阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

狂歌家の風(33) 印地

2019-12-26 10:59:31 | 栗本軒貞国
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は夏の部から一首、 


        端午

  打祝ふ印地の石も年を経て粽の粉をひく臼となるまて


今回も思い切り季節外れであるけれど、前回の亥の子同様に今図書館で借りている新修広島市史の資料編に印地を禁止する觸書があったので、このタイミングで書いてみたい。

貞国の歌の印地打ちとはおもに端午の節句に子供が川原などで二手に分かれて石を投げ合う遊びである。時に大人も混じって負傷者も出て度々禁止されながら中世から幕末まで続いたようだ。

貞国の歌をみると、印地の石がちまきの粉をひく臼になるまでと、さざれ石が巌となって苔が生す歌をふまえつつ、印地打ちを祝う構成になっている。夏の部に入っているが、寄印地打祝という題で祝賀の部に入っていてもおかしくない歌だ。石を投げ合って負傷者が出るような遊びのどこがめでたいのか、とケチをつけたくなるのだけど、そこは現代人との感覚の違いだろう。才ヶ谷の回で死刑の者を捨てる場所でありながら、「命がけの勝負」「すごろくのさいが谷」と詠んだ感じと似ている。そのギャップが狂歌の面白さなのかもしれないけれど。

類歌は古今夷曲集巻第二から続きの二首、


  印地にし深入りしつゝ深手をば負ふはふかくな深草の者 久清


    五月五日雨降りければ    左衛門督藤原義景

  風の手の礫のやうにうち散らす雨こそ今日のそら印地なれ 


一首目は印地に深入り、深手、不覚、深草と畳みかけている。二首目は風の手からつぶてのようにうち散らす雨が折しも端午の節句のそら印地のようだと表現力のある詠みっぷりだ。「そら印地」とは空に向かって石を投げることから、目標や相手もなく印地打ちをすること、とネットには出てくる。古今夷曲集にはもう一首そら印地の用例がある。巻第八に、

  暁月がしはすのはての空印地年うちこさん石ひとつたべ

年を印地打して年越ししたいから石をひとつ下さい、と読めるが、空印地のニュアンスはもうひとつわからない感じがする。もう一例、狂歌ではないが「秋の夜の長物語 」から、


「我等が面白きと思ふ事は、焼亡、辻風小いさかひ論の相撲、白川ほこのそらいんし、山門南都のみ輿振り、五山の僧の問答だて、これ等にこそは興ある見物もいできて、一風情ありと思ひつるに、昨日三井寺の合戦は、稀代の見事かな。 」


これは天狗の会話の中に、天狗たちが面白いと思うものが並べてあり、その中に「白川ほこのそらいんし」とある。他の列挙から派手なパフォーマンスではないかと想像はつくけれど注では未詳となっていて、これもはっきりしない。この三例で考えると、そら印地が上記の「目標や相手もなく印地打ちをすること」以外のニュアンスが何かあるような気もするが、ここは宿題としておいて先に進もう。なお、この引用の少しあとに、「座中の天狗共、皆笑壺(ゑつぼ)に入りて笑ひける」という面白い表現があった事をメモしておこう。

広島城下の印地打ちの前に、尾張名所図会の印地打の古図を見ておこう。これは正月十五日、熱田神宮で御的射神事のあとで行われていた。絵を見ると多数の人が入れ乱れて石を投げていて、負傷者が出るのは当然のように見える。文字を拾ってみると、


的射畢つて見物の諸人其的を奪取り守りにせんとてあらそひ果には礫(つぶて)を打合ひ名古屋及び在郷の者は北の方熱田の者は南につどひ下馬橋を中にしてたゝかふ程に怪我人手負人などありていにしへ石戦印地打などいへるは是なるよし


とあり、死者が出たことも記されている。こういう荒っぽい行事は昔は結構あったのかもしれない。

それでは、貞国が暮らした広島城下に戻って、印地を禁じた觸書を見ておこう。


      町諸事覚書

五月朔日
一印地打御法度、のほりかふと母衣其外結構成もの立候儀無用之由、町幷新開中へ觸之 「顕妙公済美録」巻十三上、貞享元年(1684)


これによって広島城下での印地打ちは禁止となったはずだが、同様の觸書が幕末にもう一度出ている。


     端午行事に付觸書

端午子供遊戯之儀前々ゟ有之事二候得共、所により多勢群衆石瓦之類投ケ合、年長之者も相交り互に争ひ手荒之及振舞候義有之、其邊住居野輩及迷惑諸人之往来も差支候趣相聞(後略) 「郡中諸書付控」慶応二年(1866)


とあって、最初の觸書は効果がなかったのか、あるいは二百年の間にまた印地打ちが目立つようになったのだろうか。今回も小鷹狩元凱「自慢白島年中行事 」に参考になる記述があった。端午の章の途中から引用してみよう。


「廣島場末の各所には、弱冠前後は申すに及ばす、三十男も交はりて、威勢よくも對陣し、礫を飛ばし棍棒を振り、殆んど鎬ぎをけづる大合戦、殊に城下の東在、矢賀府中の争闘は、夜間に入りて猖獗を加へ、大負傷者をも出だすといふ、此風俗の善悪は、姑く置くも封建時代の気質としては、又止むを得ざるの事ならん、我が白島も吾儂等が、八九歳の頃までは、神田橋を中央に、白島と牛田との合戦は、頗る烈しきものなりしが、此處は多数の往来人に、妨害なすこと甚しければ、嘉永安政の頃ほひに、官より厳に禁ぜらる、是より西大川筋の一本木と、惣門といふ家老別邸の所在地とを堺と為して廣漠たる、堤みの上に双方の勇者猛者の幾百人が、手には餘れる大礫を、投げ飛ばし入り亂れ、奮争激闘」目ざましき事といふべきなり」


これによると、幕末の頃も矢賀府中間、牛田白島間で激しい攻防があり、二度目の觸書の少し前、嘉永安政の頃に神田橋での合戦は禁じられたとある。しかし場所を移して続いていたようで、慶応の觸書のあと、明治に入っていつまで続いたのかはわからない。矢賀府中というと私も時々府中のイオンモールから矢賀駅まで歩くことがある。牛田と白島は間に川があるけれど、府中と矢賀の境に住む人はそれは迷惑な事だったと想像がつく。

貞国の歌をもう一度ながめてみると、このような大騒動をはた目にみながら、「粽の粉をひく臼となるまて」という祝の歌に仕上げたところに面白さがあるのかもしれない。私は運動会の騎馬戦や棒倒しでも安全第一でさっさと敗れ去っていた人間なので、この手の話は真相に迫れていないかもしれないけれど。


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