今日は地域のお薬師さんの縁日、折しも父が入院中で最近病状が思わしくなく、二年ぶりにお参りすることにした。三篠川沿いにある我が家から上流に徒歩十五分、二つ目の橋が薬師橋だ。行きは川土手を正面に木ノ宗山、左は深川(ふかわ)から白木まで連なる山、右手に亀崎神社のある丘を見ながら進む。亀崎神社の森は葉色の違う木が目立っている。脇を通った時に見たら高木の常緑樹の若芽のようだ。クスノキだろうか。
はつなつの三篠の土手をひむがしへ歩むおやくっさんの縁日
亀崎橋を過ぎてしばらく歩いて、次の橋が薬師橋、川の向こうに目的地の明光寺本堂が見えている。
この橋を渡ると院内という地区、院とはこの正明院のことで中世には末寺が十二あったとお寺のパンフレットにある。江戸時代になって毛利氏の庇護を失い、浄土真宗の寺として存続していたが、浅野氏の援助で薬師堂の修復が行われ今日に至っている。
薬師如来の縁日は本来旧暦の四月八日、お釈迦様の花まつりと同じ日であった。狂歌家の風のつつじ売りの回で、卯月八日は薬師様の縁日とお釈迦様の誕生日が民間信仰と融合した風習という民俗学の記述を紹介した。当地区でもこの縁日は初夏の一大行事であり、私が子供の頃は月遅れの五月八日と決まっていた。その頃は「お薬師さん」とはあまり言わなくて、五月八日(ごがつようか)という言葉の方を多く使った。五月八日は稚児行列に参加する院内地区の子は小学校に行かなくて良くて羨ましかったものだ。もっとも、おしろい塗られるのを嫌がっていた友達ももちろんいた。今は、五月の第二土曜に薬師まつりが行われている。
正明院の額がかかった山門には阿形、吽形の仁王像がある。制作年代は不明とパンフレットにある。天明年間の著述といわれる「秋長夜話」には、
「深川村は勝地なり、上中下三村に分つ、中深川村に大像の薬師如来あり、門に金剛力士の二像を置く、おもふに千年の物なるべし、古雅いふはかりなし」
とある。
山門をくぐると右手前に浄土真宗の本堂、左奥に薬師堂がある。中世は真言宗、江戸時代以降は浄土真宗ということでお大師様の像もあった。
新緑の下におはするお大師の杖指すところ薬師堂見ゆ
まっすぐ進んで薬師堂に入ると、二年ぶりの薬師瑠璃光如来様が迎えてくださった。
子供の頃から何度もお目にかかった仏様。平成の修理の時に頭部から発見された墨書によると、享禄二年(1529)の作だという。享禄といえば、陰徳太平記に出てくる阿武山の大蛇退治の冒頭、「天文元年ノ春」は実は架空の日付で、享禄から天文への改元は七月であるから、1532年の春は享禄五年であったと書いた。つまり大蛇退治の3年前にこの薬師様が作られたわけだ。阿武山について書いた時には、中世の理解が十分でないことを思い知らされた。大蛇退治の真相をご存知の仏様ということで、これまでの参拝よりも長くお顔をじろじろ眺めてしまった。
五百年前の享禄天文の大蛇退治を知る仏さま
父の病しばし忘れて御仏の四角き顔をながめ居りけり
あと十年たてば薬師様は五百歳、さらに三年で大蛇の五百年忌、そこまで生きているかどうかわからないが、その日を目標に中世の人々の心を求めて歩き回ってみたいものだ。しかし考えてみると私がお薬師さんに関わったのはせいぜい五十年、私が知りたい中世は十代も前ということになる。祭壇の左にあった真言はおなじみの「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」の前に何文字か書いてあった。御朱印をお願いしたら住職さんを探しに行こうとされて、その前に忙しそうに挨拶されていたのを見ていたので書置きのものをいただいた。薬師瑠璃光如来のお名前があれば十分だ。
薬師堂は平成の大修理で中世に近い形に復元したと聞いていた。しかし説明板にある宝形造にはなっていないようだった。
梵鐘は、秋長夜話には周防国観音寺の鐘と書いてあったが今は昭和の銘が入った自前の鐘となっている。
帰り道、薬師橋から阿武山を眺めたら、左から亀崎の亀がせり出して来ているように見えた。蛇のようにも見えるけれど、これも私が小学生の時に左手に団地が出来て山が削られたために亀が蛇になってしまった。阿武山にはやはり大蛇だろうか。本来の甲羅の上の亀崎団地は今は高齢化が進んで空き家も多いと聞いている。三篠川に阿武山山頂が映って、川面の観音様にもお祈りしておいた。
楠若葉光る迷彩頭巾着て阿武山飲むや亀崎の森
帰りは買い物があったので、中深川駅の方向へ、旧道と参道の交差点に昔の標識があった。「右やくしみち」とある。
貞国の歌にあったツツジが見つからなかったのが少し残念ではあったけれど、はつなつのまぶしい光の中、中世のお薬師さんにお目にかかれたのは本当にありがたいことであった。参拝が主目的であったため、おまつりの描写、写真が無かったこと、お詫び申し上げます。
今日、4月22日は旧暦の三月十八日、何度か書いたように人麻呂の命日とされる日だ。学生時代に熱中した梅原猛先生の「水底の歌」には正徹や柳田国男の著書を引いて、三月十八日が特別な日であったと何度も出てきた。正徹は、
「人丸の御忌日は秘する事也、去程に、をしなべて知りたる人は稀なり、三月十八日にてある也」
と言い、柳田国男は「三月十八日」で、
「わが国の伝説界においては、三月十八日は決して普通の日の一日ではなかった」
と述べている。また三月十八日は小野小町や和泉式部、そして法隆寺でもこの日を聖徳太子の御命日として聖霊会が行われるという。晩春の満月が欠け始める頃に何が、と書き始めたら長くなってしまうので先に進もう。
この、三十年以上前に読んだ三月十八日の記憶が蘇るような出来事があった。栗本軒貞国の狂歌を調べるうちに、旧大野村の大頭神社の宮司が記した「松原丹宮代扣書」によると、寛政二年三月十八日に貞国を師匠とする狂歌連「別鴉郷連中」が大野村更地の筆柿の元に人丸神社を勧請したという。このブログでもう三十回にわたって書いている「狂歌家の風」にも人丸社で詠んだ歌がある。神祇の部の歌は、住吉社、人丸社、大頭社、厳島神社の順に並んでいる。柳門の狂歌誓約書では落首はご法度でこれを犯すと和歌三神の罰を蒙るという。その和歌三神の住吉、人丸と並んでいるから、摂津の住吉大社と明石の柿本神社をセットでお参りしたのだと思っていた。ところが貞国が人丸社を勧請したとなれば、狂歌家の風の歌も大頭神社と同じ大野村で良いことになる。そして、狂歌家の風の人丸社の歌はまさにこの寛政二年三月十八日のものかもしれない。さらに人麻呂ゆかりの筆柿のあった場所に神社を建てたということならば、活字本に出てくる「春の筆梯」という意味のわからない言葉は、やはり「春の筆柿」と読んで良いのではないか。一気に視界が開けた気分になった。しかし梯を柿とすることについては、原本のマイクロフィルムを見る機会を待つのが筋であろう。折しも梅原先生の訃報を聞いて、すぐにでもこの三月十八日について書きたいのだけど、やはりテキストを確認してからだ。梅原先生は怨霊史観とか言われたけれど、たとえば水底の歌の鴨嶋水没説であれば海底調査もされている。読める文献はすべて読んで、科学的な調査も行って、その先に哲学者たる梅原先生が真理の体系をなす仕事があった。近頃は自説に合うように脳内で歴史を生成する方がいらっしゃるようだが、ここで一気に書いてしまうとそうなってしまって先生のお怒りを蒙るかもしれない。都立中央図書館などにあるマイクロフィルムを見るまで待つことにしたい。
前置きが長くなったが、今日は旧三月十八日ということで、その大野の人丸神社にお参りしようと思い立った。昼飯を片づけて12時40分の芸備線で出発、広島駅で山陽本線の岩国行に乗り換えた。車内には宮島観光の外国人が多数乗っていて、近くに座った英語圏の親子連れは握り寿司の折り箱を広げて食べている。小さい子も珍し気でもなく醤油をかけて口に運んでいるから母国でも寿司はよく食べているのかもしれない。しかし3両編成しかない車内は混んでいて気の毒だ。宮島観光の人が宮島口まで快適に過ごせる列車を走らせてほしいものだ。宮島口駅ではその観光客たちがフェリー乗り場に向かって直進するところを宮島街道を岩国方面に折れて更地分かれという交差点から北に向かって上り坂となった。もっと見た目の良い男であったならば、厳島の三柱の女神様にお尻を向けて別の神社にお参りしたとなれば嫉妬深い姫神様の怒りを買うかもしれないが、私の場合はまあ大丈夫だろう。しかし、宮島口駅から世界遺産に向かう多くの観光客と真逆の方向というのはいかにひねくれ者の私でも少し不思議な気分になる。神社に参拝するというのに神の山である弥山は常に背中なのだから。グーグル先生の経路では団地の中の細い道を突っ切るようになっていて、行きは迷うと新幹線をくぐる場所が狂ってたどり着けなくなる恐れがある。少し遠回りして交差点の名を確認しながら進んだ。
30分近く歩いて、やっと団地を抜けて新幹線をくぐった。ここまでは間違ってはいない。問題は山へ分け入る道だ。幸い地図の通りの谷筋に山道が見つかってこの道だと確信したのだけれど、行き止まりにあったのは木造の民家、古いけれども布団が干してあってどうみても神社ではない。仕方なく新幹線まで引き返して、谷筋の両側の丘を探して右側の丘には登ってもみたけれども神社はない。人通りもない道で聞ける人もいない。子供は遊んでいるけれど、子供に道を尋ねたら声かけ事案で不審者リストにのってしまう。ここは冷静にもう一度プリントアウトしておいた地図を眺める。やはり最初の道のように思える。民家の奥に通じる道はなかったか、もう一度行ってみることにした。そしたら、民家の縁側に人影が見える。縁側で男性が読書をされているようだ。失礼ではあるけれども、私もここまで来たらお参りしたい。近づいて聞いてみることにした。いきなり変な男が現れて驚かれたと思うが、道は教えて下さった。やはり、民家の脇を抜ける細い道を見落としていた。ゲームで隠し通路が見つかったような気分で先に進むと、傷んだ石段の先に人丸神社が見えた。「古文書への招待」の挿絵と同じお社だった。
せっかく御命日にお参りするのだから、まずは人麻呂の辞世といわれる鴨山の歌、そして貞国が二百三十年前ここで詠んだ歌を詠じた。
鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
此神の御手にもたれて ことの葉の道をこのめや春の筆柿
貞国が願主となりて奉りし歌聞きたまへ春の筆柿