかっていない。ちょっと気になるのは「熊野筆濫暢の記」(リンクはpdfファイル)に出てきた榊山神社拝殿の狂歌奉献額の記述(39ページ)。栗本軒貞鴻が嘉永五年(1852)に奉納したと額の末尾にあり、「栗本軒貞鴻は、狂歌で有名な芥川貞佐の高弟であり」と記されているが貞国はこの19年前に亡くなっている。何かの間違いかと思っていたけれど、幕末にも柳縁斎がいたなら栗本軒を名乗る人もいたのかもしれない。熊野町方面も調べてみないといけないようだ。歌友社は明治に入ってからだろうか。検索では出てこないようだ。

記事はこのあと、原爆投下時にこの短冊類は安佐南区佐東町中調子(記事には安佐北区とあるが佐東町は安佐南区。これは掲載当時の住所で昭和55年政令市が施行されてもしばらくは佐東町、高陽町などの町名が住所に残っていた。昭和62年住居表示が行われて佐東町は住所から消えることになる(広島市・廃止町名と現在の町の区域)。この記述によって、余白の日付スタンプの61は昭和61年とわかる。)の親せき宅に預けられ無事だったことが書かれていて、そのあとに発見者の会長さんのコメント、

「江戸末期に貞卯がいたことさえこれまで知られておらず、芸州藩における狂歌研究はほとんど行われていなかった。貞卯の文書などから不明な部分の解明のきっかけになるだろう」と話している。

と記事を締めくくっている。私もこの記事を見るまで貞卯の存在を知らなかった。今は貞国の狂歌をできるだけ集めて貞国という人物の全体像を明らかにしたいという方向性でやっていて、その周辺のことはまだまだ無知に近いということだろうか。なお、この記事には写真もついていて、

広島地方の狂歌史解明の手がかりとなる短冊

と説明がある。写真は短冊が扇状に並べてあって、下部には書状のようなものも見える。しかし、短冊が重なっている上に不鮮明で、貞国の知っている歌ならばとジロジロ見たけれど、読み取れる歌は無かった。一番上の歌は花という題で吉野で始まり、最後は貞卯と書いてあるようだが、全体は無理だった。左には貞国得意の五段に分けた書式で上に小さい字で数行題が書いてある短冊が半分見えて、貞国の歌ではないかと思うが、署名の部分は隠れていてこれも読めなかった。結構大きな記事でありながら、貞卯の歌が一首も紹介されてないのは少し残念だった。

それから、この記事を読んで気になったのは尚古の「栗本軒貞国の狂歌」に出てくる狂歌のことだ。最近は一度にたくさん貞国の歌を見つけるというのは難しくなってきた。そこで一度、貞国の歌の索引を作ってみたいと思うのだけど、そこで引っかかるのが出典が書かれていない尚古の歌は間違いなく貞国の作歌だろうかという点だ。貞卯が亡くなったのは明治32年、尚古はその9年後で、貞国の項を書いた倉田毎允氏は貞卯やその周辺へ取材をされたのかもしれない。尚古といえば、辞世狂歌碑を京都の門人360人が建てたという記述も、上記の上方の柳門一派との関係を考えると信じがたい話なのだけど、貞国が苫の商売で裕福であったとの話同様に、明治の弟子たちの伝承だったのかもしれない。尚古の歌は他の書物から貞国の作と確認できたものも多く、今のところはっきり間違っているという歌はない。しかし、一首ぐらい貞卯の歌が紛れ込んだりしてないだろうか、とは思う。

また、記事中にある狂歌が町人文芸の一つ、というのは上方や広島の狂歌を語る時には100パーセントその通りだろう。しかし、大ブームを巻き起こした天明の江戸狂歌を牽引したのは大田南畝という幕臣であり、昨日図書館から借りてきた「西国大名の文事」という本の中に、寛政の改革により武士が狂歌から手を引いたために狂歌の質が落ちた、との記述があった。この記述の真偽を判断できるほど、私はまだ江戸狂歌を理解していない。確かに狂歌を理解するには和歌など日本の古典文学に加えて漢籍の知識も必要で、私も漢文、特に朱子学の知識がないために理解するのに時間がかかった歌が何首かあった。今も私が意味が取れない歌の何割かは本説取りではないかと思われる。この点は朱子学を学んだ武士が有利と言えるだろう。南畝は柳門の祖である貞柳を「しれもの」と罵倒している。よく引用する小鷹狩元凱の著作でも、武家のざれ歌の記述はあるが町人の狂歌は出てこない。南畝などは町人と分け隔てなく狂歌連で活動しているように見えて、武家のプライド、江戸っ子のプライドというのは相当な物があるように思える。一方で貞国は、狂歌家の風に学問所と思われる学館、ものよみの窓の歌を二首残している。そして武家であったという私の母方の家に伝わる貞国の掛け軸は、中庸の一節を取り込んだ歌になっている。貞国は広島藩学問所と何らかの関わりを持って、漢籍も学んでいたのではないかと思われる。狂歌における上方と江戸、町人と武家との関係は、もう少し江戸狂歌も勉強した上で偏見を排して慎重に考えてみたい。

直接貞国の歌にはたどりつけなかったが、今回の記事は色々と参考になった。蔵書検索で柳縁斎貞卯と最初に見た時こりゃ間違いじゃろと思ったけれど、その知識の狭さが大間違いだった。今のペースではあまり範囲を広げ過ぎると難しい。それでも、貞国の周辺にもう少し目を向けないといけないという教訓だろうか。




一、明治三十四年
  九月、御代丸著の「狂歌獨稽古」上中下三巻及「丸派系譜」を発
  刊す。廣島の柳縁齋貞卯立机、我社これを補助す。

と出てくる。文献中に貞卯の名前を見つけたのは初めてである。上方の丸派とのつながりは明治になってからのものか、あるいは貞国の時代からあったのか。貞国辞世碑が京都の門人360人によって建てられたというのは、ひょっとすると丸派のことだろうか。なお、上の記事の通りだと貞卯は明治32年没で、既に2年前に没していたことになる。立机とはネットで引くと「宗匠立机ともいう。俳諧の宗匠となること」とあるが、没後のことだと意味が通らない。書籍検索でも立机披露などの言葉が出てきて、どうみても本人が生きている時のことである。記事の没年か年表の年代のどちらかが間違っているのだろうか。いや、どちらか少し間違っていたとしても、貞卯の立机としては遅すぎるだろう。これは貞卯の没後すぐに、同名で後を継いだ人がいたと考えるべきだろうか。