阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

「柳井地区とその周辺の狂歌 栗陰軒の系譜とその作品」 (下)

2022-07-22 15:09:02 | 栗本軒貞国
前回に続いて、「柳井地区とその周辺の狂歌 栗陰軒の系譜とその作品」について、今回気になったところを書いてみたい。

この本の中には柳門の系譜について書いたページがあって、まずは、貞柳、貞佐、貞国、貞六と、貞国が三世、貞六が四世を名乗ったという事実に沿った系譜があり、そのあとで「狂歌寝さめの花」に貞佐から国丸(貞右)に玉雲流の秘書などが譲られたことを根拠に、玉雲軒信海を祖として貞佐と貞国の間に国丸をはさんだ別説があげられている






私の結論から申し上げると、国丸は玉雲流の四世を名乗り、貞国は柳門の三世を主張した。国丸の後継は丸派の弟子であって、貞国の先師は貞佐である。貞国の元に「勝まけの払子文台」などの遺品が譲られることはなかったと考えられる。もしそういうことがあれば、貞国は大々的に宣伝して勢力拡大に利用していたはずだ。ただし後述の通り、一門の狂歌集の贈答歌によって自らの地位を上げるという手法を国丸に続いて貞国もやっている。京都の貴族から軒号をもらうのも貞国は国丸を真似ている。貞国が柳門三世を名乗ったということは貞国は国丸の弟子ではないが、ひょっとすると貞国の国は国丸の国からとった可能性はゼロではないのかもしれない。一方、二人の師匠の貞佐の思惑はよくわからないが、あるいは柳門の宗匠は永田家(貞柳の遺族)にあると考えて自らは後継を名乗らなかったのではないかと思う。

まずは、「狂歌寝さめの花」の問題の部分をもう一度引用してみよう。


     先師翁より授りける古今の秘書及ひ玉雲流の伝書等
     浪花の国丸へ譲りあたふるふしよめる   貞佐


  おとこ山にわきて秘蔵の石清水其水茎の跡つけよかし


     かへし                 国丸


  流くみて心の底にたゝへつゝほかへもらさし水茎の跡


「古今の秘書及ひ玉雲流の伝書等」が国丸に譲られたとある。国会図書館の個人送信が始まって、「武庫川国文」に入っている西島孔哉先生の論文がネットで読めるようになった。それによると、貞柳の没後上方では木端の栗派が先行して勢力を伸ばしていて、後発の国丸にとっては、この「狂歌寝さめの花」の出版は重要なことであったと思われる。序文と跋文は安芸の門人に譲り、挿絵入りの国丸の歌もない。しかし、上記の二首をもって、玉雲流の後継であることを上方でアピールできる訳だ。この本が上方で再版を繰り返した理由もそこにあるのだろう。のちに狂歌玉雲集の序文において、

それより我師安芸国桃縁斎の翁先師より伝来の秘事口決古今八雲の秘書及び勝まけの拂子文台を伝え請たまへは玉雲翁第三世の詞宗たりやつかれかくたいせちの品々を授り」 



(ブログ主蔵「狂歌玉雲集」序)


とあり、信海、貞柳に続く貞佐が玉雲流の三世である。その貞佐から大切の品々を譲り受けた自分が四世という主張だと思われる。国丸が継承したのはあくまで玉雲流であって、木端のように柳門を前面に押し出してはいなかった。最初に書いた通り、貞佐の胸の内については中々見つけられないのだけど、上方において永田家を支援するという役割を国丸に期待していたのかもしれない。

一方、貞国はどうだったのか。貞国は貞佐晩年の弟子であって、狂歌寝さめの花の時点では貞の字がつかない葵という号であった。もっとも、貞国以降においては、貞の字の冠字は大きな節目で赦文などが残っているけれど、貞佐以前はどうだったのか、文書をあまり見かけない。貞柳の時代は、木端など貞の字がつかない高弟も多く、冠字は行われていなかっただろう。貞佐の高弟は貞の字がつく人が多く、冠字は貞佐が始めたことかもしれない。しかし、国丸が貞右と改めたのは貞佐の没後数年を経てからであるように、冠字の赦しをもらってすぐに改名という感じではなかったのかもしれない。話を戻して、貞国が貞佐の存命中に貞の字を許されたかどうかはわからない。

その後貞国という名前が初めて確認できるのは、貞佐の没後十年、天明9年の柳縁斎貞国撰「両節唫」であるが、これは「千代田町史」の記述であってまだ現物を見ていない。 「大野町誌」では柳縁斎貞国と栗本軒貞国は同一人物か、という疑問が呈されている。確かに柳縁斎改め栗本軒という文献はこれまで見ていない。栗本軒は福井貞国が多数あるが、柳縁斎の方は福原貞国と誤記が疑われる一例があるだけだ。しかし、千代田の壬生と大野村の狂歌連において、柳縁斎と栗本軒が引き続いて関わっていること、また「狂歌桃のなかれ」の柳縁斎貞国の立秋の歌一首が栗本軒貞国の歌を集めた「尚古」にもみられることから、同一人物と考えるのが合理的だと思う。話がそれた。

そして、今回の話題で注目すべきは、寛政5年の「狂歌桃のなかれ」だろう。「桃」とは、桃縁斎貞佐の桃であって、貞国の文書でも「先師桃翁にかはりて」などと出てくる。「桃のなかれ」は文字通り貞佐一門の狂歌集ということになる。その中で、貞国は「芸陽柳縁斎師」と詞書にある。引用してみよう。


    芸陽柳縁斎師に始てまみえし折から   柳芽 

  今よりもむかし男になれそめてやさしいことのはなし聞はや

    返し                 貞国

  昔男とはの給へとあいそめてきりやうのなひに恋さめやせん  


最初の歌の柳芽は石州津和野の人とある。この桃の流れの中では、序文跋文は兄弟子が書いているし、貞国はそんなに目立たない。「芸陽柳縁斎師」も、貞佐の後継者というよりは広島地区の師匠格にすぎない、そんな印象を受けた。桃の流れでは三次や庄原に重鎮の兄弟子がいて、これらは「芸陽」すなわち安芸南部の範囲外であるからだ。しかし今回、前出の狂歌寝さめの花のあとでこれを読むと、貞国も国丸と同じように一歩引いてはいるけれど、「芸陽柳縁斎師」と書いてもらうことに大きな利益があると考えたのではないか。ちょい役にみえて、あるいは桃の流れ出版の動機に関わっていたのかもしれない。この狂歌桃のなかれの跋文では、

「桃の流れと名つけけるもりうもんをこひしたふことのなれは宜なりけらし」

柳門を恋い慕って桃の流れと名付けたとある。しかし、享和元年の狂歌家の風では、芝山持豊卿から栗本軒の号が送られたことが前面に出されて、柳門の二文字を見つけることはできない。貞佐の十三回忌や仁王像の歌はあるけれど、貞佐とのやりとりを含んだエピソードは皆無である。晩年の弟子ということで、貞佐について語るべきことがなかったのか。そしてまだ兄弟子も生きていて、柳門の後継を名乗れる状況ではなかったのかもしれない。

それでは、貞国はいつ頃から柳門正統三世を名乗ったのか。私が購入した花月雪の掛け軸には「柳門狂哥正統第参世」の印があるが、年代はわからない。貞国が晩年に愛用した五段に分けた書式が用いられていて、文化年間の後半以降ではないかとは思う。




年代がわかるものでは、五日市町誌に写真が出ている佐伯貞格に与えた「ゆるしぶみ」 に「柳門正統第三世」の署名があり、これは文政7年、かなり空白がある。もう少し遡れるかもしれないが、師匠格になってから柳門正統を名乗るまでかなり時間がかかったのは間違いない。

柳井の本を読むと柳門の系譜が周防の国に移った貞六以降は師匠から弟子へきちんと送伝された証拠が残っているが、貞国まではそういう感じではなかったように思える。貞国の弟子でも、可部や保井田や戸河内で活動していた梅縁斎貞風は柳門四世と五日市町誌にある(出典未確認)。このあたりのニュアンスを知るにはまだまだ探してみないといけない。




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