栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は祝賀の部から一首、
寄毘沙門祝
銭かねのおさまる御代や毘沙門のよろいかふとはとかめ人もなし
詠まれた状況がいま一つよくわからない。簡単そうに見えて、かゆいところに手が届かない、そんな感じのする歌だ。
「おさまる御代」はこの時代の狂歌、特に賀の歌によく出てくる言葉で、戦乱のない平和な世の中、この六文字だけでめでたいということになる。ひとつ例をみておこう。狂言鶯蛙集から、
寄鳥祝 朱楽漢江
治れる御代は諫めの皷にもこけかうとなく鳥ぞかしこき
治れる御代は諫めの皷にもこけかうとなく鳥ぞかしこき
諌鼓鶏の故事(善政が行われていれば諫めの太鼓は鳴らず太鼓の上の鳥も驚くことはない)を詠んだ和漢朗詠集の「諫鼓苔深鳥不驚 (諫鼓苔深うして鳥驚かず)」をふまえて、鶏の鳴き声「こけかう」を「苔深う」と聞いている。
貞国の歌に戻ると、「銭かねのおさまる御代」となっていて、質素倹約の風潮を言っているのだろうか。この狂歌家の風が出版された享和元年の前の年号が寛政であって、寛政の改革の倹約令は有名である。もっとも、広島藩ではそれ以前から倹約のお触書は度々出ていて、このフレーズが寛政の改革を指しているかどうかはわからない。
「毘沙門の鎧兜」も具体的に何を指しているのか。広島のあたりで毘沙門天といえば、初寅祭にお参りしたばかりの緑井の毘沙門さんぐらいしか思いつかない。しかし、三日前に見てきた毘沙門天立像は、兜はつけているが鎧はどうだろうかといういで立ちだった。
(2月5日権現山毘沙門堂初寅祭で開帳になった毘沙門天立像)
今ちょうど奈良国立博物館で毘沙門天の特別展をやっていて、このページの写真で見るとどの像も確かに鎧兜をつけている。しかし、どちらかといえば実用的な甲冑であって贅沢を咎められるような華美な鎧兜には見えない。
もう一つの可能性としては、「五月人形 毘沙門」で検索すると上杉謙信の兜が出てくる。端午の節句に飾る鎧兜と考えられないだろうか。上杉謙信公家訓に「心に迷いなき時は人を咎めず 」とあるが、上の「こけこう」のようにピッタリとははまらない。それに、印地の回でみたように、広島藩は端午の節句の贅沢無用の触書を早々に出している。もう一度引用すると、
町諸事覚書
五月朔日
一印地打御法度、のほりかふと母衣其外結構成もの立候儀無用之由、町幷新開中へ觸之 「顕妙公済美録」巻十三上、貞享元年(1684)
一印地打御法度、のほりかふと母衣其外結構成もの立候儀無用之由、町幷新開中へ觸之 「顕妙公済美録」巻十三上、貞享元年(1684)
これは貞国の時代からすると百年以上前だけれども、寛政期でも「咎め人もなし」とはいかなかっただろう。どうもこの線も薄いようだ。
この詞書と歌だけなら、この質素倹約のご時世しかも太平の御代に毘沙門天は立派な鎧兜をつけていても咎める人がいないことだ、ぐらいに浅く解釈するしかなさそうだ。どうして祝賀の歌なのか、それは「おさまる御代」が入ってるから、あるいは人々に福徳を与えるという毘沙門天を讃えている、ぐらいしか言えない。どうも、しっくりこない。この歌が詠まれた状況がわからなくなっているのではないかと思う。
ここまで見てきた狂歌家の風の詞書は、尚古などの同じ歌と比べると短く端折ってあるケースがあった。舌先の歌や、風鈴の歌がそうだった。風鈴の歌では、風鈴につるしてある短冊に近江八景が描いてあるという重要な情報が狂歌家の風の詞書に無かったために解釈に苦労した。何らかの事情で、詞書を短くしなければならなかったのだろう。うなつき女夫の回で、貞国が「祝してよ」あるいは「祝してたべ」と乞われて歌を詠んだという長い詞書の例を見た。この毘沙門の歌も、何かそういう事情があったのではないか。絵があったのか、誰かが持っていた小さな毘沙門天像があったのか、今のところはそのように想像しておこう。
残念ながら、三日前に参拝した緑井の毘沙門さんと貞国の歌との関連は見つけられなかった。しかし、広島で毘沙門堂は他には聞いたことがなく、絶対違うとも言い切れない。貞国の歌についてはこれぐらいであるが、今回初寅祭を参拝するにあたって、狂歌江都名所図会にある正伝寺毘沙門堂の狂歌(挿絵の歌はこちら)を予習した。毘沙門を詠んだ三十二首の中から少し紹介してみよう。
首ふりてかはねはきかぬうなゐ子にこまる張子のとらの縁日 柳園光糸
縁日の寅の威をかる狐つきいかておとすや毘沙門の所化 松代 桃樹園仙齢
「買わねば聞かぬうなゐ子に」は今でもありそうな光景だ。毘沙門天のお使いは虎と百足(むかで)、緑井の毘沙門堂でも鐘にムカデが入っていて、御朱印にもムカデの印があった。
狂歌を読んでみると芝金杉にある正伝寺の毘沙門堂では百足小判というお守りを売っていたこともあり、虎よりもムカデの歌の方が目立つ。
油とるむかで小判の御初穂で常燈明もあくる毘沙門 異龍軒愛成
毘沙門でうける小判も名にしおう百足に似たる金杉のはし 富梁軒幸成
大名も毘沙門前を行列に百足のあしを見する金杉 長鶴亭白喜
大名も毘沙門前を行列に百足のあしを見する金杉 長鶴亭白喜
つかはぬか宝なりとて毘沙門の縁日に賣る百足小判か 柏の舎
お金のことをお足と言ったことから、足がたくさんあるムカデは縁起物だったのだろう。狂歌ならありそうな人を刺す歌は一つもない。この百足小判を財布の中に入れておくと金運アップの御利益があったそうだ。ネットで毘沙門天を検索すると、人々に福徳を与えることから、また江戸時代以降は勝負事の神様として人気があったと出てくる。たしかに上杉謙信のお話などでは、毘沙門天イコール戦いの神様だけれど、この三十二首の中に戦い、勝負事の歌は一首もなく、福徳が出てくる歌がわずかに一首だ。緑井の毘沙門さんも商売人に人気で明治の時代には終夜可部線の臨時列車が出ていたということをみても、やはりムカデのお足から連想される金運の面が大きかったようだ。この江戸の正伝寺は金杉という地名もポイントアップというところだろうか。福徳の一首ものせておこう。
毘沙門へ下したまへと福徳をねかふも乞喰松屋横丁 外道
また、京都鞍馬の毘沙門天は火打石を売っていたということで、その関連の歌もある。
火打石出る鞍馬に引かへて附木をそ賣る金杉毘沙門 尚丸
初寅に毘沙門天のそなへものきよむ火打のいしと金杉 仙齢
こうしてみると、初寅の縁日の歌には、張り子の虎、百足小判、火打石、そして虎の威を借る狐の面など、様々なアイテムが詠まれていて、その中でも百足の歌が目を引いた。縁語が得意の貞国の歌に何も出てこないということは、やはり絵か何かを見て詠んだのだろうか。