阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

米粉

2022-09-17 16:37:33 | 狂歌鑑賞
今回は、由縁斎貞柳詠「続家つと」(1731刊)、夏の部より一首。


     瑞龍寺雪巣和尚へ暑気御見廻申ける折
     ふし黄檗山より米粉まいりけるを相伴仕りて

  切麦やうとんげよりも珍しきべいふんたりけ空にじゃくする



詞書と歌でページをまたぐので画像は二枚だが、私が持っているのは手書きの写本で、元の木版本には米粉(ヘイフン)、空(クウ)とルビがふってある。




(ブログ主蔵「(写本)続家土産」)


この米粉は切麦やうどんと比べていることから、今のビーフンのような麺であったと思われる。ビーフンの由来については正確に書いてあるものが見つからない。レシピのサイトなどによると、鎌倉時代に日本に伝わったが禅寺の精進料理などに限られ、1960年にケンミンが焼きビーフンを発売するまでは一部の人だけが知っているマイナーな存在だったようだ。ここでも貞柳が珍しきと詠んでいて、禅寺であっても本山の万福寺からもらわないと食べられないものだったようだ。どのような料理であったか、これも現代の禅寺のレシピだと精進の具で炒めたものが出てくるのだけど、ここでは暑気見舞いとあり、暑い時分であるから素麺のように食べたのではないかと想像しておこう。

「珍しき」のあとは、「べいふんたりけ」これは米粉と分陀利華(ふんだりけ)をつなげている。分陀利華は親鸞の正信偈に出てくる言葉で、元は極楽浄土に咲く白蓮、転じてすぐれた念仏行者を指すという。貞柳は東本願寺門徒で、そちらではおなじみの言葉だったかもしれないが、黄檗宗との関連は調べても出てこなかった。そのあとの「空にじゃくする」は、黄檗宗の開祖隠元の遺偈「一切空寂 万法無相」を「 空に寂する」と七文字におさめたのではないかと思われる。上の句のうどんを優曇華としたのも、もちろん仏教の縁語である。

ここで貞柳は「珍しき」だけで味の感想は言っていない。もしかすると、素麺の方が良かった、おいしくなかったということで、下の句は仏教用語で埋めたのかもしれない。

貞柳の「続家つと」には、雑の部にもう一首黄檗宗の歌がある。ついでに紹介しよう。


         東山にて

  南無おみは黄檗のみと思ひしに南禅寺にもとうふ有けり




(同上)

これも元の木版本には、黄檗(ワウバク)、禅(ゼン)とルビがある。

黄檗宗では「南無阿弥陀仏」を唐音で「なむおみとーふー」と唱えるそうで、それで「南禅寺にも豆腐ありけり」という落ちになった。万福寺といえば普茶料理が有名であるが、二首とも黄檗と食べ物を絡めた仕上がりになっている。







なんぼほど

2022-09-10 14:05:32 | 狂歌鑑賞
一本亭芙蓉花撰、由縁斎貞柳詠「狂歌拾遺家土産」(1758刊)、春の部から一首。


         春のはしめのうた

  なんほほと愚かなる身も楽しみをたのしみとしるけさの初春




(ブログ主蔵、「狂歌拾遺家土産 巻上」乙ウ・1丁オ)

立春に紹介した一茶の還暦の句「春立や愚の上にまた愚にかへる 」と同じような趣向ながら、「なんぼほど」という口語が効いていて「楽しみを楽しみと知る」と続ける貞柳一流の味わいのある一首に仕上がっている。

さて今回はこの「なんぼほど」について考えてみたいのだが、まずネットで引くと、「万一其身にもしもの事が有たらば、跡に残ったててごの身では、なんぼ程悲しからふぞ」 という浄瑠璃・夏祭浪花鑑の用例が出てくる。そして、ツイッターのツイート検索でも、

「なんぼほど煙草吸うんや」
「村上選手なんぼほど打つんや」
「なんぼほど走らすんや」
「なんぼほどゲッツーしますねん 」

などと現代でも使われている。しかし見比べてみると、現代の用例は回数・量をカウントできるものが多く、江戸時代の「愚かなり」「悲し」のような程度の甚だしさにはあまり使わないようだ。

さらに書籍検索で昭和の用例を調べてみると、

「手数料の話だすけど、あんたは、なんぼほど取ってはりますねん」 
「オーバーてなんぼ程するのやろか 」
「なんぼほどか聞いとこかい 」
「前にはなんぼほど持っていたのや?」 

などと、ハウマッチと尋ねる場面が圧倒的に多い。今の若者が使っているような回数が甚だしいというのは無いことはなく、

「お母はん、あんた、なんぼほど飲みなはるねん」 

などと出てくるが、ハウマッチに比べるとわずかと言っていいだろう。逆に今は、ハウマッチの場面では「なんぼほど」とは中々言わないようだ。

そして興味深いのは、ヤフー知恵袋で、「なんぼほど」は昔は言わなかった、最近出てきた言葉ではないか、という質問があった。これは以前書いた「ほっこり」でも同じような指摘があった。確かに、私が関西に住んだ40年前に「なんぼほど」は聞いたことがなかった。回数・量が甚だしいという意味での「なんぼほど」の用例は今世紀に集中していて、昭和には少ない。今の使われ方は、最近のものと言って良いのかもしれない。

「ほっこり」は、江戸時代の用例は物理的に加熱した場合、特に蒸気湯気を伴う暖かさであったのに対し、今世紀の用例は心あたたまるがほとんどである。そして、京ことばに意味の違う「ほっこり」はあったものの昭和の頃はほとんど用例がなく、私の国語辞典にはのっていない。

「なんぼほど」も上述のように江戸時代の用例は程度の甚だしさであったのに現代の若者は回数、量の甚だしさと少し使い方が違うようだ。そして、昭和の「なんぼほど」はハウマッチがほどんどであった。ということは、江戸時代の意味を掘り起こしたというよりは、昭和の「なんぼほど」に違うニュアンスが加わったと評価すべきだろうか。古い用例をもう少し探してみたいものだ。