阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

不動院前から

2021-04-05 20:48:20 | 寺社参拝
お彼岸の3月22日に不動院をお参りした時のことを書いてみたい。しかし、この日の本来の目的は墓参りであり、途中バスの乗り換えのついでにお参りしたもので、短い時間で写真もあまり撮っていない。そのためタイトルは不動院前からとしたが、今調べたら不動院前はアストラムラインの駅でバス停は不動院だった。ややこしいことだ。



(広島地区の交通系カードPASPYの履歴)


高齢の両親のことを考えると、墓参りは春秋のお彼岸に一緒にお参りして、猛暑が予想されるお盆は私一人という予定でいた。しかし近頃の朝晩の気温差で両親とも体調が悪く、特に父は食欲もなくて墓参りは難しそうだ。そこで私だけということになったのだが、金曜ぐらいからアレルギー性喘息のような症状が出て、彼岸の中日を過ぎた月曜日にやっと落ち着いて午後から出かけることにした。このあたりのお年寄りは皆、墓参りは午前中に済ませるものだと言われる。いや、スーパーも町医者も午前中が混んでいるから御用はすべて午前中というのが当地の高齢者の常識なのかもしれない。数年前、中国山地の小さな町にある親戚のお墓の場所がわからず道行く爺さんに尋ねたら昼過ぎて墓参りとは何事かと笑われたことがある。しかし、平日の午前中に済ませるとなると行きが通勤ラッシュと重なってバスが混んでいるだろう。今は密を避けるという大義名分があるのだから、堂々と昼から出かけることにした。

お参りするのは、東白島町にある父方の墓と二葉の里にある母方の墓の二か所で、あとは母のリクエスト、むさしの俵むすびを買って帰ることになっている。まずは、バスを不動院で乗り継いで東白島町を目指すことにした。一昨年、父が宇品の県病院に入院していた半年間は何度か不動院で乗り替えた。私が一人で行くときは芸備線からバスに乗り継いだ方が断然早く、手術や説明会など母と一緒に行くときは徒歩が少ない不動院乗り換えを選択した。バス停に着く手前で家の間からちらりと不動院のお寺が見えて、いつもバスの中から父の病気平癒をお薬師様にお願いしていたのだけれど、お参りはできなかった。母があまり歩けないから、というよりは心の余裕が無かったと思う。今日は一人でもあり、二か所分のお花を抱えて甚だ不格好ではあるけれども寄ってみることにした。

バス停裏の階段を下りて左を見るとすぐに参道の入り口が見えて、山門までは徒歩1分だろうか、五十年近く前、小学生の時に遠足か何かでお参りして以来ということになる。




山門の手前には境内の案内図があった。




今日は墓参りもあって時間はかけられない。とりあえず金堂の前で父が無事に過ごせていることのお礼を申し上げた。しかし、広島市唯一の国宝である金堂全景を撮らなかったのは相変わらず間抜けなことであった。いずれ薬師様開帳の折にゆっくりお参りしたいものだ。





金堂の裏に回ると、「牛の守護佛 法起菩薩」という立札があって、そこにいらっしゃったのはあまり見かけない菩薩様、





ネットで検索すると農耕の守護神と出てくるのだけど、有名寺院の御姿とは随分違っていて、これは何をモデルに作られたのか私の知識ではさっぱりわからない。持っていらっしゃるのは農具だろうか?

不動院は被爆建物ということでも知られていて、それを記した説明板もあった。




父の一家は原爆の爆風で西白島町の家が倒壊し戸坂の知り合いの家まで逃げる途中この不動院の傍らを徒歩で行き過ぎたはずだ。その時のことは法事のたびに叔母から聞かされてきたのだけれど、白島から牛田へ工兵橋を渡るところが眼目なので工兵橋の写真を撮ってから書いてみたいと思っている。

安国寺恵瓊のお墓は次回という事にしてバス停にもどった。ここからは仁保沖町行きのバス、その前の深川線に比べると本数が多い。すぐに降りるから前の方に座ろうとしたら、前の広島交通のバスで座った運転手の真後ろの席は、こちらの広島電鉄のバスでは使用禁止になっている。郊外線と市街地を走るバスとでは温度差があるのだろう。座れてもそこは避けた方がいいのかな。バスは神田橋を渡り子供の頃よくお参りした碇神社の前を過ぎてほどなく白島町のバス停に着いた。ここから父方の墓までは徒歩1分、中日を過ぎた平日ということもあって他にお参りする人もいない。ゆっくりお参りする間に、北側を走っている山陽本線の電車をバックに写真を撮ってみようと思い立った。しかし、通り過ぎたのは貨物列車で、しかも防音壁に隠れてほとんど写っていない。これは失敗であった。うちの墓の前ではなく、もっと離れたところからカラフルな電車が来たタイミングで撮るべきだった。




しかしながら怪我の功名、いや恥の上塗りかもしれないが、この失敗写真はエイプリルフールの記事のモチーフとなった(記事の順序が逆になって彼岸の事を今頃書いていること、おわび申し上げます)。私は、ほら吹き爺さんになりたいと常々考えていて、このイベントにはできれば参加したいと思っている。読んでいただいた皆様には迷惑に違いないのだけれど何卒ご容赦願いたい。そしてもうひとつ、やはり外に出て歩き回らなければアイデアは出てこないという教訓をもらったような気がする。うちは両親が高リスクと考えられるので、両親のワクチン接種まではあれこれ我慢しようと思っている。しかしずっと引きこもっていたのでは視野も狭くなってしまう。散歩の回数だけでも増やしたいけれど、最近は自身の疲労感もあって難しい。

父方の墓から母方の墓までは徒歩10分ぐらい。途中常葉橋の桜は白島側はほとんど咲いてなくて、橋を渡り終えた二葉の里側は結構咲いていた。白島と二葉の里は同じ学区で、白島に住んでいた小学生時代はこの橋を渡って二葉の里の友達の家に遊びに行ったものだ。









道中では、鶴羽根神社前の桜が一番よく咲いていた。彼岸の墓参りに桜を眺めながら歩くというのは過去に記憶がないことだ。




母方の墓は誰かがお参りした形跡はなく、タンポポがぎっしり生えていて抜くのに苦労した。あとから考えると、中日を過ぎても誰もお参りしていないのだから、体裁を気にしてタンポポ抜かなくても良かっただろうか。とにかく草抜きでくたびれた。

帰りは広島駅まで歩いて買い物をしてから芸備線で帰った。考えてみると芸備線も5か月ぶりぐらい、我ながらよく引きこもったものだ。久しぶりに芸備線から阿武山を一枚、と思ったけれど、ねらい目の安芸矢口駅では日よけが下ろされていて撮れなかった。ボックスに私だけになったのはラストのひと区間だけ、やっと一枚カメラにおさめて、今日のお墓参りを締めくくることにした。




仁和寺のマスク

2020-03-11 16:24:51 | 寺社参拝
 仁和寺で配布している薬師如来の梵字入りのマスクについて、仁和寺のツイートで、「梵字はフリー素材のようなものなので、皆様どうぞ画像保存などご自由にして下さい。 これで少しでも皆様の不安が和らぎますように」とあった。これはありがたいことで、早速こちらにも張らせていただきたい。



仁和寺には一度行ったことがあって、その時の御朱印。




昭和五十四年とあるから私は十六歳、春休みに友人数人で京都旅行した時のものだ。境内が広かった記憶はあるのだけど、なにせ41年前のことで記憶がはっきりしない。もう一度行ってみたいものだ。今日のところは、薬師如来の梵字にいつものお願いをしておこう。


 南無薬師瑠璃光如来 奉願疫病退散 おんころころせんだりまとうぎそわか







可部 庚申神社

2020-02-22 21:45:55 | 寺社参拝
 狂歌家の風には庚申信仰にからめた貞国の歌がある。庚申待については何となく知ってはいるが、他の狂歌を調べたら庚申堂に青面金剛と出てきてもピンと来ない。京都に住んでいた頃、二年坂の八坂庚申堂には行ったことがあるような気もするのだけど、なにせ四十年近く前のことで記憶がはっきりしない。貞国の歌について書く前に、どこか庚申信仰に触れる事ができる場所に行きたいと思った。そして調べてみると、隣町の可部に庚申神社があることがわかった。時々買い物に行く可部上市の次のバス停、可部中学校前から徒歩6分とグーグルに教えてもらった。これは行かない手はない。今日は芸備線向原駅でサンフレッチェのイベントがあり、出発式を終えたディーゼル車両(芸備線は非電化につき電車ではなく、またこの時間は1両だけのため列車とも言えない)が近くを通過するのを見てからのスタート。1枚写真をのせておこう。



写真を撮り終わって時計を見たら13時20分、可部行のバスは30分後で、国道まで歩いた方が早そうだ。中島まで歩いて中島駅口13時55分ぐらいのバスに乗った。可部中学校前には程なくついて、牛丼屋を過ぎてカレー屋の手前で左に折れた。地図は頭の中に入っているつもりであった。

しかしながら、いつもの事とはいえ、山に入る道がわからない。山を取り巻くようにびっしり宅地化されていて、思っていたのとは違う風景であった。少しは土地勘がある場所だからと油断して、地図もプリントアウトしていない。とりあえずとこかから山に入ればわかるだろうと、登り口を見つけて山に入ってみた。一気に最初の坂を登ったら、目の前にはたっぷり花粉を蓄えた杉の木、こりゃあいけんと回れ右して地上を眺めたら、ここは既に可部バイパスのトンネルの出口で、南原ダムがずいぶん近く見えて、道路標識をデジカメで拡大すると南原峡の文字も見える。




これはさらに次のバス停の南原口付近まで来ているようだ。一気に登らずにきょろきょろしてたら杉の花粉を浴びずにすんだのに、我ながら愚かなことだ。可部中学校方向に引き返しながら、山に入れそうなところを探したら、墓地の先に道がありそうな無さそうな。墓地への道を入ってさらにその先の道を確認していたら、下の道を夫婦らしき二人連れが歩いていらっしゃる。バス通りを離れてから初めて見かける通行人で、ここを逃す訳にはいかない。ダッシュで追いついて道を尋ねたら、更に中学校方向に7軒先の路地を入れと教えていただいた。助かった。教えていただいたのは、可部7丁目と8丁目の間の道だった。



この坂を進むとすぐに石の鳥居が見えた。犬にほえられたけれど、ここは神社が見つかった嬉しさで犬にお邪魔しますと断ってから進んだ。目的地に着けるのであれば、多少迷っても仕方がないではないか。私の場合、必要経費みたいなもんだ。



鳥居を過ぎると、さらに石段を登ったところに拝殿が見えた。



石段を登り切ると、拝殿の後ろに本殿があった。



そして、拝殿の前の燈籠には、「寛保二壬戌」の文字、埋もれていてまだ下に文字がありそうな気もする。寛保二年(1742)というと貞国が生まれる数年前だ。





そして本堂にお参り、ちょっとガラスの入った格子戸越しに覗かせてもらった三猿像、左が言わざるだろうか、暗くて腕があるのかどうか、よくわからない。



そして青面金剛像



この青面金剛は道教の神様、あるいはヴィシュヌ神が変化したともある。ネットでの説明を読んでも、三尸(さんし)を押さえる神ということ以外、いかなる神様なのかピンと来ないものがある。本殿右側面に説明板があった。



ここにある、「■手青面金剛」の最初の文字がわからない。腕の数ならば六に近いような字、しかし写真を見ると6本あるのかどうか、よくわからない。また、漢数字以外の可能性もあるのかもしれない。また、この山中に「申宮城」があるはずだが、どこから登るかもはっきりせず、それにまた杉の木に遭遇したらナンギなのでやめておくことにした。

ウイキペディアの庚申待の項の記述によると、仏教では青面金剛、神道では猿田彦とある。ここから近い下町屋には猿田彦神社があるそうで、するとこちらは元は仏教だったのかと考えていた。ところが実際お参りしてみると、鳥居から石段、燈籠、拝殿、本殿と造りは間違いなく神社であって、戦国時代も申宮であり燈籠も古いもので仏教から神道に変化したようには思えない。ウイキペディアの記述のように簡単に割り切れるものではなさそうだ。もっとも、庚申信仰は私にとっては身近なものではなく、まだまだ不勉強であるようだ。次に図書館に行ったら関連する書物を読んでみたい。しかしながら、青面金剛像を拝むことができて、狂歌については書いても差し支えないように思う。次の記事で書いてみたい。

帰りも犬にほえられたけれど、そのまま歩いて、途中買い物して可部上市15時47分のバスに乗った。果たして花粉のダメージがどれぐらいあるのか、今は少し目がかゆい程度だけれど、実際のところは明朝以降になってみないとわからない。



【追記】青面金剛が庚申待の本尊として流行したのは寛文年間あたりからとの記述があった。すると、元々は申宮という神社があり、そこへ青面金剛像が持ち込まれたという流れだろうか。

大行院正楽寺 保井田薬師堂 縁日

2020-02-12 13:56:15 | 寺社参拝
2月11日は保井田薬師堂の縁日、貞国が文化十二年(1815)に狂歌に詠んだ薬師如来をお参りすることにした。なお、山号の「岩くろ山」の「くろ」は石偏に単という字でPCで見つからずタイトルでは省略した。そして、狂歌については次の記事で書くことにして、今回はお参りの始終を書いてみたい。

いつものように昼飯片付けてから12時41分の芸備線で出発。広島駅で13時15分の山陽本線岩国行に乗り換えて13時半過ぎに五日市着、北口のバス乗り場を確認してから、ここは20分以上あるので福屋の地下で乾物等の買い物をして、バス停に戻って13時57分彩が丘団地行きのバスに乗った。多分初めて通る道で、細い川に沿ってバスは北へ、十分ちょっとで保井田についた。保井田を我々が読むと「保」にアクセントがいってしまうが、バスのアナウンスは最後の「田」にアクセントがあった。しかし地元の発音は確認していない。



バス停を降りるとすぐに右手の丘の上にお堂が見えて、しかも西側は壁になっていて登るのは南側からとすぐにわかった。いつも道に迷っている人間にとってはありがたかった。



そのお堂の南側には何軒か露店が出ていて、石段は上が見えているからそれほど苦にはならない。もっとも、足が悪くて薬師如来にお願いという方には大変かもしれない。



登り切ったら右手に薬師堂、そして地元の方が甘酒のテントを出していらっしゃった。



まずはお参り。肉眼では暗くて薬師如来のお顔は見えにくかったが、デジカメにはかろうじて写っていた。ぱっと見さえん顔・・・いや、中世風で個性的な顔立ちの御仏だろうか。






  南無薬師瑠璃光如来 おんころころせんだりまとうぎそわか


  里人のかたるを聞けは浄るりのほとけも古き時代ものなり 貞国


貞国の歌については次回書くことにして、ここは引用だけに留めよう。もう一度よく見ると、慈悲心にあふれる表情で衆生を救い給う御仏に違いない。二度目は心を込めて、病気平癒を色々とお祈りした。甘酒をいただいた地元の方によると昔は参道にぎっしり露店が出ていたそうだ。今は賑わいとまではいかないけれど、それでも決して広いとは言えない境内に参拝の方が途切れることなく石段を登っていらっしゃった。



この薬師堂は昔は今薬師が丘団地になっている所にあり、明治になってからこの場所に遷されたという。しかし、お薬師さんは何百年も変わることなくあの表情で参拝者の願を聞き続けていらっしゃったのだろう。貞国が狂歌に詠んだこのお薬師さんが名残惜しくもあり、またこのコンパクト感が私には居心地が良く、結構長く境内に留まっていたと思う。御仏を見た時の第一印象からすると少し不思議な感じもするけれど、又の二月十一日にお参りしたい気持ちが強くなった。

保井田を14時59分のバスで五日市駅に戻り、少し時間があるから海老山公園に寄ってみようと思った。晩メシ当番のため五日市16時16分がリミットというのを確認してから南口に回り宮島街道を少し西に歩いたところが公園の入り口、しかしここにある、めん長州という麺類のお店にふらふら入ってしまった。常々、大手のチェーン店は避けて地元の小さなお店と思っているせいで、道の途中にこういうお店があるとつい入ってしまう。保井田にも気になるカレー屋さんがあったのだけど、休日はやってなくて残念だった。ここのラーメンは、広島ではスタンダードなとんこつ醤油、帰って調べたらおでんも美味しいそうで、次回食べてみたい。



これで時間をロスしたため、時計を見ながら海老山を登った。海抜60メートル足らずの小山で南北に長く、私は北側から登って南の展望台を目指したせいか、勾配はそれほどきつくなく、わりと簡単に展望台にたどりついた。しかしラーメン食ってしまったのが響いて展望台まで早足で往復しただけになり、途中の石碑などをスルーしてしまったのが残念だった。途中に宍戸氏城址の立札があってもどこが城あとなのかじっくり確認できなかった。せめて帰りにラーメンにすればよかった。いや、ここはもう一度ゆっくり訪れたいものだ。





展望台は草が茂っていて展望はもう一つだったが、もう一段高いところに登ると海が良く見えた。



思えば、最近は山と川ばかりで海を眺めることは無かった。これは貞国に海の歌が無いことも影響していると思う。もっとも師匠の貞佐は江田島で歌と絵を残しているし、貞国も水主町に住んでいたのだから、海に出なかったはずはない。今回保井田のお薬師さんにお参りしたことで、あと貞国が歌を詠んだ所というと加計とか豊平とか山間部の自力で行きにくい場所ばかり残った。できれば海沿いも、どこかないものか、調べてみたい。



権現山毘沙門堂 初寅祭

2020-02-06 11:13:10 | 寺社参拝
今年の初寅は二月五日、緑井の毘沙門さんでは四日五日と初寅祭であった。私も掛け軸の件で調べている七福神参りを兼ねて出かけることにした。好物の出雲そば屋が四日は天満屋緑井店の棚卸で早じまいということで、五日に決めた。昼飯を片づけていつもの12時41分の芸備線でスタート、しかし今日はひと駅だけの乗車で、玖村駅前12時54分毘沙門台行きのバスに乗り換える。高瀬大橋の手前で阿武山の写真を一枚。



 正面一番高い頂が阿武山(あぶさん)、2014年の土砂災害後に完成した砂防ダムが見える。そして峰続きの左の小山がこれから行く毘沙門堂がある権現山(ごんげんやま)だ。タイトルの権現山毘沙門堂は山号であるから、もちろん音読みになる。バスは太田川を渡って旧道に入り、中緑井(JR緑井駅前)では10人ぐらい乗って来た。しかし3年前初寅祭初日に来た時の半分ぐらいで、二日目の午後だからだろうか。

 バスは安佐中の横から坂を上ってアストラムライン毘沙門台駅のそばを通って安古市高校を過ぎた次のバス停、毘沙門台三丁目で下車した。時計をみたら13時半だった。本尊毘沙門天像の開帳は2時間おき、次は14時のはずで、前回来た時は並んで待つ時間が長かった。まず毘沙門堂を目指して、毘沙門天像を参拝したあとにゆっくり七福神を回ろうと思って鐘楼から一気に坂を登ったらラストでばててしまった。ゆっくり七福神をお参りしながら登るべきであった。それに、毘沙門堂の前に着いたら、去年はあった列ができていない。今年は期間中は常時開帳と書いてあって、それなら落ち着いて登ってくれば良かった。それでも中に入ると、14時からの護摩行を待っている人が結構いた。本尊の毘沙門さんは私のデジカメではいつもピンボケである。




この像は伝行基作とのことだが、文化財的な調査は行われているのかどうか、佐東町史にもネットにも出てこないようだ。佐東町史には、安芸武田氏が佐東銀山城築城の際、その北方の鬼門除けに、権現山元成寺跡に建てられたものであるという。ネットには正安元年(1299) と出てくる。するとその頃の作だろうか。

右の厨子にいらっしゃったのは、吉祥天女様だろうか。本堂の中はぎっしり人がいて、自由に歩き回って見る訳にはいかなかった。


左の厨子の聖徳太子みたいな髪の長い童子像は、写真が失敗だった。3年前の写真に左の厨子も遠く写っている写真があった。手前に置かれている像も毘沙門天のようだが、これはレプリカなのか別の像なのか、よくわからない。


(これだけは3年前の写真です)


きょろきょろしているうちに、御朱印の番号を呼ばれた。3人待ちぐらいだっただろうか。頂いた御朱印は、虎とともに毘沙門天の使いといわれるムカデの印が中央に押されている。江戸狂歌で正伝寺毘沙門堂の初寅の歌をみると、百足は驚くほど多数出てくる。これは次の記事で書いてみたい。


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色々と流行っていることでもあり、本堂の中で大勢の人と一緒に護摩行を待つのは息がつまる感じがして一度外へ出た。そしたら中がつかえていることから、前来た時と同じように列ができ始めていた。



ここはまず本堂の近くの弁天様にお参り、あとで参りした七福神の石像にも、なぜか私が愛飲している可部の旭鳳酒造の日本酒がお供えしてあった。七福神の石像は昭和四十年代と縁起を記した石板にあり、それとは別の弁天様、それより古そうに見えたが詳しいことはわからない。





お参りを終えてふり返ると、列がぐんと長くなっている。先に七福神をお参りしてもう一度戻って来ることにして石段に向かった時、護摩行が始まるアナウンスがあり、その前のお話がマイクであるようなので、聞くことにした。それによると、周辺への迷惑駐車が絶えないため、今年は人がたまらないように二時間おきではなく常時開帳とした。とにかく駐車場の確保が難しい。それで、来年からは初寅の直前の土日に初寅祭を行うことにする、とのことだった。時代の流れだろうか、本来の初寅の日の開帳は今年で最後かもしれない。七福神をお参りした後にもう一度お参りしたいと思った。

一度坂を下りて、七福神、といっても毘沙門天以外の六つの石像にお参りした。まずは爺様の掛け軸でどちらか悩んでいる福禄寿と寿老人


(↑福禄寿)



(寿老人)

確かに似ていて持ち物でしか区別できないけれど、頭が強調してあるのは福禄寿だろうか。そして残りの四つの神様、いや、本来この四神の方が人気で福禄寿と寿老人はかなりマイナーなのだけど、今私が悩んでいるのはこの二神なので先に書かせていただいた。


(えびす)


(布袋)


(弁天)


(大黒天)

二葉の里の時と違って、今回は全部お参りできた。締めくくりに、もう一度坂を登って本堂の毘沙門天にお参りした。火を焚く護摩行は一段落していたが、太鼓を叩くお坊さんは残っていて真言が聞こえていた。列ははけていて、落ち着いてお参りすることができた。毘沙門天といえば本来戦いの神様であるが、そのお使いが百足(ムカデ)であることから、お足=お金がたくさんということで、商売人に根強い人気があるとのことだった。私の場合、金運は期待できないとは思いつつ、とにかくお祈りしておいた。移動する時別角度から撮った写真は比較的ピントが合っているけれど、厨子の中は手前の金色のものに隠されて写ってなかった。手前のレプリカかどうかわからない毘沙門天らしき像は左端に写っているが、本堂の中は何がどこにあるのか、祈祷の場でもあり、じろじろ見てまわる訳にもいかない。お祭りでない時に一度来てみたいものだ。




お参りを終えて、帰りは徒歩で緑井駅を目指した。こちらが本来の参道である。長い石段の手前で南の眺望が開けている場所があった。広島デルタから阿武山が見える理由もよくわかる。





徒歩35分ぐらいで緑井駅に着いた。フジ、天満屋方向への歩道橋に上がれば、いつも阿武山を眺めるポイントがある。左の権現山にぽつんと赤い建物がかくれているのが多宝塔ではないかと思うのだけど、定かではない。




最初の高瀬大橋の写真とは角度が違って右の阿武山はとんがって見える。そして、天満屋の一福で好物の出雲そば。ここは舞茸天そばをよく頼むのだけど、帰ったらまたすぐにメシ当番なので、シンプルに割子にした。



3年前は天満屋緑井店が棚卸の半休でお参りを終えて来たら一福は既にオーダーストップとなっていてショックだった。今回はちゃんと調べて、そしたらやはり初寅祭初日が棚卸となっていた。緑井に人が集まる日に百貨店が半休にするのはどうかと思ったけれど、毘沙門堂で聞いた迷惑駐車の話と関係あるのかもしれない。

天満屋一階で食料品の買い物を終えて、帰りは緑井駅からだと可部線で中島経由という手もあるけれど、時刻は16時前、ちょうどフォーブルのコミュニティバスがある。これで安芸矢口駅から芸備線で返ることにした。安佐南区のフォーブルは昔は第一タクシーといって、私が応援しているサンフレッチェのユース、ジュニアユースのスポンサー様でもあり、遠征には運転手が帯同している。3年前と同じように、安佐大橋を渡りたいがどこで降りたらいいか運転手さんに聞いたら、3年前と同じように安佐大橋の近くで降ろすと返答があった。思えばこのコミュニティバスは土日運休で、初寅の帰りに利用できるのは今日が最後ということになる。阿武山を眺めながらバスは緑井から川内地区を進んで、十分ちょっとで安佐大橋に着いた。川内の広島菜はすでに収穫済みで、何も植わっていない畑も多かった。安佐大橋からも阿武山権現山を眺めて、



安芸矢口駅の陸橋も阿武山を眺めるポイント




そして安芸矢口16時41分の芸備線で17時過ぎに帰宅した。鐘楼と本堂を二往復して疲れたけれど、お参りして、阿武山を眺めて、好物の出雲そばも食って、素敵な半日だった。しかし、鐘楼の鐘にムカデが刻まれているのを撮り忘れた。もう一度、お参りしなさいということなのだろう。

1月5日 二葉の里 歴史の散歩道 (下)

2020-01-06 12:59:03 | 寺社参拝
(前回のつづきです)

 去年は時間いっぱい狂歌碑を眺めていたのだけれど、今回はせめて東照宮の福禄寿までは行きたい。聖光寺をあとにして次は国前寺。日蓮宗のお寺で、門前には日像上人が船をつないだという松の木があった。といっても木の大きさからして何代目かだろう。枝に隠されて字が読めなかったのが残念だった。


妖怪退治の稲生武太夫にもゆかりのあるお寺で、七日には稲生祭があると予告があった。ばけもの槌とはいかなるものだろうか。いつもお世話になっている「広島ぶらり散歩」の稲生祭の記述によると撮影禁止だったとのことで、いつか見に行ってみたいものだ。



本堂のあと七福神の大黒様にお参りしたところで、小銭入れがすっからかんになってしまった。このコースを歩かれる方は、小銭は十分にご用意ください。いや、あとから考えると御守りでも買えば良かったのだけど。



次は尾長天満宮。ここは19才の正月、浪人していた時に大須賀町の予備校の自習室を抜け出して二人でお参りしたことがある。私の人生の中で、浪人時代は飛び抜けてモテた時期であった。理由は簡単で、古文の成績が良かったから。その予備校の広島校は開校2、3年しかたっていなくて、英語や数学は名古屋の本家から実績のある先生が出張して来ていた。しかし国語はこの辺で調達していて実力がどうもアレだった。はっきり言って私に聞いた方がましだったのだ。そんな訳で昔のことだから記憶が定かではないが、おとなりの東照宮には日を改めて別の女性とお参りしたような気がする。その人とは帰り道が同方向、といっても彼女は早稲田で私は白島、私が遠回りして饒津神社から川沿いを歩いた。手を振って別れた場所が二又橋という名前なのは最近になって知ったことだ。

話が大きくそれてしまった。しかし、尾長天満宮の寿老人と東照宮の福禄寿で悩まなければならないのは、その時の報いかもしれない。

話を尾長天満宮に戻そう。問題の寿老人はそんなに頭が長い感じではなかった。これについては福禄寿も見てから考えよう。




そろそろ疲労感が出てきて、このあたりからあまり写真を撮っていない。私にはウオーキングのブログは無理のようだ。唯一これ以外で撮ったのは撫で牛の写真だった。



次は広島東照宮。聖光寺からこちら、初詣に七福神めぐりする方は結構いらっしゃって、多くの人とすれ違った。しかし東照宮は別格で、車も列をなしていて露店もあって、ここだけお参りする方が多い印象だった。参拝も行列で、先に福禄寿といっても中々見つからない。そういえば父は子供の頃西白島に住んでいて、東照宮の裏にあった椎の木のどんぐりを取っていたら有刺鉄線が頭にささったという話を何度も聞かされたなあと本殿の裏手に回ったら、椎の木はわからなかったが福禄寿様はいらっしゃった。まずはその横の亥の子石から。ひもを結ぶチェーンもついている。





そして問題の福禄寿。





長い頭が日陰になって、帽子をかぶったように隠れている。直感的にはこれで決まり、という訳にもいかない。ちょっと考えてみよう。この二葉山山麓七福神めぐりには御詠歌のような歌がついていて、マップの裏に一覧があった。




これによると、福禄寿の歌に「その御頭(みかしら)の長きこと」とあり、一方の寿老人はそんなに頭が長く描かれていない。しかし、江戸時代という事で見ると、頭が長いと詠んだ歌は両方にあり、江戸狂歌の第一人者、大田南畝には寿老人の頭の長さを詠んだ歌が複数あるという(まだ見つけていないけれど)。

ここで、爺様の掛け軸の絵をもう一度、



歌ももう一度、

                    栗のもとの貞国

 あたまからかくれたるよりあらはるゝおきてをしめす福の神わさ


この歌の下敷きにあるのは中庸の、

 莫見乎隠 、莫顕乎微 

 隠れたるより見(あら)はるるはなく、微なるより顕なるはなし

であって、隠れてる物の方がかえって良く見えているものであるという。それに歌を見ると隠れているのは頭である。つまり、

  頭を隠しとる、ゆうとるんじゃけえ、それでもう分かるじゃろ

と貞国は詠んでいる。しかし、私はまだ確定できないでいる。七福神のうち、あとの五神に比べて、福禄寿と寿老人はあまり話題にならない。かなり人気薄である。解決するためには、貞国と同時代の広島において、頭が長いのはどちらであったか探すしか今は方法が見つからない。気長に探してみたい。



さらに西に歩いて、二葉あき子の歌碑までたどり着いた。ここから山手に入ったところに、掛け軸を伝えた母方のお墓がある。お供えもお花も持っていないが、お参りに寄った。奥都城と入った神道のお墓なのだけど、いつも気になることがある。じーさんのじーさん、ひい爺さんの次に、元治元年という没年が入っている。



曾祖父が日清戦争の折、広島に設置された大本営にお仕えした前後に神道に改宗したのではないかと想像しているのだけど、その時に前のお墓に先々代からの遺骨を納めたのだろうか。この墓は祖父が建てたと刻んである。この元治元年没のご先祖様は、ひょっとすると晩年の貞国と関わりがあったのかもしれない。

次は鶴羽根神社の弁天様。残念ながらここでタイムリミットとなり、広島駅に引き上げた。七福神はあと二つ、次回いつになるかわからないが、逆に不動院から広島駅を目指してみたいと思う。二又橋の話はその時に書けば良かった。新年早々、くだらない話になってしまったこと、おわび申し上げます。







1月5日 二葉の里 歴史の散歩道 (上)

2020-01-06 09:55:27 | 寺社参拝
初詣という感じでもないけれど、一年の最初は貞国の狂歌碑がある聖光寺にお参りしたい。それで今日は午後、矢賀駅から二葉の里を目指して歩いてみた。しかしタイトルの散歩道みたいな記事になるかどうか。書くことはいつもと変わり映えがしないのではないかということ、書く前にお断りしておきます。

昼飯を早めに片づけて、12時41分下深川発の芸備線で出発、いつもの日曜のサッカー観戦に出かける時よりも混んでいた。今日は東区役所のページに載っていた二葉の里、歴史の散歩道のコースを参考に歩いてみたい。




貞国の狂歌碑がある聖光寺には必ずたどり着きたいから、スタートはマップで東の起点となっている芸備線矢賀駅とした。いつもはここから踏切を渡って東のグランドにサッカーを見に行くことが多いのだけど、今日は矢賀小の北から西に向かって、13時過ぎに歩き始めた。



最初の目的地は才蔵寺、出かける前に地図で確認したところ、広電ゴルフの裏をぐるりと回れば着けるはずだ。しかし、そこは丘の上で、坂道登ってあさっての方向に行ってしまったら新年早々近くの火葬場ということになってしまう。私はスマホも地図も持っていない。ここはリスクを負わずできるだけ平地を通って聖光寺に近づいてから考えることにして、矢賀小の北を折れて旧道のような一本道を西に進んだ。すると太い道に出て散歩道の案内板が見える。これは助かったと読んでみたら、昔は岬の突端であった岩鼻跡という場所だった。



この図は矢賀駅が起点ではなくて、矢賀新町バス停付近で見たことがある矢賀一里塚から線が引かれていて西国街道のルートのようだ。ともかくこれで現在位置がわかって、才蔵寺めざして北へ歩き始める。矢賀駅からみるとV字型に遠回りしてしまったが仕方がない。しかし、この道もどんどん坂を登って車もたくさん通っている、大丈夫だろうか。一度不安になると火葬場へ着く気しかしない。門松は冥途の旅の一里塚、ってこないだ一休さんを読んだばかりではないか。いやここは冷静にと立ち止まって周りをみると、北からしっぽのように細長い丘がさっきの岩鼻という岬の突端まで伸びている。今の道は丘の東側を登っているけれど、西を見ると丘の上のマンションの向こうは崖のようにみえて下に尾長の住宅地が広がっている。そしてちょうどマンションとマンションの間の公園のようなところから、下に降りる道が見える。ここは再び安全策をとって西側の地上に降りることにした。あとで地図を見たら元の道で間違ってはいなかった。しかし、火葬場に近づいていたのも確かで、不吉な予感も当たっていた。才蔵寺と火葬場は直線距離でせいぜい500メートル、頭の中の地図はその位置関係があやふやであった。

平地を北に向かって少し歩いて、また東に戻るように坂を登って、たまたまラッキーかもしれないが才蔵寺を見つけることができた。元日は川土手から阿武山の観音様に手を合わせたけれど、初詣はこのお寺のミソ地蔵尊ということになった。



福島正則に従って広島に来た可児才蔵という武将ゆかりのお寺で、なんでもお地蔵さんの頭に味噌を乗せてお願いすると頭が良くなるらしい。このお地蔵さんもユニークだが、注意書きが一々石に彫ってあるのも特徴的だった。




参拝を終わって案内板を眺めると、ここのは矢賀駅起点になっていて、ここまで才蔵峠を越えて900メートルとある。3倍は歩いた感じだがちゃんと着けたのだから文句は言うまい。方違えみたいなもんだ。



ここからは仏舎利塔も見えているし迷ってもしれている。落ち着いて聖光寺を指して歩いた。しかし瀬戸内高校が見えたところでそちらへ折れてしまったため、西国街道沿いの史跡を逃してしまったのはミステイクだった。矢賀駅から1時間かけて、2時ちょうどに聖光寺に着いた。まずは一年ぶりの貞国の辞世狂歌碑。




もう一度書いておこう。


        辞世               貞国

  花は散るな月はかたふくな雪は消なとおしむ人さへも残らぬものを 


尚古だと「人さへも」の「も」が無いのだけど、何度見ても「も」はあるように見える。あと12年で阿武山の大蛇の五百年忌、その翌年が貞国の二百年忌なのだけど、私は生きていれば70歳ということになる。その日にこの場所でこの歌を声に出して詠じてみたいものだ。今年も何度か歌ったあとで、次は学問所と貞国の兼ね合いで名前を出させていただいた金子霜山のお墓をお参りした。



去年、墓石が無くなっていると書いてしまったのは私の大間違いで、霜山の墓は土饅頭型の儒式とのことだった。霜山は幕末江戸番の時に他藩の武士にも講義をして、維新に功績があったとして没後に正五位を贈られた。右の碑はそのことが書いてあるようだ。広島藩学問所を詠んだと思われる歌二首を取り上げた「ものよみの窓」の回でも書いたが、当時広島城三の丸にあった学問所(学館)の窓を貞国はどこから見ていたのか。お堀を越えた城外遠くから眺めた歌ではないような気もする。日本教育史資料2によると旧広島藩では、

平民ノ子弟教育方法 藩立学校ヘ入学ヲ許サス然レ𪜈学事ニ従事スルヲ禁セス

とあって、学事に従事とはどんな事なのか、貞国と学問所はどのような関わりだったのか、これからの課題である。

そのあと去年お世話になった丘の上の聖光観音をお参りして、十一面観音がいらっしゃる本堂から前回はスルーしてしまった内蔵助親子の遺髪を納めた供養塔にもお参りした。そして二葉山山麓七福神めぐりの布袋様、今回はこの七福神にも注目してみたいと思う。



母方の家に伝わった爺様の掛け軸の中の絵は、以前に神様の絵ではなく祝福芸ではないかとの指摘もいただいたのだけど、この一年間読んできた限りでは、江戸時代の狂歌において福の神といえば100パーセントに近い確率で七福神のどれかを指しているようだ。そして、掛け軸の歌は、


  あたまからかくれたるよりあらはるゝおきてをしめす福の神わさ


となっていて、絵のじいさんは烏帽子をかぶって頭を隠している。そして、長い頭が透けて見えるような感じもする書き方だ。すると、七福神の中で頭が長いのは福禄寿か寿老人ということになる。しかしこの二人は、中国では同一人物だったようで、七福神の絵でも持ち物と連れている動物でしか区別できないようだ。掛け軸の絵は両手を後ろに回して持ち物も隠していてどちらか判別できない。今回二葉山麓の七福神めぐりでは、寿老人は尾長天満宮、福禄寿は東照宮にある。何か手掛かりはないものか、注意して見てみたい。




今回は一気に書く必要も無いようなお話なので、後半は次回に。



ひとひらの雲

2019-05-24 11:12:48 | 寺社参拝
御朱印のタグが目に入ったところで、遅ればせながら新しいエディタに挑戦してみたい。

私が御朱印を集め始めたのは中学生の時、四十一年前のことだった。中高一貫校ということもあり中学の修学旅行は中3と高1の間の春休み、昭和五十三年の三月だった。最初に訪れた薬師寺の参拝を終えて靴を履く時に入り口で売られていた御朱印帳が目に入って、側にいた担任の世界史の先生にあれは何ですかと質問した。私は授業でわからないことがあっても手を上げて質問するようなタイプではなかったけれど、その時はちょうど隣に先生がいて聞きやすい状況だったのだろう。そしたらその先生、御朱印帳を買って御朱印を入れていただき、中でガイドをしてもらった若いお坊さんにも書いてもらって、私に手渡した。この時私がお金を払った記憶はない。今その御朱印帳を見ると、最初にある信綱の

  逝く秋のやまとのくにの薬師寺の塔の上なる一比良のくも

の歌は最初から書かれていて日付だけ入れたように見える。


その次にその日書いていただいた薬師寺講堂とガイドのお坊さんの御朱印、書いた人のサインが入っているのは私の御朱印帳ではこれだけだ。


この時は厄介な物を押し付けられたのではないかという気もチラッとしたけれど、元来文学歴史に興味があったこともあり、修学旅行の残りの日程で結構集めて、その後も旅に出る時には御朱印帳を持って行くようになった。二年後の高校の修学旅行では鵜戸神宮の御朱印をいただいた。


中高二度の修学旅行で御朱印をいただけたのは有無を言わせず御朱印帳を私に押し付けた先生のおかげであろうか。その後大学に入ってから十年間京都に住んだけれど、その頃は千円財布に入っていれば何かお腹に入れたくて御朱印はあまりはかどらなかった。ひとつお気に入りを上げるとすれば曼殊院門跡で、


  まよはしとかねてきゝをく山路かな

と読める。曼殊院といえば古今集の写本が伝えられていて、今このブログに書いているような趣味にも通じることで思い出深い。広島に帰ってからもあまり機会がなく、毘沙門さんの初寅に詣でた時からまたぼちぼちお参りするようになった。


近年、御朱印が流行っているのは結構なことではあるが、気になることもある。昔は、神社とお寺で御朱印帳を分けろとは言われなかった。神式あるいは仏式の御朱印帳というのは聞いたことがない。確かに最近神社で御朱印帳を出すとパラパラながめて「お寺さんか・・・」などと言われる。明治の廃仏毀釈の悪夢が脳裏をよぎる。天皇家も永く仏教に帰依していらっしゃった。明治の神道イコール日本の伝統ではないことを申し上げておきたい。



現在、父が入院していることもあり、最後はやはり薬師如来の御名を唱えたいと思う。




南無薬師瑠璃光如来 

おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

正明院明光寺薬師堂 薬師まつり

2019-05-11 15:25:17 | 寺社参拝

 今日は地域のお薬師さんの縁日、折しも父が入院中で最近病状が思わしくなく、二年ぶりにお参りすることにした。三篠川沿いにある我が家から上流に徒歩十五分、二つ目の橋が薬師橋だ。行きは川土手を正面に木ノ宗山、左は深川(ふかわ)から白木まで連なる山、右手に亀崎神社のある丘を見ながら進む。亀崎神社の森は葉色の違う木が目立っている。脇を通った時に見たら高木の常緑樹の若芽のようだ。クスノキだろうか。

 

  はつなつの三篠の土手をひむがしへ歩むおやくっさんの縁日

 

 

 

亀崎橋を過ぎてしばらく歩いて、次の橋が薬師橋、川の向こうに目的地の明光寺本堂が見えている。

 

この橋を渡ると院内という地区、院とはこの正明院のことで中世には末寺が十二あったとお寺のパンフレットにある。江戸時代になって毛利氏の庇護を失い、浄土真宗の寺として存続していたが、浅野氏の援助で薬師堂の修復が行われ今日に至っている。

薬師如来の縁日は本来旧暦の四月八日、お釈迦様の花まつりと同じ日であった。狂歌家の風のつつじ売りの回で、卯月八日は薬師様の縁日とお釈迦様の誕生日が民間信仰と融合した風習という民俗学の記述を紹介した。当地区でもこの縁日は初夏の一大行事であり、私が子供の頃は月遅れの五月八日と決まっていた。その頃は「お薬師さん」とはあまり言わなくて、五月八日(ごがつようか)という言葉の方を多く使った。五月八日は稚児行列に参加する院内地区の子は小学校に行かなくて良くて羨ましかったものだ。もっとも、おしろい塗られるのを嫌がっていた友達ももちろんいた。今は、五月の第二土曜に薬師まつりが行われている。

 

正明院の額がかかった山門には阿形、吽形の仁王像がある。制作年代は不明とパンフレットにある。天明年間の著述といわれる「秋長夜話」には、

「深川村は勝地なり、上中下三村に分つ、中深川村に大像の薬師如来あり、門に金剛力士の二像を置く、おもふに千年の物なるべし、古雅いふはかりなし」

とある。

山門をくぐると右手前に浄土真宗の本堂、左奥に薬師堂がある。中世は真言宗、江戸時代以降は浄土真宗ということでお大師様の像もあった。

 

  新緑の下におはするお大師の杖指すところ薬師堂見ゆ

 

 

まっすぐ進んで薬師堂に入ると、二年ぶりの薬師瑠璃光如来様が迎えてくださった。

 

子供の頃から何度もお目にかかった仏様。平成の修理の時に頭部から発見された墨書によると、享禄二年(1529)の作だという。享禄といえば、陰徳太平記に出てくる阿武山の大蛇退治の冒頭、「天文元年ノ春」は実は架空の日付で、享禄から天文への改元は七月であるから、1532年の春は享禄五年であったと書いた。つまり大蛇退治の3年前にこの薬師様が作られたわけだ。阿武山について書いた時には、中世の理解が十分でないことを思い知らされた。大蛇退治の真相をご存知の仏様ということで、これまでの参拝よりも長くお顔をじろじろ眺めてしまった。

 

  五百年前の享禄天文の大蛇退治を知る仏さま

 

  父の病しばし忘れて御仏の四角き顔をながめ居りけり

 

あと十年たてば薬師様は五百歳、さらに三年で大蛇の五百年忌、そこまで生きているかどうかわからないが、その日を目標に中世の人々の心を求めて歩き回ってみたいものだ。しかし考えてみると私がお薬師さんに関わったのはせいぜい五十年、私が知りたい中世は十代も前ということになる。祭壇の左にあった真言はおなじみの「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」の前に何文字か書いてあった。御朱印をお願いしたら住職さんを探しに行こうとされて、その前に忙しそうに挨拶されていたのを見ていたので書置きのものをいただいた。薬師瑠璃光如来のお名前があれば十分だ。

 

薬師堂は平成の大修理で中世に近い形に復元したと聞いていた。しかし説明板にある宝形造にはなっていないようだった。

梵鐘は、秋長夜話には周防国観音寺の鐘と書いてあったが今は昭和の銘が入った自前の鐘となっている。

帰り道、薬師橋から阿武山を眺めたら、左から亀崎の亀がせり出して来ているように見えた。蛇のようにも見えるけれど、これも私が小学生の時に左手に団地が出来て山が削られたために亀が蛇になってしまった。阿武山にはやはり大蛇だろうか。本来の甲羅の上の亀崎団地は今は高齢化が進んで空き家も多いと聞いている。三篠川に阿武山山頂が映って、川面の観音様にもお祈りしておいた。

 

  楠若葉光る迷彩頭巾着て阿武山飲むや亀崎の森

 

 

帰りは買い物があったので、中深川駅の方向へ、旧道と参道の交差点に昔の標識があった。「右やくしみち」とある。

貞国の歌にあったツツジが見つからなかったのが少し残念ではあったけれど、はつなつのまぶしい光の中、中世のお薬師さんにお目にかかれたのは本当にありがたいことであった。参拝が主目的であったため、おまつりの描写、写真が無かったこと、お詫び申し上げます。


廿日市市大野上更地 人丸神社

2019-04-22 19:17:26 | 寺社参拝

 今日、4月22日は旧暦の三月十八日、何度か書いたように人麻呂の命日とされる日だ。学生時代に熱中した梅原猛先生の「水底の歌」には正徹や柳田国男の著書を引いて、三月十八日が特別な日であったと何度も出てきた。正徹は、

「人丸の御忌日は秘する事也、去程に、をしなべて知りたる人は稀なり、三月十八日にてある也」

と言い、柳田国男は「三月十八日」で、

「わが国の伝説界においては、三月十八日は決して普通の日の一日ではなかった」

と述べている。また三月十八日は小野小町や和泉式部、そして法隆寺でもこの日を聖徳太子の御命日として聖霊会が行われるという。晩春の満月が欠け始める頃に何が、と書き始めたら長くなってしまうので先に進もう。

この、三十年以上前に読んだ三月十八日の記憶が蘇るような出来事があった。栗本軒貞国の狂歌を調べるうちに、旧大野村の大頭神社の宮司が記した「松原丹宮代扣書」によると、寛政二年三月十八日に貞国を師匠とする狂歌連「別鴉郷連中」が大野村更地の筆柿の元に人丸神社を勧請したという。このブログでもう三十回にわたって書いている「狂歌家の風」にも人丸社で詠んだ歌がある。神祇の部の歌は、住吉社、人丸社、大頭社厳島神社の順に並んでいる。柳門の狂歌誓約書では落首はご法度でこれを犯すと和歌三神の罰を蒙るという。その和歌三神の住吉、人丸と並んでいるから、摂津の住吉大社と明石の柿本神社をセットでお参りしたのだと思っていた。ところが貞国が人丸社を勧請したとなれば、狂歌家の風の歌も大頭神社と同じ大野村で良いことになる。そして、狂歌家の風の人丸社の歌はまさにこの寛政二年三月十八日のものかもしれない。さらに人麻呂ゆかりの筆柿のあった場所に神社を建てたということならば、活字本に出てくる「春の筆梯」という意味のわからない言葉は、やはり「春の筆柿」と読んで良いのではないか。一気に視界が開けた気分になった。しかし梯を柿とすることについては、原本のマイクロフィルムを見る機会を待つのが筋であろう。折しも梅原先生の訃報を聞いて、すぐにでもこの三月十八日について書きたいのだけど、やはりテキストを確認してからだ。梅原先生は怨霊史観とか言われたけれど、たとえば水底の歌の鴨嶋水没説であれば海底調査もされている。読める文献はすべて読んで、科学的な調査も行って、その先に哲学者たる梅原先生が真理の体系をなす仕事があった。近頃は自説に合うように脳内で歴史を生成する方がいらっしゃるようだが、ここで一気に書いてしまうとそうなってしまって先生のお怒りを蒙るかもしれない。都立中央図書館などにあるマイクロフィルムを見るまで待つことにしたい。

 前置きが長くなったが、今日は旧三月十八日ということで、その大野の人丸神社にお参りしようと思い立った。昼飯を片づけて12時40分の芸備線で出発、広島駅で山陽本線の岩国行に乗り換えた。車内には宮島観光の外国人が多数乗っていて、近くに座った英語圏の親子連れは握り寿司の折り箱を広げて食べている。小さい子も珍し気でもなく醤油をかけて口に運んでいるから母国でも寿司はよく食べているのかもしれない。しかし3両編成しかない車内は混んでいて気の毒だ。宮島観光の人が宮島口まで快適に過ごせる列車を走らせてほしいものだ。宮島口駅ではその観光客たちがフェリー乗り場に向かって直進するところを宮島街道を岩国方面に折れて更地分かれという交差点から北に向かって上り坂となった。もっと見た目の良い男であったならば、厳島の三柱の女神様にお尻を向けて別の神社にお参りしたとなれば嫉妬深い姫神様の怒りを買うかもしれないが、私の場合はまあ大丈夫だろう。しかし、宮島口駅から世界遺産に向かう多くの観光客と真逆の方向というのはいかにひねくれ者の私でも少し不思議な気分になる。神社に参拝するというのに神の山である弥山は常に背中なのだから。グーグル先生の経路では団地の中の細い道を突っ切るようになっていて、行きは迷うと新幹線をくぐる場所が狂ってたどり着けなくなる恐れがある。少し遠回りして交差点の名を確認しながら進んだ。

 30分近く歩いて、やっと団地を抜けて新幹線をくぐった。ここまでは間違ってはいない。問題は山へ分け入る道だ。幸い地図の通りの谷筋に山道が見つかってこの道だと確信したのだけれど、行き止まりにあったのは木造の民家、古いけれども布団が干してあってどうみても神社ではない。仕方なく新幹線まで引き返して、谷筋の両側の丘を探して右側の丘には登ってもみたけれども神社はない。人通りもない道で聞ける人もいない。子供は遊んでいるけれど、子供に道を尋ねたら声かけ事案で不審者リストにのってしまう。ここは冷静にもう一度プリントアウトしておいた地図を眺める。やはり最初の道のように思える。民家の奥に通じる道はなかったか、もう一度行ってみることにした。そしたら、民家の縁側に人影が見える。縁側で男性が読書をされているようだ。失礼ではあるけれども、私もここまで来たらお参りしたい。近づいて聞いてみることにした。いきなり変な男が現れて驚かれたと思うが、道は教えて下さった。やはり、民家の脇を抜ける細い道を見落としていた。ゲームで隠し通路が見つかったような気分で先に進むと、傷んだ石段の先に人丸神社が見えた。「古文書への招待」の挿絵と同じお社だった。

せっかく御命日にお参りするのだから、まずは人麻呂の辞世といわれる鴨山の歌、そして貞国が二百三十年前ここで詠んだ歌を詠じた。

 

  鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ


  此神の御手にもたれて ことの葉の道をこのめや春の筆柿

 
ここは春の筆柿でうたってしまった。フライングだっただろうか。しかし活字の本にある「筆梯」は読み方もわからない。今声に出すならば筆柿にするしかない。それはともかく、人麻呂と貞国の歌を神様にだけ聞いていただけたのは、この上なく幸せな時間だったと思う。
 
 
  鴨山の岩根し巻けるさにあらで木漏れ日やさし森の御社
  

  貞国が願主となりて奉りし歌聞きたまへ春の筆柿

 
 
 拝殿の額には神社の由来が書かれていて、当然勧請した貞国と別鴉郷連中の名前があった。そして新たな情報として、この地の門人であった伊藤繁蔵という人の名前、勧請に尽力した新田氏、そして「伊藤非?作翁誌」という文書名も見える。そして神様の名は「人丸さん」とお呼びするようだ。和歌文芸の他に防災、子孫繁栄とあるのは水底の歌にも出てきたように、火止まる、人生まる、に通じるからだろう。
 
 
 
 
もうひとつ知りたい筆柿についての情報は、平成四年に地元の短歌会が奉納された歌の中にあった。
 
 
 
筆柿が出てくる歌が二首あり、枯れた幹が祭壇の中とあるがよく見えない。また、若木が再び植えられたととれる歌もある。拝殿右側の額は本殿や御神体について書いてあるようだが読み取りにくい。御神体は柿本人麿木彫座像とあるがこれも確認できなかった。
 
 
お社の前には鹿のような動物が彫られた燈籠もあった。
 
 
 
帰りに奉納短歌にあった筆柿を探してみたが見つからない。民家の近くまでもどってきたところで、大野町教育委員会による「天然記念物 筆柿」という碑があった。筆柿らしき木は見当たらない。
 
 
これはかつて天然記念物であったということならば、記録があるかもしれない。探してみたい。新しく植えた若木も見つからなかった。しかし、奉納短歌のおかげでこの碑を見つけることができた。和歌の神様に感謝したい。筆柿がみつからなかったので、ご近所の柿の木の写真を一枚。旧三月十八日の柿の芽の参考にと撮ったのだけど、最近は温暖化だから貞国の時代の春の筆柿はこれよりももっと「このめ」な感じだったのだろう。
 
 
 帰りは厳島の女神様に背を向けることなく、弥山に向かって団地の坂を下りた。そういえば、唯一言葉を交わして道を教えて下さった民家の方も、私にとっては神様に違いない。ひょっとすると、あの方が人丸さんだったのかもしれない。