阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

可部に耳あり

2022-08-25 22:37:45 | 狂歌鑑賞
可部の町は私の家からは徒歩圏内で、安佐北区では一番の賑わいのある場所である。広島から出雲に抜ける街道の途中にあり、太田川の水運の拠点でもあった。また、戦国時代には鋳物造りが始まって今に続いている。それから私事ながら、愛飲している旭鳳酒造は可部の地酒である。今回はその可部にまつわる狂歌を、まずは元文二年(1737)「狂歌戎の鯛」という歌集から、福王寺の寺宝、さざれ石を題材にした歌を引用してみよう。


    加部町福王寺碝石物語を見れは
    いにしへ千里の浜にあり業平卿
    もて遊ひ給しと也

                  同国正佐

  かべに耳あれはこそ聞碝石千里の浜も爰にありはら


正佐は貞佐の門人と思われる。「碝石(さざれいし)物語」という書物は見当たらないが、この狂歌集から五十年ばかり後の時代の「雲根志」という本に福王寺の碝石の条がある。一部引用してみよう。

                碝石(さゞれいし)

安藝国加部庄金龜山福王寺の什貲也むかし清和天皇貞観五年の春紀伊国千里(ちり)の濱に夜々光明をはなつ浦人其所をたづぬれは一ツの碝石あり

ここには千里(ちり)とルビがあるのだけれど、伊勢物語、枕草子にも出てくる紀州の千里の浜は「ちさと」現代では「せんり」とも読むのが一般的で、枕草子の木版本には「ちさと」とルビが入っているものが多いようだ。一方、北村季吟「伊勢物語拾穂抄」には「ちり」とルビがあり、雲根志はそこからの引用かもしれない。このあと、右大臣良相から子の常行の手にわたり、その常行が山科の禅師の親王に奉る場面は伊勢物語七十八段から引用している。その中に「きのくにの千里のはまにありけるいとおもしろきいし奉れりき」とあり、この伊勢物語の話と関連付けるために千里の浜の産としたようだ。この伊勢物語の中では「このいしきゝしよりは見るはまされり」聞いていたよりはましな石だったとあり、後に昼夜鳴動や洪水の大事になるような石ではなさそうだ。それに、伊勢物語にはさざれ石とは書いてない。その後この石は二条の后にわたり、後醍醐天皇の時に中納言公忠が賜ったと続く。そしてその公忠が安芸に左遷された時に武田氏に渡ったというのが次のくだりである。

勅勘によつて安藝国に左迁せられける安藝の守護武田伊豆守氏信しきりにのぞむによつて伊豆守に傳ふ 氏信よろこびて城中におさめければひかりものして昼夜鳴動やまず故に福王寺におさめける其後又大江輝元城中へ入けるに雷のことく鳴動す一夜とめて福王寺へかへす持行時は人夫八人にて漸運ぶかへる時は一人してかろしと也 又福嶋正則此寺に来り石を一見して奇特をあらはせと扇を以てたゝきければにはかに雨車軸をなして大洪水してげる今に當寺に在て珍宝とす 

武田氏信、毛利輝元、福島正則いずれも碝石を御することはできなかったという。福王寺の公式サイトによると、昭和52年の落雷で他の文化財とともに、さざれ石も焼けたとある。「さざれ石」の由来と地質学的考察(リンクはpdf)という論文によると、 「1977年に落雷による火災の際に,無数の破片となっ てしまって,元の面影は全く認められなくなってしまった」とある。これは大変残念なことだ。このあとの地質学的考察のくだりで、さざれ石の破片は紀州千里の浜産ではなかったとのことであるが、これは伊勢物語七十八段と関連付けて由緒書を構成したとの推測を裏付けるものだろう。

なお、雲根志では公忠から武田氏に渡ったとあったが、寺伝では京都から直接賜ったとあり、あるいは温品氏が京都から盗んできたとか異説もある。秀吉がこの石と対面したというお話もあるようだ。

一首目が思ったより長くなってしまったが、「可部町史」にもう一首、可部に耳ありの狂歌がある。天保の頃、可部の嘯月樓貞川の歌集「鶯哇集」の冒頭に、可部の狂歌連の師匠だった梅縁斎貞風の歌がある。



         遣医師音信

  流行はとく聞こへけり町の名のかべに耳ある世に御繁昌


ここで町の名とあるが、広島藩において正式な町は、広島城下、宮島、尾道の三か所だけであったという。ところが可部には町奉行が置かれていて、実質的には町に準ずる機能を持っていた。広島藩の儒学者、頼春水が編纂した芸備孝義伝にも、「可部町饂飩屋清兵衛」という記述があり、公的にも可部町と書いて差し支えなかったことが伺われる。貞風の歌は、可部で繁盛している医者を詠んでいるが、可部町史によるとこの鶯哇集の貞川は商人とある。可部に評判の医者がいたのだろうか。

以上のように私が見つけた可部の狂歌二首はどちらも壁に耳ありだった。もうひとひねり欲しい気もするが、まずはそう詠むところかもしれない。ついでにもう一つ、狂歌ではないが、小鷹狩元凱著「広島雑多集」にある「可部に往く」という方言の記述を紹介してみよう。

廣島地方に於て寝(ね)に就くを「可部に往く」という方言あり、可部は広島を距る四里餘りの川上にあり、人々多くは可部を距る又一里許り、吉田に至る道に根の谷という地あるをもて、此方言を生ぜしならんと思えリ、

根の谷から寝るとは、根の谷川をよく渡っているけど考えもしなかった。さらにもう一説は歌林良材を引いて、

「かべ」夢をいふ、夢はぬるにみるによりてなり、壁もぬる物なるによつてなり

とある。せっかく隣町に住んでいるのだから、「可部に往く」も使ってみたいものだ。関連して、柳田国男によると(定本柳田国男集15巻「廣島へ煙草買ひに」)、「広島に煙草を買いに行く」あるいは、広島に茶を買いに行く、広島に米を買いに行く、というのは死を意味する隠語だという。宮島では島内にお墓を作れないから、広島に行くとは死ぬことと聞いたことがあるが、これは宮島だけの話ではなくて四国九州などもっと広い範囲で言われている隠語だと柳田国男は言う。そして、毛利輝元公がこの隠語をご存じだったなら、広島とは命名しなかったかもしれないとも書いている。しかし、広島に煙草を買いに行くが広島城築城以前から言われていたという証拠を見つけるのは難しい。どうしてそういう結論になったかもうちょっと書いてほしかった。

最後はいつものように話がそれてしまったが、今回は可部に耳ありの話でした・・・






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