阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

4月20日広島市立中央図書館「しらうめ」「黄鳥の笛」

2016-04-20 19:05:46 | 図書館

 先日借りた佐東町史を返却して、2時間足らずの時間であったが広島資料室へ。「しらうめ」と「黄鳥の笛」の該当箇所を読む。佐東町史には弘化四年(1847)十月に阿武山頂の蛇落地観世音を現在地(八木三丁目)に移したとの記述があり、その原史料を見たいというのが今日の目的であったが、両書とも観音堂の記述はなかった。次回は広島県史の資料編をあたってみたい。あるいは観音堂の内側にでも書いてあるのかもしれない。

 「黄鳥の笛」は香川勝雄の半生を書いた歴史小説で、序によると戦前から23年かけて史料伝承を集めて昭和33年出版となっている。驚いたことに勝雄が光廣神社に奉納した太刀は現存することになっており、戦時中に供出されたのか、戦後の混乱で失われたのか。また作中勝雄が要所で吹いている黄鳥の笛は筆者の辻治光氏が、勝雄が褒美として八木城主光景から受けた盃は亀崎神社(安佐北区深川5丁目)の神職の久都内さんが保有しているという記述があった。

「黄鳥の笛」は昭和33年、「しらうめ」は昭和51年刊ということだが、蛇落地関連の地名の記述はかなり重なる部分があり、しかし微妙な違いもある。まず「黄鳥の笛」から引用してみよう。

「香川勝雄が斬った大蛇の首が、初めに落ちたところを、刀がのびると書いて、刀延(たちのぶ)と呼んでいる。(現在上元氏宅前の水田)二度目に飛び入ったところを、大蛇の首から流れる血が、箒のように噴きつゝ飛んだので、箒溝(ほうきみぞ)と言い、(現在岩見田の溝川の流れが用水路に沿ぐ辺りの水田)最後に飛び入ったところは、大蛇の血で池となり、その池の中に深く隠れ入ったと言うので、蛇王池(じゃおうじ)と称えるようになった。」(「黄鳥の笛」より)

 この部分は「しらうめ」もほぼ同じ記述で「黄鳥の笛」を引用したと思われる。しかし、蛇落地の部分は少し違っている。

「蛇王池のあるを蛇落池(じらくじ)と呼んでいたが、のちに書き改められて現在の上楽地となった」(「しらうめ」より)

「此のを「蛇落地」(じゃらくじ)と称していたが、後に語路によって「上楽地」(じょうらくじ)と書き改められた」(「黄鳥の笛」より)

 蛇落池と蛇落地が同じ文脈で違っていることになる。評価はまだまだ見えて来なくて今憶測を書くのはやめておこう。まずはどの記述が伝承由来で、どれが文献に基づくものなのか、わからないことだらけだ。黄鳥の笛の参考文献には、「布川筋古城史」「深川村亀崎神社ノ由緒書」など面白そうなのがあるがもちろん活字化はされてないだろうね。次回は広島県史かな・・・