阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

2月8日 安佐北区図書館 「可部町史」など

2020-02-08 20:55:22 | 図書館
先日、広島市立中央図書館で借りた2冊の返却のため、安佐北区図書館へ。昼飯を片づけて、深川三丁目12時59分のバスは5分遅れて、しかも根の谷川の川土手の工事のせいで深川通りの出口のところが込んでいて、可部上市バス停に着いたのが13時25分過ぎだった。そこから小雨模様の中歩いて安佐北区図書館へ、可部バイパスを越えて少し坂道を登った所、区民文化センターと同じビルに入っている。公共の交通機関では行きにくく、当地の文化レベルの表れとも言えるだろう。安佐市民病院の跡地に移転という話も、いつの間にか立ち消えになったようだ。

返却の棚に二冊ならべて、今日の用事はこれでおしまい、広島城のチラシを眺めた後外へ出たら、さっきより雨が激しくなっている。しかし青空ものぞいていて通り雨のようだ。しばらく何か読んで晴れ間を待つことにした。

まず手に取ったのは可部町史、前にこれを読んだのは阿武山関連を調べていた時で、狂歌の項を読んでいない。可部で狂歌が盛んだったのは幕末、とありながら、天保七年、梅縁斎貞風の可部の地名を詠み込んだ歌で始まる文書の記載があった。貞国の弟子で柳門4世を名乗ったのは広島の貞風と周防玖珂の栗陰軒貞六の二人がいる。貞風が夭折したために貞六に4世を継がせたのかと思ったがそうではなく、貞国の死後も貞風は活動していたとわかった。今のところ破門になったという話も出てこない。師匠の貞国はどのような心づもりだったのか、手掛かりはないものだろうか。

次に「白木町史」、ここにも幕末、弘化年間に狂歌連が活動していて、貞の字を許された人が二人いることから、柳門の指導を受けていたと思われる由記述があった。しかし、師匠の名前の記載はなかった。ここで外を見たら晴れていて、また徒歩で上市に戻った。買い物をして、可部上市15時27分のバスで、帰りは渋滞もなく50分には居間で両親にラムーで買ったタコヤキを食べさせていた。

これだけのことではあるけれど、今日はメモ帳も持っていなくて、書いておかないと明日にはすっかり忘れてしまうだろう。ここに記しておいて、次はまた県立図書館であちこち調べてみたい。






1月28日 広島市立中央図書館 「スクラップブック 文学」など

2020-01-28 20:52:32 | 図書館
 今年もシャレオの古本まつりに一度は寄りたい。市立図書館とセットで出かけることにした。いつもの12時41分の芸備線で出発、広島駅からバスで紙屋町で降りて地下に降りたら古本まつりのシャレオ中央広場、図書館を先にと思っていたけど目の前でやってるから寄ってみた。去年よりもお目当ての郷土関係が少ない気がした。しかし盛況でレジは10人ぐらい並んでた。広島県史の資料編が一冊千円で売っていて、しかし今買うと重たいから帰りにもう一度寄ることにしてシャレオの北の端から地上に出て、美術館前の観音様に、おんあろりきゃそわか唱えてから図書館の階段を上った。

まずは広島資料室、市立図書館の蔵書を「狂歌」で検索すると160件ヒットして、そのうちの150件目がタイトルの「スクラップブック 文学」で、内容一覧を見ると、

「江戸末期の狂歌知る史料発見 柳縁斎貞卯の短冊など300点(紙名不明 昭和61年3月29日掲載) 」

という記事が入っていて、これが検索に引っかかったようだ。柳縁斎といえば、栗本軒の前に貞国が名乗っていた号で、柳門の由縁斎貞柳→桃縁斎貞佐→柳縁斎貞国→梅縁斎貞風と続く、貞国にとっては柳門正統の号のはずだ。この見出しは貞国の間違いか。しかし江戸末期とあるから、別人だろうか。この記事を見ることが今回の一番の目的だった。広島資料室の司書さんにお願いして、書庫から出していただいた。

すると結構長い記事で、【呉】から始まるスタイルはどうも中国新聞ではないような気もする。そして短冊がずらりと並んだ写真があり、さすがに中の短冊は読めない。内容を読むと、天保生まれで明治まで生きた柳縁斎貞卯という人が確かにいらっしゃった。ここに書くと長くなるので、次の記事で書いてみたい。貞国の歌がごっそり出てくるのではないかと期待していたのだけれど、そこは空振りだった。しかしこの300点の中には貞国の短冊もあるということなので、どこかで見るチャンスがあるかもしれない。そして、今回も記事中に京都の家元から栗本軒の号を得たと出てきたのには笑ってしまった。

次は、千代田町史の近世資料編下を書架で探したがあるべき場所になく、また入りこむ隙間もない。別の場所にあるのかとまたさっきの司書さんに聞いたら、研究用としてカウンターに置いてあり、閲覧にも申込書が必要で、コピーにも制限があるという。コピーの場所を書いてもらってからコピーできるかどうか判断するということだった。この本は県立図書館では事務所に準備中となっていて、それでこちらに来たのだけど、閲覧に制限があるために準備中となっていたのだろうか。先に県立で聞いてみれば話が早かったのかもしれない。

その申込書とともに本を渡していただいて、狂歌の項目を見ると、いくつかの狂歌集からの抜粋は壬生連中の歌のみとなっていて、貞国の歌はなかった。麦縁斎貞二六という人が出てきて、しかし師匠格ではないようだ。この壬生狂歌連中は寛政七年までは貞国が指導したが、その後は桃柳斎貞玉が、しかしこの人が文化十年ごろ没したあとは衰退したとある。貞国の歌の部分は載せてなかったけれど、この千代田町壬生の井上家文書にも貞国の歌が眠っている可能性が高いことがわかった。コピーする必要はなく、申込書は閲覧に○をつけて本とともに返却した。

このあと参考閲覧室の書庫から二冊、「迷信の知恵」と「西国大名の文事」を借りて帰った。前者は昆布焼を書いた時に書籍検索したら我が家では「昆布を焼くと貧乏になる」と伝わっているものがこの本では「昆布を焼いて食べると天神様が泣く」となっていて、読んでみたいと思ったのだけど、半ページのその項目に大したことは書いてなかった。他の迷信の本も当たってみないといけないようだ。しかし迷信がたくさん書いてあっても「○○すると病気になる、死ぬ」というものが多くてあまり気持ちの良いものではない。私は紫の矢絣の風呂敷を愛用しているが、「矢ガスリが流行ると戦争が起こる」というのもあった。真似しないでいただきたい。後者は上記の検索結果160件の中にあったもので、たまには違う傾向のものも読んでみたいということで借りてみた。ぱらぱらめくったところでは漢詩漢文が多いようだ。

帰りに展示室でやっていた企画展「広島ゆかりの詩人たち -黒田三郎生誕100年-」を見た。肉筆の色紙など、見どころが多かった。その中に、障子紙のようなものに墨で書かれた詩の中に、三篠川の三文字が目に留まった。大木惇夫「流離抄」という詩で、「雄弁」昭和11年6月号に発表、その後第6詩集「冬刻詩集」に納められ、三滝に碑があるとあった。石碑ということならば探すのは簡単で、広島ぶらり散歩で続きの部分も見ることができた。「われを追ひけど」の部分がこれで良いのかなと思ったけれど、確かにそうなっている。詩の内容のように不安に流されてゆくような筆跡で展示ではラストの「こころなく 楫をとるのみ」の繰り返しの部分が印象に残った。三篠川に関していえば、デルタの入り口から江波まですべて三篠川という認識だったと思われる。三篠川について書く時に引用してみたい。

このあと再びシャレオの古本まつりに寄って、食料品の買い物もあるから広島県史は一冊が限度、Ⅲのお触書が入った巻にした。Ⅱの書状もまだ読んでないけれど、家に置いてすぐ見たいのはⅢかなと思って決めた。バスで広島駅に戻り買い物をして、16時5分の芸備線に間に合った。

12月26日 広島県立図書館「千代田町史」など

2019-12-26 21:12:21 | 図書館
今年は餅つきをどうするか。我が家で餅つきは今までほとんど父がやってきた。そして、いかなるいわれがあるのかわからないが餅つきは早朝に終わるべきものと父は考えているようだ。確かに私が子供の頃はまだ祖父が仕切っていたけれど、朝起きたら餅つきは終わっていた。ここ何年かは父も弱って来て餅つき機の音が聞こえたら起きて手伝うようにはしていた。今年は半年以上の入院を経て、父もさらに弱って声も出ず助けも呼べない。だから餅つきはやめようと言っていたのだけれど、今日になってモチ米を買うと言い出して、もう言い出したら聞かない。私が起きている時にやってくれと言ってみたが、これも良い返事はもらえなかった。毎年遠方の親戚にも広島菜漬などと一緒に餅を送っているのだけれど、今年は大量につくのは無理だからモチ米は例年の半量を買うことで父も納得してくれた。あとは、あん餅にいれるあんこの買い出し、そのついでに今日は昼から図書館に行くことにした。

昼の片づけに手間取っていつもより30分遅れで家を出て下深川駅の階段を登ったところでふり返ったら、家の方向から白煙が上がっている。いや、家よりは南にずれている、そして少し遠方なのを確認して13時11分の芸備線広島行きに乗りこんだ。芸備線は非電化ディーゼルだから電車とは言えず、またこの13時11分は1両のみで列車とも言えない。もちろん汽車でもないから、何に乗ったと書けば良いのか悩む。話を戻して、乗ったらすぐにアナウンスがあって線路の近くで火災が発生して確認に行くから発車が遅れると。そして運転士がタブレットのようなものを持ってホームを中深川方向に歩いて行った。火事は広島方向とは逆であるから、ほっといて発車してくれたらと思うけれど、そうはいかないのだろう。去年7月矢賀戸坂間で線路に人が倒れていた時は車掌がいたけどやはり運転士が線路に降りて確認に行った。今日はワンマンカーであり、また下深川駅は業務委託でJRの社員はいないはずだから他に選択肢はなさそうだ。運転士は思ったより早く帰って来て15分遅れでの発車となった。しかし今日は雨のせいなのか広島駅前からのバスも遅れていて、図書館に入ったのは2時半を過ぎていた。持ち時間は90分弱ということになる。

借りていた新修広島市史の資料編を返却して、まずは大師講関連で「日本の食生活全集34 広島の食事」という本を開架で探して読んだ。芸北、備北地方とも冬季に団子汁を食べる記載はあったが、小豆が入った大師講の団子汁の記述はなかった。次にカウンター2に行って、10月に三篠川問題で相談にのってもらった司書さんに聞いてみたいことがあったのだけど、レファレンスの担当者がその時と違っていて一から説明するのも面倒であるから今日はやめておいた。書庫から出していただいたのは、日本庶民生活史料集成の第2巻 、これには御笹川の記述がある河井繼之助「塵壺」が入っている。該当箇所を読むと、「是を七つに堀り分て」の傍注に「安藝の七川と云由」とあって、三篠川が七つに分かれた、あるいは七つの川を含めた総称とも取れる書き方であった。来年は、この三篠川について書いてみたいのだけど、まだまだわからない事が多すぎる。

そのあと郷土関係の書架から千代田町史の狂歌関連の項を読んだ。貞佐の「千代のかけはし」についての記述があることは蔵書検索の目次からわかっていたが、その続きに貞国の時代の記述もあり、いくつか初見の狂歌集の記述もあった。しかし、その狂歌が収録されている資料編の下巻は準備中となっていて閲覧できなかった。貞国の歌で活字になったものは全部見たかと思っていたけれど、書籍検索にかからないところにまだまだあるようだ。これは一通り読まねばと次に戸河内町史の資料編を見たら戸河内狂歌集(不免氏蔵)に貞国の歌が三首のっていた。参考文献や年譜に書き加える事項が見つかったのは一歩前進だろう。この不免氏の元には狂歌家の風など貞国から伝わったと思われる狂歌集の記載があって、原爆の難を逃れた歌集が貞国の門人の子孫の元にまだまだ残っている可能性があるということだろう。今日はここで4時をまわってしまって、何も借りずに急いで帰途についた。来年どこから手を付けるか、ゆっくり考えたい。



12月14日 広島県立図書館「文政二年高宮郡 国郡志御用につき下調べ書出帳」など

2019-12-14 20:30:48 | 図書館
今日もあまり時間が取れず、2時間弱の滞在だった。まずは郷土関係の書架で新修広島市史の資料編、知新集が入ってる6巻は分量があって今日はじっくり読む時間が無く、また重くて借りて帰るのも難儀なことだ。それより少し薄い7巻をパラパラめくっていたら、阿武山と広島城の回で紹介した郷土史に詳しいブログに出てきた、江波と仁保島の海苔篊(ひび)の境界を定めた史料が目に留まって、こちらを借りることにした。海上から阿武山を見通して境界を定めた部分は、

「此度相改六番之八重篊西袖之鼻ゟ潟上之江眞直ニ見通し、向沼田郡八木村之内蝱山峠を著ニ相刺、夫ゟ西手ハ明潟ニ取斗置、双方役人共立會之上少しも刺越申間敷候事」(郡方諸御用跡控、天保三年)

とある。なぜかこれがスッと目に入ったことで他にどんな史料が入っているかまだよく見ていないけれども、家でじっくり読んでみたい。そのあとカウンター2に行って書庫から3冊出していただいた。インフルエンザの時期でもあり、司書さんがマスクをされていた。3冊の内訳は、

「国郡志御用二付下調帳  吉田村之部」
「文政二年高宮郡 国郡志御用につき下調べ書出帳」
「文政三年高宮郡 国郡志御用郡辻書上帳 」

似たような本だが目的が違っていて、吉田村は高田郡誌にあった大師講の俗説について、高宮郡は今の三篠川についての記述を見るためであった。吉田村については、この下調帳を高田郡誌が引用したのかと思ったら、下調帳は高田郡誌よりもずっと平易な文章である。小豆の団子汁の具について、高田郡誌では蘿匐蕪菁とあるのをそれより古い下調帳は蕪大根と書いている。これはひょっとすると原文ではないのかもしれない。今日は他の本をあたる時間がなくて解明はまた次回になってしまった。

高宮郡の二冊を読んだところ、地図も本文も今の三篠川は三田川とあって、深川の三村の項でも後年の深川川みたいな表記は無かった。これをどう考えたらいいのか。また、文政二年の本には、中深川村の条に阿武山関連で香川勝雄の短刀と杯の記述があった。

「一、香川勝雄ノ短刀 但長九寸五分 銘正家 一腰
  虻山大蛇退治ノ節頭ヲ刺シ候由申伝候

 一、右同人所持 盃一木皿二枚
  右同断退治ノ後祝ニ用ヒ候由申伝候」

これは前には所有の田畑屋敷などが書かれていて続きが私にはよくわからないのだけど、蛇落地の記述がある「黄鳥の笛」には、祝宴で勝雄が主君より賜った盃は亀崎神社の久都内氏蔵とあった。するとこれは亀崎八幡社の所有物だろうか。

関係箇所をコピーした後、帰る前に加計町史の水運のところを読んだ。貞国が加計に行くのに舟で行ったという可能性はあったのか気になった。すると、下りは一日で、急流を抜けた可部からは帆を張って進んだとあるが、上りは一泊必要で、しかも上流の急流は応援が必要だったとある。それにどうやら人じゃなくて荷を運ぶのでやっとこさのような書き方だ。貞国は徒歩で行ったと考えるのが自然だろうか。そして、太田川の名前について書いた項に、ちょっとヒントになる一文があった。正確にメモしなかったが、目の前の川を太田川と呼ぶ人はいなくて、太田川と言うのは役人と議員ぐらいのものだと書いてあった。なるほど、狭い地域に暮らして一本の川しか関りがなければ、川の名は必要ないのかもしれない。すると、三田川も同じような事だろう。それまで川の名前など気にしたこともなかったのに、書物に三田川と書いてあるのを見て、深川村の人が残念に思って深川川なる呼び方を提唱したということも考えられる。明治30年代、役所が三篠川という呼称をデルタ付近から支流に移した時も、気に留める人は少なかったのかもしれない。そうだとすると、河川名変更の痕跡を探すのは増々困難ということになるのだけど、どこかに残っていそうなものだ。気長に探してみたい。



10月24日 広島県立図書館 「広島県報」など

2019-10-27 16:19:56 | 図書館
 今日はまず父が入院していた県病院で保険会社に出す診断書を受け取って、路面電車で県立図書館へ。借りていた4冊を返却してから予定していた広島県報の明治30年を書庫から出してもらうようお願いした。これは江戸時代、太田川本流の雅名であった三篠川が、今は安佐北区や安芸高田市を流れる支流の名に付け替わったいきさつを調べるうちに、明治29年の河川法が怪しいのではないかと思い、そのあたりの広島県の公文書を読んでみたいと思った。

 この旧河川法に注目したのには理由がある。以前、沼高郡の回では、沼田郡と高宮郡が合併する時に一文字ずつとって沼高郡とする法律案が提出されたが、安佐郡に修正の上可決という帝国議会の委員会会議録を読んだ。修正の理由は議事録にはないが、風土記の時代の郡名に復古せよという幕命により、廃止されていた沼田郡と高宮郡を元とは違う場所に置き換えた経緯があって、他所から持ってきた地名から一文字取るのを嫌う地元の意向があって郡名復古の前の郡名から採ったのではないかと推測した。今回、三篠川の件でも、古くは白島や横川のあたりの太田川本流を三篠川と呼んでいたのに、今は何故か安芸高田市や安佐北区を流れる支流の名前に置き換わっている。どうも同じお役所仕事の匂いがする。おそらく中央政府から河川名を確定するよう言われてこうなったのではないか。そう考えた時に明治29年の旧河川法の前後をまず当たってみようということになった。これは結論から言うと見当外れであったのだけど、図書館を訪れた時はまだ気づいていなかった。

話を広島県報に戻す。昨夜、広島県報で検索したところ以前の蔵書検索では引っかからなかった告示、訓令、県令という資料が1年ごとに出てくる。よくわからないけれど、告示というのには河川名変更とかあるかもしれない。そこで明治30年の広島県報と告示をカウンター2でお願いした。告示は8月までと9月以降と2冊に分かれていて3冊ということになる。ところが、書庫から持って来ていただいた中に広島県報はなく代わりに県令の明治30年があった。これになりますと言われて私が怪訝な顔をしたからだろうか、読んでいる間にもう一度確認してみると言われた。席で開いてみると告示も県令も公文書の原本をコピーしたものであった。すると広島県報を告示、訓令、県令の三つにわけてコピー製本したものだろうか。目次がついていて、河川に関わるものが無いことはすぐにわかった。橋梁の項目はあっても、両端の住所だけで川の名前は書いてない。そのうちに司書さんが戻って来て、広島県報の原本は痛みがひどいから出せないとのことで予想通りだった。こちらは別にコピーでも構わない。しかしこれを見ていく以外、三篠川にたどり着く方法はないものだろうか。ついでに司書さんに川の名前を探しているのだけど・・・とぶつぶつ言ってしまったら、あちらで相談されたら、と言われて相談コーナーへ。こういうものは自力で探すから面白いと思っていたのだけれど、素敵な司書さんが担当だったのでついふらふら相談の椅子に座ってしまった。私はもとより知的な女性に弱い上に、カウンター2の司書さんは皆さんメガネがとっても良く似合っていて・・・と書き出したら怪しいブログになってしまうのでやめておこう。

 まずは、これまで調べてきたあらましを司書さんに話した。太田川本流における本川vs三篠川の用例、今の三篠川は村ごとに長田川、三田川、深川川の呼称があったが江戸時代は三田川が多く、明治に入って深川川も見られて政治的な綱引きがあったのかもしれないということ。太田川も古くは大田川が多いということ等を、こういう機会があるとは思ってないから断片的になってしまったがお話した。

 すると司書さんは明治だと検索では出てこないからと昔の図書館にあったようなカードを繰って何冊か出していただいたが、三篠川というキーワードでは広島城下から向原まで、水運が太田川より盛んであったという記述がたくさん出てきた。私が探している支流の名前が三篠川になったきっかけは見つからない。いや、私も一通り調べたのだから、そう簡単に出て来ては困る。しかし、司書さんに話したことで、自説の盲点というか、整理がついてない所が良く分かった。

 江戸時代、広島城あたりの太田川を三篠川と呼んでいたのは武家が多いように思われる。一方、相生橋までが三篠川で下流は本川のように思えたり、詩歌に気取って詠む時に三篠川を使ったようにも見える。まだ、用例集めが不十分でどれと断定はできない。しかしこれを一言で言うなら武家のテリトリーで三篠川と呼んでいた、で大体説明がつくのではないかと思う。その三篠川をデルタから切り離して山奥に押しやるというのは相当ブーイングもあったのではないかと推測できる。一方、三篠川がやってきた支流の側でも、明治になって深川川という川が二つ重なった一見気持ちの悪い呼び名が出てきて、こちらも一本化となると簡単にはいかなかったのではないかと思われる。すると、中央政府から河川名を確定するように言われたとしても、そう簡単に決着しなかったのではないか。そして、まずデルタの七つの川の名が確定してから、あぶれた三篠川が別の所へという順序ならば、明治30年よりもっと後を探さないといけないのではないだろうか。

司書さんと話したことで、そういった考えが頭をかけめぐった。司書さんからも、広島県報をつぶしていくのは最後の手段で、まずは広島県史などの通史から攻めた方が良いのではないかというアドバイスがあった。手掛かりは見つからなかったけれど、司書さんと話した時間は貴重だった。やはり、一人だと視野が狭くなる。自説を伝えようとしたことで、うまく説明できない所がよく分かった。そういえば正月に聖光寺の狂歌碑を訪れた時に、栗本軒貞国というこのブログで散々書いて来た狂歌師の名をそれまで一度も声に出して言ったことがなく自信がなかったためにお寺の人に歌碑の場所を聞くのをためらってしまったということがあった。これまで調べてきたことを声に出してお話しできたこと、時間をとっていただいた司書さんに感謝したい。

家に帰ってからも色々なアプローチが頭に浮かんでその晩は眠れなかった。まずは国会図書館デジタルコレクションの広島県関連の文献からもう一度と見ていたら、太田川に河川法が施行されたのはずっと後の昭和3年というのを見つけた。一度河川法を離れて、範囲を明治40年代にも広げて探さないといけないようだ。トンチンカンな自説をぶつけてしまった司書さんには次回お詫びを言わないといけないかな。それでも、三篠川という川の名が移動したことについて、必ずどこかにきっかけがあり、痕跡が残っているはずだ。ふりだしに戻った感じはあるけれど、もうちょっと探してみたい。




以下は国会図書館デジタルコレクションの参考文献(随時追加予定)

明治11年 広島県治提要  広島県 「大田川 三笹川(市内七川)」

明治13年 高宮郡地誌略  「太田川 三田川」

明治14年 広島県統計書. 明治14年  広島県 「大田川 三田川」

明治15年 広島県管内地理  「太田川 本川(一に猫屋川) 深川川」

明治15年 西南諸港報告書  「太田川 本川」

明治20年 官報 「大田川ニ産スル鮎魚」

明治22年 広島県統計書. 明治22年  広島県 「大田川 三田川」

明治23年 新撰広島県管内地理  「大田川 三田川」

明治23年 広島県治一斑. 明治23年  広島県 「大田川」

明治23年 広島県統計書. 明治23年  広島県 「大田川 三田川」

明治24年 広島県統計書. 明治24年  広島県 「大田川 三田川」

明治24年 広島県治一斑. 明治24年  広島県 「太田川」

明治26年 広島県管内地理  「大田川 長田川」

明治26年 広島県地理大要  「太田川 三田川 長田川」

明治28年 広島県地理. 師範学校用  「大田川 三田川」

明治28年 広島県地誌  「大田川 深川川 上流ヲ三田川」

明治29年 広島県地理  「大田川 太田川 三田川」

明治30年 広島県地理. 小学校用  「大田川 三田川」

明治30年 広島県統計書. 明治30年  広島県 「太田川 三田川」

明治31年 広島県統計書. 明治31年  広島県 「太田川 三田川」

明治32年 広島県統計書. 明治32年  広島県 「太田川 三田川」

明治32年 地方分轄地図  「大田川 深川川 三田川 長田川」

明治32年 広島県地理  「大田川 三田川」

明治33年 広島県地理歴史管内唱歌  「太田川」

明治34年 高田郡地理歴史大要  「三田川」 「深川川ノ上流」

明治35年 廣島市街地圖 明治三十五年新版  「太田川 本川」

明治37年 広島県年報. 明治37年  「太田川 三篠川」

明治38年 広島みやげ : 附・安芸の宮島  「太田川 猫屋川」

      同上 「三篠の支流が更に元安、本川の両派に岐るゝ所」

明治40年 広島県年報. 明治40年  広島県 「太田川 三篠川」

明治40年 新撰日本分轄地図  「大田川 深川川 三田川 長田川」

明治42年 袖珍日本新地図  「太田川 猫屋川」

明治43年 郷土広島県地理表解  「太田川 深川川」

明治43年 広島県案内  「大田川 三田川 本川」

明治44年 安佐郡報郡勢一班. 第17号 安佐郡 「太田川 三篠川」

大正元年 広島県小誌  「大田川 三田川 本川」

大正2年 高田郡誌  高田郡 「大田川 三篠川」

大正2年 広島案内記 : 附・広島附近名勝誌、厳島名勝案内、広島商工人名録  「三篠川の流城西の地に来りて、中島の一角にて東西に別たる、東なるを元安川と呼び西なるを本川又は猫屋川と称せり」

大正3年 広島県統計書. 大正3年1編  広島県 「太田川 三篠川」


大正10年 広島県史. 第1編  広島県編 「大田川 三篠川」

大正14年 広島市統計年表. 大正14年  広島市編 「太田川(白島→江波吉島)」

昭和3年 官報. 1928年11月21日  太田川に河川法施行

昭和5年 最新広島市街地番入地図 : 附・市内及近郊名所案内  「太田川(相生橋)本川・元安川」

昭和7年 本校郷土教育と郷土読本  「大田川」


ここまで目を通して下さる方はあまりいらっしゃらないとは思うが、以下は太田川本流を三篠川と呼んでいた(今でも基町と別院の間を流れる太田川を三篠川と呼ぶ方はいらっしゃるのだけど)用例を。この他、「校歌 三篠」で検索すると結構出てくるが、校歌の中の三篠川は修道や国泰寺の応援歌のように本川に限らず、そして広島二中の校歌に出てくるところをみるとデルタ河口付近までを含んでいるように思われる。

大正6年序 昭和3年追記 自慢白島年中行事  
「また舟にのりて二またとかいへる所より、みさゝ河にさし下す
   人の世にたとへてそ見る棹さしてのほれはやかて下す河舟
三篠川といひけるは、大田本流の一名なり」

「広島の町始とかや、その時分白島の地名を箱島といひしが、其頃よりあやまりて白島といふなり、其誤といふは一本木。九軒町両白島を見わたせば、二方に三篠川流たり、西南堀をほりしかば、箱の角のごとくみえたり、此故に箱島と名つけしとなり、」

「此の間、或は杏坪と国泰寺に遊びて精進料理を味ひ、或は王香等と舟を泛べて三篠川に遊び」

「杏坪辞職の後は、一子采真の白島の邸に在り、尋いで真鴨に移り、其舎を三休亭と名づけ、時としては舟を三篠川に浮べ、時としては歩を牛山園に移し」

「あはれ三篠川の流れ。肱山の嵐。我顔を覚え居るやと。問はんとすれば。兀げて虎に似たりし肱山も。今は肥えて緑の衣に包まる。」

大正8年 三篠商工案内 
「東境を為す三篠川は、廣島市内を流るゝ各支流と、舟行容易なるを以て、」

大正年間 広島長寿園ヨリ三篠川ヲ望ム(絵葉書)

大正年間 広島三篠川清流〔別院裏〕(絵葉書)

大正年間 広島名所図絵 三篠川の清流(絵葉書)

大正年間 広島三篠川〔字寺裏〕(絵葉書)

これはどのあたりなのか、お城の石垣が写っている。

「昭和十八年 デルタ ガンギ」

10月5日 広島県立図書館「オイディプス王」など

2019-10-12 09:59:54 | 図書館
 父の退院が7日の月曜日に決まった。父が入院している病院から図書館までは路面電車で電停4つ分、歩いても30分かからない距離なのに心の余裕がなくて中々行けなかった。今日は退院二日前ということで持って帰る荷物もあったのだけど、久しぶりに図書館に寄ってみることにした。

 まず気になっていたのは、県立図書館のツイッターで見たおすすめの本ソポクレス「オイディプス王」これはいつもコピーでお世話になっているNさんのおすすめになっていることもあり借りて帰った。最近狂歌ばかり読んでいたから、新鮮で面白かった。二十年前たった一度の海外旅行でモローのサロメを見たのがきっかけでワイルドの戯曲を読んだ時の事を思い出した。時間があれば、もっとこのあたりのお話を読んでみたいと思った。それから、訳者の藤沢令夫先生は学生時代に講義を受けたことがある。なにしろ四十年近く前で記憶が曖昧だけど、難解なテキストだったような気がする。

 それから父のために介護食と食道発声法の本、後者は専門的でわかりにくかった。やはり発声の教室みたいなところに通わないと難しいということだろうが、父の場合そこまでの移動が難しい。

 久しぶりに上方狂歌も借りて帰った。しかし、父の介護もあって中々進まない。集中力が一度途切れると難しい。読書の時間をどうやって確保するか、今はオイディプス王のようにストーリーがある物の方が良いのかもしれない。 
 

3月8日 広島県立図書館「芸備先哲伝」など

2019-03-08 19:04:10 | 図書館

 調べ始めて半年、そろそろ貞国の鳥喰の歌について書きたい。国会図書館の厳島図会、国立公文書館の厳島道芝記の該当部分を書き出してみたけれど、読みに自信がない箇所がある。舌先の時も間違っていたし、まずは活字になっている本から該当部分をコピーする予定であった。ところがカウンター2に行く途中、郷土資料の書架に寄った時に気が変わって、両書も入っている「宮島町史 資料編・地誌紀行 」を借りて家でじっくり読んでみることにした。もっとも先に借りたのは失敗でとても重かった。

 次に前回見落としがあった「広島県山県郡史の研究」と、見落とし部分は別のもう一冊かと思って「広島縣山県郡史之研究 草稿・原稿・校正刷・本印刷・著述雑書綴」を書庫から出していただいたら、後者はミカン箱ぐらいの箱を司書さんが開けたら茶色く変色した資料がぎっしりつまっていた。これは私の手に余るもので2時間ぐらいの滞在ではどうにもならない。私がやめときますと言うのと、司書の方がこれはちょっと出せないかもしれないと言われたのがほぼ同時であった。帰ってもう一度検索したらページ数・大きさのところに2組30×43cm(箱),31cm(箱)」と書いてあって、これを確認してなかったのがいけなかった。せっかく重い資料を持ってきていただいたのに申し訳ないことだった。しかし、ちょっと玉手箱をあけた気分で貴重な経験だったとも思う。一冊ぐらい手に取らせてとお願いしてみるべきだっただろうか。

 気を取り直して、「広島県山県郡史の研究」を読む。前回は吉水園のところに貞国の歌を見つけてそれで満足してしまったのが敗因で、文化を記述した箇所に未知の貞国の歌四首がのっていた。加計に狂歌の指導に行く道中の歌二首と、文化七年都志見村駒ヶ瀧での歌二首、出典は「都谷村 石川淺之助氏所蔵古文書」とある。都志見村は明治の大合併で都谷村となり、昭和には豊平町、今は北広島町都志見という地名になっている。帰って駒ヶ滝の場所を確認したら、昔、豊平のどんぐり村に蕎麦食いに行ったついでに歩いたことがある場所だと思うのだけれど、写真も撮ってなくて確実ではない。この滝で詠んだ貞国の二首目、


  きぎの葉もちりつるてんとたまらぬや 三味とむの胸のたきのしらいと


四句はこれで良いのかどうか、原典を見てみたいものだ。

次は「広島県人名事典 芸備先哲伝」を書庫から出していただいて栗本軒貞国の項を読んだ。狂歌の号を京都の家元より受けたという例のフレーズに続いて、聖光寺の辞世の歌、しかし、散るや残るを漢字で書いてなくて現物を見て写し取ったものではなく、尚古と同じように「人さへも」の「も」が欠落している。続く六首の引用は尚古と同じ歌ながらやはり漢字の使い方が違っていて、これは五日市町誌と同じ表記になっている。ということは、芸備先哲伝の辞世を含む七首は尚古から漢字の表記にはこだわらずに引用したもので、それを五日市町誌がそのまま引用したということだろうか。辞世の表記の仕方を見る限り、漢字は自分流に書いたもので別資料の存在は期待できないようだ。また同様に、京都の家元云々や八十七歳没も尚古からの引用と思われる。

先哲伝の貞国の項目のコピーをお願いしたら、担当の新人?司書さんが別の司書さんに判断を仰ぐ場面があった。「大丈夫」の声が聞こえてコピーできたけれど、帰って調べたら事典の項目一つだけでも独立した著作物であるという判例があるようだ。図書館でのコピーは著作物の一部、本文の半分以下という原則からすると、なるほど問題があるのかもしれない。それなら何故大丈夫だったのか。「複製物の写り込みに関するガイドライン」(pdfファイル)これによって救済されたということだろうか。貞国の項目はコピー1枚だけであったが、もし2枚以上だったなら全体は無理とか言われたのだろうか、こういう規則の解釈は苦手である。

先哲伝のついでに「安古市町誌」と「安佐郡誌」も書庫から出していただいた。これは尚古にあった貞国の歌にある古市の名物餅について手掛かりがないかと探したのだけれど、見つけることはできなかった。

今回は宮島町史がとにかく重くて、江戸狂歌はお休みして上方狂歌だけ、計二冊を借りて帰った。花粉で目がアレなのだけれど、宮島町史資料編を三週間かけて読んでみたい。


2月16日 広島県立図書館「山県郡史の研究」など

2019-02-16 20:18:21 | 図書館

 今日は午前中に父の退院の荷物持ちで県病院に行って一度安佐北区の自宅に戻って午後からまた県立図書館という効率の悪い移動になってしまった。父の入院中もチャンスがあるだろうと借りた2冊は持ち歩いていたのだけど、心に余裕がなくてちょっと図書館という気分になれなかった。したがって、いつものようにはどの本を読むか準備ができていなかった。

 それでまずは、書籍検索でヒットしたうちまだ読めていなかった「山県郡史の研究」と祝福芸の台本がのっている「大衆芸能資料集成第1巻」の2冊を書庫から出していただいた。山県郡史の研究の方は、予想通り加計町史や日本庭園史大系と同じ吉水亭での貞国の歌二首、しかし詞書に続いた作者名が「栗の本の貞国」とあった。うちの爺様の掛け軸にある「栗のもとの貞国」は他の文献に中々出てこなかったが、ここで初めて同様の表記が確認できたことになる。もっとも同じ歌を載せている加計町史や日本庭園史大系にこの記述はなく、そこは気になるところだ。そして、帰って書籍検索をもう一度したら狂歌の指導云々とこの二首とは違う場面の記述になっていて、そこは見落としてしまったようだ。もう一度この本を当たってみないといけない。

 大衆芸能資料集成の方は貞国の歌の語句から「毘沙門の鎧兜」で書籍検索したところ越前萬歳の七福神という歌謡が引っかかったもので、これは七福神がおめでたいというよりは、かなり下ネタ的な笑いを取る内容になっていた。爺様の掛け軸の絵が祝福芸ではないかという指摘もあり、この本は借りて帰ることにした。

 次にラーメンの語源の回で出てきたワンタン屋台の話に興味を引かれて、「日本めん食文化の一三〇〇年」を書架から手に取ってみた。ラーメンの語源は大正十二年の札幌と断言してあり、しかしそこからラーメンという言葉が広まったという根拠は書いてないように思えた。ここで気になったのはワンタンの屋台が大流行したのは関東大震災の後という記述で、震災の影響が少なからずあったようだ。これもソースが書かれていなくて調べてみる必要があるけれど、ありそうな話のように思える。また、チャーシューワンタンの話が出てくる太宰治の「葉」の解説が載っている「太宰治研究16」も借りて帰った。しかし解説を読んでも「葉」はとっても難解である。

 いつものように上方狂歌と江戸狂歌を一冊ずつ、計四冊借りて帰った。祝福芸が量があって三週間で読めるかどうか。それから芸備先哲伝を読むのをまた忘れてしまった。次回はまずこれを読もう


1月30日、広島県立図書館「加計町史」など

2019-01-30 18:41:20 | 図書館

 今日は前回の続き、グーグル書籍検索で出てきた栗本軒貞国の記述のある本、といっても残りは少ない。まず書庫から加計町史と日本庭園史大系24巻の二冊を出していただいた。どちらも文化年間に吉水園を貞国が訪れて狂歌二首を詠んだという「吉水録」からの引用で、加計町史はこれに加えて「龍孫亭書画帳」に貞国が記帳した歌一首も載せている。吉水録から一首紹介すると、

 

  又も世にたくひはあらしものすきのきつすい亭の山川の景

 

物好きは生粋の縁語だろうか。私も加計の吉水園には一度だけ行ったことがあって、「よしみずえん」と読むのは知っている。しかし、その中の吉水亭の読み方がこれで合ってるかどうかわからなくて帰って調べたら、ひろしま文化大百科には確かに「きっすいてい」とあった。吉水園の歴史を読むと、貞国が師匠と呼ばれるようになった頃だろうか、吉水園は天明の初めに完成した庭園で、その後文化四年までに三度の改修を経て今の形になったと書いてある。貞国が見たのは私が見たのとほぼ変わらない景色だったようだ。

これで貞国が地元で狂歌を詠んだ場所としては、厳島、大野、保井田、己斐、古市、そして加計と少しずつ集まって来た。しかし、貞国が住んでいた広島城下の地名が入った歌はほとんどなく、詞書に水主町の住吉神社が出てくるぐらいだ。これは原爆でとすぐに考えてしまうけれども、どこかに残ってないものだろうか。

日本庭園史大系の方は1ページに触れただけだったが、庭園の来遊者の資料に貞国が出ていたのは驚きだった。簡単に検索で出てくる書物はほぼ読み終えて、これからはこういう書物を探っていく必要があるのだろう。

次は「柳井市史 各論編」、これは国会図書館デジタルの図書館通信にあった。カウンター2で頼んでPCの席へ案内してもらった。図書館送信の制限がついたのが見れるというだけで、操作は家でインターネット公開の図書を見るのと同じであった。ところが内容は、柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」に出ていた貞律入門時にそば粉を贈られた時の贈答歌しか載っていなかった。この貞律という人は系譜でいうと貞国の三代あと、貞柳から数えて六世だけど、最初は貞国の門下、後に五世貞一門下とあった。栗陰軒の本を読んだ昨年9月の時点では狂歌について全くの初心者でよくわからずに読んでいたところがあった。近世上方狂歌の研究とあわせて、もう一度読んでみないといけないのだろう。

一時間の持ち時間なのに一瞬で終わってしまって、もったいない?から厳島道芝記の活字の本の大頭神社の項を読んだ。和綴じの本を読んだ時のノートと比べながら、まあこれは時間つぶしみたいなもんだった。上方狂歌は5巻、江戸狂歌は10巻を借りて帰った。

帰りは御幸橋を渡って川沿いを少し歩いた。阿武山が見えないかと思ったのだけど、御幸橋からは見えず、少し上流に歩いたところでビルの間に見えた山は帰って方角を調べたら阿武山ではなくて武田山のような気もする。

宇品から船にのって阿武山を眺めたいとずっと考えていて、予備知識としてどんな感じに見えるか知っておきたかったのだけど、これは空振りだったようだ。まずは、宮島と原爆ドームを結ぶ航路の方がいいのかもしれない。

庭園史のところにも書いたように、ここから新たに貞国の歌を見つけるのは簡単ではなさそうだ。阿武山や三篠川などを調べながら、ぼちぼちやっていきたい。

 

 


1月12日 広島県立図書館「沼田町史」など

2019-01-13 10:16:10 | 図書館

 夜に飲み会があって土曜日5時の閉館時間までいられるから、いつもより少し余裕がある。グーグルの書籍検索で出てきたものを時間の許す限りつぶしていく作戦だ。

まずは、郷土史の書架にある本から攻めることにして、「広島県史 近世2」、グーグル書籍検索では別鴉郷連中の記述が見えて期待したのだけど、この出典は大野町誌であった。聖光寺の辞世歌碑を建てた京都の門人360人も出典は尚古となっていて、中々原資料にたどりつけない。しかし新たな発見もあって、ネットで出てくる保井田薬師の貞国の歌は、「五日市町誌」に記述があることがわかった。

その五日市町誌上巻をみると、「芸陽佐伯郡保井田邑薬師堂略縁起並八景狂歌」(文政十二年)の全文の記載があり、八景狂歌は地域の門人による八首のあとに師匠の貞風と貞国の歌があった。驚いたことに、五日市町誌の解説に貞風は柳門四世と書いてある。周防国玖珂の貞六が柳門四世を称したことは前に書いたが、広島にも四世を名乗る門人がいたことになる。この五日市町誌上巻の狂歌の記述は8ページ余りに及び、「柳門正統第三世栗本軒貞国」と署名した「ゆるしぶみ」の写真や、大野町誌に写真があった狂歌誓約の翻刻など、じっくり見たい箇所が多く比較的薄い本で荷にならないこともあり借りて帰ることにした。

次は「沼田町史」、伴村出身の医師、岡本泰祐は大和国十市郡今井村(現橿原市)で開業していて、日記に大野村の大島氏などからの書状が届いた記述があり、門人の冠字披露時の貞国の歌(天保三年)の記載がある。また、

「天保四年八月九日の条には、「天満屋伝兵衛来る、鰯を恵む、芸州大野村大島屋書状を持来る、卯月八日認め、(中略)栗本軒貞国翁二月廿三日病死之事報来る」とある。」

京都の門人が建てたという聖光寺の辞世歌碑にもこの日付があり、また八十七歳没説の元と思われる「尚古」参年四号の記述は戒名もあることから過去帳などからの引用が考えられ、そしてこの岡本泰祐日記の記述を見ても、貞国が天保四年(1833)二月二十三日に没したのは間違いないことと思われる。このときの年齢は辞世歌碑の八十と尚古の八十七と二説が存在している。いずれにせよ、「狂歌秋の花」に登場する芸州広島の竹尊舎貞国なる人物は、貞佐の門人、しかも狂歌秋の花で貞柳の十三回忌(1746年)に追悼歌を残しているのは一部の門人だけで、そのような重要人物ではあるけれども、時代が合わないため栗本軒貞国とは別人ということになる。同じ貞佐の門人でこのように同じ号というのは、二人の貞国の間に何か縁があったのかどうか、今のところ手掛かりはない。

ここで郷土史の書架を離れ、書庫から内海文化研究紀要(広島大学文学部内海文化研究室 編)の11号から14号を出してもらった。グーグルの書籍検索では11から14までとなぜか絞れてなくて、4冊出してもらったが、狂歌の論文は11号にあった。永井氏蔵の屏風に張り付けられた貞国の歌二首の写真があり、うち短冊の一首は「狂歌家の風」にもある「寄張抜恋」と題する歌で、上に題、左下に貞国、そして一句を三行に分けて五段に書いた書式が聖光寺の辞世歌碑と全く同じで、あの見上げるような縦長の石碑は短冊をそのまま写したもののようだ。

この写真をコピーしたところで4時半を過ぎ、上記五日市町誌上巻に加えて、上方狂歌の四巻と江戸狂歌の十一巻を借りて帰った。

いつもはここでおしまいだけど、ちょっと続きがある。まだ飲み会まで時間があるので、シャレオでやってる古本市をのぞいてみようと路面電車で紙屋町に移動した。そしたらまだ明るくて、古本市の前にパセーラ6階、北の阿武山方向が見えるというテラスみたいなとこに行ってみた。今調べたらスカイパティオという名前がついた場所のようだ。そして、確かに広島城、の向こう、基町白島の高層住宅群の上に、権現山(左)と阿武山が見える。

 

前に書いた広島城と阿武山の話で、真北ではなくやや西にずれた阿武山山頂と広島城を結んで、城下の朱雀大路としたという論文を読んだ。しかしここから眺めた限りでは、お堀のラインを延長していくと、阿武山山頂ではなく二つめか三つ目のごぶに当たるように思える。まっすぐライン上に立ってないから不正確でもあるし、当時の道はまた違ったのかもしれないけれど。

古本市をやってるシャレオ中央広場は紙屋町交差点の真下ということもあり、時折頭上をガタガタと路面電車が通過する音が気になった。私は疑り深い性格で、広島の三セクといえば軒並みアレだから天井が抜けて電車が落ちて来ることはないという確信が持てないのだ。それはともかく、ここでも郷土史関連の本を中心に探していくと、厳島図会や厳島道芝記を活字化した本を見つけた。これは合わせても三千円で欲しかったけれど、先ほど借りた三冊がずしりと重く、さらにこれを持って飲み会にいくのも難儀なのでやめておいた。厳島図会の舌先で引用した部分を見たら一か所漢字の間違いがあって、帰ってすぐに訂正した。やはり活字化した本はありがたいものだ。

「広島胡子神社由緒」という本があり、気になる原爆のあたりを読んだら、えびす講の回で書いた御神体の像はやはり原爆で失われていた。そして、胡子神社の方も、この像は大江広元という認識だったようだ。

もうひとつ、「廣島軍津浦輪物語」の中の己斐の地名に「才ケ谷」とあり、狂歌家の風の詞書に「城西甲斐村さいか谷」とあるのは、己斐村才ケ谷が有力になってきた。漢字がわかったことで、地図から見つけることができた。もっと山奥かと思ったら太田川に近い場所だった。己斐橋から少し上流、キリシタン殉教碑があるあたりの谷筋、女子高の周辺だろうか。虫メガネもってウロウロしてたら通報されるかもしれない。これはもう少し調べてから書いてみたい。

今回はたくさん収穫があったけれど、まだ全部消化できていない。腰を落ち着けてひとつずつ調べてみたい。