阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

栗本軒貞国の生没年

2020-01-27 11:33:35 | 栗本軒貞国
貞国の生没年は、年表などにこれまで何度か書いて来たけれど、ここで一度根拠を整理しておこう。

文献中に貞国の死が出てくるのは、伴村出身の医師で大和国で開業していた岡本泰祐の日記の天保四年(1833)八月九日の条に、

天満屋伝兵衛来る、鰯を恵む、芸州大野村大島屋書状を持来る、卯月八日認め、(中略)栗本軒貞国翁二月廿三日病死之事報来る (「沼田町史」の記述による)

「大野町誌」に名前が出てくる大島貞蛙は、大野村で貞国を師匠として活動した狂歌連「別鴉郷連中」の主要人物で、大島家文書には貞国の歌が多数伝わっている。そこからの書状ということになる。

また、尾長村(現東区山根町)の瑞川寺(現聖光寺)に門人が建てた辞世狂歌碑の左側面には、

天保四癸巳年二月二十三日没」 

また右側面には、

行年八十翁」 

とあり、岡本泰祐日記と同じ天保四年二月二十三日に八十歳で没したということになる。




次に没年齢が八十七歳のものを見ておこう。「廣島縣内諸家名家墓所一覽」には、

栗本軒貞國墓 (狂歌)称苫屋弥三兵衛       同市天神町
        天保四年二月廿三日歿年八十七      教念寺

とある。この本は出版年がわからないが、明治初年までの命日の記載がある。

また「尚古」参年第四号(明治41年) 「名家墳墓」 には、

     (百五十六) 栗本軒貞國
苫屋彌三兵衛と稱し廣島水主町に住す狂歌に巧妙なるを以て栗本軒貞國の號は京都狂歌の家元より受けたるものなりとぞ天保四年二月二十三日歿す年八十七本譽快樂貞國良安信士と謚し天神町教念寺に葬る墓石表面に合塔の二字を刻し両側面には文化八年閏二月七日とあるのみ蓋し其祖先の歿年月を記したるものなり (以上倉田毎允報)

栗本軒の軒号を貞国に与えたのは堂上歌人の芝山持豊卿であって、京都狂歌の家元とあるのは誤解であるが、この一文は芸備先哲伝を経由して様々な郷土史の通史に引用されている。この一文は「とぞ」で終わっているから伝聞情報なのだろう。ここで注目されるのは、お墓は先祖の墓で貞国の没年は刻まれていないとしながらも、命日や戒名を記していて、教念寺で過去帳のようなものを見て書いた可能性がある。すると、上の門人による命日とは別の出どころからの記述という事になり、両者で一致している天保四年二月二十三日という命日は信頼して良いのではないかと思う。八十と八十七と分かれている没年齢はどちらとも決め難い。この二説から生年を逆算すると、八十歳没だと宝暦四年(1754)、八十七歳没の場合は延享四年(1747)となる。

すると、「狂歌秋の風」に出てくる芸州広島の竹尊舎貞国の貞柳十三回忌追善の歌(延享三年)は貞国が生まれる前ということになり、別人ということになる。同じ桃縁斎貞佐の広島の門人、そしてこの追善歌は狂歌秋の風の中でも一部の門人だけが詠んでいて、竹尊舎貞国は貞佐の重要な門人であったと思われる。それと同じ号を使うということは、二人の貞国の間に何か縁があったのだろうか。このあたりの前後関係は、年表にまとめてあるので、そちらも御覧いただきたい。

それに関連して、福井貞国の貞国というのは柳門の貞の字を許された号のはずで、また苫屋彌三兵衛というのは屋号である。貞国の本当の名前というのはまだ見たことがない。「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」には道化という号も出てくるのだけど、これも文献では見たことがない。しかし、文書に押された印にはそう読めそうなものもある。

貞国のお墓があった教念寺は天神町というから今の平和公園のあたり、上記の過去帳については悲観的に考えていたけれど、天神町の被爆状況の中に教念寺は原爆投下までに建物疎開していたとの記述があった。ひょっとしたらこの過去帳は無事だったかもしれない。中区羽衣町にある同名のお寺に、機会があればお伺いしてみたいと思っている。




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